遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 利用

「やあ、いらっしゃい。まさか君の方から足を運んでくれるとは思わなかったよ」
「は……」
 正面の執務机でにこやかに笑みを湛えるサイファとは対照的に、ジョシュは血の気の引いた顔をこわばらせながら扉に張り付いていた。脚も少し震えている。
「どうした? 遠慮せずこっちに来たらどうだ?」
「あ、いや……すごい眺めですね……」
 何とか答えたその声は、隠しようもなくうわずっていた。サイファはぱちくりと瞬きをする。
「なんだ、君は高所恐怖症なのか」
「こんな高いところは初めてで……」
 魔導省の塔の高さは尋常ではない。これまでジョシュは高所を怖いと思ったことはなかったが、この塔の最上階へ来て、そこから広がる光景に初めて足のすくむ恐怖を覚えた。しかも、サイファの背後は一面大きなガラス窓になっており、見たくなくとも強制的に目に入ってしまうのだ。
 サイファはすっと立ち上がって隅へ向かうと、そのガラス窓に焦茶色のカーテンを引いた。金の髪をさらりと揺らして振り返り、にっこりと笑みを浮かべて尋ねる。
「これでどうかな?」
「あ、はい……」
 ジョシュは大きく安堵の息をついた。先ほど目に焼き付いた光景が消えるわけではないが、視界から隠れたというだけで、ようやく少しずつ心が落ち着いていくのを感じる。そんな自分を幾分情けなく思いながらも――。

「ユールベルとのことで何か問題でもあったのか?」
 サイファは、執務机の上でゆったりと手を組みながら、まっすぐにジョシュを見つめて尋ねる。
 ジョシュは相談があるとしか言っていなかったが、あえてサイファに相談となれば、ユールベルに関することと推測されても不思議ではないだろう。そして、それはあながち的外れでもない。
「ユールベルというより、ウチの家族の方なんですけど……」
 なんと説明しようか悩んで口ごもっていると、サイファの方から尋ねてくる。
「君の家族には結婚することを伝えたんだな」
「相手が18歳って言ったら目を丸くして、名前を言ったら卒倒しかけました」
「だろうね」
 サイファは気楽に笑っているが、ジョシュとしては笑いごとでないくらい大変だった。何も知らない深窓の令嬢を騙して自分のものにしたと誤解され、まるで女性の敵を見るような目つきで母親に責め立てられたのだ。騙してなんかいないと何度も力説したが、今でも完全には信じていないのかもしれない。
「それで、反対されたのか?」
「いえ……むしろその逆というか……」
 ジョシュは苦い顔でそう言うと、小さく息をついて続ける。
「相手のご両親に挨拶をって意気込んでるんです。ユールベルはラグランジェ家を出るんだから、ラグランジェ家とは無関係だと説明したんですが、そういう問題じゃない、大切なお嬢さんをいただくんだから挨拶するのは当然だって言い張って」
「まあ、真っ当な感覚だね」
 サイファは呑気にそんなことを言う。
「でも、ユールベルの両親は……」
 ジョシュはそう言いかけて目を伏せた。相手の両親に会わせたがらないことが、余計に母親の不信を煽っているらしく、挨拶しようと意地になっているのはそのせいもあるようだ。それが出来るくらいなら、初めからしている。そして、その事情を説明しようにも、どこまで言っていいのかわからない。だから、二進も三進もいかなくなって、苦手なサイファにこうやって助言を求めに来たのだ。
 サイファはちらりと腕時計に目をやると、すっと立ち上がった。
「よし、今から行くか」
「は?」
 話が飛躍して、ジョシュには何のことだかわからない。しかし、サイファはもうコートを羽織ろうとしていた。
「行くって……どこへ?」
「もちろん君の実家だよ」
「え?!」
 ジョシュは素っ頓狂な声を上げた。
「その方が早いだろう?」
 サイファは襟を直しながら事も無げに言う。しかし、ラグランジェ本家の当主がたかが一所員の実家を尋ねるなど、普通に考えたらありえないことだ。ジョシュとしては、ありがたいというより困惑の気持ちの方が大きい。
「仕事はどうするんですか」
「これから定例会議だからちょうど良かったよ。たいして意味のない会議だからね」
「いや、なに言ってるんですか! ちゃんと仕事してください!!」
 いい加減なことを言い出したサイファに、ジョシュは思わずカッとして声を荒げる。根っからの真面目人間であるジョシュには、とても許容できることではない。なにより自分の勤める魔導省の副長官なのだ。きちんと仕事してほしいと思うのは当然だろう。ちなみに、ジョシュは届けを出して早退してきたので、言い返されるような隙はない。
 しかし、サイファは涼しい顔で背を向けると、カーテンに手を掛けて一気に開いた。
 赤く色づいた光が射し込む。
 先ほどとは比べものにならないくらい間近で広がった、その高所の景色に、ジョシュは目を逸らすのも忘れて完全に凍りついた。もうサイファに意見するどころではない。頭の中がグラグラまわっているようで何も考えられなかった。
「さあ、行こうか」
 サイファはそう言ってにっこり微笑むと、倒れそうになるジョシュの肩に力強く手をまわした。

 それから20分ほど車を走らせ、ジョシュの実家の前についた。
 車は魔導省が持っているものらしく、車を運転しているのも職員らしい。完全に公私混同である。しかし、ジョシュが何を言っても彼はニコニコしたまま取り合わない。たまにはいいだろうと受け流すだけである。結局、文句を言いながらも一緒に来てしまったのであるが――。
「そういえば、どうしてウチの実家を知ってるんですか」
「これでもユールベルの親代わりだからね」
 つまり、結婚相手のことは徹底的に調べたということだろう。ジョシュは少しムッとして眉をひそめたが、冷静に考えれば仕方のないことだとも思う。ユールベルもラグランジェ家の人間なのだから、いくらラグランジェ家を出るとはいえ、問題のある相手に嫁がせるわけにはいかないはずだ。
「親に話を通して来るので、少し待っててください」
「ああ、早めに頼むよ」
 サイファはニッコリ笑って、軽く右手を上げる。
 ジョシュは気が重かった。この事態をいったいどう説明すればいいのだろう。軽く溜息をついて玄関に足を向けようとした、そのとき――。
「あら、やっぱり来てたの? 声が聞こえたから、もしかしたらと思ったんだけど……」
 玄関の扉が開き、中からエプロンをつけた母親が出てきた。
 心の準備が出来ていなかったジョシュは、あたふたしながら母親とサイファを交互に見る。が、サイファはにこやかに会釈し、紹介してもいないのに勝手に挨拶を始めた。
「初めまして、私は――」
「ラグランジェ本家当主っ?!!」
 母親は顔を見ただけですぐに誰だか認識したらしく、目を見開いて絹を裂くような声を上げると、後ずさりながらよろけて尻もちをついた。脱げたサンダルが派手に転がる。サイファは自分の足もとで止まったそれを、にこやかな笑顔で拾い上げた。

 その後、サイファを玄関前に待たせ、母親は大慌てで掃除と片付けを始めた。当然のようにジョシュも駆り出される。どうして前もって言わないの?! あんたのせいでとんだ恥をかいたじゃないの! と責められたが、つい数十分前に決まったばかりのことなのでどうしようもない。元凶であるサイファの顔を思い浮かべながら、ジョシュは眉間に皺を寄せた。

「お待たせして申し訳ありません。それに、汚いところで……」
「こちらこそ、突然お邪魔をして申し訳ありません」
 恥じ入るように肩をすくめる母親に、サイファは満面の笑みで受け答えする。それだけで彼女の頬は桜色に染まった。先ほどまでの怒りはどこへ行ったのだと、ジョシュは苦々しい気持ちになる。ローテーブルに置かれたティーカップに手を伸ばし、平静を取り戻すべく紅茶を口に流し込んだ。
「今日はユールベルさんのことで……?」
「はい、彼女の親代わりとして、お話ししておきたいことがあって参りました」
 親代わりという言葉を聞いて、母親は口もとに手を当て、不思議そうに目をぱちくりさせた。ジョシュはもちろん知っていたが、母親にはまだ伝えていなかった。親代わりがいるという話をすれば、実の両親のことにも触れざるを得ないからだ。
 しかし、サイファには何の躊躇も感じられなかった。
 まっすぐにジョシュの母親を見つめたまま、落ち着いた口調で、ひとつひとつわかりやすく説明を始める。ユールベルの目に負った怪我のこと、両親から虐待を受けていたこと、それゆえ両親とは会わせないようにしていること、両家の顔合わせも容赦してほしいということ――ラグランジェ家としては表に出したくない話もあるはずなのに、どれもジョシュが心配になるくらい正直に語っていく。
 母親がどう反応するのかも心配だったが、彼女はサイファの言うことに理解を示し、おまけにすっかりユールベルの境遇に同情したようで、目に涙を浮かべながら「これからは私が幸せにします」などとわけのわからないことまで言っている。ジョシュは頭を抱えたが、つまりはユールベルを受け入れてくれるということであり、それに関しては言葉にしようもないくらい感謝した。

「あんなことまで言って良かったんですか?」
「君の母上が言いふらさなければ問題ないよ」
 すっかり夜の帷が降りた空を見上げ、サイファは軽く笑いながら答える。その言葉に、ジョシュはそこはかとないプレッシャーを感じ、あとで母親に釘を刺しておかなければと冷や汗を滲ませる。サイファを敵にまわすと恐ろしいということが、今日だけで何となくわかってきたような気がした。
 車を置いた近くの空き地へ、二人は人通りの少ない細道を並んで歩く。
 ジョシュの家には1時間ほど滞在していただろうか。その間、仕事でもないことで、ずっと運転手を待たせてしまったことになる。ジョシュは申し訳なさで胃が痛くなりそうだった。ジョシュのやったことではないが、ジョシュのためであることは間違いない。サイファがここにいることも――。
「あの、今日はありがとうございました」
 そう言うと、サイファは少し驚いたように振り向いた。その鮮やかな青の瞳に捉えられ、ジョシュの心臓はドクリと跳ね上がる。
「あ……でも、わざわざ家にまで来てくれなくても……」
「私が直接説明した方が早いだろう?」
 サイファはにっこりと魅惑的に微笑んで言う。
 悔しいが彼の言うとおりである。自分にはあれほどわかりやすく説明は出来ないし、たとえ同じ説明をしたとしても、おそらく母親は簡単には納得してくれなかったに違いない。ラグランジェ本家当主という立場だからこそ、あの話に説得力を持たせられたのだ。そのことは誰よりも彼自身がいちばんわかっているはずだ。そして、その整った美しい顔が武器になるということも――。
「利用できるものは、何でも利用すればいいんだよ」
「自分には、利用できるものなんて何もありませんから」
 ジョシュは前を向いたまま少しムッとして答える。サイファのことにやたらと腹が立つのは、彼の狡さが許せないだけでなく、多くのものを持つ彼に対する僻みもあるのだろう。そんな自分の卑しさにはとうに気が付いていた。
 サイファはゆっくりと視線を流す。
「ジョシュ、どうして私がここまで来たかわかるか?」
「……ユールベルのため、ですよね?」
 それ以外には考えられなかった。ただ、なぜそんなことを尋ねるのかがわからない。答えを求めるように困惑した眼差しを送ると、サイファは目を細めてくすっと笑った。
「君の場合、無自覚の方がいいのかもしれないな」
「いったい何が言いたいんですか」
 一向に真意が見えない苛立ちが声に滲んだ。しかし、サイファは思わせぶりに微笑むだけで、何も答えようとはしない。彼のそういう人をからかうようなところが嫌いだった。ラグランジェの名や立場を何かにつけ利用するところも嫌いだった。自分なら何でも許されると思ってそうなところも嫌いだった。
 けれど――。
 ユールベルがなぜ彼を頼りにしているのか、そのことに関しては理解できるような気がした。悔しいが、実際に自分はサイファほど彼女のことを守れていない。でも、いつかは彼に頼らなくても済むように、自分の力で彼女を守れるようにならなければ――ジョシュは口をきゅっと引き結んだ。

 横目でその様子を見ていたサイファは、ふっと表情を緩め、微かな夜風を受けながら紺色の空を仰いだ。