ピンクローズ - Pink Rose -

エリザベス 2

「わかりましたか? レイチェルさん」
 エリザベスは一通りの説明を終えると、精一杯の笑顔を作って尋ねた。心からの笑顔を見せる余裕はもうない。この数日の家庭教師の仕事は思った以上に大変で、疲労困憊、もう逃げ出したいくらいの気持ちである。
 その元凶は、目の前に座るこの少女だった。
 悪い子ではない。むしろ稀に見るくらいの素直な子である。ただ、あまりにも常識を知らなさすぎるのだ。ラグランジェ家の深窓の令嬢だとは聞いていたが、14歳であり、少しは男女のことについてわかっているものと思っていた。
 しかし彼女は、唇を触れ合わせるキスの存在も知らなかったし(頬にするものだと思っていたらしい)、それどころか「恋」という言葉すら知らなかったのである。いろいろ質問をしてくるものの、当たり前のように受け入れてきた概念を、あらためて根本から説明することはとても難しい。
 高額の報酬に目がくらんで思わず飛びついてしまったが、授業を始めてすぐに後悔することとなった。だからといって途中で辞めたいなどとも言い出せない。悩んでいるうちにもう最終日である。ここまできたら何とか乗り切るしかないだろう。
「何となくわかったけれど……なんだか恥ずかしいし、それに怖いわ」
 レイチェルは顔を曇らせて答えた。
 そういうごく普通の感想が聞けたことに、エリザベスは少しだけ安堵する。
「怖れることはありません。誰もが通る道ですよ。難しいことは考えずに、あなたはただ殿方に身をゆだね、すべてをお任せすれば良いのです」
「誰もが? 先生も?」
「え、ええ……」
 どうして私に話を振ってくるのよ! とエリザベスは焦りまくった。あれこれ自分の経験を聞かれてはたまったものではない。
「あのね、レイチェルさん。こういうことは大っぴらに話すものではないのよ。秘め事という言い方もあるくらいですからね」
「わかったわ」
 レイチェルはにっこりと微笑んで言った。
「それではレイチェルさん、何か質問はありますか?」
 一応、義務でそう尋ねたものの、何も訊いてくれるなと心の中で必死に祈った。しかし、その祈りは神様には届かなかったようだ。無情にも、レイチェルはすっと右手を挙げた。
「どうぞ、レイチェルさん」
「なんのためにこんなことをするの?」
「ああ……」
 大事なことを言い忘れていた。これは自分のミスである。
「それには二つの目的があります。ひとつは子供を授かるため。もうひとつは愛する人との愛を深めるため。まあたいていの場合は後者ですね」
 エリザベスはごく簡単に説明すると、一息つき、用意されていた紅茶を口に運んだ。すでにぬるくなっていたが、疲れた喉を潤すにはちょうどいいくらいである。
 その間、レイチェルはじっと何かを考え込むと、ふと小さな口を開いて言う。
「それなら、手始めにお父さまとしてみるわ」
 エリザベスは紅茶を吹いた。
「ちょっと!! 手始めってなんですか?! お父さまってなんですか?!」
「お父さまになら裸を見せてもきっと平気だと思うの。それに私、お父さまのことが大好きだし、もっと仲良くなりたいとも思っているわ」
 レイチェルはにこにこしながら答えた。冗談でもなんでもなく、いたって真面目に言っているようである。だからこそ余計にたちが悪い。
「あのね、レイチェルさん……」
 エリザベスは誰かに助けを求めたい気持ちでいっぱいだったが、なんとか笑顔を作り、小さな子供に対するような精一杯の優しい口調で尋ねる。
「お父さまのことを男性として好きなわけではないでしょう?」
「お父さまは男性よ?」
 レイチェルはきょとんと首を傾げて、不思議そうに言った。
 完全に話が通じていない。
 しかし、考えてみれば当然である。恋愛のことなど何もわかっていない彼女に「男性として」などという認識が通じるはずもない。こうなったら作戦を変更するしかないだろう。エリザベスはこほんと咳払いすると、急に真面目な顔になった。
「お父さまはいけません。法律でそう決まっているの」
「そう……それなら仕方ないわね」
 エリザベスの言ったことは嘘である。だが、この場合は嘘も方便ということで自分を納得させた。親子間で結婚できないという法律はあるので、そう間違っているわけでもないだろう。
「それにね、女性の方から誘いかけることは、とてもはしたないことなのですよ。先ほども言いましたでしょう? 大っぴらに話してはいけないことだと」
「そうだったわね。わかったわ」
 彼女のこういう素直なところはありがたい。せめてもの救いである。エリザベスは深く安堵の息をついた。それにしても――。
「レイチェルさん、あなた、同年代のお友達は?」
「いないわ」
 レイチェルはあっさりと答えた。
 彼女は学校へも行っていないらしく、友達を作る機会はなかったのかもしれない。同年代の友達がいれば自然と恋愛話に花を咲かせたりするものだ。彼女がここまで何も知らないのは、やはりあまり他人と関わってこなかったことが大きいのだろう。
「恋愛小説は読まないの?」
「恋愛小説って……?」
 愚問だった。恋愛の意味すら知らない彼女が、恋愛小説など読んでいるはずもない。
「雑誌はどうかしら?」
「雑誌なら読んでいるわ」
 レイチェルは嬉しそうに声を弾ませた。小走りで本棚に駆けていくと、雑誌を取り出し、その表紙を掲げて見せる。そこには脂ぎった中年男性の顔写真が載っていた。彼女が持つにはあまりにも違和感のあるものだ。
「『経済界』……何ですかそれ……」
「経済界で注目の人のインタビューが載っていたり、あと……」
「そうじゃなくて! どうしてそんな雑誌を読んでいるの?!」
「お父さまが買ってくるの」
 お父さまっ! あなた娘さんに与える本を間違ってますっっ!!
 エリザベスは頭の中で力いっぱいに叫んだ。どう見ても14歳の少女が読む雑誌ではない。普通は少女向け情報誌や学習誌といったところだろう。両親としては、害毒になるものに近づけることなく、純粋に育てたかったのかもしれないが、純粋培養もここまでくると犯罪である。こんな状態でまともに生きていけるとは思えない。
 いや、しかし――。
 彼女は生まれながらにしてラグランジェ本家に嫁ぐことが定められていると聞く。そんな境遇であれば、いっそ何も知らない真っ白な方が上手くいくのかもしれない。恋を知らなければ、他の男性に気持ちが移って苦しむこともないのだから。
「婚約者のことはどう思っているの?」
「サイファのこと? とても大好きよ」
 一点の曇りもない笑顔で、レイチェルは答えた。そこには純真であるがゆえの危うさがあるように感じられた。だからといって、自分がどうこうできるものではない。
「レイチェルさん……幸せになってね」
「ええ、先生も幸せになってね!」
 レイチェルはまるで天使のような愛らしい笑顔を見せた。
 細い金色の髪がさらりと揺れてきらめく。
 たった数日関わっただけであり、しかも手を焼かされてばかりだったが、この子が不幸になるところは見たくない――目の前の少女を眺めながら、エリザベスはそんなことを思った。