遠くの光に踵を上げて

70. 親子のかたち

「僕たちもとうとう四年生か……」
 前を横切る初々しい新入生を見て、リックは感慨深げにつぶやいた。
 今日はアカデミーの入学式である。授業は午前で終わり、三人は帰り支度をして食堂へ向かうところだった。
「学年が上がった実感はあんまりないけどな。担任、ずっと変わらねぇし」
 ジークは仏頂面でぶっきらぼうに言った。彼の頭にラウルの姿が浮かんでいることは明白だった。リックとアンジェリカは顔を見合わせてくすりと笑いあった。
「なんだよ、おまえら」
 ジークは口をとがらせ、両隣りのふたりを交互に睨んだ。アンジェリカは顔を上げ、にっこりと笑いかけた。
「あと一年ね」
「ああ、さっさと卒業して働きてぇよ」
 ジークは面倒くさそうに、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「そう」
 アンジェリカは無表情で素っ気なく返事をした。彼女のその態度に、ジークはうろたえた。あわてて付け加える。
「少し、寂しいけどな」
 アンジェリカはきょとんと彼を見上げ、大きくまばたきをした。
「ラウルと離れるのが?」
「バカ! おまえだよ!」
 彼女を指さし勢いよく言ったあとで、はっとして目を伏せた。窓から射し込む陽光が、白い廊下に反射して少し眩しい。耳元が次第に赤みを帯びていく。
 アンジェリカは後ろで手を組み、短いスカートをひらめかせながら、彼の前にまわりこんだ。
「卒業したって、会おうと思えばいつだって会えるわ」
 大きな瞳で覗き込み、屈託のない笑顔を見せた。
 ジークは目を見張った。
 ――いつだって会える。
 彼女の言葉を頭の中で反芻すると、照れくさそうにはにかんだ。その様子をリックはにこにこしながら眺めていた。
「なんだよ!」
「別に」
 突っかかってきたジークに、リックは笑顔のままでさらりと答えた。ジークはその余裕たっぷりの態度が気に食わなかった。キッと彼を睨み、指先を突き付けると、威勢よくがなり立てた。
「おまえ人のことばっか気に掛けてねぇで、自分のことを考えろよ!」
「自分のこと?」
 そう聞き返されて、ジークは言葉に詰まった。
「い……いろいろあるだろ! えと……そうだ、進路とかな! ラウルがまともに進路指導なんてやるわけねぇし、自分でしっかり考えねぇとな」
 ほとんどターニャの受け売りだった。だが、ジークは上手く話を繋げられたことに安堵し満足していた。これならリックも悩み出すに違いない。意地悪くそんなことを思ったが、彼の口から発せられた言葉は予想とは違うものだった。
「ああ、それならもう考えてるよ」
「え?」
 聞き返したジークの声は、情けなく裏返っていた。ずり落ちた鞄を肩に担ぎ直す。
「どうするの?」
 アンジェリカはリックに振り返り、興味津々に尋ねた。彼はにっこり笑って答えた。
「先生になろうかと思って」
「アカデミーのか?」
 ジークが尋ねると、リックは両手を前に出して振りながら、焦って否定をした。
「違う、違う、それは無理! 普通の学校のだよ」
「なんか、もったいねぇな。せっかくアカデミーまで来たのによ」
 ジークは腕を組み、不満そうに言った。しかし、アンジェリカは顔を輝かせ、弾んだ声をあげた。
「いいじゃない! リックに合ってると思うわ」
「ありがとう」
 そう言い合って笑顔を交わすふたりを見て、ジークは表情にわずかな影を落とした。
「ジークはどうするの?」
 アンジェリカは不意に彼に話を振った。目をくりっと見開き、いたずらっぽく覗き込む。
「まだ人柱になりたいとか思っているわけ?」
「人柱じゃねぇよ、四大結界師だ!」
 からかうように言ったアンジェリカの言葉を、ジークはむきになって訂正した。
「まあ、なりたいと思ってすぐになれるもんじゃねぇし、とりあえず魔導省に入るのが順当なところらしいけどな」
「ジークがお役人……」
 リックは呆然とつぶやいた。ジークは顔を赤くして言い返した。
「ガラじゃねぇのはわかってるよ!」
 アンジェリカは嬉しそうににっこりと笑いかけた。
「じゃあ、ジークはお父さんの部下になるのね」
「……そこがなぁ」
 ジークはとたんに苦い顔になった。アンジェリカは怪訝に顔を曇らせた。
「お父さんのこと、嫌いなの?」
 不安そうに尋ねる。
「あ、いや、そうじゃねぇよ」
 ジークはあわてて否定した。
「サイファさんのことは尊敬してる。でも、なんていうか、あんまり関わりすぎると……なぁ……いろいろやりづらいっていうか……」
 はっきりしない物言いに、アンジェリカは首を傾げた。
「やりづらいって、何が?」
「何がって言われても困るけどな……」
 ジークは追いつめられ、弱った表情で口ごもった。
「それって、アンジェリカのお父さんだからってこと?」
 リックが横から口をはさんだ。ジークはぎくりと体をこわばらせた。図星であることは、表情にも思いきり表れている。
「それ、どういう意味?」
 アンジェリカは眉根を寄せ、両手を腰にあて問いつめた。
「え、いや、あ、おまえはどうするんだよ、卒業後」
 ジークはしどろもどろになりながらも、必死で話題を変えた。
「え? 私?」
 ジーク自身、こんな手にアンジェリカが引っかかるわけないと思ったが、意外にも彼女は追求をやめ、その話題に乗ってきた。
「実は、私も魔導省に入りたいと思ったの。でもね、年齢制限があったのよ。18歳未満はだめだって。ひどいでしょう?! そんなの関係ないのに!」
 よほどそのことを訴えたかったのか、右手をぐっと握りしめ、勢いよく捲し立てた。そして、口をとがらせると、腕を組んで考え込んだ。
「どこか他にいいところがあればいいんだけど」
「おまえ、無理して就職することもないんじゃねぇのか?」
 ジークは思いつくままにそう言った。年齢のこともあるが、何より彼女の家は裕福である。若いうちから働かなければならない事情は何もないはずだ。
 しかし、アンジェリカはきっぱりと答えた。
「うちでじっとしているなんて嫌よ」
 ジークは苦笑した。
「勉強しながらあと四年待って、それから就職でも遅くねぇだろ」
 彼なりに最良の案を提示したつもりだったが、彼女は納得しなかった。
「そんな時間、ないかもしれないもの」
 ジークは怪訝に首をひねり、尋ねかけた。
「それってどういう……」
 そのとき、アンジェリカの表情が途端にこわばった。体を小刻みに震わせながら、大きく目を見開いた。彼女がその瞳に映しているのはジークではない。彼を通り越し、その向こうを見ているようだ。
「どうした?」
 ジークは彼女の視線をたどった。そこに立っていたのは、ロングコートをまとったひとりの男性だった。そこそこ年輩だと思われるが、体は大きくがっちりとして、背筋もしっかりと伸びている。老人という風情ではない。髪は半分ほど白くなっているが、残った色から元は鮮やかな金髪であったことがうかがえる。そして、瞳は深い青色――。ジークは直感した。この男はラグランジェ家の人間であると。
 ジークはアンジェリカをその男の反対側に寄せ、庇うように肩を抱き、足早に通り過ぎようとした。彼女の体の微かな震えが、手を通し伝わってくる。
 大丈夫だ――。
 ジークは安心させるように、無言でその手に力を込めた。
「ジーク=セドラックだな」
 思いがけない言葉に、ジークははっと息をのみ顔を上げた。なぜ自分の名を……。とまどいを隠せない。
「君とは一度、話をしたいと思っていた」
 男はジークを値踏みするように、上から下までじろりと見まわす。
「ちょうどいい機会だ。来てもらおう」
 有無を言わさぬ威圧的な口調。ジークは得体のしれない恐怖を感じた。同時に、何の話だろうかという興味もあった。しばらく考えたのち、口を結んだまま男の方に足を踏み出した。
「私も行くわ!」
 アンジェリカも彼のあとに続こうとする。そんな彼女を、男は冷たく睨みつけた。
「ジーク=セドラックとふたりで話をしたい。おまえは来るな」
「どうして?! 私の話でしょう? だったら……」
「言うことを聞け、アンジェリカ=ナール」
 迫力のある低音が、体の芯に響く。アンジェリカはびくりと体をこわばらせた。もはや、動くことも言い返すこともできなかった。
「心配すんな」
 ジークはそんな言葉を掛けることくらいしかできなかった。そして、ふたりは連れ立ってその場をあとにした。
「ジーク、図書室で待っているから!!」
 アンジェリカは遠ざかる背中に向かって、乾いた喉から声を絞り出した。ジークはわずかに振り返り、微かな笑顔で応えた。

「誰なの、あの人」
 リックは華奢な背中におずおずと問いかけた。彼女はふたりが消えていった方向をずっと見つめていたが、リックの声を耳にすると、目を細め口を開いた。
「私のひいおじいさまよ」
「ひい……おじいさま?」
 リックは驚いて思わず聞き返した。それにしては若すぎると思ったのだ。アンジェリカはガラス窓にそっと手をつき、中庭の噴水を見つめた。
「昔から、ひいおじいさまの私を見る目はとても冷たかった」
 無表情に、無感情に、淡々と言葉をつなげていく。
「誰よりも厳格で、誰よりもラグランジェ家のことを考えている人だから、異端である私が許せないんだと思う」
「そんな、アンジェリカが悪いわけじゃないのに……」
 リックはそれだけ言うのが精一杯だった。彼女の横顔を見つめ、悲しげに眉をひそめる。
 アンジェリカは彼に振り向き、少し寂しげに笑ってみせた。
「私の存在自体が許せないのよ」
 リックはもう何も言葉が掛けられなかった。彼女がラグランジェ家の中で「呪われた子」などと呼ばれ、蔑まれていることは知っていた。だが、それを目の当たりにすると、やはりショックである。彼女はどんな思いでこれまで生きてきたのだろうか、ふいにそんなことを考えてしまう。
「どうして自分だけこうなんだろうって、何度も考えたし、自分なりに調べもしたわ」
 アンジェリカは目を伏せ、自分の横髪を無造作に掴んだ。リックは胸が詰まった。
「答えは、見つかったの?」
 ゆっくりと滑り落ちる彼女の手を見つめ、静かに尋ねかける。アンジェリカはぽつりと言葉を落とした。
「遺伝子の異常」
「え?」
 リックはぽかんとしてまばたきをした。
「ただの憶測よ。根拠は何もないわ」
 アンジェリカは笑って肩をすくめた。
「色素が作られなくて、肌や髪が白くなるっていうのはあるの。逆のケースは見つけられなかったけれど、ありえないことではないかなって」
 そう言うと、今度は自嘲ぎみに小さく笑った。
「そうだとすると、穢れた血という言われ方も、間違ってはいないわね」
「間違ってるよ!!」
 リックは身を乗り出し、両こぶしを握りしめて言った。アンジェリカはその迫力に驚いて少し身を引いた。目をぱちくりさせて彼を見る。そして、ふいに表情を緩めると、やわらかい笑顔を見せた。
「ありがとう」
 リックはひとまず安堵した。彼女の肩にぽんと手を置き、優しく微笑みかけた。

 ジークと年輩の男は、王宮の外れにある小さな森に来ていた。生い茂った枝葉の隙間から落ちる木漏れ日が、細い散歩道にまだら模様を作る。緩やかな風が吹くたび、模様は形を変え、頭上からは木々のざわめきが降りそそいだ。
 ジークは不安になってきた。こんな人気のない場所に連れ込んで、この男はいったい何を企んでいるのだろうか。もし、何かが起こったとしても、助けを呼ぶこともできない。
「誰なんだよ、おまえは」
 沈黙と不安に耐えかねたジークは、半歩先を歩く男の背中に、無礼な口調で問いかけた。男は振り返ることなく答えた。
「先々代のラグランジェ家当主、それで充分だろう」
「で、今は長老会メンバーか?」
 男の足が止まった。そして、ゆっくりとジークに振り返り、鋭い視線を向けた。瞳の奥には強い光が宿っている。
 ジークはあごを引き、口端を上げ、挑みかけるようにニッと笑った。目はまっすぐ男を捉えている。だが、強気な態度とは裏腹に、額には脂汗が滲んでいた。
「そこまで知っているとはな。今すぐ始末したい気分だよ」
 男は凍てつくような青い瞳でジークを突き刺し、凄みのある低音をゆっくりと響かせた。ジークは背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。小さく身震いをする。
「安心しろ。そんなつもりはない」
 男はふっと笑って前に向き直り、再び歩き始めた。
「だが、他言をすればそうなるかもしれん。気をつけることだな」
「わかってる」
 ジークは少し離れて歩きながら、短く答えた。そして、再び疑問をぶつけた。
「わざわざ俺と話をするためにアカデミーに来たのか?」
 男の背中が笑った。
「自惚れるな。アンジェリカ=ナールの成績をもらうために来たのだ」
 コートの内側からファイルを取り出し、掲げて見せた。その青いファイルはかなりの厚みがあった。成績表だけではなく、試験や内部資料なども収められているのかもしれない。ジークはそう思った。
 男はそれをコートの内側に戻すと、脇にひっそりと佇むベンチに腰を掛けた。古びた木製のそれは、ギィと鈍い軋み音を立てた。
「君の成績もついでに見させてもらった。優秀だな」
「一度もアンジェリカに勝てたことねぇよ」
 ジークは顔をそむけ、吐き捨てるように言った。嫌味を言われているのだと思った。くやしまぎれに足元の小枝を踏みしめる。パキパキと甲高い音が森に響いた。
 男はまぶたを閉じ、ふっと笑った。
「あの子には勝てんよ。君はもちろん、ラグランジェ家の人間でも、敵うものはほとんどいないだろう」
 そう言ってジークを一瞥すると、さらに話を続けた。
「それだけの素質が彼女には備わっている。そういう血を持って生まれてきたということだ」
「やっと認める気になったのか」
 ジークは呆れたように言った。フンと鼻を鳴らす。
「当たらずとも遠からず、といったところだな」
 男はベンチから立ち上がり、コートのポケットに手を入れた。広い背中をジークに向ける。
「彼女は我々にとって必要な存在となった。君には手を引いてほしい」
「は?」
 男は悠然と振り返った。
「君とアンジェリカが懇意にされては、後々、差し障りが出てくるのだ」
 ジークは訝しげに首を傾げた。
「わかるように言えよ。アンジェリカをどうするつもりだ」
「ラグランジェ本家を継いでもらう」
 男はまっすぐジークを見据えて言った。
 来た――。
 ジークは唇を噛みしめうつむいた。いつかそういう話を聞かされるのではないか、心の片隅にずっと不安を抱えていた。同時に、呪われた子と言われている彼女に継がせないのではないか、そんなふうに楽観していた部分もあった。
「まだ正式決定ではないが、近いうちにそうなる予定だ。サイファにも、これ以上、好き勝手させはしない」
「赤ん坊の頃、殺そうとしたのはおまえらだろう。今さら勝手なことを言うな!」
 威勢よく突っかかったあとで、ジークははっとした。わずかに身構えると、上目遣いでじっと睨めつける。
「今度は邪魔になった俺を殺すつもりか?」
 頬を一筋の汗が伝う。そんなジークに、男は冷ややかな視線を送った。
「君は、我々のことを暗殺集団か何かのように聞かされているかもしれないが、そうではない」
 しっかりと言い聞かせるように、緩やかに抑揚をつけながら言葉をつなげる。そして、後ろで手を組み、無防備な背中をジークに見せた。
「部外者を巻き込まないことが、我々の基本方針でね」
「あくまで基本なんだろ」
 ジークはぶっきらぼうに揚げ足をとった。男はゆっくりと振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「すべてを忘れ、ラグランジェ家と距離をおくことを約束してくれれば、悪いようにはしない。君はこれから就職活動を始めるのだろう」
 ジークは顔をしかめた。
「おまえの力なんて借りるつもりはねぇよ。自分の力だけで十分だ」
「わかっていないな」
 男は冷笑した。
「君自身も言っただろう、“あくまで基本”だと」
 ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「裏を読め。手を引かなければどうなるかということを。おまえごときの人生を捻り潰すなど造作もないことだ」
 男は真顔で言った。
 ジークは奥歯を食いしばりうつむいた。爪が食い込むほどにこぶしを強く握り震わせる。ただの脅しではないと思った。彼らにはそれだけの力があり、また、そうすることにためらいもないだろう。いったいどうすれば……。頭が混乱して、まともに考えることもできない。
「なんで……なんでアンジェリカなんだよ。別にアンジェリカでなくてもいいだろう」
 今にも泣き出しそうな声でつぶやくと、顔をしかめ髪を鷲掴みにした。
「残念ながら、そうはいかなくなったのだ。すべてはラグランジェ家を守るためだ」
 その言葉を聞くと、ジークの頭に一気に血がのぼった。
「バカじゃねぇのか! 人があっての家だろう!」
 顔を上げ、大声で食って掛かった。その声に驚いた森の鳥たちは、いっせいに羽ばたき飛び立っていった。木の葉がいくつか、ひらひらと舞い落ちる。だが、男は平然としたまま、ジークを一瞥した。
「おまえのような外部の人間にはわからんだろうな。二千年近く名家として続いてきたラグランジェ家の重みというものを。その伝統の前では、個人など取るに足りないものなのだ」
 ジークはムッとして男を睨みつけた。
「少なくともサイファさんはそう思っていない」
 男は嘲るように小さく笑った。
「君は随分サイファを慕っているようだが、気をつけた方がいい」
「おまえの言うことなんか信じるかよ」
 ジークがそう言ったにもかかわらず、男は構わず話を続けた。
「守りたいものが違うだけで、本質は我々と変わらない。人を利用し、不要になれば排除する。そういうことが平気でできる男だ。嘘をつくのが上手い分、我々よりたちが悪いかもしれんな」
 ジークは反論もせず、複雑な表情で立ち尽くしていた。この男の言うことを信用したわけではない。だが、何か引っかかりのようなものを感じる。些細なこととして気にしなかった、もしくは気にしないようにした、いくつかの小さな記憶。それらが一斉に呼び起こされるような、そんなざわめく感覚がわき上がった。
 男はジークの肩に片手をおき、ぐっと力を込めた。
「君が利口な選択をしてくれることを願っている」
 ジークは、その低音が腹の底にずっしりと沈んでいくのを感じた。額から汗が吹き出す。男はもう一度、ジークの肩においた手に力を込めると、彼を残して森から出ていった。
 男の姿が見えなくなると、ジークは膝から崩れるようにその場にへたり込んだ。肩にはまだごつい手の感触が残っている。
 森のどこかから、小鳥のさえずりが聞こえてきた。

「ジーク!!」
 彼が図書室の扉を開けたとたん、アンジェリカは彼の名を呼び、急いで駆け寄ってきた。不安そうな表情で、じっと彼を見つめる。
「何の話だったの?」
 少し緊張したような固い声。ジークには彼女の気持ちが痛いほど伝わってきた。それでも、あの話を伝えることなど、自分にはできない。彼女から目をそらせる。
「何でもねぇよ」
 精一杯の平静を装い、ぶっきらぼうに答えた。しかし、その答えはなんのごまかしにもなっていなかった。アンジェリカはさらに追求する。
「何でもないわけないじゃない! 私に関係がある話なんでしょう」
「違う」
 ジークは難しい顔でうつむいた。アンジェリカは追求を緩めなかった。
「他に何の話があるっていうのよ」
 ジークは言葉を失った。沈黙するしかすべがなかった。アンジェリカは真剣な表情でジークを見据え、落ち着いた声ではっきりと言った。
「自分のことくらい、自分で受け止められるわ。子供扱いするのはやめて」
「子供じゃねぇかよ!」
 追いつめられ、ついそんな言葉が口をついた。言い過ぎた――。ジークはすぐに後悔した。
 アンジェリカは大きな漆黒の瞳を潤ませ、彼をキッと睨んだ。
「うそつき!」
「うっ……?」
 ジークは尋ね返そうとして、言葉を詰まらせた。
 アンジェリカは机の上に置いてあった鞄を乱暴に掴み、走って図書室を出ていった。
「アンジェリカ! 待って! わっ」
 彼女を追いかけようとしたリックを、ジークはフードを掴んで引き留めた。
「何を言うつもりだ」
 うつむき、喉の奥から乾いた声を絞り出す。
「何って……」
 リックは口ごもった。そこまで考えていなかった。
「でも、あのまま行かせていいの?!」
「これは俺の問題だ」
「じゃあ早く追いかけなよ!」
 リックに急き立てられても、ジークはただうなだれるだけだった。彼が何かに深く悩んでいることは、リックにもわかった。しかし、アンジェリカも同様に悩みと不安を抱えている。そんな彼女にあのような言葉を浴びせ、謝りも弁解もせずそのまま行かせるなど、あってはならないことだと思った。
「ジーク!」
 苛ついて名を呼ぶ。行動を起こさない彼がもどかしかった。
「もう少し、考えさせてくれ……」
 ジークは消え入りそうな声で、ようやくそれだけを口にする。
 リックは目を細めて彼を見つめた。
「うそつき!」
「そうだよ、ジーク。ひどいよ!!」
 アンジェリカとリックは口々にジークを責め立てた。
「違っ……」
 言葉に詰まり、反論すらできないジークに、ふたりは冷淡な目を向けた。
「こんなヤツのこと、もう忘れなよ」
 リックはわざとらしくため息をついた。
「言われなくても忘れるわ」
 アンジェリカはつんと顔をそむけ、不機嫌に言い捨てた。そして、リックと腕を組むと、ふたりで笑いあいながら去っていった。
「待て! おいっ! おいっ!!」
 引きちぎれるくらいに強く腕を伸ばすが、なぜか足は石のように動かない。追いかけたいのに追いかけられない。みるみるうちに、ふたりの姿は小さくなっていった。
「ジーク、君には手を引いてもらうと言ったはずだ」
 威厳に満ちた、腹の底に響く低音。どこからともなく男が現れた。ラグランジェ家の先々代当主だ。
「我々はリックを正式な後継者と認めた」
「なっ……」
 ジークは目を見開いた。額から汗が流れ落ちる。男は静かに言葉を続けた。
「君も男なら、潔く諦めろ」
「う……嘘だ!!」
 ジークは自分の叫び声で目を覚ました。心臓が痛いくらいに激しく強く打っている。自分の鼓動の音が、自分自身ではっきりと感じとれた。
「……夢……か……」
 見なれた天井の木目を目にし、ようやく状況を把握した。途端に体中から力が抜けた。大きく息をつき、吹き出した額の汗を袖口で拭った。
 ――まったく、何て夢だ。
 きのうの出来事が影響しているのは間違いない。自分の不安な気持ちがあんな夢を見せたのだろう。ただの夢だ――。懸命に自分に言い聞かせた。

 ジークは冴えない顔で、のっそりと体を起こすと、よろよろ階段を降りていった。
「おはよ、ジーク。やっと起きたのね」
 聞きなれない女性の声が、彼を出迎えた。
「へ?」
 ジークは間の抜けた声を上げ、振り向いた。そして、唖然として固まった。口を開けたまま声も出ない。
「ごはん、まだなの。もう少し待ってね」
 再び彼女が声を掛けた。ジークははっとして我にかえると、慌てふためきながらあたりを見回した。間違いなく自分の家だ。もういちど声の主を見る。エプロン姿の彼女は、じゃがいもの皮を剥きながらくすりと笑った。
「おまえ、セリカ……か?」
「そうよ」
 ジークは半信半疑で尋ねたが、彼女は当然のように肯定した。彼はますます混乱した。まだ夢の続きではないかと疑った。思わず頬をつねり確かめてみた。痛みを感じる。夢ではないようだ。わけがわからないといった顔で、唸りながら額を押さえる。
「ちょっと待て。なんでおまえがウチの台所で料理してんだ」
「私がお願いしたのよ」
 隣の部屋で、母親のレイラが声を張った。彼女はダイニングテーブルで、マグカップを片手にくつろいでいた。セリカと視線を交わすと、意味ありげに笑いあった。
 ジークはいまだに状況がさっぱり把握できないでいた。落ち着きなく、母親、セリカと何度も交互に目を向ける。このふたりは知り合いでも何でもないはずだ。なのにどうして――。
 狐につままれたような顔をしている息子を見て、レイラは耐えきれずに吹き出した。
「リックと彼女がウチの前を通りかかったから呼び止めたのよ。パンクしたままだった自転車を修理してもらおうかと思って」
 ジークはようやく合点がいった。しかし――。
「リックはまだいいにしても、なんであいつに昼メシ作らせてんだよ」
 セリカを指さし、呆れ口調で尋ねる。
「ただ待ってもらうのも何だから、ついでにお願いしちゃった」
 年甲斐もなくかわいこぶる母親に、思いきり眉をひそめた。
「ったく、その図々しい性格、なんとかならねぇのかよ」
「人のこと言うまえに、そのカッコなんとかしたら? レディの前でみっともない」
 レイラはすまし顔でそう言うと、お茶を口に運んだ。
 ジークははっとして自分を見た。着古しすぎるほど着古したよれよれのパジャマ。その前のボタンを半分以上はずし、だらしなく胸をはだけさせている。髪も寝癖でぼさぼさになっていることは、容易に想像がつく。
「それを早く言えよ!」
 ジークはカッと顔を赤くして、あわてて二階へと駆け上がっていった。
「顔も洗って来なさいよー」
 レイラは淡々と追い打ちをかけた。
 セリカはそんなふたりのやりとりがおかしくて、くすくすと笑った。

 ジークは一応の身支度を整えると、再び階段を降りていった。ふいにごはんの炊きあがる匂いが鼻をくすぐる。その瞬間、忘れていた空腹を思い出し、急に体から力が抜けるように感じた。ふらつきながら台所に目をやると、リックとセリカが湯気の立ちのぼる鍋をはさみ談笑していた。
「おはよう、ジーク」
 リックは彼に気がつくと、にこやかに挨拶をした。いつもと変わらない穏やかで人懐こい笑顔。ジークは、一瞬、今朝の夢が頭をよぎった。だが、この光景を見ていると、あれはやはりただの夢としか思えなかった。
「悪りィな。なんかこき使って」
「まあ、いつものことだし」
 リックはそう言って笑った。ジークはますます申しわけない気持ちになった。
「リックは手先が器用だから助かるわ。ジークと違って」
 当のレイラはほおづえをつき、呑気にそんなことを言っている。まるで悪びれる様子もない。ジークは腕を組み、白い目を彼女に向けた。
「ジーク、あれからどうしたの? アンジェリカとはあのまま?」
 リックは声をひそめて尋ねた。ジークは途端に顔を曇らせた。
「……ああ」
 沈んだ表情で、沈んだ声を落とす。
「なに、なに? ケンカでもしたの?」
 地獄耳のレイラは、脳天気にはしゃぎながら首を突っ込んできた。
「おまえは黙ってろよ」
 ジークは苛立ちをあらわにした。
「これ、言おうか迷ってたんだけど……」
 リックはそう前置きをして、ジークの目をまっすぐ見つめた。ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「アンジェリカ、すごく悩んでるよ」
「ん? ああ、わかってる」
 それは、リックに言われるまでもないことだ。ジークは肩すかしを喰らったように感じた。アンジェリカが黒い髪と黒い瞳のせいで、親戚たちから蔑まれていたことは、ジークも知っていた。そのことで悩んでいることも、わかっていたつもりだ。ひょっとしたら、そんなこともわからない唐変木だとリックに思われているのだろうか。ジークは怪訝に眉をひそめた。
 しかし、リックが続けて語った話は、ジークが初めて知るものだった。
「自分だけ髪や瞳が黒いのは、遺伝子の異常じゃないかって言ってた。色素がなくて白くなるってのがあるらしくて、自分はその逆なんじゃないかって」
 ジークは腕を組んで首を捻った。
「難しいことを考えるな、あいつ……。どうなんだよ、医学生」
「え? 私?」
 料理を終え、後片づけをしていたセリカは、裏返った声で聞き返した。すぐ背後でなされているふたりの会話に、興味がないふりをしているつもりだった。が、ジークには耳をそばだてていることがばれていたのだろうか。
「おまえ以外に誰がいるんだよ」
 ジークは面倒くさそうに言った。不機嫌に口をへの字に曲げ、彼女を睨む。
「いきなり言われてもわからないけど……」
 セリカは手を拭きながら振り返った。
「役に立たねぇな」
 ジークは顔をしかめ、吐き捨てた。
「ジーク!」
 彼のあまりにあからさまな態度に、温厚なリックも黙ってはいられなかった。
 しかし、それを制したのはセリカだった。
「いいのよ、気にしてないから」
 無理に笑顔を浮かべてそう言うと、話の続きを始めた。
「色素が出来なくて、髪が白かったり瞳が赤いってのは確かにあるわよ。アルビノっていうんだけど。でも、逆は聞いたことないわね」
「アンジェリカもそう言ってたよ」
 リックは頷きながら言った。セリカは口元に人さし指をあて、斜め上に視線を流した。
「でも、たとえ突然変異だったとしても、彼女の場合、問題ないんじゃないかしら。アルビノは色素がないから、光に弱いとか健康上の問題があるけど」
 ジークは目をつぶり、腕を組むと、深く頭を垂れた。懸命に考えを巡らせる。そして、うつむいたまま薄く目を開くと、ぽつりと言葉を落とした。
「違うな」
「え? 何が?」
 リックは大きく瞬きをして尋ねた。だが、ジークは独り言のようにぶつぶつとつぶやくだけだった。
「遺伝子の異常とかだったら、あのジジイがあんなこと言うわけねぇ……」
「あのジジイって、アンジェリカのひいおじいさん? 何を言ったの?」
 リックは眉をひそめて再び尋ねた。ジークを覗き込んでその表情をうかがう。彼は考え込んだ様子で、眉根を寄せ、口をぎゅっと結んでいた。答えようという様子は見られない。
 リックはあきらめたようにため息をついた。
「僕たちに言えないんだったらいいけど、アンジェリカにはちゃんと話した方がいいよ」
 そう言いながら、椅子の上に置いてあった上着に袖を通した。セリカもエプロンを外し、代わりにジャケットを手にとった。
「おい、食ってかねぇのか?」
 リックたちが帰り支度をしていることに気付き、ジークはあわてて尋ねた。リックはにっこりと振り向いて言った。
「うちで母親が待ってるから。もともとそういう予定だったんだよ。ね」
 セリカに同意を求めると、彼女も笑顔で頷いた。
「ふたりともありがとね。また来て」
 レイラは立ち上がり、手を振ってふたりを送り出した。ふたりも手を振りながら去っていった。

「うん、おいしい! 彼女、いいお嫁さんになるわよ」
 セリカの作ったクリームシチューを食べながら、レイラは声を弾ませた。ジークは無反応で黙々と食べ続けた。おいしいとは思ったが、口には出さなかった。
「あのセリカって子、確か、あんたに会いにウチまで来たことあったわよねぇ」
 レイラは記憶をたどるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。ジークはぎくりとして手を止めた。
「だから、何だよ」
 下を向いたまま、つっけんどんに切り返す。しかし、その声には、少しの固さと動揺が感じられた。
 レイラはニヤリと口端を上げた。
「リックにとられちゃったわけね。なっさけない」
「そんなんじゃねぇよ。あいつが勝手につきまとってただけだ」
 ジークは顔を上げることなく反論すると、いらついた様子で白いごはんをかき込んだ。
 そんな息子を見て、レイラはため息をついた。
「ま、本命はがっちり掴んでおくことね」
 軽い調子でそう言うと、彼の鼻先にスプーンを突きつけた。
「ケンカなんてしてる場合じゃないでしょ」
 ジークはどきりとした。レイラはさらにきつい一撃を加えた。
「うかうかしてると、アンジェリカまでリックにとられちゃうわよ」
 ダン!
 ジークは机を叩きつけて立ち上がった。何か言いたげに、瞳を揺らし開いた口を震わせる。しかし、その口から言葉は出てこなかった。
「気にしてたんだ」
 レイラは大きく目を開き、彼を見上げた。ジークは苦々しい顔で目を閉じ、崩れ落ちるように椅子に腰を落とした。顔を隠すように、深くうなだれる。
「あんたがひねくれた態度ばかりとってたら、冗談抜きでそうなっちゃうかもよ。少しは素直になることね」
 母親の冷静で厳しい忠告が、ジークの胸に深く突き刺さった。膝の上にのせたこぶしを、爪が食い込むほどに強く握りしめる。
 レイラはさらりと付け加えた。
「だからって、あちらの親御さんに顔向けできないようなことはするんじゃないわよ」
「するわけねぇだろ!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、大声で言い返した。その一瞬で全身から汗が吹き出した。息を整えながら、冷水が入ったコップを手にとる。
 レイラは両手でほおづえをつき、にこにこして彼を見た。
「なんだよ」
 ジークは少しびくつきながら、訝しげに尋ねた。
「あんたの顔立ちとかさ、だんだんリュークに似てきてるわよね」
 レイラは嬉しそうにそう言った。ジークはそれを聞いて、母親が笑顔で自分を見ていたわけがわかった。リュークとはジークの亡くなった父親のことだ。亡くなってから、もう十年以上になる。確かに似てきているかもしれない――ジーク自身にもそんな自覚はあった。一息ついて、手にしていた水を口に運ぶ。
「だから私、ちょっと心配だったのよ」
 レイラは思い出したように笑った。
「息子に恋しちゃったらどうしようって」
 ジークは飲みかけの水を吹いた。
「でも、内面はいつまでたってもバカなガキンチョのまんまだから、ぜーんぜんそんな気は起こらないけどね」
 そう言って、レイラはカラカラと笑った。ジークは布巾で机を拭きながら、疲れきったようにため息をついた。
「悪かったなバカで。半分は母親の血を引いてんだから仕方ねぇだろ」
「それもそうね、あはははは!」
 思いきり嫌味を言ったつもりだったが、あっさり認められてしまった。どうも調子が狂う。ジークはもう一度ため息をついた。
「リュークか……」
 そうつぶやいたレイラの声には、懐かしさがあふれていた。ジークもつられて父親を懐かしむ。真っ先に思い浮かぶのは、バイクに向かう寡黙な背中と油の匂い。父親の仕事をしている姿を見るのが好きだった。学校帰りにこっそり覗きに行ったりもした。
「生きていれば男どうしでいろんな話ができたのにね」
 レイラはいつになく優しい顔で言った。
「実際生きてたら、あんま話なんてしてねぇと思うけどな」
 ジークは目をそらし、ぶっきらぼうに答えた。だが、聞いてみたいことや話したいことはたくさんある。父親と今の自分が話をしている光景を思い浮かべて、思わず胸が熱くなった。だが――。
「って、こんな話、意味ねぇよ。もう生きてねぇんだし」
 心の幻を打ち消すかのように、冷めた口調でぼそりとつぶやき、仏頂面でほおづえをついた。
「たまにはいいじゃないっ」
 レイラはいつものように、明るい声を張り上げた。
「死んだ人は記憶の中でしか生きられないんだから」
「……それ、ちょっとくさくねぇか?」
 ジークはほおづえをついたままで、じとっと母親に視線を流した。
「やっぱり?」
 レイラはおどけて頭に手をあてた。
「ま、たまにはいいけどよ」
 ジークが無愛想にそう言うと、レイラはにっこりと笑った。両手でほおづえをつき、まっすぐジークの瞳を覗き込む。
「あんたがいてくれて良かった」
「なんだよ、急に」
 柄にもないことを口にする母親に、ジークは少しうろたえた。
「ひとりだったら、とっくに挫けてたわ」
「そうか? ひとりでも結構たくましく生きてくだろ」
 照れくさいものを感じながら、それを見せないようつれない返事をする。レイラは大袈裟に肩をすくめて見せた。
「わかってないわねぇ。女ってものが」
「おまえが女を語るなよ」
 ジークは冷ややかに言った。
「あら、少なくともあんたよりはわかってるつもり……ですわよ?」
 レイラはふざけてそう言うと、自分自身で吹き出した。ジークもそんな彼女につられ、笑顔を見せた。だが、それはすぐに消えた。いつまでこうやって気楽に笑っていられるのだろうか。ふいに表情に翳りを落とすと、ためらいがちに口を開いた。
「あのな……俺、もしかしたら、ヤバい奴を敵にまわすことになるかもしれねぇ」
「なに? ケンカ?」
 レイラは腕まくりしながら身を乗り出した。わくわくして、顔を輝かせている。
「なんで嬉しそうなんだよ! 冗談じゃなくて本当の話だぞ!」
 ジークが呆れたように怒鳴りつけると、レイラは急に真面目な顔になった。
「相手はなんて言ってるの?」
 ジークは返答に困った。どこからどこまで言えばいいのだろうか。少し考えてから、差し障りのない部分をかいつまんで話した。
「手を引かなければ、俺のことを潰すつもりらしい。多分、裏から手をまわして就職できないようにするとか……そんなことじゃねぇかと思う」
「あんたの気持ちは決まってるわけ?」
 レイラはまっすぐにジークを見据えた。ジークは逃げるように視線を外した。
「正直、怖ぇ。でも……」
 そこで言葉が途切れた。そのままうつむき、唇を噛みしめる。
「そうね。よく考えて、後悔の少ない方を選ぶことね」
 レイラはきびきびと言った。
「考えなしにバカやるのは止めるけど、しっかり考えて覚悟のうえでなら、何も言わない」
 めずらしく真剣な母親の言葉が、ジークの心に静かに響く。彼はうつむいたまま目を細めた。
 レイラはぱっといつもの明るい表情に戻った。
「ま、ホントに社会から干されたとしても、あんたひとりくらい私がなんとかしてあげるわ。だてに四十年、生きてないのよ」
 あははと笑いながら、大きく胸を張った。
 ジークはそう言われても、少しも安心できなかった。ラグランジェ家の仕打ちがそんなに生易しいものとは思えなかったのだ。それでも、母親のその気持ちはありがたかった。
「四十二年だろ」
 ジークはいつもの憎まれ口を返した。レイラはニッと笑って彼を見た。
「細かい男は嫌われるわよ」
 そう言って、まだ暗い顔をしている息子の鼻をつまんだ。

 昼食を終え、ジークは自分の部屋に戻ってきた。敷きっぱなしの布団の上に、ごろりと転がる。カーテンは半分だけしか開かれていなかったが、真昼の強い陽射しが差し込み、眩しいくらいだった。光から逃れるように背を向けると、体を丸め、ゆっくりと目を閉じた。
 アンジェリカ――。
 頭の中に広がる暗闇で、小さくその名をつぶやいた。彼女の笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、さまざまな表情が次々と浮かんでくる。
 ――笑うときも怒るときも、あいつはいつもまっすぐ俺を見てたな……。俺は、どうだった。顔をそむけてはいなかったか。
 ジークはゆっくりと目を開いた。仰向けになり、天井を見つめる。
 ――あいつの気持ちはわからない。だけど、もし、俺といることを望んでくれるとしたら……。そうしたら、俺は……。
 その顔に次第に赤みがさしていく。とっさに枕元に落ちていた上着をつかみ、頭に覆い被せた。


 アンジェリカは窓を開け、濃紺色の空を見上げた。かすかな夜風が、ほてった頬を冷まし、薄いレースのカーテンをひらひらと揺らす。
 うそつき――。
 きのう、ジークに言ってしまったひとこと。それが頭から離れない。何度も何度もリフレインする。
 ジークが嘘つきなら、私は卑怯ものね。
 黒髪がさらさらと頬にかかる。潤んだ目を細め、窓枠にもたれかかりながら、今日何度目かのため息をついた。

 アンジェリカは部屋を出ると、階段を降り、リビングルームに向かった。その途中、ダイニングルームの明かりがついていることに気がつき、何気なく覗き込んだ。
「あら、アンジェリカ」
 萌黄色のネグリジェを纏ったレイチェルが、笑顔で振り返った。右手にはコーヒーカップ、左手には牛乳瓶を持っている。
「あなたも飲む? ホットミルク」
「うん」
 アンジェリカは言葉少なにテーブルについた。
「お父さんはまだ帰ってないの?」
「今日は帰れそうもないんですって。最近、また忙しいみたいね」
 レイチェルは牛乳を火にかけながら答えた。
「そう」
 アンジェリカは無表情でほおづえをついた。そして、口をついて出そうになったため息を、ぐっと呑み込んだ。
「どうしたの? 今日はずっと沈んだ顔をしていたけど」
 レイチェルは背を向けたまま尋ねた。アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「そう、だった?」
「ええ、隠しているつもりだった?」
 そう尋ね返されて、困ったような複雑な表情ではにかんだ。

 かすかに甘い匂いが立ちのぼる。レイチェルはカップをふたつ手に持って振り返った。ひとつをアンジェリカに手渡し、自分も席についた。
「ありがとう」
 アンジェリカはそのホットミルクにそっと口をつけた。ほっとするような優しい温かさが体の中から広がる。固かった表情も次第にほぐれていった。
「おいしい」
「そう、よかった」
 レイチェルは大きくにっこりと笑った。そして、自分もホットミルクを口に運んだ。
「ねぇ、お母さん」
 アンジェリカはカップに両手を添え、顔を上げた。
「なぁに?」
 レイチェルは微笑みながら、大きな瞳を彼女に向けた。
「今日、一緒に寝てもいい?」
 アンジェリカは遠慮がちに尋ねた。
 レイチェルは目を見開き、きょとんとした。しかし、すぐに優しい笑顔を浮かべると、あたたかい声で答えた。
「もちろんよ」
 その言葉を聞いて、アンジェリカは少し照れ笑いしながらほっと息をついた。

「さあ、どうぞ」
 レイチェルに促されて、アンジェリカは両親の寝室に足を踏み入れた。もちろん初めてというわけではないが、あまりここに入ることはなかった。前に来たのは数年前――アカデミー入学以前である。だが、そのときに見た光景とほとんど変わっていない。懐かしさを感じながら、彼女はベッドにもぐり込んだ。レイチェルも、明かりを消すと、反対側からベッドに入った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 ふたりは挨拶を交わすと、暗い中でおでこを合わせ、にっこりと笑いあった。

「……きれいな髪」
 アンジェリカは唐突にぽつりとつぶやいた。
「え?」
 もう眠ったかと思っていた娘の声に、レイチェルは少し驚いて振り向いた。アンジェリカは横になったまま、彼女の長い髪を指でなぞった。カーテンの隙間からわずかに漏れ入る月明かりが、その柔らかな金の髪をほんのりと白く光らせる。まるで上品なプラチナを思わせる輝き。それは、神秘的とさえ形容できるものだった。アンジェリカは小さくため息をついた。
「本当にきれい」
「アンジェリカ、あなたの髪もきれいよ」
 レイチェルは感情を込めてそう言うと、彼女の手をとり包み込んだ。だが、その返答は素っ気ないものだった。
「そうかしら?」
 彼女の言葉には否定的な響きが含まれていた。それでもレイチェルはあきらめなかった。黒髪をゆっくりと撫でながら、にっこりと笑いかけた。
「私は好きだわ」
「この髪のせいで、お父さんとお母さんに迷惑を掛けてる」
 アンジェリカは眉根を寄せた。レイチェルは彼女の額に、自らの額をコツンと付けた。
「あなたに迷惑を掛けられたなんて、少しも思っていないわ」
「でも、事実よ」
「あなたのせいじゃない」
 ピシャリと言い放ち、そっとアンジェリカの頭を抱き寄せる。
「誰かのせいにしたいのなら、私を責めて」
 アンジェリカは目を見開き、息を呑んだ。耳元で静かに落とされた母親の声は、何かを深いものを秘めているように感じた。つらいのは自分だけではない。そんなことはわかっていたつもりだったのに。こんなことを言っても困らせるだけなのに――。
「でもね」
 アンジェリカが謝ろうとした矢先に、再びレイチェルが口を開いた。抱えていた娘の頭を離し、まっすぐに黒い瞳を覗き込む。
「私は、あなたが私の……私たちの娘でよかった、心からそう思っているわ。それは信じて」
 アンジェリカの胸に、熱いものがこみ上げてきた。自分が不安になったとき、信じられなくなったとき、黒い気持ちが沸き上がったとき――そんなときはいつだって、父も母も、迷わずそう言ってくれた。何度も何度もこの言葉に救われた。そして、今も――。
「私も、お父さんとお母さんの娘でよかった……って……」
 うっすらと潤んだ目を細め、言葉を詰まらせる。レイチェルは優しく微笑み、娘の頬にそっと手をのせた。
「何か、あったの?」
 そう尋ねられるのも仕方ないとアンジェリカは思った。一緒に寝たいなどと言ったのは初めてだったし、普段は触れないようにしている髪の色の話題を持ち出したり、確かに普通ではなかった。
 そして、実際に“何か”あった。
 きのうの出来事が頭をよぎる。曾祖父のこと、ジークのこと――。
「……私、ジークにひどいことを言ってしまったの」
 天井を見つめ、掛け布団をぎゅっと握りしめた。
「悪いことをしたと思うなら、素直に謝ることね」
 レイチェルは穏やかな口調で、諭すように言った。アンジェリカは口元まで布団を引き寄せた。
「許してくれるかしら」
 横目でちらりと母親を窺う。
「さあ、それはわからないわ。ジークさんが決めることだから」
 穏やかな声だが、その内容は厳しいものだった。アンジェリカはわずかに顔を曇らせた。レイチェルは彼女の前髪を、ゆっくりと掻き上げた。
「でもね、謝るということは、許しを請う行為ではなくて、自分の非を認めてそれを伝える行為なのよ」
 アンジェリカははっと目を見開いた。
「だから、許してくれるかを考えて行動するのは、間違ってるんじゃないかしら」
 レイチェルは淡々と言った。だが、その言葉には優しさがあふれていた。アンジェリカも十分にそれを感じとっていた。
「そうね、そうよね」
 彼女は自らに言い聞かせるように言った。そんな娘を見て、レイチェルは包み込むように笑いかけた。
「お母さん……」
 アンジェリカは母親の胸元に顔を寄せた。あたたかく、柔らかい。
「もっと、こうやって甘えてくればよかった」
「今からでも遅くないんじゃない?」
 レイチェルは彼女の背中に手をまわし抱き寄せた。アンジェリカはぬくもりの中でゆっくりと目を閉じた。

 目の覚めるような冷たい空気が頬を刺す。空が白み始めた中を、サイファは家路についていた。
 さすがに疲れたな――。
 首をまわし、凝り固まった肩をほぐすと、小さく息をついた。このところ仕事が忙しいうえ、ラグランジェ家の雑務や個人的な調べものなどで、帰りの遅い日が続いている。今日のように明け方になることもたびたびあった。普通ならいっそ帰らないという選択肢もあるだろうが、彼には考えられなかった。どんなに短い時間であったとしても帰りたい、帰ってレイチェルの顔を見たいという思いが強かった。
 サイファは裏口から家へ入った。静まり返った広い屋敷に、乾いた靴音が響く。かろうじて足元が見えるくらいの薄明かりの中を、まっすぐ寝室へと歩いていく。
 ギ……。
 サイファはそろそろと扉を押し開けた。音を立てないよう足先に神経を集めながら、そっと中に入る。
 ――アンジェリカ?
 レイチェルに寄り添う黒い頭が目に入り、一瞬、息が止まった。だが、ベッドを覗き込み彼女であることを確認すると、安堵して胸を撫で下ろした。なぜここにいるのかという疑問が頭をかすめたが、すやすやと眠っているふたりを見ていると、そんなことはどうでもよくなった。自然と頬が緩んでくる。疲れさえも忘れてしまう。いつまでもこの光景を見ていたい、そんな思いにとらわれた。
「う……ん……」
 アンジェリカは小さく声を漏らしながら、寝返りを打った。そして、ぼんやりと目を開いた。
「お父さん?」
「ごめんね、起こしてしまったね」
 サイファはしゃがんで彼女を覗き込み、にっこりと笑いかけた。アンジェリカは目をこすりながら、あたりを見回した。
「そうだわ……ここはお父さんとお母さんの寝室……」
 いまだにはっきりしない頭で、確かめるようにつぶやくと、ぼうっとしながら体を起こした。
「ごめんなさい、自分の部屋に戻るわ」
「いや、ここにいてくれ」
 不思議そうな顔を向けるアンジェリカの頬に、サイファは手を添えた。
「ひとつのベッドに三人並んで寝るのも、たまには悪くないだろう? アンジェリカは嫌か?」
「ううん、嬉しい」
 アンジェリカは眠そうな声でゆったり答えると、とろけるように微笑んだ。そして、彼の袖を掴み、自分の方へ引っ張った。
「急かさなくても逃げはしないよ。まずは着替えないと……」
 サイファはそう言いかけて、思い直した。とりあえずはこのままでもいいか。アンジェリカが寝ついてから着替えればいい――。ふっと表情を緩めると、彼女にせがまれるままベッドに入り、その隣に体を横たえた。ふたりは顔を見合わせて、小さく笑いあった。
「お父さん、大好きよ」
 囁くようにそう告げられて、サイファはくすぐったいものを感じた。愛おしげに目を細め、微笑みかける。そして、彼女を抱き寄せると、やわらかな頬にそっと口づけた。

 しばらくすると、アンジェリカは父親の胸の中で、静かに寝息を立て始めた。サイファは優しく彼女の頭に手をまわした。
 いつのまにか目を覚ましていたレイチェルは、そんな彼を見て、にっこり微笑んでいた。それに気づいたサイファも微笑みを返した。言葉はなくとも、ふたりにはそれだけで通じ合うものがあった。