遠くの光に踵を上げて

最初で最後の約束

「意固地になってないで、考えてくれませんか? 結婚のこと」
「嫌よ、絶対にイヤ!」
 アルティナは腕を組み、つんと顔をそむけた。それでもサイファは困った様子も見せず、にこにこと微笑んでいた。

 ここはアルティナの母親のフェイが開いている酒場である。アルティナもここで母親を手伝っている。看板娘と言ってもいい。小さく目立たないところにある酒場だが、それゆえ王宮関係者の隠れ家的な存在となっていた。役人たちに紛れ、王子もたびたびお忍びで訪れていた。彼はアルティナを気に入り、先日求婚したが、彼女は取り付く島もなくきっぱりと断った。それで、王子ともアルティナとも親しいサイファが説得にやってきたのだ。

「どうしてそんなに嫌なんですか?」
 サイファは穏やかに尋ねた。アルティナは頑なな態度をいくぶん軟化させ、腕組みをしたまま淡々と答えた。
「そりゃあの王子サマのことは嫌いじゃないけど、結婚するほど好きでもないし」
「嫌いじゃないならそれでいいじゃないですか。王族ともなればいい暮らしができますよ。お母さんにも楽させてあげられますし」
「私のことを説得材料に使うのはやめてくれる?」
 横から母親のフェイが、気だるそうに口を挟んだ。
「娘は娘、私は私。娘が王子様と結婚しようと、そのおこぼれに預かろうなんて思ってない。私は変わらずここでこうやって生きてくわ」
 そう言いながら、サイファの前にバーボンのロックを差し出した。
「わかりました」
 サイファはそう返事をして、アルティナに向き直った。
「では、アルティナさん。お母さんのことは置いておいて、どうです? いい暮らしができますし、様々な特権もありますよ」
「そんなの興味ない。自由のない窮屈な暮らしなんて私の性分に合わないわ」
 アルティナはそっけなく答えた。
「ある程度の行動は制限されますが、自由がないわけではないですよ」
「行動を制限されるのが嫌なの」
「王妃になれば規則も変えることができるかもしれません。その気になれば、国を変えることだってできますよ。アルティナさん、いつもこの国は間違ってるって言ってましたよね」
 サイファはグラスを片手にニッと笑った。アルティナはむっとして眉を吊り上げた。
「私はアンタと違って偉くなんてなりたくないの。アンタはそればっかりよね。だいたい私を説得に来てるのだって、出世のための点数稼ぎってところでしょう」
「そうですよ」
 サイファがあまりにあっさりと認めたので、アルティナは肩透かしをくらったように感じた。しかし、負けじと不敵な笑みを浮かべ、挑むように言った。
「みんなにこのことをばらしたらどうなるかしら」
「好きにしてください。あなたが触れ回らなくても、誰でもわかっていることですから」
 アルティナはぽかんとした。そして、悔しそうにサイファを睨んだ。
「重要なのは動機ではなく結果なんですよ」
 サイファはにっこり笑って言った。
 アルティナは腕を組み、何とか彼にあきらめさせる方策はないものかと考え込んだ。
「たとえ私が承知したところで、あちらさんが許さないんじゃないの? 場末の酒場の娘、しかも父親が誰かさえわからないような、どこの馬の骨とも知れない女なんて」
「場末で悪かったね」
 フェイが横でぼそりと言った。
「そちらの心配はご無用です。あなたを説得するよりは簡単ですから。それに、どこの馬の骨ってことはないんじゃないですか」
「え?」
「あなたの父親は高い地位にいる方だという噂を聞いたことがありますが」
 サイファはアルティナにそう言いながら、意味ありげな視線をフェイに流した。フェイはかすかに眉をひそめた。
「へぇ、そうなの? まさかアンタと私がきょうだいなんていうオチだったりして」
 アルティナは茶化すように冗談めいた口調で言った。
「それはいいですね」
 サイファも同調してはははと笑った。
「でも、たぶん違いますよ。ラグランジェの血をひいているのなら、少しくらい魔導が使えるでしょう」
 アルティナはまったく魔導が使えなかった。本人も母親もそう言っていた。サイファの目から見ても魔導が使えるようには感じられない。そのことに間違いはないだろう。
「そんなもの?」
 アルティナは軽い調子で尋ねた。
「ええ、そんなものです」
 サイファはにこやかに言った。
「可能性があるとすれば、例えば……」
「関係ないでしょ。父親が誰であれ、認知されてない以上、何の意味もないわ」
 フェイはサイファの話をさえぎり、ぶっきらぼうに言った。その声には明らかな不快感が含まれていた。サイファは肩をすくめた。
「そうですね。申しわけありませんでした。では、話を元に戻しましょう」

 それから 2時間ほど、サイファは雑談を交えながら、アルティナの説得を続けた。しかし、彼女は頑として首を縦に振らなかった。
 サイファは腕時計に目を落とすと、立ち上がりコートを手に取った。
「へぇ、もうあきらめて帰っちゃうんだ」
 アルティナは勝ち誇ったように言った。
「今日のところはね。明日、また来ます」
「来ても無駄だけど」
「さあ、それはどうでしょう」
 サイファはにっこり笑って外へ出て行った。

 それから毎日、サイファは同じ時間にやってきた。同じカウンター席に座り、酒を飲みながらアルティナと雑談をし、説得をした。アルティナはやはり承諾はしなかったが、サイファとのやりとりを楽しんでいるふうだった。サイファも、いくら断られ続けても、笑顔を崩すことはなかった。

「もう一週間になるけど、毎日こんなところで長いこと居座ってさ。ホントは暇なんじゃないの?」
「今の私には、これが最優先事項なんですよ」
「とかなんとか言って、私に会いたいだけなんじゃない?」
「それも少しはありますね」
 サイファはにっこり笑った。アルティナはムッとして目を伏せた。
「思ってもないくせに」
「アルティナさんと話をするのは楽しいですよ。でも、いいかげん結論をもらわないと」
 サイファは少しだけ真面目な顔になった。アルティナは怪訝に首を傾げた。
「結論はとっくに出してるじゃない。嫌だって」
「それでは私の立つ瀬がないんですよ。どうでしょう、私にもチャンスをもらえませんか?」
「どういうこと?」
 サイファは右手の人差し指を立てた。
「要望をひとつ出してください。私がそれを聞き入れることができたら、アルティナさんも私の要望、つまり王子様との婚姻を承諾してください」
 アルティナはその指をじっと見つめた。
「要望はなんでもいいの?」
「あまりに無理難題はご遠慮いただけるとありがたいです」
 サイファは肩をすくめた。
「面白そうじゃない、わかったわ。それじゃ……」
 アルティナは腕を組み、目を伏せた。しばらく考え込んだあと、顔を上げ、まっすぐな目をサイファに向けた。
「キスして」
 サイファはきょとんとしてアルティナを見た。
「アンタが可愛い奥さんを裏切るくらいの覚悟があるかどうか、見せてよ」
 彼女は真顔で言った。だが、サイファは、彼女が言い終わるか終わらないかのところで立ち上がった。無言でコートを手に取り、彼女に背を向けた。
「ちょっ……」
 アルティナはカウンターに手をつき立ち上がった。
「残念ながら私の負けです」
「出世はいいの? あきらめるの?」
 サイファの背中に早口で畳み掛けた。彼はにっこりと笑顔で振り返った。
「別に道が閉ざされたわけではないですよ。仕事というわけではなく、あくまで私的に頼まれたことですし。点数稼ぎができなかったのは残念ですけどね」
 そう言い終わると、颯爽と酒場を出て行った。

「なんて顔してんのよ」
 フェイはぼんやりしている娘の後頭部を、ペシッと軽くはたいた。銀色の長い髪がさらりと揺れた。
「そんなに残念?」
 からかうように尋ねられ、アルティナはむっとした。投げやりに答えを返す。
「少しくらい悩んでくれてもいいじゃないって思っただけ。プライドを傷つけられた感じ」
「でも、良かったじゃない。あきらめるって言ってたよね」
 フェイはグラスを戸棚に片付けながら声を張った。
「そうね、せいせいしたわ」
 アルティナは頬杖をついて口をとがらせた。

 それから一週間が過ぎた。あれ以来サイファはぱったりと来なくなった。用がなくなったのだ。当然といえば当然である。一週間くらい来なくても、何の不思議もない。だが、アルティナは心の中にもやもやしたものを感じていた。怒らせたのだろうか、嫌われたのだろうか――。そんなことばかりを考えてしまう。

 カランカラン――。
 扉が開き、客が数人入って来た。アルティナはカウンターから出て、客人を出迎えた。
「いらっしゃい」
 そう言って顔を上げ、はっとした。その中にサイファがいた。
 サイファはアルティナをまるで意識していないように見えた。連れと一緒だとしても、いつもなら挨拶くらいは口にしていた。少なくとも微笑みかけてはくれていた。あからさまではないにしろ、無視といってもいいかもしれない。彼は仲間と談笑しながらテーブル席についた。
 アルティナは声を掛けるきっかけを掴めなかった。黙りこくったまま、複雑な表情でその様子を眺めていた。

「サイファ、ちょっといい?」
 アルティナは彼らのテーブルにグラスを運んだついでに、サイファに声を掛けた。
「なんでしょう?」
 サイファは穏やかな笑顔でアルティナに振り返った。アルティナはいつもと変わらない彼の態度に少しほっとした。
「話があるからカウンターの方に来てくれる?」
「わかりました」
 サイファはグラスを手に取り、立ち上がった。

 サイファとアルティナはカウンターのいちばん奥で、向かい合って座った。カウンターには他に誰もいない。
「それで、お話とはなんですか」
 サイファはにっこりとして尋ねた。アルティナは軽く口をとがらせ、頬杖をついた。
「王子と結婚、してもいいよ」
「そうですか。ありがとうございます」
 微笑をたたえたまま、微塵も驚きを見せないサイファに、アルティナの方が動揺した。
「もうちょっと驚いてよ」
 腹立たしげにそう訴えたが、サイファはにこにこしているだけだった。
「どういう心境の変化ですか?」
「いつかアンタを左遷してやろうかと思って」
 アルティナはむすっとして答えた。サイファはニヤリとした。
「私のことは大切にした方がいいですよ。あなたの数少ない味方ですから」
「今のところはね」
 アルティナは負けじと言い返した。

「不安ですか?」
「なによそれ」
 サイファの思いがけない質問に、アルティナはうろたえた。とっさに、答えになってない答えを返してしまった。
 サイファはふいに真顔になった。
「私が責任を持ってあなたの面倒を見ます」
 まっすぐにアルティナを見つめ、真面目な声で言った。アルティナは驚いて目を見開いた。
「いつまで?」
 なぜか、そんな言葉がうわごとのように口をついた。サイファはにっこりと笑った。
「あなたが生きている間、ずっとですよ」
「なによ、私より長生きするつもり?」
「ええ、憎まれっ子は世に憚りますから」
「ああなるほどね」
 アルティナは呆れ口調で言った。あいかわらずにこにこしているサイファを見て、大きくため息をついた。彼女にはサイファがどこまで本気なのかがわからなかった。面倒を見るなんて、どういうつもりなのだろう。信じていいのだろうか――。
 サイファは小指を立てた。
「指きり、しますか?」
 アルティナはカッと顔が熱くなった。自分の心が見透かされたかのように感じた。
「別にアンタに面倒見てもらおうなんて思ってないわよ」
「アルティナさんに損はないと思いますけど」
「……そうね、何かにつけ、こき使ってやるってのも悪くないかも」
 アルティナは淡々とそう言うと、自分の小指をサイファの小指に絡ませた。
「約束、成立ですね」
 サイファはにっこり笑いかけた。
「アンタが何を考えてるのか、さっぱりわからない」
「アルティナさんの幸せを願ってるんですよ」
「うそつき」
 アルティナは小指をほどくと、カウンターに倒れこむように突っ伏した。銀色の長い髪が、カウンターからさらさらと流れ落ちた。
 サイファは彼女の頭にそっと手をのせた。