遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 策略

「行くところに心当たりはないのか?」
「わからない……」
 ユールベルは泣きそうになりながら、もういちど紙切れに目を落とす。さようなら――アンソニーが残したのはその一言だけだった。これを見つけたあと、帰りかけていたジョシュを追いかけて助けを求めたが、彼もまた驚いてあたふたするばかりだった。頭を掻きながら必死に思考を巡らせると、何か思いついたのか、パッと顔を上げて人差し指を立てる。
「そうだ、あいつ彼女がいただろう?!」
「同級生でカナって言っていた気がするけど、会ったこともないし、連絡先なんてわからないわ」
 何度かアンソニーと一緒のところを見かけたことはあったが、会いたくなくて避けるようにしてきた。彼女の話も聞きたくなかったし、アンソニーもそれを察してか積極的に話そうとはしなかった。
「学校の先生は?」
「担任が誰かも知らない……学校の場所はわかるけれど……」
 家族でありながら、一緒に住んでいながら、結局はアンソニーのことをたいして知らなかったのかもしれない。ただ利用していただけで、ただ甘えていただけで、彼のために姉らしく何かをしてあげたことなどなかった。考えれば考えるほど、自分がろくでもない人間だと思い知らされて絶望的な気持ちになる。目にじわりと涙が滲んだ。
「愛想を尽かされて当然だわ」
「いや違う、俺のせいだ……」
 ジョシュは視線を落として沈んだ声で言う。しかし、すぐに顔を上げて気合いを入れ直した。
「今はそんなこと言ってる場合じゃない。アンソニーを見つけないと」
 彼の言うとおり、今はアンソニーを捜すことが最優先である。ユールベルは涙を堪えてこくりと頷いた。

 とりあえず手がかりを求めて学校に来てみたが、明かりは見えず、門も閉まっていた。誰かがいそうな気配はない。休日の夜だから、当然といえば当然である。
「誰かひとりくらい先生がいてくれれば良かったんだけど……」
 ジョシュは門にもたれかかりながら、悔しげに言う。
 それを聞いて、ユールベルはハッとした。
「おじさま……」
「えっ?」
「おじさまに聞けばわかるかもしれない。担任の連絡先くらいなら……」
 今でもアンソニーの保護者代理はサイファになっている。学校からの連絡などは彼が受けているはずだ。そう思うと、いてもたってもいられず駆け出した。事情が呑み込めていないジョシュは、よくわからないまま、慌ててユールベルを追って走り出した。

「おじさまって、もしかして……」
 ジョシュは大きな屋敷を仰ぎ見ながら、顔を引きつらせた。
 しかし、ユールベルには彼に構っている余裕などなかった。無言のまま進んでいき、躊躇うことなくチャイムを鳴らす。しばらくすると重量感のある扉が開き、レイチェルが優しく微笑んで二人を迎えた。
「いらっしゃい、ユールベル……それと、あなたは研究所にいた鼻血の……?」
「それはもう忘れてください!」
 ジョシュは顔を真っ赤にして言い返した。レイチェルは口もとに手を添え、くすくす笑っている。このいかにも接点がなさそうな二人に、いったいどういう面識があるのだろうか――ユールベルは少し驚き、そして気になったが、今はそれに気をとられている場合ではない。レイチェルに向き直ると、苦手意識を感じながらも、懸命に彼女の目を見ながら説明を始める。
「私、おじさまにどうしても訊きたいことがあって……」
「ええ、居間にいるわよ。サイファも、アンソニーも」
「……えっ?!」
 ユールベルとジョシュは、同時に目を見開いて声を上げた。

「また負けかぁ。サイファさん手加減なしだもんなぁ」
「手加減で勝ったところで面白くないだろう?」
 チェス盤を挟んで談笑するアンソニーとサイファを眺めながら、ユールベルは唖然とした。紙切れを持つ手に、無意識に力がこもる。と、アンソニーが戸口のユールベルたちに気付いて振り向いた。
「あ、姉さん。おにいさんも一緒なんだ」
 何事もなかったかのように、にこやかに笑顔を振りまく。
 ユールベルの頭の中で何かが切れた。
「どういうことなの?!」
 そう叫ぶと、軽くウェーブを描いた金髪と包帯をなびかせながら、部屋の中に駆け込んで行く。ソファのそばに立って睨み下ろしても、アンソニーは顔色一つ変えず、人なつこい笑みを浮かべて答える。
「僕、ここに住まわせてもらうことにしたんだ」
「どうしてそんな……!!」
 ユールベルは絞り出すように言う。視界が大きく歪んだ。目に滲んだ涙が今にもこぼれ落ちそうになっている。
 サイファはその様子を見て、不思議そうに尋ねる。
「アンソニー、置き手紙をしてきたんじゃなかったのか?」
「置き手紙ってこれのことかよ」
 ジョシュは苛立ちながら、ユールベルの持っていた紙切れを抜き取り、乱暴に開いて前に突き出す。「さようなら」とだけ書いてある紙だ。サイファはソファから身を乗り出してそれを覗き込んだ。
「これはひどいな」
 サイファは軽く苦笑しながらそう言うと、ソファに座り直し、口もとを上げて正面のアンソニーに視線を投げる。彼は小さく肩をすくめて視線を落とし、チェスの駒に指をのせた。
「心配してほしかったんだよ……最後だしね」
 そう言葉を落として薄く微笑む。が、すぐにいつもの表情に戻るとジョシュに振り向いた。
「おにいさん、姉さんのことを頼んでいいよね。僕の代わりにあの部屋で姉さんの面倒を見てやってよ。残してある僕のものは、使うなり捨てるなり好きにしていいから。ベッドもそのままだし……って、おにいさんは嫌かな」
 あははと笑うアンソニーを、ジョシュは苦虫を噛み潰したような顔で見下ろした。その瞳には困惑と怒りが見え隠れする。何かを言いたそうにしているが、口は閉ざしたまま、ただ悔しげに顔を歪めるだけである。
 ユールベルは混乱したまま首を横に振った。
「私、そんなこと頼んでない……私……」
「このままじゃ、誰も幸せになれないのはわかるよね。いつかは終わらせなきゃいけないことなんだ。だったら、今が一番いいんじゃないかなって。おにいさんの覚悟も聞かせてもらったしね。姉さんの過去をすべて話したけど、それでもずっとそばで支えて守っていくって。絶対に逃げたりしないって。他にもいろいろと話し合って、おにいさんなら信用できると思ったんだ。だから、姉さんは安心して頼ればいいんだよ」
 アンソニーは落ち着いた口調で、優しく言い聞かせるように言う。その様子を、サイファはゆったりとソファに座ったまま見守っていた。おそらくアンソニーからすべての話を聞いているのだろう。そのうえで、ここに住まわせてほしいと頼まれたから、了承せざるを得なかったのかもしれない。
「私は、何も知らなかった」
 ユールベルは肩を震わせながら嗚咽し、顔を両手で覆った。溢れた涙が手のひらを濡らす。ジョシュは何も言わず、そっとユールベルの肩を抱いた。
「姉さん、幸せになってよ。僕も幸せになるからさ」
 アンソニーは目を細めて言った。
 それでも、ユールベルはどうすればいいかわからず、頭が混乱したまま、ただ体を震わせてすすり泣き続けた。アンソニーの言うことは理解できるが、思考と感情が追いつかなかった。夢なのか現実なのかもわからなくなってくる。肩に置かれた手のあたたかさだけが、辛うじて自分を現実に引き留めているようだった。
「話が違うとあとで言われるのも何だから、あらかじめ言っておくが」
 サイファは不意にそう切り出して、視線を流す。鮮やかな青の瞳がジョシュを捉えた。
「ジョシュ、君をラグランジェ家に迎えることはできない」
 ビクリ、と彼の体が小さく震える。
「俺は、別にそんなこと……」
「つまり、ユールベルとは結婚できないということだ」
「…………」
 ユールベルの肩に置かれた彼の手に力が入った。
 サイファは膝の上で手を組み、淡々とした表情で話を続ける。
「君が気に入らないから言っているわけではないんだよ。ラグランジェ家に迎えるには一定の基準があってね。君には魔導力が不足している。最低限、アカデミー魔導全科に入学できるくらいの力はないといけない」
 基準の話はユールベルも聞いたことがある。ラグランジェ家の人間は一族間でしか結婚が許されていなかったが、一年ほど前、基準さえ満たせば外部の人間であっても受け入れることにした――という話だ。溢れた涙を拭ってそっと顔を上げる。隣のジョシュは、思い詰めたように必死な表情を見せていた。
「俺は……一緒にいられるだけで……」
「君はいいかもしれないが、ユールベルにとってはそれで幸せかな?」
 サイファはちらりと厳しい視線を流す。
「それ、は……」
 ジョシュは苦しげに言葉を詰まらせた。ユールベルの肩から手を滑り落とすと、体の横で壊れそうなほど強く握りしめる。こぶしは小刻みに震えていた。奥歯を強く噛みしめた表情にも、悔しさとやりきれなさが滲んでいる。
「ラグランジェ家としても困るんだよ」
 サイファは容赦なく畳みかける。
「同棲などという外聞の良くないことは避けてもらいたい。ラグランジェ家の品位を下げることに繋がりかねないからな。それに、ユールベルに勝手なことをされては、ラグランジェ家の若い者にも示しがつかないだろう?」
「私、出ます……」
 ユールベルは体の奥底から震える声を絞り出す。
「私、ラグランジェ家を出ます。ラグランジェの名前を捨てます!」
 涙の乾かないまま、まっすぐサイファに向かってそう叫んだ。隣では、ジョシュが目を丸くして、ポカンと口を開けている。けれど、ユールベルには自分の言ったことの意味くらいわかっていた。
「ユールベル、それでいいの?」
 サイファは優しく問いかける。
 ユールベルは硬い表情でこくりと頷いた。
「ラグランジェの名前さえなければ問題はすべて片付くもの。それに、私、以前からいつかラグランジェ家を出たいと思っていた……そのためには正当な理由がいるって聞いていたけれど、これなら認めてもらえるんでしょう?」
「ジョシュと結婚する、というのならね」
 そう言われ、とっさに言葉が出てこなかった。ユールベルとしては、一緒に暮らすことを考えていたのだが、結婚でないと正当な理由にならないのだろうか。
 サイファは感情のない声を重ねる。
「ラグランジェ家を出るために、彼を利用しているだけなのか?」
「違うわ! 好きだから……好きだから、一緒にいたいの……」
 ユールベルは、慎重に、噛みしめるように言葉を紡ぐ。そして、表情を引き締めてサイファを見据えた。
「彼と、結婚するわ」
 ジョシュは驚いて大きく目を見張った。しかし、すぐにそれは嬉しそうな表情に変わる。その屈託のなさに、ユールベルの胸は小さく疼いた。彼が好きだというのは嘘ではない。好きだからこそ、怖くなって逃げだそうとした。終わらせようとした。そんな自分が、今さらこんなことを言う資格はあるのだろうか。あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか――。
「ラウルのことは吹っ切れたのか?」
「……大丈夫よ」
 その名を聞かされて、一瞬ドキリとしたが、すぐに気持ちを落ち着けて答える。強く断言するだけの自信はなかったが、ジョシュがいてくれるなら、おそらくもう心を乱されることはないだろうと思えるようになっていた。
「随分と簡単だね」
 サイファは無表情で言う。けれど、ユールベルは引かなかった。
「簡単じゃなかったこと、おじさまなら知っているはずです。いくら縋っても私を見てくれなくて、拒絶されて、それでもずっと諦めきれなかった。そんな私の気持ちを融かしてくれたのがジョシュだったの。逃げ込める場所じゃなくて、一緒に過ごす時間が欲しいと思えるようになったの。一緒に生きていくのなら、私はジョシュがいい」
 半ばむきになって、懸命に訴えかける。
 サイファはふっと笑った。
「ユールベル、君の気持ちはわかった。だが、ラグランジェの名を捨てるとどうなるか、君は正しく理解しているのかな?」
「……特別扱いされなくなる?」
 ユールベルは少し考えて答えた。
 ラグランジェというだけで、多少の無理が通ることは知っている。研究所でもそれは実感していた。新人のユールベルが特別研究チームに配属されたのが、何よりの証左である。
「そう、それも影響のひとつだ」
 サイファはゆっくりと肯定した。そして、一呼吸おいて続ける。
「加えて言うならば、私も表立って君を助けることができなくなる。もうラグランジェ家の人間ではなくなるのだから……わかるね?」
「俺が守ります」
 ユールベルが口を開くより先に、ジョシュが一歩前に踏み出してそう言った。強い意志の漲る眼差しを、まっすぐサイファに送る。サイファも鮮やかな青の瞳でジョシュを見つめ返す。二人とも目を逸らそうとしなかった。ジョシュの頬に幾筋かの汗が伝う。と、サイファがフッとおかしそうに小さく笑った。
「ジョシュでは些か頼りない気がするな」
「そんなこと……は……」
 ジョシュの声は次第に弱々しくなり、やがて唇を噛んでうつむいた。そんな彼を見ながら、サイファは涼しい顔でソファの背もたれに身を預けている。いったい彼が何を考えているのか、ユールベルにはわからなかった。
「わ、たし……」
 息が詰まりそうになりながら、震える声で切り出す。みんなの視線が一斉に向けられた。少し怯みつつも、逃げることなく、静かな口調で噛みしめるように述べていく。
「私、誰かに守られなくても生きていけるくらい強くなりたい。そうなれるように努力するつもりでいるわ。でも……」
 そこでいったん言葉を切ると、小さく息を吸い、顔を上げてサイファを見据える。
「いざというときは、ジョシュが守ってくれると信じているから」
 彼は決して頼りなくなんかない。
 あのときだって、誰よりも必死にレイモンドから守ってくれたのだから――。

「なんか……いきなりこんなことになるなんてな……」
 ジョシュは困惑を露わにしながら、濃紺色の空を仰ぎ見た。無数の星のきらめきが二人を照らす。空気はだいぶ冷え込んでおり、緩やかに頬を掠めるたび、火照ったそこから熱を奪っていった。
「きっと、アンソニーとおじさまの策略だったのね」
「ったく、勝手なことを……」
 今にして思えば、サイファの厳しい言葉もこの結果を誘導していたとしか考えられない。けれど、それは自分たち二人のことを慮ってのことだろう。ユールベルはそっと隣に視線を向ける。まだ眉を寄せているジョシュの表情に、少し不安が湧き上がってきた。
「後悔しているの?」
「いや、後悔はしていない。……ユールベルは?」
「後悔していないわ」
 二人は顔を見合わせて小さく笑った。
 ジョシュは包み込むようにユールベルの手を握る。今朝のぎこちなさはもう消えてきた。ユールベルも、今朝は彼と離れることしか考えていなかったのに――。流されてしまった気がしないでもないが、後悔はしていないし、気持ちがすっと軽くなったように感じていた。彼の手のあたたかさに応えるように、そっと力をこめて握り返した。