ピンクローズ - Pink Rose -

エリザベス

「サイファ、キスして」
 広い部屋の窓際に置かれた小さなティーテーブルに手をのせながら、レイチェルは無邪気な笑みを浮かべてそんなことを言った。
 それは何の脈絡もなく唐突に落とされた言葉――。
 彼女の隣で紅茶の準備をしていたサイファは、その手を止めてゆっくりと振り向いた。じっと彼女を見つめると、片方の頬に手を添えて、反対側の頬にそっと自分の唇をつける。
「これでいい?」
 にっこり微笑んで尋ねる。しかしレイチェルは不満そうだった。
「そうじゃなくて、唇にしてほしいの」
「いきなりどうしたのかな?」
 笑顔を崩さず、努めて冷静に尋ねる。彼女が突拍子もないことを言い出すのは珍しいことではない。こういうときはその理由を訊くのが最善であることを、サイファはよく知っている。突拍子もないと思われることでも、一応、彼女なりの考えがあることが多いのだ。
 レイチェルはくすっと笑って答える。
「あのね、好き合っている二人は、そうやって気持ちを確かめ合うんですって」
「それ、どこから得た知識?」
「先生がそう言っていたの」
 サイファはティーポットを落としそうになった。すんでのところでそれを持ち直し、ゆっくりとテーブルに置くと、何ともいえない微妙な顔でレイチェルに振り向く。
「ラウルがそんなことを言ったの……?」
「ラウルじゃなくて、エリザベス先生よ」
「ああ」
 サイファはほっと胸を撫で下ろした。言っていることは間違っていないと思うが、それでもラウルがそんな乙女のようなことを口にするなど想像もつかなかったし、想像したくもなかった。
 エリザベスが誰なのかは知らなかったが、おそらくラウルとは別の家庭教師だろう。ラウルが担当しているもの以外、つまり歴史や政治経済、語学、そしてマナー等の一般教養や常識、そのいずれかを専門に教えるのだ。ラウル以外の教師にレイチェルを預けることには不安があるが、さすがにそこまでは口出しできない。ただ、必要に応じて短期で来てもらうことが多いため、それぞれの教師との付き合いは長くならないのが救いだ。
 エリザベスは名前からして女性であることは間違いない。相手が男性であれば他意があるのではないかと疑念を抱くところだが、同性であれば特に心配することもないだろう。ただ、なぜそのような話をしていたのかは、気になるところではある。しかし、下手に訊けば薮蛇になる恐れもあるため、あえてそこには触れないことにした。
「サイファ、私のこと好きでしょう?」
「大好きだよ」
「私もサイファのことが大好き」
「ありがとう」
 サイファは紅茶をティーカップに注ぎながら、にこやかに答える。
「だからいいでしょう?」
 レイチェルは声を弾ませた。テーブルに手をついて身を乗り出し、目を輝かせてサイファの言葉を待っている。思い通りの答えが返ってくることを、少しも疑っていないかのように見えた。
 サイファは穏やかに微笑みを返してから、テーブルにティーポットを置いて言う。
「あのね、レイチェル」
「なあに?」
「こういうことはさ、結婚してからでもいいんじゃないかな」
「どうして?」
 レイチェルは不思議そうに首を傾げて尋ねた。怒っているというわけではなく、純粋に疑問に思っているという感じだ。大きな蒼の瞳をまっすぐに向けて答えを待っている。
 サイファは彼女の頭にぽんと手を置いた。
「気持ちを確かめ合う方法は他にもあるよ。さっきのように言葉で、とかね」
「うん……」
 レイチェルは歯切れ悪く返事をして目を伏せた。
「結婚まであと2年くらいかな? それまで待っていてくれる?」
「……わかったわ」
 サイファが優しく頼むように言うと、彼女はしばらく考え込んだあと、そう返事をして顔を上げた。いつものように曇りのない笑みを見せる。彼女なりに気持ちに整理をつけたのだろう。何をどう考えたのかはわからないが、サイファの思いを完全に理解したわけではなさそうだ。それでも、ほんの少しでも伝わっていてほしいとサイファは思う。
「さあ、お茶が入ったよ。ケーキもあるから」
「わあ、美味しそう」
 ケーキを箱から取り出すと、レイチェルは両手を合わせて嬉しそうに歓声を上げた。その様子を、サイファは目を細めて眺める。
 ――今はまだ無邪気な子供でいいんだ。
 焦る理由など何一つない。自分たち二人の未来は約束されている。誰にも何にも阻まれることはないのだ。自分はただレイチェルを大切に守っていけばいい――。
 サイファはにっこりと笑って、紅茶とケーキを彼女に差し出した。