遠くの光に踵を上げて

生活実態調査

「やあ、ラウル」
 軽く右手を上げたサイファが、にこやかな笑顔を振りまきながら、ラウルの医務室にやってきた。左手には青いファイルを抱えている。
 「何の用だ」
 机に向かっていたラウルは、ひと睨みしてから素っ気なく尋ねた。いつもの冷やかしと思い、あまり相手にはしていないようだ。
 それを察したように、サイファはにっこり笑って答える。
「今日は仕事の話だよ」
「さっさと用件を言え」
 ラウルはまわりくどいことが嫌いだった。つまらない前置きをするサイファに、苛立ちながら先を促した。
 サイファは、使用されていないパイプベッドの端に腰を下ろすと、わざとらしくため息をついた。周囲の喧噪が急に落ち着いたためか、そのため息がやけに大きく聞こえた。
「最近、アカデミーの風紀が乱れていると問題になっていてね。それを正す一環として、教師の生活実態調査を行うことになった。おまえの調査担当は私だ」
「保安課のおまえがなぜしゃしゃり出てくる」
 ラウルは机に向かったまま、振り返らずに尋ねた。胡散臭そうに眉をひそめている。
「おまえを推薦したのは私だからな」
 サイファはさらりと答えると、少し非難するような口調で付け加える。
「そもそも、この調査を行うことになったきっかけは、おまえなんだぞ。衆人環視の中で、生徒と濃厚なキスなどするから」
「濃厚というのは事実無根だ」
 ラウルは淡々と反論した。
 サイファは笑いそうになるのをこらえながら、真面目な声で言う。
「そこだけ否定されても意味がないんだよ」
「あれはユールベルが勝手にやったことだ」
「それを拒まなかったおまえに非がある。素直に協力しろ、いいな」
 サイファは高圧的にそう言うと、傍らのファイルを開いた。それに目を落としながら、質問を開始する。
「まずは朝だな。何時起床だ」
「日によって違う」
 ラウルは背を向けたまま、答えになっていない答えを返した。
「何時頃に起きることが多いかを聞いているんだ。6時か? 7時か?」
「6時にしておけ」
「なんだその投げやりな態度は。せめてこちらを向いたらどうだ」
 サイファは冷静な口調で咎めた。
 それでも、ラウルの態度に変化はなかった。ますます無愛想に言い捨てる。
「気に食わないならクビにしろ」
「クビ?」
 サイファはぴくりと眉を動かした。ファイルを置き、おもむろに立ち上がると、ラウルの椅子に手を掛けた。それを強引にぐるりとまわし、自分の方へ体を向かせる。そして、彼の右肩に自分の右腕をのせると、上から覗き込むように、挑戦的な笑みを突きつけた。さらさらの金髪が、ラウルの頬を撫でるように掠める。
「辞めさせはしないさ。アンジェリカの卒業まではね。わかっているだろう?」
 ラウルはムッとした表情を見せただけで、何も言わなかった。
 サイファは反論しないことを答えと受け取った。満足げに微笑むと、再びパイプベッドに腰を下ろした。ファイルを開きながら、ラウルと向き合う格好で質問を続ける。
「次は、と……朝食はどうしている」
「それが風紀と何の関係がある」
 ラウルは腕を組み、眉をひそめてサイファを睨んだ。
 だが、サイファはファイルに目を落としたまま、事も無げに答えた。
「食生活が崩壊していては、思考能力も落ちるからな」
「……主にトーストと紅茶だ」
「野菜不足だな。昼はどうだ」
「サンドイッチ、パスタが多い。サラダも食べている。夜も似たようなものだ」
 ラウルは面倒くさそうに言った。本当はもっと様々なものを作っているが、大雑把な答えしか返さなかった。この厄介な調査をさっさと終わらせたかったのだ。
 サイファはファイルに目を落とし、少し考えながら口を開いた。
「全体的に栄養が偏っているぞ。よし、明日から一週間、食事の指導をしよう。昼食は私とともにとってもらう」
「断る」
 ラウルは間髪入れずに拒絶した。
 しかし、サイファはそんな彼を見て、ふっ、と小さく笑った。
「おまえにその選択肢はないよ。迎えに来るから逃げるんじゃないぞ」
 その内容とはちぐはぐな妙に優しい口調。ラウルは訝しげにサイファを見た。彼はときどき理解に苦しむような行動を起こす。今回も何かくだらないことを企んでいるに違いない。逃げるなと言われたが、従うつもりはなかった。もっとも、逃げようとしても、いつも先手を打たれているのが実情だが――。
 サイファはファイルに目を落とし、書類を指で辿りながら質問を続けた。
「アカデミーから帰ってきてからはどうしている」
「医者としての仕事、課題のチェック、試験の採点、翌日の授業の準備などだ。そのうえ、おまえの相手までさせられている。私は暇ではない。とっとと終わらせろ」
 ラウルの苛立ちはかなり募っていた。傍目にもありありとわかるくらいだった。
 だが、サイファはまるで意に介することなく、淡々と自分のペースで質問を続ける。
「自由な時間はどう使っている」
「そんなものはない」
「少しくらいはあるだろう」
「ない」
 ラウルはむきになって否定した。
「人には言えないようなことをしているということか」
 サイファは意地悪く尋ねた。
 ラウルは眉根を寄せた。ここで言い返しては負けだと思った。サイファはそれを狙って挑発しているのである。彼のいつものやり口だ。わかっていてそれに乗るほど愚かではない。
「……どうでもいい。勝手に解釈しろ」
「それでは調査にならないんだがな。まあいいか」
 サイファは意外とあっさり引き下がった。
「では次、入浴についてだ。どのくらいの頻度で風呂に入る?」
「シャワーは毎日だが、湯船につかることはない」
「たまにでもないのか?」
「ない」
「それはもったいない。湯船につかると疲れがよくとれるぞ」
「おまえさえいなければ、疲れることもない」
 ラウルは辛辣な皮肉で応じた。だが、サイファは動じることなく切り返す。
「ならば、ますます湯船につかることを覚えてもらわなければならないな」
 そう言うと、ニッと口の端を上げた。
「よし、今度うちに来い。湯船につかる楽しさを教えてやろう。うちの風呂は広いぞ」
「断る!」
 ラウルは力いっぱいに拒絶した。
「そう警戒するな。一緒に入ろうとは言ってないよ」
 サイファは軽く笑いながら言った。
 ラウルは激しい疲労感に襲われた。口でサイファに敵うわけはないのだ。こういうろくでもないからかいは、いちいち相手にしないのが最良の対処だ。
「では、洗う順序を聞かせてもらおうか」
 サイファは、ラウルが黙りこくったのを見ると、涼しい顔で次の質問に移った。
「意味がわからんな」
「体を洗う順序だよ。頭から洗うのか、顔から洗うのか、足から洗うのか、と」
 ラウルは思いきり怪訝な表情で、目の前の男をじとりと睨んだ。
「……それが風紀となんの関係がある」
「何を言う。こういうことを些細なことといって馬鹿にする、そこから風紀の乱れが始まるんだぞ」
 サイファは左手を広げ、滅多にないほどの真剣な表情で熱く力説した。
 コンコン――。
 小さなノックの後、遠慮がちに扉が開いた。朱く色づいた夕刻の光が、さっと帯のように伸びる。そこから、緋色の瞳をした若い青年が、おずおずと顔を覗かせた。彼は、サイファと同じ濃青色の制服を身に着けていた。
「サイファさん、そろそろ会議の時間ですけど」
「ああ、わかった」
 サイファは落ち着いた声で答えると、ファイルを脇に抱えて立ち上がった。
「じゃあな」
 軽い笑顔で軽く右手を上げ、仏頂面のラウルに一方的に別れを告げた。そして、颯爽と戸口まで歩いていくと、そこで足を止め、顔だけちらりと振り返った。涼やかな目元から視線を流し、意味ありげにフッと笑みを漏らす。
「楽しかったよ、ラウル。いい時間つぶしになった」
 その一言で、ラウルはすべてを理解した。眉根を寄せ、顔を上げると、険しい目つきで言葉の主を睨みつける。初めから何かおかしいとは思っていたのだ。腹の底から低い声を絞り出す。
「……念のため確認するが、生活実態調査というのはすべて嘘だったんだな」
「約束どおり昼食はおごるよ。希望ならお風呂もつけよう」
 サイファは罪悪感の欠片もない様子で、しれっとして言った。
 ラウルは凄まじい形相で椅子から立ち上がった。焦茶色の長髪を揺らしながら、大きな足取りでサイファに歩み寄ると、彼の背中を思いきり蹴りつけ、廊下へ弾き飛ばした。そして、倒れこんだ彼を、凍りつくような眼差しで睨めつけ、無言のまま勢いよくガシャンと扉を閉めた。それと同時に、ガチャリと鍵をかける音も聞こえた。
「あいつ、本気で蹴ったな。まったく、ラウルをからかうのは命懸けだよ」
 サイファは軽く顔をしかめ、苦笑いしながら言った。彼の背中には、くっきりと大きな靴跡がついていた。
「そんなつまらないことに命を懸けないでくださいよ」
 緋色の瞳の青年は、サイファの背中の靴跡をはらいながら、少し呆れたようにたしなめた。
「つまらなくはないよ、私にとってはね」
 サイファはそう言って小さく笑うと、いまだ不思議そうな顔をした部下とともに、会議室へ向かって歩き出した。その背中には、まだうっすらと白い靴跡が残っていた。