遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 逃避

 ユールベルは、両脇に紙束が積まれたスチール机の上で、俯せになって目を閉じていた。細く開いた窓から舞い込んだ風が、薄いカーテンをひらひらとはためかせ、緩いウェーブを描いた金の髪と白い包帯を小さく揺らす。いつ来ても乱雑で、狭くて、お世辞にもきれいとは言い難いこの部屋が、なぜかユールベルには落ち着ける場所になっていた。
 私、逃げている――。
 ラウルに言われたことの結論はまだ出ていない。それどころか真剣に向き合ってさえいない。あの日以来、毎日のようにここへ来て、何をするでもなく、ただぼんやりしたり、サイラスと話したり、ときにはアンジェリカと話したりしている。そんなユールベルを、サイラスはごく自然に受け入れてくれていた。不思議には思っているだろうが、頻繁にここに来るようになった理由も訊かないのである。
 しかし、それももうすぐ終わる。
 卒業式の日は目前に迫っていた。卒業してしまえば、気軽に訪れることもできなくなるだろう。それまではせめて許してほしい、ここに逃げ込むことを、結論を先延ばしにすることを――ユールベルは薄く目を開いた。

 ガチャン――。
 静かな部屋にドアノブのまわる音が響いて、扉が勢いよく開いた。サイラスたちが戻ってきたのだろうと思い、ユールベルは顔を上げたが、そこにいたのは思いもしない人物だった。
「あれ? おまえ何でここにいるんだ? アンジェリカは?」
 魔導省の制服を着たジークが、ユールベルを指さしながら混乱したように尋ねた。
「先生とアンジェリカは図書室に行ったわ。すぐに戻ってくるって」
 ユールベルは無感情で淡々と答える。
「そうか……」
 ジークは僅かに声を沈ませると、微妙に渋い顔で、落ち着きなく首をひねったり頭を押さえたりした。ここで待つべきかどうか迷っているのだろう。そんな彼を、ユールベルはじっと見つめて口を開いた。
「ジークは成人して何か変わった?」
「……えっ?」
 唐突な質問に、ジークはぱちくりと瞬きをした。しかしすぐに真面目に考え始める。
「そうだなぁ……18になってもそんなに意識はしなかったな。大人になったって実感はあんまりなかったし、まわりからもそんなに大人扱いされなかったし。のらりくらり学生やってたってのもあるんだろうけど」
 それは拍子抜けするような答えだったが、ユールベルにはとても羨ましく思えた。
 ジークは斜め上に視線を向けて、さらに続ける。
「就職してからの方が変わったことは多かったな。自分の言動に責任を持たなきゃならないってことを実感を持って理解した、っていうか、理解させられたっていうか……結構大変だぜ、働くのも」
 その言葉とは裏腹に、彼の声にはどこか楽しげに弾んでいた。
「そういやおまえ、あの研究所に就職するんだってな」
「ええ……」
 あの研究所、などという極めて曖昧な言い方だったが、おそらく王立魔導科学技術研究所のことだろうと思い、ユールベルは戸惑いながらも小さく頷いた。
「気をつけろよ。あそこにはラグランジェの関係者ってだけで嫌ってくるやつがいるんだ。おまえなんてもろにラグランジェ家の人間だし、おまけにサイファさんの口利きで入ったんだから、標的になることは間違いないぜ」
「ジョシュ……?」
 ジークの言った人物像に当てはまるのは彼しかいなかった。少なくとも、ユールベルが知る中では彼だけである。
「あれ? 知ってんのか?」
「研修に行っていたから……」
「ああ、そうか」
 ジークは軽く納得すると苦笑した。
「ひどかっただろ? あいつの態度」
「でも、ジョシュはいい人……私を助けてくれたもの……」
 確かに、彼にはラグランジェの人間だからという理由で冷たい態度をとられたが、襲われかけていたときには見過ごすことなく助けてくれたのだ。しかし、事情を知らないジークは、怪訝な顔で腕を組みながら首をひねる。
「まあ、悪いやつではないと思うけどな……ひぃっ!!」
 突然、彼は引きつった悲鳴を上げて飛び上がった。
「おまえっ! 背筋を指でなぞるのはやめろっ!!」
「だってジークが入口をふさいでいるんだもの」
 顔を赤くして勢いよく振り返ったジークに、アンジェリカは楽しそうに笑いながら答えた。図書室から戻ってきたところなのだろう。その隣にはにこにこしているサイラスもいた。
「ったく……おまえ忘れてたんじゃねぇだろうな」
「心配しなくてもちゃんと覚えているわよ」
 アンジェリカはニコッとして答えると、隣のサイラスに振り向いて言う。
「それじゃ、私はこれで帰りますね。お疲れさまです」
「お疲れさま」
 サイラスが片手を上げて応えると、彼女はサイラスに小さく手を振り、部屋の中のユールベルにも手を振って、幸せそうな顔でジークと並んでどこかへと去っていった。

「留守番させちゃってごめんね」
 サイラスは部屋の中に入ると、一番奥の自席に座り、すっかり冷めた飲みかけのコーヒーを口に運んだ。それでも美味しそうに顔をほころばせると、ほっと一息ついて、無表情のユールベルに微笑みかける。
「君もジークと知り合いだったんだ」
「……あの二人はどこへ行ったの?」
「さあ、詳しくは聞いてないけど、何かお祝いとか言ってたよ」
「そう……」
 ユールベルはそう言うと、再び机に俯せになった。他人の幸せを素直に喜べない今の自分は、多分、とてもひどい顔をしている。そんな顔をサイラスには見せたくなかった。
「ねえ、僕たちもどこかへ行こうか」
「……どこへ?」
 サイラスの思いがけない誘いに驚きながら、それでも顔を上げることなく、ぽつりと小さく尋ね返した。彼は、ギシリと音を立てて椅子の背もたれにもたれかかると、腕を組んでのんびりと答える。
「そうだね、アイスクリームでも食べに行こうか」
 ユールベルは少しだけ顔を上げ、ちらりとサイラスに横目を向けた。その視線がぶつかると、彼はにっこりと微笑み、机に肘をついて前屈みでユールベルを覗き込む。
「嫌い?」
「嫌いじゃ、ない……」
「じゃあ行こうよ、ね?」
 まっすぐ向けられたその視線に、ユールベルは微かな戸惑いを感じたが、不思議と逃げたい気持ちは起こらなかった。机に頭を載せたままじっと彼を見つめ返すと、小さくこくりと頷いた。

「ここのアイスクリームが好きなんだけど、一人ではちょっと行きづらくてね。これからもときどき付き合ってくれると嬉しいな」
 向かいに座るサイラスは、カップ入りのアイスクリームをスプーンですくいながら、これまで見たこともないくらいの晴れやかな笑顔でそんなことを言った。
 ユールベルが連れてこられたのは、小さなアイスクリーム専門店だった。
 店内を見まわしてみると、並んでいるのも、席に着いているのも、ほとんどが若い女性である。ちらほら男性客もいるが、みな女性と一緒に来ているようだ。確かにこれでは男性一人では行きづらいだろう。
「先生がアイスクリームを好きだなんて知らなかった」
「まだまだ君の知らないことがたくさんあると思うよ」
 サイラスはにっこりと笑って言った。
 ユールベルは何と答えていいかわからず、無表情のままアイスクリームを口に運ぶ。それでも彼はにこにこと微笑んでユールベルを見ていた。
 今日だけではない。
 ユールベルがどれだけ無愛想な態度をとっても、いつも優しく見守るようにそこにいてくれる。だからだろう、彼のそばはとても居心地が良く、ついそこに逃げ込みたくなるのだ。他人の優しさを利用するのは、もうやめなければと思っていたのに――。
「先生、私、逃げているの……」
 ユールベルはゆっくりうつむくと、スプーンを握る手に力をこめた。
 突然のことにサイラスはきょとんとしたが、すぐに軽く笑いながら答える。
「僕もしょっちゅう逃げてるよ。つらいときは逃げるのもいいんじゃないかな。気分が乗らないときまで無理することはないよ」
 彼の言葉を聞いていると、逃げるのも悪いことではないように思えてくる。しかし、彼の「逃げる」は、ユールベルのそれとは根本的に違うのだ。彼の場合は、気分転換のための一時的な逃避であり、その根底にあるのは前向きな気持ちである。それに引き替え自分は――。ユールベルはますます深くうつむき、独り言のように呟く。
「結局、本当に逃げたいものからは逃げられないのね……」
 サイラスは不思議そうに瞬きをしてユールベルを覗き込む。
「本当に逃げたいものって?」
「私自身」
 ユールベルはぽつりと言葉を落とした。
「弱くて、ずるくて、我が侭で、嫉妬深くて、欲深くて、僻んでばかりで、手に入らないものばかり欲しがって。そんなどうしようもない人間だから、自分でも大嫌いだし、他の誰からも好かれないの」
「僕はユールベルのことが好きだよ」
 それはサイラスの優しさだったのだろう。いや、同情なのかもしれない。ユールベルは言いようのない虚しさを感じて、きつく眉根を寄せた。スプーンを持つ手にも無意識に力が入る。
「先生は私のことをよく知らないもの。私のことを知ればきっと嫌いになる」
「そうならない自信はあるけどね」
 サイラスは楽しげにアイスクリームをすくいながら平然と言った。自信満々というよりも、それが当然であるかのような口調だった。
「どうして?」
「勘、かな?」
 あまりにもいい加減な答えに、ユールベルは唖然とすると、呆れたように溜息をつく。
「研究者とは思えない答えね」
「研究者には勘も必要なんだよ」
 サイラスは頭を指さしてそう答えた。いったいどこまで本気で言っているのか、ユールベルにはわからなかった。しかし、邪気のない彼の笑みを見ていると、黒く渦巻く気持ちが薄らいでいき、これ以上、反論する気もなくなっていった。
「変な人……」
「アイスクリーム、溶けちゃうよ」
 サイラスは笑いながら言った。
 ユールベルは溶けかかったアイスクリームをすくって黙々と口に運ぶ。それはとても冷たかったが、ほっとするような甘さがあり、口にするたびに気持ちが和らいでいくように感じた。
 いつかは現実と向き合わなければならない。
 だけど、あと少しだけ――。
 そんな甘えた考えも、今だけは許されるような気がした。