遠くの光に踵を上げて

一ヶ月 - Yulebell's eye

 広くはないベッドで、ユールベルはラウルに身を寄せるようにして眠った。ラウルがそうしろといったわけではない。彼女が勝手にそうしたのだ。だが、拒絶はされなかった。だから、許されたのだと解釈した。
 初めてだった。こんなにも安らかに眠れたのは。彼の体温が心地よかった。包まれているように感じた。守られているように感じた。大嫌いなひと、だったはずなのに。
 ラウルの体に触れてみる。リアルな感触、リアルな温もり。息遣いまで伝わってくる。このひとは生きている――そんな当たり前のことを、初めて知ったような気がした。
 ユールベルは体を起こす。急に不安になった。ラウルは目を覚ましていたが、彼女の方は見ていない。彼の大きな手をとり、自分の胸に当てた。
「私、生きているの?」
「当たり前だ」
 彼女に目を向けることなく、ラウルは素っ気なく返事をした。
「ラウル」
 ユールベルは上からラウルを覗き込んだ。彼の視界を遮ったはずなのに、彼はやはり彼女を見ていない。ずっと遠く、あるいは自分自身の内面を見ている。
 身をかがめ、そっと口付ける。
 そのとき初めて、遠い世界から彼が帰ってきた。醒めた目で彼女を見る。何の感情も感じられない冷たい瞳。だが、彼女は自分に目を向けてくれただけで嬉しかった。

 そうして、ふたりの生活が始まった。

 ラウルは当然のように家事の一切をこなした。食事も、洗濯も、掃除も、彼女に手伝えと言うことはなかった。
 優しいわけではない。態度はいつも素っ気なく冷淡だった。だが、この人は自分に手を上げない、そんな確信が彼女にはあった。なぜだかわからないが、本能的に感じたのだ。だから、そばにいることができた。
 ふたりが打ち解けることはなかった。笑いあうどころか、会話すらほとんどない。ラウルの方がそれを望んでいないようだった。彼女を住まわせているのは、彼女の過去に対して多少の責任を感じてのことで、その責任以上の関わりを避けようとしていたのかもしれない。それとも、彼の本質的なものなのだろうか。
 それでも、テーブルについて、向かい合って食事をする――そんな当たり前の生活が、彼女にとっては必要なことだったのだろう。慣れないことで困惑もあった。だが、同時に、胸の奥にほんのりとあたたかさも感じていた。

 朝が来ないでほしい。

 そう思うようになるまで時間はかからなかった。朝が来れば、ラウルはアカデミーへ行ってしまう。アカデミーのない日は医務室へ出る。自分ひとりだけが残される。そこにあるのは、あの頃と変わらない孤独だけ。
 朝が来なければずっとこの温もりの中にいられる。そして、別れの日がくることもない。
 ここにいられるのは一ヶ月という約束だった。その後は寮に入ることになっている。
 だが、彼女は納得しているわけではなかった。知らないところへ放り込まれることが怖かった。何より、ここを離れたくなかった。もうひとりで眠るのは嫌だった。
 アカデミーに対する未練はない。ずっとここにいられるのなら喜んで退学する。入学を望んだ理由も、アンジェリカがいたから、ただそれだけだった。それで何をしたかったのか自分にもわからない。アカデミーや勉学に興味があったわけではないということだけは、はっきりとわかる。
 だが、ラウルはそれを許さなかった。
「迷惑だ。私には私の都合がある」
 そんな冷たい言葉を返すだけだった。

 わかっていた。頼んでも無駄だということくらい。それでも、わずかな希望に縋りたかったのだ。

 約束の一ヶ月まであと数日を残すだけになった。
 ラウルはいつものように朝食を作り、食べ、後片付けをし、アカデミーへ行く。
 ユールベルはいつものように、ひとり残される。
 出るなと言われたことはない。閉じ込められているわけでもない。彼女自身の意思で閉じこもっていた。外の世界が怖かったのだ。
 だが、その日は少しだけ外の空気が吸いたくなった。寝室の窓を開け、その窓枠に腰掛けた。裸の足は、外に宙ぶらりんになっている。少しバランスを崩せば、外に転落してしまう状態だ。真下を見下ろしてみる。それほど高くはない。落ちたら死んでしまうかもしれないし、死ねないかもしれない。もう少し高ければ良かったのに、と彼女は思う。
 空を見上げ、大きく息を吸い込んでみる。膨張した肺が、少しだけ苦しくなった。頭がくらくらした。ここで意識を失えば、内か外か、どちらに倒れるだろうか。
 遠くで人の声が聞こえた。
 ユールベルははっと我にかえった。慌てて部屋に戻り、窓を閉める。
 何をやっているのだろう。
 自分の半端さ加減に、たまらなく嫌悪感を覚えた。

 暗澹とした気持ちで寝室を出た。こじんまりとしたダイニングキッチンで、こじんまりとしたダイニングテーブルにうつぶせになる。
 ラウルが戻ってくる正午まで、まだ一時間以上ある。今日もこうして無意味に待つだけ。淀んだ思考を掻きまわすだけ。
 自分はなぜ生きているのだろうかと考える。死ねないから生きている、ただそれだけ。ラウルが自分を生かそうとするのは、医者としての義務、ただそれだけ。
 ――何も望んでいない、何も望まれていない。
 空っぽなはずの心が疼いた。
 そう、何も望んでいないなんて嘘だった。ズキリとした胸の鈍痛に、そのことを思い知らされる。それは、ささやかだが、決して叶わないこと。だから、忘れてしまいたかった。
 ――でも、もし少しでも役に立てるのだとしたら、もしかしたら……。
 往生際の悪い思考が、頭をもたげた。そして、そのことが、彼女に真摯で幼稚な行動をとらせた。
 ほんの思いつきだった。
 何も出来ないわけではないということを、自分に対して証明したかったのだろう。それで、彼に認めてもらえるなどとは思っていない。たが、それでも、淡い期待を捨てきれずにいたのは事実で、そのことが彼女を突き動かす大きな要因となっていた。
 いつも彼がそうするのをじっと見ていたので、だいたいの手順はわかるつもりだった。台所の流し台の下から大きな鍋を取り出し、水を張る。それを、重さでふらふらになりながらガスコンロに置き、何度もつまみを捻り、ようやく火をつける。
 火がついたのを確認すると、隣の小さめの冷蔵庫を開けた。顔を近づけ、中を覗き込む。しばらく考え込んで、扉を閉めた。
 今度はガスコンロの上方の戸棚に手を伸ばす。だが、指先さえ届かない。椅子を引きずってきて、ふもとに置いた。その上に立ち、再び手を伸ばす。今度は届いた。扉を開く。
 だが、中はよく見えなかった。戸棚に手を掛け、爪先立ちになる。
 ――もう少し……。
 そのとき、下から妙な匂いがした。手を伸ばしたまま、視線を落とす。
「えっ?!」
 彼女は思わず声を上げた。目に入ったのは、ちりちりと燃える白いワンピースの裾。コンロの火が燃え移ったらしい。はっと息を呑み、反射的に後ずさった。そこが椅子の上であることなど、すっかり忘れていた。

 ラウルは午前の授業を終え、自室へ向かっていた。
 アカデミーから近いこともあり、もともと昼食は自室でとることが多かったが、ユールベルが来てからは必ず戻るようにしていた。彼女にきちんと食べさせなければならないからだ。

 医務室に入り、その奥の扉に手を掛ける。そこが、彼の部屋への入口だ。ドアノブをまわし、開こうとする。そのとき――。
 ドタン! ガタン!
 何か重いものが打ちつけられたような音がした。
 ラウルは勢いよく扉を開け、中へ飛び込んだ。
 微かな異臭が鼻をついた。ぐるりとあたりを見回す。コンロに火がついたままだった。その下に視線を滑らせる。一部はテーブルの陰になっていたが、よく見ると、倒れた椅子と倒れたユールベルが見えた。水浸しになっている。いや、水ではなく湯だろう。微かに白い煙が上がっている。彼女の隣には空っぽの鍋が転がっていた。
 ラウルは火を止め、意識をなくした彼女を抱き上げると、急いで浴室へ連れて行った。シャワーで冷水を浴びせながら、着ているものを脱がず。そのとき、ワンピースの裾が少し焦げていることに気がついた。
 彼女の体を調べたが、脚と手に軽い火傷を負っているだけだった。おそらく、かぶった湯は、それほど熱いものではなかったのだろう。手の火傷は、熱した鍋が当たったことが原因と思われた。脚の方は、ワンピースが燃えたときのものだろう。幸か不幸か、鍋の湯をかぶることで火が消えたに違いない。
 意識を失っているのは、軽い脳震盪を起こしたためと思われる。もしかしたら、精神的なショックも影響しているのかもしれない。
 ラウルはシャワーを止めた。ため息をついて立ち上がる。自分もずぶ濡れになった。服からは水が滴っている。とりあえず、上衣とシャツだけを脱いだ。バスタオルを取ると、彼女の体を包むようにして拭き、寝室へ抱きかかえていった。

 ユールベルはゆっくりと目を覚ました。
 ベッドの中だった。
 ぼんやりと体を起こす。そのとき、自分が何も身に着けていないことに気がついた。髪は生乾きである。枕にタオルがひかれているのは、そのためだろう。
 少しずつ思い出してきた。戸棚の上のものを取ろうとして、ワンピースにコンロの火がつき、慌てたせいで椅子から脚を踏み外し、落ちるときに鍋を引っ掛けて湯をかぶった。
 覚えているのはそこまでだった。
 自分をここへ寝かせたのはラウルだろう。
 時計を見る。彼はまだアカデミーにいる時間だ。
 薄地のネグリジェがハンガーにかけてあった。それだけを無造作に身につけ、寝室を出る。そこには誰もいない――はずだった。
「どうして……?」
 ユールベルは大きく目を見開き、掠れた声で言った。耳を澄まさなければ聞き取れないくらいの声だった。
 彼女の目の前にはラウルがいた。ダイニングテーブルで紙の束を広げ、何かを書き付けている。アカデミーの課題か試験かの採点だろう。ユールベルに気がつくと、無表情な瞳で振り向いた。
「痛むところはあるか」
 感情のない声で尋ねる。
 ユールベルは胸に手を当てた。震える足で、一歩、後ずさる。
「アカデミー、は……?」
「自習にしてある」
 ラウルは素っ気なく答えた。
 ユールベルは、水浸しにした台所が元通りになっていることに気がついた。片付けたのはラウルに違いない。アカデミーへ行かなかったのは、そのためだろうか。
「ご……ごめんなさい、わた、し……」
 顔をこわばらせ、怯えたように後ずさっていく。扉の枠のわずかな段差につまずいた。寝室の床に倒れこむ。ネグリジェの裾がまくれ、白い大腿があらわになった。
 ラウルは無言で立ち上がった。
「ごめんなさい! 許して!!」
 ユールベルは引きつった声で叫んだ。倒れたまま体を丸め、頭を抱え込んでいる。
「私を、追い出さないでっ……」
「約束は守る。一ヶ月だ」
 ラウルは無表情のままで言う。寝室に足を踏み入れ、彼女の隣にしゃがむと、軽々と抱き上げた。
 一瞬、彼女の体は固くこわばった。だが、ラウルの顔を目にすると、縋りつくように、その首に腕をまわした。溢れた涙が幾筋も頬に伝う。
 ラウルは隣のベッドに彼女を降ろし、横たえようとした。だが、彼女はベッドに座り込んだまま、ラウルから腕を離そうとはしなかった。
「寝てろ」
 ラウルは冷たく突き放すように言う。そして、彼女の腕に手を掛け、軽く力を込めた。少しの抵抗はあったが、首に絡まっていた腕はすぐに外れた。
 自由になったラウルは、寝室を出ていった。
 残されたユールベルは、自らを抱きしめるようにして、ベッドの上に泣き崩れた。

 何も訊かれなくてほっとした。だけど、何も訊かれなくて寂しかった。
 訊かなかったのは優しさではない。興味がないのだ。それがわかっていたから、どうしようもなく悲しくてつらかった。
「大きらい……」
 それが、自分を守る唯一の言葉だった。

 最後の夜がやってきた。
 どれほど拒絶しても、時は流れていくことを知った。

 夜が深まった頃、ラウルは明かりの消えた寝室へ入っていった。
 ベッドにはユールベルがいた。背中を丸め、膝を抱えるように横たわっている。
 彼女を起こさないように、ラウルはそっとまたいで奥へと移動し、仰向けに寝ようとした。ベッドがかすかに軋み音を立てる。
「……今晩が最後なの?」
 ユールベルはふいに声を掛けた。目を閉じていたが、ずっと眠ってはいなかった。ラウルが来るのを待っていたのだ。
「ああ、そうだ」
 ラウルは頭の後ろで手を組み、その身をベッドに投げ出した。反動で、ベッドは大きく数回弾んだ。
「私、どうしても寮に入らなければいけないの?」
「もう決めたことだ」
 ユールベルはあきらめたのか、それ以上しつこくは言わなかった。もうすでに何度も尋ねたことだった。答えが変わったことは一度もなかった。迷うことすらなかった。望みがないことはわかっていた。
「一度も、笑わなかったわね」
「互いにな」
「……でも、ありがとう」
 ぽつりと静寂の水面に言葉を落とす。ラウルは何も答えなかった。
「最後にひとつだけ、お願いをしてもいい?」
「おまえの我が侭はもう何も聞かない」
 ラウルは天井を見つめたまま、静かにはねつけた。
「そう……」
 それきりユールベルは口をつぐんだ。

 一睡もできなかった。いや、眠るつもりはなかった。少しでもこの温もりを、この匂いを、長く感じていたかった。覚えておきたかった。
 ラウルは目を閉じている。眠っているのかどうかはわからない。
 ユールベルはおもむろに体を起こし、じっと彼を見つめた。そっと顔に触れる。それでも反応はなかった。今度はそっと口づけを落とす。それでもやはり反応はなかった。目は、開かれなかった。

 翌日、サイファが迎えに来た。この日から、ユールベルはアカデミーの寮へ入ることになっている。
 本当は行きたくなかった。
 だが、行くしかなかった。
 ここにいることは許されないのだから――。
 サイファに泣きついて頼めば、ここにいることはできなくても、入寮は取りやめてもらえたかもしれない。だが、そうすることは、どうしても出来なかった。これ以上、サイファを困らせたくなかった。みっともない姿を見せたくなかった。なぜだか、彼の前ではいい子でいたいという気持ちが働いた。
「行くよ。いいかい?」
 サイファは優しく気遣いながら声を掛けてくれた。
 ユールベルは固い表情で、足を踏み出した。
 後ろにはラウルがいた。自分を見送ってくれているのか、背を向けているのかわからない。知るのが怖かったので、振り返ることが出来なかった。

 医務室を出た。ひと月ぶりだった。
 恐れていた外の世界は、とても平穏だった。だが、すべてが自分とは切り離された世界に思えた。自分に向けられたはずの声も、なぜか遠くに聞こえる。まるでガラス越しのようだった。
 目を閉じ、それからゆっくりと空を見上げる。青い空に白い雲が流れていく。頬に当たる風が、少し冷たかった。