自殺志願少女と誘拐犯

第4話 この手で彼女を

「おにいさん……私、やっぱりそんなこと……」
 ハルナは床に座ったまま、困惑を露わにしておずおずと千尋を見上げた。
 だが、そんな目を向けられたところで引くつもりはない。シャキンと鋭く軽快にはさみを鳴らすと、その刃先を天に向けたまま片膝をつき、真正面から彼女に迫る。
「おまえはオレに誘拐監禁された身だ。オレの好きにさせてもらう」
「はい……」
 もう何を言っても無駄だと悟ったのだろう。彼女はあきらめたようにそう返事をして、震える瞼を閉じた。

 シャキシャキシャキ――。
 はさみが軽快な音を立てるたび、短い黒髪がハラハラと落ちていく。
 朝食のあと、ふと思い立ってハルナの髪を切ることにしたのだ。ときどき自分で前髪を切るので髪切り用のはさみは持っているし、土曜日で仕事が休みのため時間はたっぷりとあった。
 彼女をフローリングに敷いた新聞紙の上に座らせ、ケープ代わりに大きなビニール袋を肩にかけ、黙々と髪を切る。難色を示していた彼女も、もうすっかり観念したらしくなすがままになっていた。
「あの、どうして私の髪を切ろうなんて思ったんですか?」
「こんなガタガタじゃ目につくたびに気になって落ち着かない」
「そんなに……」
 自分ではどんな状態かわかっていなかったのかもしれない。千尋の指摘に、いたたまれないとばかりに身を縮こまらせてうつむいた。
「こら、下手に動くと危ないぞ」
 はさみを止め、彼女の顎を軽くつかんで前を向かせると、再びシャキシャキと切り進めていく。短くするというより見栄えを良くする感じだ。前と横はまだしも後ろがひどく不揃いだった。
「もしかして自分で切ったのか?」
「はい……お金がないので……」
「そうか」
 貧乏というより、親が散髪代を出してくれないということだろうか。気にはなったが、何となく躊躇して尋ねるタイミングを逃してしまい、彼女のほうもそれ以上のことは言おうとしなかった。
 いつのまにか、新聞紙には結構な分量の黒髪が散らばっていた。
「あの……切りすぎてません?」
「手先は器用だから心配するな」
「でも、すーすーする……」
 そう心許なさそうにつぶやく彼女は、いつもより幼げだ。
 千尋は思わずふっと口元を緩めてしまったが、手は止めなかった。左右のバランスを見ながら丁寧に整えて、最後の仕上げに細かく毛先をそろえると、はさみを下ろす。
「よし……ハルナ、どうだ?」
 卓上ミラーを差し出すと、彼女は不安そうに顔を曇らせながら覗き込んだ。瞬間、その目を大きく見開いて静かに息をのむ。
「プロ並みとはいかないが、ちょっとは見られるようになっただろう」
「すごい……」
 肩にかかるくらいだった切りっぱなしのおかっぱを、こころもち長めのショートボブにした。髪の長さはそこまで変わっていないものの、だいぶ軽くなったはずだ。見た目にもすっきりしている。
 実は、他人の髪を切るのは初めてではない。
 十代のころ、カットの仕方をネットや本で調べて小さな子の髪を切っていた。独学なうえ熱心でもなかったので本職には遠く及ばないが、簡単な髪型であればそれなりにカットできるのだ。
「ありがとうございました」
 彼女は淡々と礼を述べるが、その表情はほんのすこし緩んでいるように見えた。
 千尋はほっそりとした肩からケープ代わりのビニール袋を外して、切った髪を払い、フローリングに敷いておいた新聞紙にくるんで片付ける。しかし首筋などについた細かな髪までは払いきれなかった。
「シャワーで流してきたほうがいいな」
 このままでは彼女自身もチクチクして不快だろうし、こちらとしても細かな髪があちこちに落ちるのは困る。すぐにでも入ってもらったほうがいいだろう。
「ちょっと待ってろ」
 そう言うと、寝室のクローゼットから大きな段ボール箱を持ってきた。側面には大手ネット通販のシンプルなロゴが印刷されている。それを所在なげに立ちつくす彼女のまえに置いて、上部を開いた。
「おまえの服だ。好きに使え」
「えっ?」
 おととい注文して、きのう宅配ボックスに届いたものがこれである。昨晩はとりあえず必要な着替えだけを渡したので、まだ全部は見せていなかった。
「こんなに……」
 ハルナは段ボール箱を見下ろしたまま、戸惑っている。
 だが、千尋としては必要最低限しか買っていないつもりだ。普段着として上下それぞれ数着ずつ、パジャマ代わりのTシャツも何枚か、下着は一週間分くらいである。足りないようなら買い足そうとさえ考えていた。
「あの……私、五百円くらいしか持ってなくて」
「おまえに出してもらおうなんて思ってねぇよ」
「そのうち働いて返します。食費とかも」
 彼女は顔を上げ、ひどく思いつめた表情で訴えた。
 もちろん千尋はそんなことなどハナから望んでいない。少女ひとりを養うくらいの金銭的余裕は十分にあるし、出世払いを要求するほど浅ましくもない。受け取らないと一蹴すればいいだけのこと。けれど――。
「じゃあ、それまで死ぬなよ」
 冗談とも本気ともつかない口調でそう告げてみる。
 彼女は小さく息をのみ、何も答えることなくそっと曖昧に目をそらした。その表情はどこか苦しげでこわばっているように見えた。

「おふろ、ありがとうございました」
 入浴後、ハルナはおずおずとリビングに戻ってきた。
 着ている服は、段ボール箱の中から彼女自身が選んだものだ。上はゆったりとしたボーダーの五分袖カットソー、下はデニムのショートパンツである。言いつけておいたスポーツブラもつけているようだ。
「悪くないな。似合ってる」
「そんなこと……」
 彼女は微妙に眉をひそめて消え入るように言う。その頬はほんのりと薄紅色に上気していた。湯上がりだからというだけでなく、照れもあるように思う。そういうことを言われ慣れていないのだろう。
 入れ替わりに千尋が入浴した。
 休日なのでシャワーだけでなく湯船も準備してある。ハルナにもあらかじめ遠慮なく入るように言っておいた。カットした細かい髪が浮かんでいるところをみると、素直に従ったようだ。
 髪と体を洗ったあと、すこし冷めかかっていた湯船に寝そべって追い炊きをする。芯が熱くなるまでのんびりとつかるのが千尋の楽しみだ。真夏日であっても猛暑日であってもそれは変わらない。
 風呂から出ると、身だしなみを整えてリビングに戻る。
 ハルナは当然だがそこにいた。ちょうどきのう倒れていたあたりのフローリングにぺたりと座り、レースカーテンの隙間からぼんやりと空を見上げている。その鮮やかな青には雲ひとつ浮かんでいない。
「いい天気だし外に連れて行ってやりたいけど、さすがにな」
「わかってます」
 隣に立った千尋に、彼女は空を見つめたままさらりと答えた。
 もしかしたら外に出たいという気持ちはあるのかもしれないが、それを望める立場にないことは自覚しているのだろう。何より、誘拐が露見して親元に帰されることを彼女自身が恐れているのだ。
「悪いが、オレはちょっと食料品とか買いに行ってくる。昼には帰ってくるから昼メシは一緒に食おう。欲しいものがあればついでに買ってくるが」
「いえ、特にないです」
 ちらりと千尋を見たが、すぐにまた空を見上げてぼんやりとする。
 おそらくきのうもこうやって無為に過ごしていたに違いない。今日はひとりになってもエアコンを消したりしないはずなので、倒れはしないと思うが――。
「おまえさ、何かやりたいことはないのか?」
 そう尋ねてみると、彼女はそろりと怪訝に振り向いた。
「外に出してはやれないが、家の中でもできることはいろいろとある。ぼうっとしてたら時間がもったいないだろう。いや、ぼうっとしてたいならそれで構わないが、遠慮はするなって言ったよな?」
「遠慮じゃなくて……やりたいことって言われても……」
 うっすらと眉根を寄せつつ言いよどむ。
 どうやら本当に遠慮というわけではなさそうだ。これまで大人のいいなりになるしかない環境にいて、ささやかな望みを持つことさえあきらめてきたのなら、急には思いつかないかもしれない。
 それならばこちらから選択肢を提供するだけである。この家の中にいながらできて、中学生の女の子が興味を持ちそうなことといえば――千尋は思案をめぐらせながら左手を腰に当てた。
「書斎の本はどれでも勝手に読んでいい。片付けを手伝ってくれたからわかってると思うが、半分以上は漫画だ。いろいろあるから何か気に入るものがあるかもしれない。興味があったら見てみろ」
「はい……」
「テレビもそのあたりのDVDも好きに見ていい。ハリウッド大作映画とか、中学生でも楽しめるものが結構あると思う。見たいものが見つからなければ言ってくれ。そこに出してないものもあるから」
 本やDVDに興味を示してくれれば、当分は退屈しないはずだ。
 暇つぶしにいちばんいいのはネットかもしれないが、スマートフォンも携帯電話も持ったことがないようなので、使い慣れているとは思えない。自由に使わせるのは避けたほうがいいだろう。
「娯楽だけじゃなく勉強するのも悪くないかもな。勉強はやっておいて損はない。親に頼らず生きていくつもりならなおさらだ」
 千尋自身の経験からそう言い添える。
 いささか説教じみた物言いになってしまったものの、彼女には響いたようだ。真面目な顔になると、ゆっくりと何かをつかむように手を握りながらうつむいていく。
「じっくり考えればいい」
「……はい」
 千尋は予定どおり買い物に出かけることにする。身を翻し、キャビネットの上に置いてあった玄関と車の鍵をまとめて手に取ると、うつむいたままの彼女を残してリビングをあとにした。