遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 怯懦

 コンコン――。
 ユールベルはアカデミー三階の隅にある一室の、少々古びた扉をノックした。
「はい、どうぞ」
 中から女性の声で返事があった。掛けられたプレートをもう一度確認したが、部屋は間違っていない。予想外のことに訝しく思い、戸惑ったが、このまま逃げるわけにもいかず、おそるおそるドアノブを回して扉を開いた。
「あら? ユールベル、いらっしゃい!」
「あなた、どうしてここに……」
 広くはない雑然とした部屋にいたのはアンジェリカだった。机に向かい赤ペンで何かを書きつけていたようだ。彼女の机にも、その奥の机にも、紙束が山のように積み上げられている。彼女は赤ペンにキャップをすると、顔を上げてニッコリと微笑んだ。
「私、先生の助手をしているのよ」
「そう……」
 確かにアンジェリカはアカデミーで働いていると言っていた。だが、それがまさかここだとは考えもしなかった。ユールベルは何となく気まずいものを感じたが、アンジェリカの方にはまったくそんな様子は見られない。
「先生はすぐに戻ってくると思うから、その辺の椅子に座って待っていて」
「いえ、出直すわ」
 ユールベルは一歩下がって扉を閉めようとする。
「ユールベル?」
 背後の少し離れたところから声がした。ユールベルはドアノブに手を掛けたまま、声の方に振り向く。そこにいたのはサイラスだった。彼は目を丸くしていたが、すぐにニッコリと穏和な笑みを浮かべ、ユールベルの方に歩を進めながら言う。
「本当に来てくれたんだ。嬉しいよ」
「あなたが来いって言ったから……」
 ユールベルは目線をそらして言い訳のようなことを口にする。
 きっかけは確かにそれだった。例の事件のあと、研究所で顔を会わせたときに「一度、遊びに来て」と言われたのだ。それは社交辞令だったのかもしれない。だが、少し彼に相談したいこともあり、別件でアカデミーに来たついでに立ち寄ってみたのである。
「それに、わざわざ来たわけじゃないわ」
「わかっているよ」
 サイラスは包み込むようにそう言うと、戸口で立ち尽くすユールベルの背中に手を添えて部屋の中へと促した。ユールベルはその温かさに戸惑いながらも、素直にそれに従って足を進めた。

「じゃあ、私、もう帰りますね」
 アンジェリカは机の上を片付けてそう言うと、鞄を肩に掛けて立ち上がった。
 腰を下ろしたばかりのサイラスは、きょとんとして顔を上げる。
「え? もう帰るのかい?」
「たまにはいいですよね? 先生、さぼらないでちゃんと仕事してくださいね」
 アンジェリカは悪戯っぽく忠告すると、くすっと小さく笑い、手を振りながら部屋を出て行った。それはおそらくユールベルたちに気を遣ってのことなのだろう。彼だけに話したいことがあったユールベルには、彼女のその行動は有り難かった。
「それほどさぼってないんだけどね」
 サイラスは苦笑しながら誰にともなく呟いた。そして、机の上の書類を無造作に脇に寄せると、おもちゃ箱をひっくり返したかのような引き出しの中からマグカップを二つ取り出してそこに置く。
「コーヒー飲む? インスタントだけど」
「はい……」
 サイラスの隣に座るユールベルは、戸惑いながらもそう答えた。なぜ事務机の引き出しにマグカップをしまっているのか、それはきちんと洗ってあるのか、埃をかぶっていないのかなど、さまざまな疑問が喉まで出かかったが、それを尋ねるのも失礼な気がして、ぐっと言葉を飲み込んだ。
 そんなユールベルの不安などお構いなしに、サイラスは机の上に置きっぱなしになっていたインスタントコーヒーの瓶を開け、そこから直接マグカップに入れると、やはり机の上に置いてあったポットの湯を注ぐ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう……」
 ユールベルは差し出されたマグカップを両手で受け取ると、中の黒い液体をじっと見つめてゆっくりと口に運んだ。それは、とてもコーヒーとは思えない味だった。コーヒー自体が酸化しているうえ、湯の温度が低すぎるのも一因なのだろう。しかし、目の前で美味しそうに飲んでいるサイラスに、不味いなどと言えるはずもなかった。
 サイラスはマグカップを机に置き、にっこりと人なつこい笑顔を浮かべて尋ねる。
「もしかして僕に何か用があった?」
「別に……」
 ユールベルはそう言い淀んで目を伏せた。図星を指されて思わず否定するようなことを口走ってしまったが、こんなところでつまらない意地を張っては、勇気を出してここに来た意味がなくなってしまう――ぎゅっとマグカップを握りしめると、意を決して顔を上げる。
「私、先生に相談したいことがあるの」
 落ち着いた口調ではあるものの、その中にはどこか思いつめたような声音が響いていた。少し驚いたような表情を見せるサイラスに、ユールベルは深い森の湖のような瞳でじっと訴えかけた。

「えっ? ジョシュに避けられてる?」
 ユールベルは白いワンピースの裾をぎゅっと掴み、固い顔でこくりと頷いた。しかし、それを聞いたサイラスは、腕を組みながら困惑したような表情で首を傾げる。
「うーん、それ、気のせいじゃないのかなぁ」
「そんなことないわ!」
 ユールベルは身を乗り出し、思わず強い語調で言い返した。その必死な態度にサイラスは面食らったようだったが、すぐに優しい表情になると、ユールベルを覗き込んで穏やかに問いかける。
「じゃあ、詳しく説明してくれる?」
 ユールベルはこくりと頷き、どのように説明しようか思案すると、暫しの沈黙のあとに小さな口を開いた。

 ユールベルが話した内容はこうである。
 ジョシュには研究所に来た当初から嫌われているようだったが、例の事件のときには、ユールベルを助けて力になってくれた。これがきっかけで、彼との関係も良好なものになるのではないかと期待したが、その後まもなく彼の態度は再び硬化してしまった。ただ、以前のようにあからさまに嫌っているような態度ではなく、気遣いつつも関わり合いを避けている、そんなふうに感じる――と。

「最初にジョシュが冷たい態度をとっていた理由ならわかるよ」
「えっ……?」
 思いもしなかったサイラスの言葉に、ユールベルは目を見開いて聞き返した。
「ジョシュはね、ラグランジェ家が嫌いなんだ。多分、理由はそれだけだと思うよ」
 サイラスは柔らかく微笑んで言う。
「でもどうして? ラグランジェ家が嫌いって……」
「さあ、どうしてかな。ジョシュは真面目だから、柔軟な対応をするサイファに反発しているというのはあるだろうね。それに、何かと優遇されているラグランジェ家の人間を見て、やりきれない思いを持っているのかも」
 ユールベルは何も言えずにうつむいた。それを見て、サイラスは慌てて付け加える。
「ユールベルが責任を感じることはないんだよ」
「私、わかったわ……」
 ユールベルは呟くように言った。
 サイラスはきょとんと瞬きをして覗き込む。
「わかったって、何が?」
「私もおじさまの口添えで研究所に入ることになったもの。ジョシュの嫌いなラグランジェ家の人間そのものだわ。でも、あの事件のことで少し同情してしまって、どっちつかずの態度になっているのね」
 ユールベルはうつむいたままで言う。それがもっとも辻褄の合う答えだと思った。今までモヤモヤしていたものがストンと腑に落ちた気がした。
 しかし、サイラスは納得していないようだった。
「うーん……本当は冷たい態度をとっていたことを後悔しているけれど、素直にそれを言いだせないって可能性の方が高いと思うよ。ジョシュだってユールベルが研究所に入るだけの実力があることはわかってるはずだし、いつまでもそんな言いがかりみたいな理由で嫌ったりしないんじゃないかな」
 確かにそれも考えられなくはないが、ユールベルはそこまで楽観的になれなかった。
「じゃあ、あの事件で迷惑をかけてしまったから、そのことで腹を立てているのかも。もうあんなことに巻き込まれないように、私との関わりを避けているのかも」
「そんなことないって」
 サイラスは苦笑しながらそう言うと、小さく息をついて、落ち着いた静かな声で続ける。
「ジョシュってさ、あまり人付き合いが得意じゃないから、どういう態度をとればいいかわからなくて戸惑っているだけだと思う。嫌っているとか避けているとか、そんなこと考えない方がいいよ」
「先生とは仲が良さそう……」
 これまで二人が話しているのを見る限り、サイラスとは打ち解けているように見えた。少なくともユールベルに対する態度とは雲泥の差である。
 サイラスは机に腕を置いて言う。
「そんなに仲良しってわけでもないけど、まあ普通に喋ったりはするね。でも最初からそうだったわけじゃないよ。最初は僕もかなり刺々しい態度をとられていたし」
「そう、なの?」
 ユールベルが不思議そうに尋ねると、サイラスはにっこりと大きく微笑んだ。
「仲良くしたいんだったら、ユールベルの方からそう言ってみたら?」
「別にそういうわけじゃないわ」
 ユールベルは思わずむきになって言い返した。
「怖がらなくても大丈夫だよ。ジョシュって態度はあんなだけど根はいい子だから。きちんと話し合って、ユールベルが自分の素直な気持ちを伝えれば、いい方に向かうんじゃないかな」
 ニコニコしながらそう言うサイラスから、ユールベルは視線を外して目を伏せた。居たたまれなさから逃げるように、机の上のマグカップを手に取って口に運ぶ。ますますぬるくなっていたそれは、先ほどよりも随分と苦く感じられた。

 数日後――。

 研究所のそのフロアは、一部分のみ灯りがついていた。
 もう深夜といってもいい時間である。ほとんどの所員はすでに帰っており、このフロアで残っているのはジョシュとサイラスだけだった。背中合わせで二人とも黙々と仕事をしている。静かだった。紙をめくる音さえはっきりと聞こえるくらいである。
「ね、ジョシュ」
「ん……」
 サイラスは沈黙を破って呼びかけたが、机に向かったままのジョシュから返ってきたのは、ほとんど声になっていないくらいの気のない返事だった。それでもサイラスは遠慮なく言葉を繋ぐ。
「どうしてユールベルのことを避けているの?」
 ジョシュの動きが止まった。
「別に、そんなつもりは……」
「この前ユールベルから話を聞いたときは半信半疑だったけれど、さっき様子を見ていたら本当に避けてたよね。すごく素っ気ない返事しかしないし、目を合わせようともしないし、態度も不自然でぎこちないし。あれはもう気のせいとかでごまかせないよ。彼女と何かあったの?」
 ジョシュは背を向けたまま、無言でうつむいて唇を噛んだ。
 答えそうにない彼を見て、サイラスは質問を変える。
「彼女のこと、嫌いなわけじゃないよね?」
「……ああ」
 少しの間をおいて、ようやくジョシュは低い声で返事をした。
「だったらどうして?」
「先生には死んでも言わねぇよ」
 今度は不機嫌そうにぼそりと言う。それが彼の精一杯の意思表示だったのだろう。
「まあ、僕に言わなくてもいいけど、ユールベルのことはもっと考えてあげなよ。彼女は避けられている理由もわからなくて毎日不安で仕方ないんだから」
「……俺は、彼女と顔を合わせる資格もない人間なんだよ」
 サイラスはちらりと振り返った。どこか寂しげなジョシュの背中を、横目でじっと見つめる。
「潔癖すぎると生きるのがつらいよ」
「そう、かもな」
 ジョシュは感情を抑えた声でぽつりと言った。
 サイラスは椅子の背もたれに体重を掛け、両手を上げて大きく伸びをする。
「自分はそれでいいかもしれないけど、相手にもつらい思いをさせてしまうんじゃ、本末転倒じゃないかな」
「わかってる……けど……」
 ジョシュの言葉はそれきり途切れた。
 しばらくして、再び紙をめくる音がフロアに響いた。

 それから、一ヶ月半が過ぎた。

 ユールベルの実習期間は今日で終わる。
 もっとも、アカデミー卒業後――つまり数ヶ月後には、再びここで勤務することになっているので、取り立てて感傷的な気持ちにはならなかった。今日もいつものように与えられた仕事をこなしていくだけである。
 ジョシュの態度は相変わらずだった。
 何か言いたそうにしていることもあったが聞けなかった。ユールベルの方からも何も言い出せなかった。交わす言葉は仕事上での必要最低限のことだけである。二人の間にはぎこちない空気が流れ続けていた。

「じゃあまた。今度来るときは正式なウチの所員ね」
 勤務時間が終わると、アンナは人なつこい笑顔でユールベルを見送る。ユールベルはフロアの戸口で小さく頭を下げた。言葉には出来なかったが、何かと良くしてくれた彼女には心から感謝していた。
 フロアの中に視線を戻す。
 ジョシュは自席に座ったままだった。モニタをじっと凝視しているようだ。仕事に没頭しているのだろう。彼には声を掛けそびれたので、最後に一礼だけでもしたいと思ったが、彼がこちらに目を向けることはなかった。諦めて扉を開け、静かにフロアを後にする。
 研究所の建物を出ると、門のところで振り返ってその建物を仰ぎ見た。
 これからここで上手くやっていけるのだろうか――実習に来るときに感じた不安は未だに消えていない。むしろ大きくなったくらいだ。目を細めて小さく溜息をつくと、重い気持ちのまま踵を返して歩き出そうとした。
「ユールベル」
 ドクン、と大きく心臓が跳ねる。
 声だけでそれが誰であるかすぐにわかった。だが、今までずっと避けていた彼が、なぜここに来たのかわからない。ユールベルは息を止め、おそるおそる振り返る。
 案の定、そこに立っていたのはジョシュだった。
 困惑したような、怯えたような、どこか苦しそうな、何ともいえない複雑な顔をしている。ユールベルに声を掛けることを随分と迷ったのだろう。彼はごくりと唾を飲み込んでから、低く抑えた口調で切り出した。
「今まですまなかった。その、避けるような態度をとって……。おまえは何も悪くない。全部、俺の心の中の問題だ」
「ウソ……」
「嘘じゃない」
 思わず口をついて出たユールベルの言葉を、ジョシュは即座に否定する。それでもユールベルは信じることができなかった。長い金の髪を揺らしながら首を横に振ると、眉をひそめてじっと睨むように彼を見つめた。
「私、知っているんだから。ラグランジェの名前を使って研究所に入った私を軽蔑しているんでしょう? 嫌いなんでしょう?」
 ジョシュは目を見開き、小さく息を呑んだ。
「おまえ、それをどこで……」
 ユールベルは小さく息をつくと、努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「確かに私はあなたに嫌われても仕方のない人間だもの。ちゃんとわかっているわ。あなたのことを逆恨みなんてしない。だから、そんなウソをつかないで」
「ちょっと待て! 違う、違うんだ!」
 ジョシュは狼狽しながらも必死に主張する。
「確かに最初はそうだった。おまえの言うとおり、ラグランジェ家の人間ってだけで楽して入ってきた嫌なやつだと頭にきてた。でもそれは最初だけで、おまえが頑張ってるのをずっと見てきたし、十分に実力があることもわかったし、今はもうそんなことはこれっぽっちも思っていない」
 彼はユールベルを見つめてきっぱりと断言した。そのまっすぐな瞳からは嘘やごまかしは微塵も感じられなかった。
 ぐらり、と頭の中が揺らいだ。
 信じたいという思い、信じられないという思い、その相反する気持ちがせめぎ合い、心が引き裂かれそうになる。どうすればいいのかわからない。潤んだ瞳を隠すようにうつむくと、感情を昂ぶらせて声を震わせる。
「じゃ……じゃあいったい何なの? どういうことなの? 納得いくように説明して! 嫌いでもないのに避けるだなんて意味がわからない……っ!」
「だから、それは……それ、は……俺が……」
 ジョシュは顔をしかめて額を押さえた。顔中に苦悩を広げている。額には大粒の汗が噴き出していた。
「俺が、何……?」
「だから、その……えっと……」
 問い詰められるとますますしどろもどろになり、消え入るように声が小さくなっていく。声だけではなく彼自身も背中を丸めて小さくなっていた。
 ユールベルは僅かに目を細めた。
 彼が何を言おうとしているのかわからなかったが、嘘をつけるような人ではないのだということは十分すぎるほどに伝わってきた。自分と同じくらいに、いや、それ以上に不器用な人間なのだろう。
 ユールベルはジョシュとの間を詰めると、目を閉じてそっと寄りかかった。
 その体がビクリと震える。
「ユールベル……?」
「嫌いじゃないのなら、もう避けないで……」
 ジョシュの胸に額をつけたまま、ユールベルは小さな声で囁くように言う。
「……わかった」
 ジョシュは静かにそう答えると、ゆっくりと右手を持ち上げ、少し迷った様子を見せながらも、そっとユールベルの背中に置いた。その触れるか触れないかの力加減が、ユールベルにはとてもくすぐったく感じられた。

「これで一件落着、かな?」
 不意に後方から明るい声が聞こえた。ユールベルとジョシュは同時にその方に振り向く。声の主を目にしたジョシュの眉間には、みるみるうちに深い皺が刻まれた。
「……センセー、ずっと見てたのかよ」
「見るつもりはなくてもこんなところじゃね」
 サイラスは両の手のひらを上に向け、軽く肩をすくめてとぼけたように言った。
 ここは研究所の入口の真正面である。確かに彼の言うとおり、研究所に出入りする人間であれば嫌でも目についてしまうだろう。ジョシュは腕を組み、疲れたように溜息をついて話題を変える。
「それで、何しに来たんだよ」
「ユールベルのお見送りだよ」
 サイラスは屈託なく答えると、ユールベルに視線を移して微笑んだ。
「よかったね、ジョシュと仲直りできて」
 ユールベルは返答に迷い、助けを求めるようにジョシュの腕を掴んで見上げた。ジョシュは困惑したような表情で少し頬を染め、僅かに目を逸らせると、ぶっきらぼうにぼそりと呟く。
「別に喧嘩してたわけじゃない」
「あ、そうだったね。ジョシュが一人で勝手に迷走してたんだったね」
「サイラス、おまえ……」
 軽く笑ってからかうサイラスを、ジョシュは顔を赤らめたまま横目で睨んだ。

「じゃあな」
 門の前で軽く右手を上げるジョシュとサイラスに、ユールベルは小さく頭を下げると、背を向けて微かな風に乗るようにゆっくりと歩き出した。
 白いワンピースがふわりと風をはらむ。
 研究所での実習期間には様々なことがあった。その多くがつらいことだったような気がする。しかし、それだけではない。助けてもらったことも、相談にのってもらったことも、優しくしてもらったこともあった。そして、どうにもならないと諦めていたジョシュとのわだかまりが消えたことが、何よりもユールベルの気持ちを軽くしていた。
 多分、悪いことばかりではない――。
 燃えるような朱い空を見上げ、胸一杯に息を吸い込むと、無意識にほんの少しだけ口もとを緩める。心の中にはまだ不安が色濃く残っていたが、それでも、これからやっていけるかもしれないというひとかけらの希望だけは見出せた気がしていた。