遠くの光に踵を上げて

三度目の家庭教師(前編)

「レイチェルに魔導を教えてやってくれないか」
 サイファが飄々とそう言うのを聞いて、ラウルはカルテを整理していた手を止めた。反射的に険しく眉を寄せると、僅かに振り向き、パイプベッドに腰掛けている彼を肩越しに睨みつける。
「本気で言っているのか?」
「ああ、もちろん」
 サイファは人なつこい笑みを浮かべて答え、それから少し真面目な顔になった。
「あの事件以来、レイチェルは怖がって外に出ようとしない。だから、彼女に魔導を制御できるという自信を持たせてやりたいんだよ。元を正せば、おまえの責任でもあるし、断らせはしない」
 宝石のような鮮やかな青の瞳を向けて、静かに毅然と言う。
 ラウルは机に向き直った。重ねたカルテの上に腕を置き、目を細めてそっとうつむく。
「……信じるのか?」
「おまえのことなんか信じるわけないだろう」
 さも当然という口調で、サイファは軽く答える。
「今でも吹っ切れていないことくらい、わかりきっているからな。だが、レイチェルは二度と私を裏切らない。そして、おまえは彼女の意思を無視することはない。だから、何も起こりはしないということだ」
 レイチェルは二度と裏切らない――。
 彼は少しの迷いもなくそう言い切った。そして、実際にその通りだろうとラウルは思う。彼女を連れて逃げようとしたときも、はっきりと断られてしまった。もう自分の割り込む余地はないのだと理解している。
「来週から頼むよ」
 サイファは笑顔でそう言うと、ラウルの肩をぽんと叩いて医務室をあとにした。
 細く開けた窓から滑り込んだ風が、クリーム色の薄いカーテンを波打たせる。そして、机に向かい額を押さえたラウルの髪を、撫でるように緩やかに揺らした。

「お待ちしていました」
 翌週から、ラウルはレイチェルの家庭教師を引き受けることになった。
 通い慣れたはずのラグランジェ本家だが、訪れるのは十数年ぶりであり、さすがに少しばかり緊張を覚えていた。迎え入れてくれたのが、サイファでもその親でもなく、レイチェルだというのも奇妙な感覚である。本当に今さらであるが、彼女が本家に嫁いだいう事実を、あらためて思い知らされた気がした。
「着替えてきた方がいいかしら」
「そのままで構わん」
 ラウルはぶっきらぼうに答えるが、レイチェルに目を向けられると僅かに視線を逸らす。その大きな蒼の瞳に気持ちを見透されてしまうようで怖かった。その恐怖は彼女に対してのみ感じるものであり、それゆえ、同時に多少の懐かしさも感じていた。

 カツン、カツン、カツン――。
 レイチェルが一歩下りるたび、石段を打ち付ける音が低い天井に反響する。ラウルは彼女のあとについて、薄暗い階段の先にある、魔導の訓練場へと向かっていた。もちろん、ここに入るのも初めてではない。サイファの家庭教師をやっていた頃に、幾度となく使用していたところだ。
 カツン――。
 規則正しかったリズムが止まり、レイチェルは行き止まりの鉄扉に手を掛ける。が、すぐに開こうとはせず、背を向けたまま、小さな肩をわずかに上下させて静かに言う。
「私、本当はまだ怖いの」
「…………」
 どう返事をすればいいのか、どんな言葉を掛ければいいのか、ラウルにはわからなかった。口を閉ざしたまま視線を落とすことしかできない。彼女は淡々と言葉を繋ぐ。
「でも、私、ラウルを信じているから」
 長い髪をさらりと揺らして振り返り、ラウルを見つめると、ニコッと子供のように愛らしく微笑んだ。それは、無邪気に信頼を寄せてくれていた、あの頃と変わらない無垢な笑顔だった。

 訓練場に入り、扉を閉めると、そこはもう二人きりの空間だった。魔導耐性に優れた厚い壁が、この空間を外界から切り離し、時間さえ止まっているかのような錯覚を与える。一緒にいる相手によっては息が詰まる場所だ。だが、今、ラウルの眼前にいるのはそういう相手ではない。
「今さらおまえに魔導を上手く扱えとは言わん。ただ、自分の力を制御できるようにはなってもらう。いいな」
「はい」
 レイチェルは緊張感のない笑顔で答える。素直だが、本当に理解しているのか判然としない。こんなところも昔のままである。だが、あのときの失敗は繰り返せない。今度は焦らずじっくりと――。
「まずは瞑想をしてもらう」
 ラウルは訓練場の隅に置いてあった、古びた木製の椅子を持ってきて、そこにレイチェルを座らせた。ドレスの長い裾が地面を擦っている。彼女は行儀よく膝の上に手を重ねながら、不思議そうに小首を傾げてラウルを見上げた。
「瞑想ってどうすればいいの?」
「体の緊張を緩め、雑念をなくし、眉間に意識を集中させる。あとはその状態を維持し、少しずつ高めていく」
 ラウルは簡潔明瞭に説明する。それでも彼女には難しかったようだ。
「高めるって……何を?」
「……いや、それはいい」
 きちんと瞑想をやったことがなければ、わからなくて当然かもしれない。
「とりあえず、意識を集中させるところまでやってみろ」
「はい」
 レイチェルはそう返事をしたものの、すぐに困惑したように眉をひそめた。意識を集中させるといっても、どうすればいいのか、取りかかりが掴めないのだろう。
「目を閉じろ」
 ラウルはアドバイスを送る。しかし、なぜか彼女はくすっと小さく笑った。
「何だ?」
「いえ、何でもないわ」
 そう答えながらもくすくすと笑い続けている。ラウルがムッとして睨みつけると、彼女はようやく笑うのをやめ、おどけるように小さく肩をすくめた。それから、そっと瞼を下ろして瞑想を始める。

 静かに時が流れ始めたと思った、そのとき――。
「いつまで続ければいいのかしら」
 彼女は目を閉じたまま尋ねた。瞑想に取りかかってから、まだ5分と経っていないはずである。
「……おまえ、まったく集中していないだろう」
「わかるの?」
 レイチェルは目を開け、大きな蒼い瞳をぱちくりさせた。ラウルが腕を組んで溜息をつくと、彼女は申し訳なさそうに微笑みながら肩をすくめる。
「なんだかつい余計なことを考えてしまって」
 魔導を適切に扱うには集中力がなければいけないし、集中力がなければ魔導を適切に扱うこともできない。小さな子供の頃から魔導を扱う訓練をしていると、自然と集中力を高められるようにもなるが、レイチェルはこれまであまり訓練をやってこなかったと聞いている。いきなりではやはり難しいのだろう。だが、決して出来ないわけではないと信じている。
「だったら、祈ってみろ」
「何について?」
「おまえが強く思いをこめられるものなら何でもいい」
 そう言うと、レイチェルは少し考え込んだ。それから両手を組み合わせて静かに祈り始める。
 すると。
 彼女の魔導力が急激に高まった。彼女本来の力からすれば微々たるものではあるが、平常時、彼女の独力でこれほど高められたのを見たことはなく、ラウルは目を見張った。
 まだ高まっている――。
 空気が震えているのがわかる。いったいどこまでいくのかと不安に思い始めた、そのとき――彼女はぷっつりと糸が切れたように椅子から崩れ落ちた。地面に倒れる寸前で、ラウルがその小さな体を抱き留める。
「おい! レイチェル!!」
 意識をなくしたレイチェルに呼びかけると、彼女はまぶたを震わせ、そろりと目を開いた。ぼんやりとした蒼の瞳が、真上から覗き込んだラウルを捕らえる。
「大丈夫か?」
「ええ」
 彼女は柔らかく微笑んだ。それを見てラウルは安堵の息をつく。彼女を抱き留める腕に力がこもった。
「何があったか、覚えているか?」
「お父さまのことを祈っていたら、あのときのことがよみがえってきて……それで……」
 そう説明する彼女は、さすがに少し不安そうだった。あの忌まわしい事件は思い出したくもないはずだ。だが、そのことが彼女の魔導力を高める一助になったことは間違いないだろう。無理やり魔導の力を引き出された経験により、以前よりも魔導を高めやすくなっている、というのもあるかもしれない。
「ごめんなさい」
「謝ることはない。それでいい。少しずつ慣らしていけば上手くいく」
「……本当?」
「ああ」
 まっすぐ彼女を見つめて答えると、レイチェルは安堵したように微笑んだ。彼女に言ったことは、気休めではなく本当のことである。正直、どう訓練すればいいのかラウルも悩んでいたが、このことではっきりと一筋の光明が見えたのだ。
「頑張るわ」
 レイチェルはそう言って体を起こし、再び椅子に座ろうとする。が、ラウルは手を引いてそれを制した。
「今日はもういい」
「過保護ね」
 レイチェルはくすっと笑う。もう子供じゃないのに、とでも言いたげだった。
「急激に負担を掛けるのは良くない。サイファにも、無理をさせるなと釘を刺されている」
「……わかったわ」
 ラウルが真面目に説明すると、彼女は不本意そうな顔を見せながらも頷いた。しかし、すぐに明るい表情に戻って続ける。
「また、あした頑張りましょう」
 彼女の場合は、笑っていてもそれが本心かどうかはわからない。怖い気持ちがなくなったわけではないだろう。だが、こうやってやる気を見せてくれていることに、ラウルは多少なりとも安堵させられた。

「お茶でも飲んでいって」
 地下の訓練場から階段を上がったところで、レイチェルがごく自然にそう言う。ラウルは息を呑んだ。そして、彼女の瞳から逃れるように視線を落とす。
「……いや」
「お茶までならいいって、サイファにも言われているのよ」
 まるでラウルの心を見透かしたかのように、レイチェルはくすっと笑いながら付言する。その瞬間、ラウルの顔は苦々しく歪められた。脳裏にサイファの顔がちらつき、腹立たしさがおさまらない。が、彼女に応接間へと促されると、断ることなど出来るわけもなく、怒りを心の奥底に抑え込んだまま足を進めた。

 向かいのソファに座ったレイチェルが、手慣れた所作でティーポットからカップに紅茶を注ぐ。ほどよく美しい紅色が、緩やかにカップの中で揺れる。水面は、レースのカーテン越しの光を反射して、柔らかく輝いていた。
「どうぞ」
「ああ……」
 ラウルは差し出された紅茶に口をつけた。お世辞でもなく、ひいき目でもなく、素直に美味しいとラウルは思う。何も出来なかった彼女が、美味しい紅茶を淹れられるようになり、そしてその紅茶を二人きりで飲む日が来ようとは、15年前には考えられなかったことだ。
 暖かく、光の溢れる昼下がり。目の前には笑顔のレイチェルがいる。
 とても穏やかな時間だった。

 それから10日が経ち――。
 深夜といってもいい時間、ラウルの医務室にサイファが押しかけてきた。しばらく忙しくて来られなかった、と前置きをしてパイプベッドに腰掛ける。少しばかり疲労の滲んだ表情と、きっちり身につけた制服から察すると、おそらくこの時間までずっと仕事をしていたのだろう。
「どうだ、レイチェルの訓練は」
「上手くいっている。問題ない」
 ラウルはあれからほとんど毎日、といっても平日のみだが、ラグランジェ本家に赴いてレイチェルの訓練を続けていた。今は徐々に魔導に慣らしている段階である。本当に少しずつではあるが、着実に前進していることは間違いない。
「ティータイムは楽しんでいるか?」
 サイファは続けてそう尋ね、思わせぶりに片方の口角を上げた。ラウルが僅かに眉を寄せると、フッと笑い、芝居がかった所作で右の手のひらを上に向ける。
「毎日一緒にお茶を飲んでいることはレイチェルから聞いているよ。責めているわけじゃないぞ。心ばかりの報酬のつもりで許可したんだからな。いくら何でも、全くのタダ働きをさせるほど無慈悲ではないんでね」
 お茶までならいいとサイファに言われた――あのときの彼女の言葉が脳裏によみがえる。そういう意味だったのかと腑に落ちた。報酬という言い方に腹立たしさを感じるものの、拒否する強さも持てず、ただ目の前のサイファを睨みつけることしかできない。
 彼は平然としたまま続ける。
「レイチェルもおまえと過ごせて随分うれしそうにしているよ。そのことには少々嫉妬しないでもないが、安全が担保されていれば、こういう適度な刺激も悪くないものだな。良いスパイスといったところだ」
 どこまでが本心かわからない。ただ、それがラウルの神経を逆なですることは、十分理解していたのだろう。挑発的な光を宿した青い瞳がそれを物語っていた。
「これからも頼むよ」
 サイファはパイプベッドから立ち上がると、満面の笑みで手を振って医務室をあとにした。遠ざかる彼の靴音を聞きながら、ラウルは口を引き結び、膝にのせた手をゆっくりと強く握りしめた。