遠くの光に踵を上げて

初めての教壇

 アンジェリカは軽い足どりでアカデミーの階段を駆け上がった。三階に到着すると、隅の部屋の質素な扉を開く。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう」
 サイラス=フェレッティは上の空で挨拶を返した。アンジェリカには目も向けない。鞄に本やノートを詰め込んでいるようだ。そして、焦ったように椅子から立ち上がると、鞄を閉じて肩に掛けた。
「もう授業ですか?」
 アンジェリカは不思議そうに尋ねた。始業まではまだ30分くらいある。教室に向かうには早すぎるような気がした。鞄を持っているのも普通ではない。
 サイラスはにっこり笑った。
「研究所へ行ってくるよ。いいことをひらめいたんだ。今すぐに形にしておかないと」
「今すぐって、先生! 授業はどうするんですか?!」
 アンジェリカはサイラスに駆け寄り、慌てながら少し責めるように尋ねた。しかし、彼は事も無げに言う。
「君、やっておいて」
「ええっ?!」
「テキトーでいいよ。じゃあね」
 サイラスはひらひらと右手を振って、アンジェリカの横をすり抜けて部屋を出て行った。
「ちょっと、先生!」
 アンジェリカは部屋から顔を出して叫んだ。だが、サイラスの姿はもう見当たらなかった。軽やかに階段を駆け下りる音だけが、虚しく耳に届いた。

 アンジェリカがアカデミーを卒業してから一ヶ月が過ぎていた。
 今はアカデミーの魔導科担任であるサイラスの手伝いをしている。サイラスは魔導科学技術研究所に勤務している研究者だが、アカデミーからの要請で、4年間、教師を兼務することになった。研究の方も平行して進めているため、アカデミーの方にあまり時間をとられるのは困る――という事情もあり、サイファの勧めでアンジェリカを雇うことになったのだ。アンジェリカの仕事は、主に試験問題や課題の作成、採点などで、授業に顔を出すことはない――はずだった。
「適当でいいよ、なんて言われても……」
 アンジェリカは困惑したように呟いた。代理で授業を頼まれるなど、思ってもみなかった。それも、あまりにも唐突である。準備をする時間などほとんどない。溜息をつきながら椅子に座り、鞄から教本を出すと、パラパラとページを捲った。

 始業のチャイムから少し遅れて、アンジェリカは教室へ向かった。四年間、自分が生徒として通った場所である。まさか逆の立場で行くことになるとは想像もしなかった。
 ガラガラ――と引き戸を開け、背筋を伸ばして教壇に向かって歩いていく。教室はうるさいくらいにざわついていた。
「お嬢ちゃん、迷子?」
 生徒のひとりが声を掛けた。
 アンジェリカは、自分には高すぎる教壇に教本を置き、睨むような真剣な眼差しでまっすぐに前方を見据えた。
「フェレッティ先生の代理で来たアンジェリカ=ナール=ラグランジェです。今日は都合により先生がお休みしますので、代わりに私が授業を進めます」
 よく通る声を教室に響かせる。水を打ったようにしんと静まり返った。
「……それ何の冗談?」
 一番前にいた生徒がぽつりと言った。
「冗談なんかじゃないわ。第3章からよね。開いて」
 アンジェリカはそう言って、自分の教本を開く。
「ねぇ、今、ラグランジェって……」
「あの魔導の名家だよね?」
「確かアレだよ、史上最年少でアカデミーを卒業した天才少女」
「ふーん、あの子が……」
 あちらこちらからそんな声が聞こえてきた。気にしないようにしよう、とアンジェリカは自分に言い聞かせる。
「せんせーい。先生の姿、教壇に隠れてほとんど見えないんですけどー」
 不意に、短い黒髪の男子が手を上げ、間延びした声で言った。からかっているような、バカにしているような口調である。他の生徒が何人かどっと笑った。
「声が聞こえれば十分でしょう?」
 アンジェリカは彼を睨んで言い返す。そして、それ以上、彼を構うことなく授業を始めた。
 教本を読み、解説し、必要な箇所で板書をする――それは、ラウルの進め方と似ていた。アカデミー以外の学校に通ったことのないアンジェリカは、ラウルの授業しか知らないのだ。自然とその形になってしまうのは当然のことだろう。
「せんせーい、どうして黒板の上半分使わないんですかー? 見づらいんですけどー」
 先ほどの男子が、また同じような口調でからかってきた。どっと笑いが起こる。
「悪いけれど我慢して」
 アンジェリカは冷静に言って、板書を続けようとする。
 だが、彼は気だるそうに頬杖をつき、しつこく絡んできた。
「先生、脚立でも持ってきましょうか」
「結構よ」
「先生、肩車やってあげましょうか」
「結構よ」
「じゃあ……」
「もうっ、うるさいっ!」
 アンジェリカは振り返りざまにチョークを投げた。それは、彼の額に見事にヒットし、跳ね返って床に落ちた。軽い音がして、ほぼ中央から半分に折れる。
「何するんだ!」
 彼は顔をしかめて額を押さえ、キッとアンジェリカを睨みつけた。
「深窓の令嬢がチョーク投げていいのかよ!」
「深窓の令嬢がチョークを投げちゃいけないなんて規則はないわ」
 アンジェリカは、極力、感情を抑えて言い返す。まっすぐに彼のもとへ歩いていき、折れたチョークを両方とも拾い上げる。
「気に入らないなら出て行ってもいいけれど、ここにいるなら邪魔だけはしないで」
 教室は再び静かになった。彼は不服そうに口を曲げ、ふてくされたような顔を見せていたが、何も言わなかった。
「じゃあ、続けるわね」
 アンジェリカは教壇に戻り、短くなったチョークで板書を続けた。

 ――ガラガラ。
 順調に授業を続けていたところで、不意に後ろの引き戸が遠慮がちに開いた。アンジェリカは解説を中断し、そちらに目を向ける。
「ジーク?!」
 それを認識するなり、思わず大きな声を上げた。目を見開き、ぱちくりと瞬きをする。
「あ、やっぱりアンジェリカだったのか。何やってんだ?」
 盗み見るようにそっと顔を覗かせたジークは、ほっとしたように言った。肩の部分しか見えていないが、どうやら魔導省の制服を着ているらしい。
「ジークこそ、どうしてここに……」
「この近くを通りかかったら、おまえの声が聞こえてきたもんだからさ」
 ジークは軽く笑いながら言う。
「だからって……」
 アンジェリカはそこまで言いかけて言葉を切った。生徒たちの興味深げな視線に気づき、今が授業中であることを思い出したのだ。ジークと話などしている場合ではない。表情を引き締め、感情を隠した声で言う。
「あの、いま授業中だから」
「え? 授業って? あ……悪かった」
 ジークは教室を見渡し、ようやく状況を把握したようだ。少し慌てた様子でそう言うと、静かに扉を閉めて出て行った。
 アンジェリカはふうと細く溜息をついた。
「じゃあ、続けるわね」
 少し疲れた声でそう言い、教本に目を落として解説を続けた。

 ――キーン、コーン。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。アンジェリカは教本をパンと両手で閉じる。
「それでは、午前中はここまで。何か質問があったら聞きに来て」
 彼女がそう言うと、教室が急に賑やかになった。椅子を引く音が重なり合う。
「疲れた……」
 アンジェリカは倒れるように教壇に突っ伏した。頭を横にし、はぁ、と大きく溜息をつく。
「せんせーい!」
 後ろの扉から生徒が顔を覗かせて呼びかける。授業中に反抗していたのとは別の男子生徒だ。
「何? 質問?」
 アンジェリカは跳ねるように顔を上げた。
 生徒は廊下を指差して言う。
「人が死んでますけど」
「えぇっ?!」

 数人の生徒たちに囲まれたその「死体」は、壁にもたれながら足を投げ出して座り、気持ち良さそうに寝息を立てていた。口はだらしなく開いている。よだれを垂らしていないのが、せめてもの救いだ。
「……ジーク」
 アンジェリカは腕を組み、低い声で名前を呼んだ。だが、まったく起きる気配はない。
「ジーク! 起きて!!」
 もう一度、音量を上げて呼んでみる。
 今度は反応があった。重そうに目蓋を開き、開ききっていない目でぼんやりとまわりを見まわす。
「ん? あれ? ああ、いつのまにか寝ちまったのか……」
 ジークはひとり納得したように呟いた。
「こんなところで何をやっているの?」
 アンジェリカは腕組みをしたまま、ジークを白い目で見下ろして尋ねる。
「お昼、一緒にどうかなと思って、おまえを待ってたんだけど……」
 ジークは頭に手をやり、きまり悪そうな笑いを浮かべる。
「仕事は?」
「今日は夜勤明けなんだ。だから眠くてな」
「だったら帰って寝た方がいいんじゃない?」
 アンジェリカは素っ気なく言う。
「せっかく待ってたんだからそんなこと言うなよ。行こうぜ、お昼」
 ジークは立ち上がって親指で食堂の方を指差した。
「まったく……」
 アンジェリカは呆れたようにそう言うと、大きく息をついた。

 ジークとアンジェリカはアカデミーの食堂に向かった。いちばん近い、というだけの理由である。王宮内ならば静かな店や美味しい店もあるが、ふたりともそれほどこだわりはなかった。
「あー、なんかすげぇ懐かしい気がする」
 食堂に入るなり、ジークはあたりをぐるりと見回しながら感嘆の声を上げた。
「大袈裟ね。まだ卒業してから一ヶ月じゃない」
 アンジェリカはくすくす笑って言った。

 ふたりは窓際に席をとった。全面の大きなガラス窓から眩しいくらいの光が射し込んでいる。
「おまえどうして授業なんてやってたんだ? テストや課題を作ったり採点したりするだけじゃなかったのか?」
 ジークはパンを頬張りながら尋ねた。
 アンジェリカはスプーンを持つ手を止めて答える。
「先生がね、何かひらめいたらしくって、急に研究所に行っちゃったのよ。適当に授業やってとか言い残して」
「それ、むちゃくちゃじゃねぇか?」
 ジークは眉をひそめた。
「でしょう?」
 アンジェリカも眉をひそめて言う。
「確かにお父さんの言うとおり『いい人』なんだけど、研究バカっていうか、研究のことを考え出すと周りが見えなくなるみたい」
 フォークでざくざくとサラダのレタスを突き刺して口に運ぶ。
「おまえもけっこう大変なんだな……」
 ジークは同情するように呟いた。

 昼食後、ふたりは外を散歩した。人通りの少ない小径を並んで歩く。上の方で木々が風に揺れ、大きくざわめいた。
「ジークと一緒に過ごせて良かった」
 アンジェリカは唐突に言った。後ろで手を組み、背筋を伸ばして青空を仰ぐ。
「え?」
 ジークは振り向いて聞き返す。
「思いのほか授業って大変で……反抗する生徒もいたりして、心が荒みかけていたの。ジークに会って話をして、少し落ち着いたわ。午後からまた頑張れそう」
 アンジェリカは彼に振り向き、にっこりと微笑みかける。
「ありがとう、待っていてくれて」
「いや、俺が一緒にいたかっただけだしな」
 ジークは照れくさそうに、少し頬を赤らめて言った。
 アンジェリカはくすりと笑う。
「でも、恥ずかしいから廊下で寝るのはやめてね」
「ああ……」
 ジークは顔をうつむけ、ますます頬を赤らめた。頭に手をやり、僅かに前髪を掻き揚げる。
 アンジェリカは腕時計に目を落とした。昼休みは残り10分ほどだった。
「そろそろ行かなくちゃ」
「ああ、頑張れよ」
 ジークの何気ない言葉が嬉しくて、アンジェリカは顔を上げにっこりと笑った。不意に踵を上げて、ジークに軽くキスをする。
「……おまえ、あのな……」
 ジークの顔は真っ赤だった。口もとに手をやりながら、眉をひそめてアンジェリカを睨む。
「なあに?」
 アンジェリカはとぼけたように言うと、ちょこんと首を傾げて見せた。
「ここではちょっとマズイだろ。知り合いが大勢いるんだぞ」
「お父さんとか?」
 悪戯っぽく尋ねかけると、ジークの顔からさっと血の気が引いた。
「それがいちばん恐ろしいけど……他にも、仕事の同僚とかな……」
「私は見られても困らないけれど、ジークは嫌なの?」
「嫌ってわけじゃないけど……いろいろあるんだよ」
 そのとき、ジークの後頭部に何かが直撃した。
「イテッ!!」
 彼を襲った何かが、草の上に落ちて鈍く弾んだ。それは、靴の片方だった。こんなものが勝手に飛んでくるはずがない。子供なら遊んでいただけとも考えられるが、これは大人のサイズだ。悪意を持って故意に狙ったとしか考えられない。
「まさか、サイファさん……? 俺、殺される?!」
「ジーク、落ち着いて! お父さんがこんな靴を履くわけないでしょう?」
 アンジェリカは裏返しになっていたその靴をつまんで拾い上げ、ジークの目の前に突きつけた。
「スニーカー……」
 ジークも納得したようだった。スニーカー、それもこんな薄汚れたものを、サイファが王宮内で履くはずがない。
「だいたいお父さんだったら、こんなつまらない方法はとらないわ。もっと、精神的に追いつめるようなやり方を選ぶんじゃない?」
「た、確かに……」
 ジークはこわばった顔とこわばった声で同意した。精神的に追いつめられている自分を想像しているのかもしれない。
「じゃあ、いったい誰が……」
「私の教え子」
 アンジェリカはさらりと答えた。
「えっ?」
「さっき逃げていくのがちらっと見えたから、多分ね」
 靴が飛んできたとき、その方向に目を向けたら、そそくさと逃げていく横顔が見えた。それは、間違いなく、授業中に何度も反抗してきた例の生徒だった。
「じゃあ、なんでおまえじゃなくて俺なんだよ」
「さあ、狙いが外れたのかしら」
 ジークの不満そうな疑問に、アンジェリカも首を傾げた。
「ったく、何だよ最近のガキは。つまんねぇ反抗しやがって」
「入学早々、担任に反抗して魔導を放って、逆にやられちゃったのは誰だったかしら」
「うっ……」
 ジークは返す言葉を失った。
 それを見て、アンジェリカはくすくすと笑った。
「それじゃあ、私はもう行くわね」
「ああ……気をつけろよ? 手に負えなくなったら誰かに言えよ?」
 ジークは本当に心配そうに気遣った。
「ありがとう」
 アンジェリカは靴を片手に持ったまま、もう片方の手を大きく振った。

 午後の授業が始まるまであと5分。
 アンジェリカは準備を整えるため、駆け足で教師部屋に戻ろうとしていた。
 そのとき、大きな木の幹にもたれかかり、うなだれている例の生徒が目に入った。案の定、足の片方は靴下のみである。あんな悪戯をしたわりには、浮かない顔をして溜息をついている。
「靴、あなたのでしょう?」
 アンジェリカは背後から近づき、顔の横に薄汚れたスニーカーを差し出して言った。
 彼は弾かれたように木の幹から離れて振り返った。まるで敵に対峙したかのように大袈裟に身構えている。彼の顔に浮かんでいるのは、怒りとも恐怖ともつかない、どこか戸惑ったような複雑な表情だった。
「要らないの?」
「……要る」
 彼は警戒しながら差し出されたままの靴に近づくと、さっと素早く奪い取った。逃げるように何歩か後ずさりする。そして、汚れた靴下も気にせず、それを足に履かせた。
「ねぇ、どうしてこういうことをしたの? チョークの恨み?」
 アンジェリカは数歩踏み込んで近づくと、彼を下から覗き込んで尋ねる。靴を投げつけた現場は、人通りの少ない場所だ。偶然に居合わせたわけではなく、おそらくずっとつけてきていたのだろう。そこまでするのには、何か理由があるはずだと思った。
「でも、その前の授業中から、ずっと突っかかってきてたわよね」
 逃げる彼の目を追いかける。
「私とあなたは今日が初対面だと思うけれど」
 彼はうつむいたまま何も答えない。
 だが、アンジェリカはさらに質問を続ける。質問というより、推測に近かった。
「もしかしてラグランジェ家に恨みでもあるの?」
「そうじゃない」
 彼はようやく口を開いた。だが、まだ視線は逸らせたままである。
「私が何かいけないことをしたの?」
「……違う」
「じゃあ、いったい何なの?」
 アンジェリカの追及は厳しかった。彼は観念したかのように溜息をついて口を開く。
「……俺、ずっと、憧れてたんだ」
「え?」
「最年少でアカデミーに合格したって話題になってた天才少女にさ」
 少し顔を赤らめてそう言うと、横を向く。
「俺がアカデミーを目指したのも、その天才少女の影響だった。なのに……」
 そこでいったん言葉を切り、眉をひそめて唇を噛んだ。
「いきなりやってきた天才少女は、俺の憧れの理想像をことごとく壊しやがった。やたらきついし、怒ってるし、睨みつけるし、チョークなんか投げるし、おまけに廊下で眠りこけるような変な男といちゃついてるし……何か腹が立って仕方なかったんだよ」
「うーん、確かにその通りなんだけど……」
 アンジェリカは苦笑しながら肩をすくめた。
「自分の作り上げた理想像と違うから相手を攻撃するって……それって随分と身勝手な話じゃない?」
「……わかってる」
 彼は、ぼそりとぶっきらぼうに言った。そのときの表情が、よく見るジークのそれと似ていて、アンジェリカは急に可笑しくなって吹き出しそうになった。だが、口もとを抑えてそれを我慢する。
「わかってるんだったらいいけど」
 澄ました口調でそう答えると、顔を上げてにっこりと微笑んで見せた。
 彼の頬はますます赤みを増した。

 ――キーン、コーン。
 チャイムの音が青い空に拡散する。
「始まっちゃったわね」
 アンジェリカが空を仰いで言うと、彼は無言で小さく頷いた。
「少しだけでも準備しておきたかったんだけど……」
 眉をひそめ、困惑したように呟く。突然サイラスに授業を押しつけられたので、準備などまったくしていない。どこからかさえよくわかっていない状況だ。サイラスのノートを探してどのように、どこまで進めたかを確認するつもりだった。10分あればなんとかなるかもしれない。少しくらいなら遅れてもいいかと考える。だがそのとき、急にいいことをひらめき、顔をぱっと輝かせて手を打った。
「そうだ、午後からはテストにしよう。ちょうどきのう作ったものがあったわ」
「きのう作った……?」
 彼は不思議そうに尋ねた。
 アンジェリカはにっこりと笑って答える。
「そうよ、私が作ったの。今まであなたたちがやってきたテストや課題も、ほとんど私が作っていたのよ。知らなかったと思うけれど」
「うそ……」
 彼は呆然と言う。その反応が楽しくて、アンジェリカは追い打ちをかけるように付け加える。
「採点も私がやっているわ」
「なんでそんなことを……?」
「先生は研究で忙しいから、私がお手伝いしているの」
「お手伝い?」
 彼は混乱したように尋ね返した。
「えっと、言い方が悪かったかしら。ちゃんと正式に雇われているわよ。助手みたいなものね」
 アンジェリカは両手を腰に当て、少し胸を張った。
「今回のテストはちょっと歯応えがあるかもしれないわよ?」
「うわ、マジで?」
 彼はいかにも学生らしい反応を示した。そのことにアンジェリカは安堵し、くすっと笑った。
「早く戻って少しだけでも勉強したら?」
「テストって、何のテスト? 範囲は?」
「内緒」
 アンジェリカは口もとに立てた人差し指を当てる。そして、上目遣いで悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「それをあなただけに教えたら不公平でしょう?」
 彼の頬がまた赤くなった。軽く握った手を口もとに当ててうつむいた。

「ただいまー」
 アンジェリカがテストの採点をしていると、サイラスが呑気な挨拶とともに教師部屋に帰ってきた。もう外は真っ暗である。
「どうだったの? 研究の方」
 アンジェリカは赤ペンを掲げて尋ねた。
「おかげさまで、忘れないうちに書き留めることができたよ。実証はこれからだけどね」
 サイラスは少し疲れた表情ながらも、無邪気なくらいに嬉しそうに答えた。アカデミーの仕事をしているときとは大違いである。本当に研究が好きなのだと思い知らされる。
「午後からテストにしたわよ」
「ありがとう、本当に助かった」
「先生、採点、手伝ってくださいね」
 アンジェリカは口をとがらせ、少し怒った表情を作って言う。
「ああ、そうだね」
 サイラスは鞄を下ろしながら、アンジェリカの前に座った。残りの解答用紙の半分を受け取り、ペン立てから赤ペンを取り出した。

「これ、君、心当たりある?」
 サイラスはふと手を止めてそう言うと、赤ペンの背で頭を掻く。
「欄外に何かメッセージみたいなものが書いてあるんだけど」
「メッセージ?」
 アンジェリカは怪訝な表情を浮かべながら、サイラスに差し出された解答用紙を受け取った。

 今日はすみませんでした。
 ありがとうございました。

 それは、欄外に小さな文字で書かれていた。
 アンジェリカはくすっと笑った。彼の名前は聞いていなかったので、名前を見てもわからないが、きっと彼が書いたものだろうと確信した。
「ね、お返事書いてもいいかしら?」
「どうぞ」
 サイラスはにこやかに言った。
「何かあったの?」
「うーん、内緒です」
 アンジェリカはそう言ってくすりと笑った。
「先生ってお仕事も悪くないかも」
「そう、じゃあこれからもときどき君に任せようかな」
 サイラスは軽く笑って言った。
「先生?」
 アンジェリカは片眉をひそめて睨んだ。まるで反省の色が見えない。これから先が思いやられる。だが、ときどきならいいかも――と少し思ってしまっている自分に気づき、苦笑しながら頬杖をついた。