遠くの光に踵を上げて

62. 捩れた一途

 コン、コン――。
 魔導省の塔。その最上階の一室がゆっくりとノックされた。それに続き、若い男の声が、固く張り上げられた。
「カイル=ハワードです」
「入りたまえ」
 机に向かい書類を眺めていたサイファは、手を止めず静かに答えた。
 一拍ののち、おずおずと扉が開き、カイルと名乗った男が入ってきた。彼は、サイファと同じ濃青色の上下を身につけていた。緊張した面持ちで一礼すると、背筋をすっと伸ばした。そのまま息を止め、次の言葉を待つ。
「君は魔導、医学、工学のいずれにも通じているそうだな」
 サイファは顔を上げ、まっすぐカイルの瞳を見つめた。彼の顔はたちまち上気した。
「はい。すべてアカデミー終了程度です」
「君には今日一日、私と行動をともにしてもらう」
「えっ?」
 思いがけない指示に、カイルは目を見開いて聞き返した。サイファはきびきびと端的に説明を始めた。
「アカデミー魔導全科で、対戦型 VRMを使用し試験を行うことになっているのだが、その VRMの設定と試験の監視を我々が行う」
 カイルは頬を赤らめたまま、ぱっと表情を明るくした。
「はいっ! 光栄です! 頑張ります!」
 鳶色の瞳を輝かせ、力を込めて畳み掛けるように答えた。
 サイファは二枚の書類を差し出した。
「私が作った設定案だ。確認をして、問題があれば指摘してほしい」
 カイルは前に進み、両手で受け取ると、その紙に視線を落とした。赤みがかった茶髪がさらりと頬にかかる。先ほどとは別人のような真剣なまなざしで、ひとつひとつ丁寧に、しかし素早く目を通していった。
「リミット値が若干低めですが、アカデミー生が対象なら妥当な線でしょう。問題はありません」
 そう言って顔を上げ、サイファに書類を返した。
「よし、これで行くとしよう」
 彼は、受け取った書類をファイルにはさみ、小脇に抱えた。
「これから実機に設定をしに行く。ついて来い」
「はい」
 颯爽と歩くサイファの後ろを、カイルは小走りでついていった。

 サイファたちは、アカデミー校舎の隅にある、ヴァーチャルマシンルームへと足を進めた。そこには VRMの白いコクピットがずらりと並んでいた。人間どうしの対戦用ではなく、コンピュータが相手をするものだ。そのうちのいくつかは蓋が閉じていた。まだ始業前だが、生徒が自主訓練をしているらしい。
 ふたりはその間を突っ切り、奥の扉へとやってきた。普段は鍵がかかっていて、立ち入りが禁止されている場所だ。しかし今日は鍵が外れている。サイファは扉を開け、薄暗い部屋へと踏み入った。カイルもすぐあとに続いた。
「遅いぞ」
 狭い部屋の奥で、腕を組んだラウルが待ち構えていた。彼の両隣にはコクピット、頭上には大きな薄型ディスプレイが架かっている。サイファはにっこりと笑顔を見せた。
「そう時間はかからないよ。優秀なパートナーが一緒だからな」
 カイルは後ろで嬉しそうに頬を紅潮させた。前に一歩踏み出し、ラウルを見上げた。
「カイル=ハワードです。よろしくお願いします」
 礼儀正しく挨拶をすると、深々とお辞儀をした。しかし、ラウルは冷たく一瞥しただけで、背を向け歩き出した。
「いつもああだ。気にするな」
「はい……」
 サイファは落ち込むカイルの肩を軽くたたき、ラウルの後に続いた。カイルもしょんぼりしながら、その後についていった。
 三人は、奥にある小さめの扉をくぐり、さらに狭くて暗い部屋へと進んだ。数人がやっと入れるくらいの広さだ。窓はなく、上に小さな電球がひとつあるだけである。部屋の中央には、古めかしい傷だらけの木机が幅を取っていた。その上には旧式の厚ぼったいモニタが鎮座している。机もモニタもまだらに埃を被っているが、画面部分だけは丁寧に拭かれているようだ。向かいには、薄汚れた二人掛けのソファが、取ってつけたように置かれていた。
「急ごしらえだが、一応モニタールームだ。ここで我々が監視を行う」
 サイファはソファの背もたれに手を置いた。
「生徒たちに重圧を与えることのないよう、我々は姿を見せない。いいな」
「はい」
 カイルはうなずきながら返事をした。サイファは、ラウルに振り向き尋ねた。
「設定もここで出来るのか?」
「ああ、そうしておいた」
 ラウルは木机の下の棚からキーボードを取り出し、モニタの前に置いた。サイファは、手にしていたファイルをカイルに渡した。
「設定の方法はわかるか?」
「はい。何度かやったことがありますので」
「では、君に任せるよ」
「はいっ!」
 カイルは顔を輝かせて歯切れよく返事をした。ファイルを机の上に広げ、モニタの電源を入れると、立ったまま中腰でキーボードを打ち始めた。なめらかに動く彼の指とともに、キーボードが軽快な音を立てる。それに連動するように、モニタではウィンドウが次々と開いては消えていった。

「どこへ行く」
 無言で立ち去ろうとしていたラウルを、サイファがきつい口調で呼び止めた。
 ラウルは扉に手を掛けたままわずかに振り向くと、冷たく威圧するような視線を送った。
「そろそろ始業時間だ。戻るまでにセッティングしておけ」
「そういう命令口調は感心しないな」
 サイファは、腕を組んで壁に寄りかかった。そして、含みを持った挑発的な表情を浮かべた。ラウルはムッとして睨みつけた。
「話ならあとで聞く」
 いらついたように言い捨てると、長髪をなびかせながら部屋を出ていった。サイファは眉をひそめて彼の背を見送ると、腕を組んだまま深くうつむいた。小さくため息をつく。
「カイル、手が止まっているぞ」
「あ、すみません! もうすぐ終わります!」
 彼はあわててモニタに向き直り、再びキーボードを叩き始めた。

 設定作業が終わり、ふたりで確認をしていると、多くの足音とざわめきが聞こえてきた。隣に生徒が入ったらしい。
「準備は出来たか」
 ラウルはふたつの部屋をつなぐ扉から顔を覗かせた。サイファは無言で右手を上げ OKサインを作って見せた。ラウルはかすかにうなずいて扉を閉めた。
 サイファはソファに腰を落とした。
「君も座れ」
「えっ……あ、はい! 失礼します!」
 嬉しいような困ったような微妙な表情で、ぎこちなくサイファの隣に腰を下ろした。二人掛けのソファゆえ、否応なく距離は近くなる。いつ肩が触れ合ってもおかしくない状態だ。カイルは口から心臓が飛び出しそうだった。息をひそめ、ちらりと隣に目を向ける。すぐ手の届くところにサイファの横顔があった。モニタからの光が、端整な輪郭をよりくっきりと浮かび上がらせている。
「私の顔に何かついているか?」
「いえっ。何でもありません」
 視線に気づいたサイファが振り向いて尋ねると、彼は逃げるように前に向き直った。
「危険だと判断したら即座に止める。いいな」
 サイファは、まだ何も映っていない白い画面に目を向け、冷静に言った。
「はい。でもあの設定なら、危険な状態なんてなりえませんよね」
 カイルは何気なく思ったことを口にした。しかし、サイファはそれに同意しなかった。
「人も機械も、絶対などということはありえない。気を抜くな」
「すみません……」
 カイルは自らの甘さを素直に反省した。同時に、仕事に対する厳しい姿勢を目の当たりにし、サイファへの尊敬を新たにした。
「始まるぞ」
 サイファがそう注意を促すと、向かい合うふたりの生徒がモニタに映し出された。

 監視を始めてから一時間ほどが過ぎた。問題となるようなことは何も起こっていない。この時点でちょうど半数が試験を終えていた。
「さすがにこの設定だと、早く決着がつきますね」
「そうだな。もう少しリミット値を高くしても良かったのかもしれない」
 カイルの緊張はだいぶほぐれてきていた。サイファとの会話も、次第に自然なものになっていった。
「でも、少しうらやましいです。私がアカデミー生のときは、こんなものがあることすら知りませんでした」
「あとで私と戦ってみるか?」
 サイファは前を向いたまま、まるで表情を動かさずにさらりと言った。カイルは驚いて顔を真っ赤にすると、あたふたと目を泳がせた。
「えっ?! あっ、いや、あの……。力の差がありすぎて、私では相手にならないと……」
「冗談だ」
 サイファは無表情で彼を突き放した。
「……ですよね」
 カイルは乾いた笑いを張りつかせた。安堵の息をつきながらも、どこか残念そうだった。
「次が始まるぞ」
 画面にふたりの生徒の姿が浮かび上がった。互いに身構えると、合図とともに戦い始めた。
「なかなかいいですね、彼。冷静で、防御にもそつがないですし」
 しばらくモニタを眺めていたカイルは、軽く感心したように言った。サイファもうなずいた。
「ああ、ずいぶん成長したな」
 彼のその物言いに反応し、カイルは目をぱちくりさせながら振り向いた。
「お知り合いですか?」
「モニタから目を離すな」
 カイルはあわてて前を向いた。
「娘の友人だ」
 サイファがそう答えたとき、モニタの中では、リックの放った一撃で勝負が決まっていた。
 カイルは横目で様子を窺いながら、遠慮がちに尋ねた。
「まさかこれ、お嬢さんのクラス……ですか?」
「そうだ」
 サイファは短く返事をした。そして、冷静な表情を保ったままで言葉をつなげた。
「問題ないとは思うが、万が一のときは頼む」
 カイルは一瞬きょとんとしたが、すぐにはっとした。
「わかりました! 万が一、気を失われたときは、精いっぱい介抱させていただきます!」
 今度はサイファが驚いた。思わず彼に振り向く。監視を始めて以降、モニタから目をそらせたのはこれが初めてである。ふいに、気が抜けたようにふっと笑ってうつむいた。そして再び顔を上げると、真剣なまなざしでカイルを見た。
「君が見るのは、私ではなくモニタの方だ。私に構わず監視を続けろ」
 そう言うと、一瞬だけ視線を伏せ、すぐに戻した。
「あと、私が正当な理由なく戦いを中止しようとした場合には、君がそれを阻止してくれ。いいな」
「はい」
 カイルは少しばつが悪そうに、しゅんとしていた。

「次が最後だな。ジーク、アンジェリカ」
 試験は順調に進んでいき、とうとう最後の一組となった。ラウルが名を呼ぶと、ふたりはそろって前へ進み出た。そして、互いに顔を見合わせ、何も言わずに強気にニッと笑いあった。左右に分かれて、それぞれコクピットに乗り込む。
 ――絶対に負けないわ。
 アンジェリカは表情を引き締めた。
 ――あの一ヶ月をまるまる活かせるチャンスだ。感謝するぜ、ラウル……!
 ジークははやる気持ちを抑え、大きく深呼吸をした。
 ウィィィ……ン。
 電動音とともに蓋が閉まると、前面の大きなディスプレイにふたりの姿が映し出された。リックは祈るように両手を組み、不安そうにそれを見上げた。
「始め!」
 ラウルはヘッドセットのマイクに向かって合図をした。

 ジークは身構え、呪文を唱え始めた。しかし、アンジェリカは両手を上に向けただけで、呪文の詠唱なしに天から稲妻を落としてきた。ジークは飛び込むように地に臥せ、直撃の寸前で結界を張り、かろうじてそれを防いだ。だが、安堵している暇などなかった。彼女は光の矢を容赦なく雨のように降らせた。彼の頭上とそのまわりに切れ目なく打ち込んでいく。まわりの地面が次第にえぐれていった。
 嘘だろ、もたねぇ……っ!
 身を屈めたまま、ジークはさらに二重に結界を張った。それでも結界ごしに衝撃が伝わってくる。足元も心もとなく揺れる。このままでは上の結界か下の地面か、どちらかが崩れるのは時間の問題だ。
 くそっ! どうすれば……。
 ジークは顔をしかめながら天を仰ぎ、様子をうかがっていた。
 一瞬、わずかに攻撃が途切れた。彼はその好機を逃さなかった。すばやく結界を飛び出し、大きな溝を飛び越え、アンジェリカに突進していく。彼女は冷静に腕を前に突き出すと、手のひらから大きな光球を放った。
 ジークは横に飛び退き、すんでのところでそれをよける。が、完全にはよけきれなかった。熱いものが肩をかすめ、焼けるような痛みが走った。顔を歪ませ倒れ込みながらも、短く呪文を唱え反撃をする。瞬時に彼女の両腕は厚く凍りついた。
 しかし、それよりわずかに早く、彼女は衝撃波を放っていた。ジークは地面を転がりながら攻撃をかわすと、その勢いのまま立ち上がった。そして、呪文を唱えながら、再び彼女に猛突進していく。
 グワッ!!
 アンジェリカを中心に風が起こったかと思うと、大きく渦を巻きながら、彼女を取り囲むように高く火柱が上がった。ジークは踏ん張って足を止めると、あわてて後ろに飛び退いた。あやうく火炎に巻き込まれるところだった。この炎につかまれば、完全にアウトだっただろう。
 どうする……。この炎は防御壁にもなっていて、簡単には貫けそうもない。彼女が次の行動を起こすまで待つか、それとも――。
 ジークは炎の壁の上方を見上げた。そして、決意を固めたように小さくうなずくと、短く助走をつけ強く地面を蹴った。同時に、地面に光球を叩きつけ、その反動を利用し、高く上へ飛び上がった。炎壁の倍ほどの高さで、彼の体は最高点に達した。下方に目をやると、その中央にたたずむアンジェリカの黒い頭がはっきりと見えた。
 やっぱり頭の上はガラ空きだぜ!
 ニッと笑うと、声をひそめて呪文を唱えようとした。しかしそのとき、下方で何かが白く強くキラリと光った。なんだろうと目を凝らした瞬間、その光は凄まじい勢いで自分に向かってきた。光の矢だ! かわそうにも、自由落下中では思うように素早く身動きがとれない。彼は急いで前方に結界を張った。間一髪、間に合った……かに思えたが、光の矢は軽々とその結界を突き破り、彼の腹を串刺しにした。

 ふたりを映していたディスプレイが、そこでブラックアウトした。生徒たちはみな息を呑んだ。声を上げるものは誰もいない。その部屋は、水を打ったように静まり返っていた。
 ウィィィ……ン。
 静寂を切り裂く耳障りな電動音。それとともに、ふたつのコクピットが開いていった。
 リックは固唾を飲んで、組み合わせた両手にぐっと力を込めた。

「作戦大成功!」
 アンジェリカは無邪気に笑いながら、コクピットから飛び降りた。一方、ジークは青ざめた顔で、腹を押さえながら、よろよろと降りた。額には脂汗がにじんでいる。
「ジーク、大丈夫?!」
 リックは大急ぎで駆け寄り、彼の肩に手を掛け覗き込んだ。アンジェリカは彼のただならぬ様子を目にし、顔から血の気が引いた。前回の対戦後のことがフラッシュバックする。
「なっさけねぇ……」
 ジークは引きつりながらも、なんとか笑顔を作って見せた。
「心配すんな。そう痛いわけじゃねぇよ。腹を貫通したような気持ち悪い感触が残ってるだけだ」
 しかし、彼の気分がすぐれない理由はそれだけではなかった。射抜かれる瞬間の激しい恐怖が、くっきりと脳裏に焼きついていたのだ。圧倒的な力に感じた戦慄、本能が予感した死への怯え、そして彼女に対する深い怖れ――。だが、それは言えなかったし、言ってはならないと思った。

「これで今回の試験は終わりだ。解散」
 ラウルは静まったままの生徒たちに、一方的に終了を告げた。そして、ジークに顔を向けると、ゆっくりと腕を組んだ。いつものように冷淡なまなざしで睨むように見つめる。
「来い」
 短く高圧的にそう言うと、あごをしゃくって背を向けた。
「なんだろう?」
 リックは疑問と不安が入り混じり、怪訝につぶやいた。ジークはがっくりと肩を落としていた。
「たぶん説教だ。俺、いいとこなしだったしな。一ヶ月も修業してきて、結果このザマだ。殺されるかも……」
 彼の顔はさらに青ざめていった。
「そんな! ジークだって頑張ってたよ!」
「そうよ、ジークが悪いわけじゃないわ」
 ふたりの慰めも、今のジークには響かなかった。
「おまえらは先に帰ってくれ」
 疲れたように投げやりにそう頼むと、覇気のない足どりでラウルの背中を目指し歩き出した。
 リックとアンジェリカは、心配そうに顔を見合わせた。

「お嬢さん、すごいですね……。学生の戦い方じゃないですよ」
 カイルは呆然としながら言った。
「ああ」
 まさか、ここまでとは――。サイファは前かがみになり、膝にひじをついて手を組んだ。そして、何も映っていない真っ黒のモニタを、思いつめた表情で見つめていた。
 ガチャ――。
 扉が開き、ラウルともうひとりが入ってきた。
「連れてきたぞ」
「やあ、ジーク君」
 サイファはソファから立ち上がり、にっこり笑いながら歩み寄った。暗い顔で視線を落としていたジークは、サイファの登場に思わず目を見開いた。
「サイファさん! どうして……」
「ラウルのお目付役というところかな」
 ラウルが隣で思いきり睨んでいたが、サイファはまるで視界に入っていないかのように話を続けた。
「今の試験、すべて見させてもらったよ」
 ジークはこわばった表情でうつむいた。
「気にすることはない。君は頑張ったよ」
 サイファは彼の肩をポンとたたいた。ラウルは無表情で腕を組み、冷たく付け加えた。
「浅はかな行動や愚かな判断もあったがな」
 ジークはますます落ち込んだ。
「なあ、ジーク君」
 サイファは真剣に、じっと彼を見つめた。ジークはわずかに目線を上げ、不安そうに顔を曇らせた。
「君も感じたと思うが、あの子は成長している。これからもまだ伸びるだろう」
 ジークは無言でわずかにうなずいた。
「こんなことを言うのは酷だが、君はアンジェリカには勝てない。潜在能力が違いすぎる。今日の戦いを見て実感したよ」
 サイファは淡々と語った。そして、どこか遠くを見やるように視線を空に泳がせた。ジークは口をきゅっと結んだ。
「君も知っているだろうが、魔導に関して言えば、持って生まれたものに依るところが大きい。努力だけでは乗り越えられない壁があるんだ」
 サイファの表情がけわしくなった。重く、静かに、言葉をつなげる。
「アンジェリカは計り知れない力を持って生まれてきた。私でも適わないほどの力だ。……そうだろう?」
 そう言って、ラウルに同意を求めた。鋭い視線を彼に流す。
「……そうだな」
 ラウルは眉をひそめ睨み返し、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「そういうことだ」
 サイファはジークに向き直り、急ににっこりと笑顔になった。
「もちろん、可能性を信じて挑戦しつづけるのは君の自由だが、あまり思いつめるとつらいぞ」
「戦いでは勝てないが、それ以外の試験なら可能性もないわけではないだろう。難しいと思うがな」
 ラウルは腕組みをしたままで、横から口をはさんできた。ジークは何も言葉が出なかった。ただ暗い顔でうなだれるだけだった。
「そう落ち込むな。そうだ、昼食をおごるよ」
 サイファはジークの隣に並び、彼の背中に手をまわした。そして、思い出したように、ラウルに振り向いた。
「ラウル、おまえも来るか?」
「おまえに借りを作るのはごめんだ」
「おごるとは言ってないぞ」
 ラウルは怒りをたたえた瞳で、ぞっとするほど冷たく睨みつけると、何も言わず部屋を出ていった。しかし、それに震え上がったのは無関係のジークの方で、当の本人であるサイファは平然としていた。
「カイル、明日までに報告書を作成しておいてくれ」
「あっ、はい!」
 すっかり傍観者となっていたカイルは、突然に話を振られ、少しうろたえた。今が仕事中であることをすっかり忘れていた。
「さ、行こうか、ジーク君」
 サイファは彼の肩を抱き、ふたりで部屋を出ていった。
 カイルはうらやましそうにその光景を眺めながら、いろいろ考えをめぐらせていた。サイファと少年はどういう関係なのだろうか。ラウルとの間には何かあるのだろうか。自分はお昼ごはんに誘われもしなかった……。そして、薄暗いモニタールームにひとり取り残された事実に気がつくと、泣きたい気持ちでため息をついた。
「こんなところに呼び出して、どういうつもりだ」
 レオナルドは扉に背をくっつけ、こわばった面持ちで前を睨んだ。彼の視線の先には、頬杖をつき、何かの書類に目を落とすサイファがいた。ここは魔導省・最上階にある彼の個室である。背後の大きなガラス窓から見える空は紅に染まり、沈みゆく陽の光は最後の悪あがきのように強い輝きを放っていた。そして、赤みを帯びた逆光が、彼の濃青色の上着をふちどり、鮮やかな金の髪をよりいっそう眩しく煌めかせた。
「ひどいものだな。どれもこれも地を這っている」
 サイファは呆れ顔でため息まじりに言った。レオナルドは、初めは何のことだかわからず怪訝に眉をひそめていたが、しばらくしてはっと気がついた。青ざめたひたいに脂汗がにじんだ。
「まさか、それ……」
「おまえの成績表だ」
 サイファはひじをついたまま、無表情で書面を彼に向けた。レオナルドはカッと顔が熱くなると同時に、全身から血の気が引くのを感じた。
「き……汚いぞ!! 職権濫用だ!! そこまでして俺を馬鹿にしたいのか!!」
 狼狽しながら噛みつくレオナルドに、サイファは鋭く冷たい視線を突き刺した。
「自惚れるな。おまえごときのために、そんな労力を使うと思うか」
 静かだが威圧的な口調。レオナルドは息を詰まらせたじろいだ。ごくりと唾を飲み込む。
「じゃあ、何でそれがおまえの手元にある」
 上目遣いでじっと睨み、低く抑えた声で問いかけた。
 サイファはわずかに右の口端を上げた。
「おまえの担任が持ってきたんだよ」
「なっ……」
 思いもよらない答えに、レオナルドは絶句した。なぜ担任が……。彼には皆目見当がつかなかった。
「親のところに行っても取り合ってもらえず、ラグランジェ家当主である私に泣きついてきたというわけだ」
 サイファは涼しい顔でそう言うと、ゆったりと背もたれに身を沈めた。
「かわいそうに、必死だよ。名門ラグランジェ家の者を留年させるわけにはいかないと重圧を感じているようだ。特別措置で進級させ、補習を受けさせているが、それもずるけることが多い。いつまでたっても一向にやる気を見せない。このままでは、今度こそ留年させざるをえないそうだ」
 レオナルドはいまいましげに歯噛みしてうつむいた。耳元から次第に紅潮していく。それでも精一杯の反発心を口にした。
「ラグランジェの名前に泥を塗るなとでもいいたいのか、ご当主サマ」
「特別扱いせず、遠慮なく落とすよう言っておいた」
 サイファは、レオナルドが言い終わるか終わらないかのうちに、それを打ち消すような強い語調で言った。
「なに?!」
 レオナルドは顔を上げ、目を見開いた。サイファは厳しい視線を彼に向けた。
「当然だろう。アカデミーはすべての生徒が平等であるべき場所だ。ラグランジェの名前に胡座をかく奴など、いるべきではない」
 一分の隙も迷いもない表情で、容赦なく言い放った。
「俺はあぐらなんてかいていない!」
 レオナルドは感情的に言い返した。しかし、それはなんの釈明にもなっていなかった。
「特別措置であることはおまえに伝えてある、担任はそう言っていた。ならば当然ラグランジェの名前に救われている自覚はあったのだろう。そのうえで何の努力もしないというのはどう説明する」
 サイファは論理的に問いつめた。完全に図星をつかれたレオナルドに、反論する余地はなかった。だが、素直に反省をする彼ではない。青い瞳を激しくたぎらせ、燃やし尽くさんばかりの勢いで目の前の当主を睨みつけた。
 しかしサイファはまるで意に介さず、冷淡なくらいに平静だった。レオナルドが何も言い返せないのを確認すると、彼を見据えたまま、さらに別の話題を持ち出した。
「今、ユールベルのところに転がり込んでいるそうだな」
「なっ……おまえには関係ないだろう」
 レオナルドは強気に言い返しつつも、胸の内は大きくざわめいていた。
「出ていけ」
 予想どおりの言葉がサイファの口から発せられた。しかし、予想以上にきつく端的な物言いだった。
 レオナルドは奥歯を噛みしめ、キッと睨みつけた。
「そんなことまで口を出される筋合いはない!」
 自分の気持ちを奮い立たせるように、大きく声を張り上げた。対抗するすべはそのくらいしかなかった。しかし、それもサイファの前では徒労に終わった。
「私は彼女の親代わりだ。彼女のためにならないものは排除するさ。それに、あの部屋は彼女と弟のために用意したものであって、おまえのためではない」
 彼は一気にそう言うと、ぞっとするほど冷酷なまなざしでレオナルドを睨めつけた。
「偉そうに言うのは、一人前になってからにしてもらおうか」
 有無を言わさぬ圧倒的な迫力。レオナルドは背筋に寒気が走り、腹の底に冷たいものが落ち込んだ。額から頬に汗が伝う。怯えたように目をそらし顔を歪ませると、小さくうわごとのようにつぶやいた。
「昔からおまえは嫌な奴だった。俺を目の敵にしていた。今だって俺のことを……」
「ああ、嫌いだよ」
 サイファは事もなげに言った。あまりにはっきり認めたので、レオナルドは思わず動揺した。そして、言いしれぬ不安と恐怖が沸き上がってきた。

 レオナルドは疲弊した心を引きずって帰ってきた。帰るといっても自分の家ではない。ユールベルと彼女の弟アンソニーの住まいである。彼は当然のように自ら鍵を開け、中に入った。
「ユールベル?」
 彼女は窓際の床に座り込み、空を見上げてぼうっとしていた。わずかに開いた窓の隙間から風が流れ込み、緩やかなウェーブを描いた金の髪を揺らす。
「アンソニーは?」
 レオナルドは部屋を見回しながら尋ねた。
「買い物に出ているわ」
 ユールベルは空に目を向けたまま、ぽつりと答えた。レオナルドは彼女に近づき、その隣に腰を下ろそうとした。
「いつまでこんなことを続けるの」
 彼女のかぼそい声が、彼の動きを止めた。中腰のまま、彼女に振り向く。彼女はまだガラス越しの空を見上げていた。
「逃げてばかりでは何の解決にもならないわ。私たちにとっても、こんな……」
 レオナルドの表情が立ち所にけわしくなっていった。
「出ていけっていうのか?」
 ユールベルは何も答えなかった。レオナルドはそれを答えと受け取った。
「そうか、サイファに何か言われたんだろう! 何を言われた?!」
 細い手首をきつく掴み、感情を高ぶらせ迫りかかる。
 ユールベルは顔をそむけ、眉間にしわを寄せた。
「何のこと?! 痛い、離してっ……」
「それともジークか?! まだあいつのことを!」
 レオナルドは激昂し、一方的に問いつめた。ユールベルは両手首を掴まれたまま逃れようともがいた。しかしそれは叶わず、バランスを崩し、後ろに倒れ込んだ。後頭部を打ちつけ、痛みに顔を歪ませる。床には、金の髪と白い包帯が広がった。それでもレオナルドは引かなかった。彼女の上に乗りかかり、我を忘れたかのように責めたてる。
「答えろ! どうなんだ!!」
「何してるんだ!!」
 外から戻ったアンソニーが、目を見張り、大声で叫んだ。部屋に駆け込むと、自分より大きなレオナルドを必死にユールベルから引き離した。まだ幼さの残る顔に、激しい怒りを広げる。
「行くところがないっていうから仕方なく置いてやっていたのに! 恩知らず!! 出ていけっ!!」
「待て、待ってくれ、悪かった」
 ようやく我にかえったレオナルドは、後悔の表情を浮かべ、うろたえながら懇願した。しかし、アンソニーは問答無用で外に押し出すと、扉をばたんと閉めた。それとほぼ同時に、ガチャと鍵をかける音がした。
「おいっ! 待て!!」
 バチッ――ドアに手を伸ばしたレオナルドの手は、すんでのところで弾かれた。その手を抱え込み、よろよろと後ずさる。
「こんな強力な結界まで張りやがって……」
 彼は赤く焼けた手のひらをじっと見つめ、惨めな思いでうなだれた。

「姉さん、大丈夫?」
 アンソニーは手を差しのべて、ユールベルを助け起こした。彼女は無造作な横座りのまま、表情を隠すように、顔をそむけうつむいた。緩くなった左目の包帯を、右手で押さえる。
「レオナルドを怒らないで。……悪いのは、私なの」
「姉さんは悪くない!」
 アンソニーは力を込めてそう言うと、彼女の隣に膝をつき覗き込んだ。
「どんな理由があっても暴力はダメだって、そう教えてくれたのは姉さんじゃないか」
 ユールベルは肩を震わせた。白いワンピースの上に、いくつもの雫を落とす。
「僕が、姉さんを守るから」
 アンソニーはひたむきな瞳を彼女に向けた。しかし、彼女はすすり泣きながら、かすかに首を横に振っていた。

 レオナルドには行くあてがなかった。それでも家へ帰る気は起きない。ぶらぶらとあたりを歩いているうちに、足は無意識にアカデミーへと向かっていた。門をくぐり、閑散とした校庭を歩いていると、聞き覚えのある声が耳に入った。はっとして顔を上げる。そして、苦々しく眉をひそめた。
「いい気なものだな」
 楽しそうに話をしながら歩いていたジーク、アンジェリカ、リックは、いっせいに顔を曇らせた。しかし、ジークは一睨みしただけで、言葉を返すことなく通り過ぎた。
「待て」
 レオナルドはジークの腕を掴んだ。しかし、ジークは間髪入れず振りほどいた。
「おまえと言い争う気分じゃねぇ」
 面倒くさそうにそう言って、アンジェリカの腕を引き、さっさとその場を立ち去ろうとした。だが、レオナルドは肩に手をかけ、再び引き止めた。
「話がある。一緒に来てもらおうか」
「俺はおまえと話なんてしたくねぇんだよ」
 ジークはうっとうしそうに顔をしかめ、肩にのせられた手を払いのけた。レオナルドはニヤリと不敵に笑った。
「ここで話してもいいのか」
 そう言うと、ちらりとアンジェリカに視線を流した。ジークは腹立たしげに眉間にしわを寄せた。
「わかった」
 苦渋に満ちた声で返事をすると、アンジェリカの腕を離した。
「おまえらは先に帰ってろ」
「レオナルドなんか無視すればいいじゃない」
 アンジェリカは、ジークがなぜ承諾したのかがわかっていなかった。ジークは心配をかけまいと、軽く笑顔を作ってみせた。
「心配すんな。適当にあしらってくる」
 さよならの代わりに右手を上げると、レオナルドの後について校庭の向こうへ歩いていった。
「何の話かしら」
「うーん、ただ因縁をつけてきただけじゃないかなぁ」
 リックは、不安そうにしているアンジェリカに、にっこりと笑いかけた。
「気になる?」
「ちょっとね」
 アンジェリカは肩をすくめた。
「でもいいわ。どうせたいしたことじゃないだろうから!」
 軽やかにステップを踏みながら、吹っ切るように明るくそう言い、くるりと振り返ってリックに笑いかけた。彼も笑顔を返した。
「大人になったね」
「何よそれ。誉めてるの? けなしてるの?」
 アンジェリカは顔を赤らめながら口をとがらせた。

 レオナルドとジークは、アカデミーの隅にある小さな教会の前に来ていた。
「懺悔でもするつもりかよ」
「おまえを懺悔させるのさ」
 ふたりはさっそく火花を散らしていた。
 レオナルドは教会の扉を開け、中へ足を踏み入れた。ジークもすぐ後に続く。案の定、中には誰もいなかった。ジークは入口横の壁にもたれかかると、腕を組んだ。
「で、何の話だ。早くしてくれよ。テメーと一緒にいるだけで胸くそわりぃんだ」
 レオナルドの言動からして、アンジェリカに関する話である可能性が高い。不安と緊張を感じつつも、それを見せないようぶっきらぼうな態度を装った。
 レオナルドも愛想なくジークを見た。
「アンジェリカとはどうなっている」
「はぁ?」
 ジークは素頓狂な声をあげた。耳元を赤らめながら困惑する。
「なんでおまえにそんなこと言わなきゃなんねぇんだ!」
「やっぱりな」
 レオナルドはわざとらしく大きくため息をついた。ジークはカッとして、ますます顔を赤くした。
「どういう意味だ」
「おまえがそんな中途半端な態度をとりつづけるせいだ」
 一向に話が見えてこない。ジークは苛立ちを募らせていった。
「わかるように言え!」
「ユールベルだ! いつまで彼女を苦しめれば気がすむ!」
 レオナルドは強い口調で責めたてた。しかし、それを聞いたジークは、気が抜けたようにため息をついた。
「あきれたヤツだ」
 レオナルドはぴくりと眉を動かした。ジークは彼に冷ややかに話を続けた。
「俺を責める前に自分を振り返れ、バカ。ユールベルを苦しめてんのはおまえじゃねぇのかよ」
「なんだと?!」
「おまえと一緒にいて楽しそうに見えたことがねぇぜ」
 事実を突きつけられ、レオナルドはひどくうろたえた。
「そっ……それは、おまえのせいだろう!」
「つきあってられるか」
 ジークは呆れ返って吐き捨てると、レオナルドに背を向けた。
「待て!」
 レオナルドはジークの腕を掴んだ。しかし、ジークは即座にそれを振り払った。そして、顔をしかめ、思いきり睨みつけた。
「俺にどうしろって言うんだ。ユールベルに、おまえには興味がねぇから俺のことはいいかげんに忘れろ、とでも言えば満足なのか?」
 レオナルドは答えに窮した。
「懺悔でもしてろ」
 ジークは捨て台詞を残し、再び踵を返した。レオナルドは歯ぎしりをして、その背中を睨みつけた。
「偉そうに……! おまえにはひとつも懺悔することはないというのか」
「あいにく俺は神なんて信じてねぇんだよ」
 ジークは振り返ることなく答えると、重量感のある扉を押し開けた。教会の中央を光の帯が伸びていき、奥の祭壇を照らす。しかし、すぐにその光は細くなり、バタンという音と同時に消えてなくなった。そして、光とともにジークも消えていた。

「おじさま……」
 ユールベルはおずおずと扉を開けた。サイファは彼女に気がつくと、にっこり穏和な笑顔を見せた。
「やあ、ユールベル。どうした?」
「おじさま、あの……レオナルドが……」
 一瞬、彼の表情に陰が走った。

 サイファはユールベルを隣に座らせ、詳しい話を聞いた。
「そうか、タイミングが悪かったね。私も彼に同じようなことを言ったばかりなんだよ」
 優しくそう言うと、ゆっくりと頭を撫でた。それでも彼女の表情は晴れなかった。
「私、どうしてあんなことを言って……。居場所のなかった私を、レオナルドは助けてくれたのに。恩知らずは私の方だわ」
 彼女はうつむき、自嘲ぎみにつぶやいた。
 サイファは真摯な表情で彼女の肩に手をのせ、ぐっと力を込めた。そして、覗き込みながら、説き伏せるように語りかける。
「君がそう恩義を感じることはないよ。彼が好き好んでやったことだ。第一、彼は君の心までは救えなかった。そうだろう?」
 ユールベルはきつく目を閉じ、何度も首を横に振った。
「でも、レオナルドだけだったのよ、私の話を聞いてくれたのは……私に温もりをくれたのは!」
 白いワンピースの裾をぎゅっとつかむと、細い肩を震わせしゃくり上げた。サイファはやるせない思いで彼女を見つめた。
「すまなかった」
 涙で濡れた彼女の頬にそっと触れ、そして静かに抱き寄せた。ユールベルは温かく緩やかな鼓動を、頬を伝って感じた。自分の鼓動もそれに同調していく。心地よさを感じながら、とめどなく涙があふれた。
「私は、レオナルドの気持ちを利用していたのかもしれない」
 落ち着きを取り戻したユールベルは、サイファに寄りかかりながら、つぶやくように言った。サイファは彼女の頭を片手で抱え込んだ。
「そんなふうに考えるな。君は何も悪くない。彼の方こそ君の気持ちを利用している」
「おじさま……」
「ユールベル、感謝の気持ちと人を好きになる気持ちは別物なんだ」
 彼女は顔を上げ、無垢な子供のような瞳をサイファに向けた。
「君がそれを自覚し、偽りのない気持ちをレオナルドに伝える。そのうえで感謝は感謝として、それなりの態度で示せばいい」
 サイファはにっこり笑って、彼女の頭に手をのせた。

 ガチャ――。
 ノックもなしに扉が開き、ラウルが入ってきた。彼はユールベルを目にしても、少しも反応することはなかった。まるきり眼中にない様子で足を進めた。
「あとにしてくれないか」
 サイファは感情なく言った。しかし、ラウルが返答するより前に、ユールベルが口をはさんだ。
「いいわ、私、帰るから」
 凍てついた表情で立ち上がり、髪をなびかせ早足で扉へ向かった。
「あなたなんか大嫌い」
 すれ違いざま、ラウルをきつく睨み上げた。そして扉を開け外に出ると、振り返りざま、もういちど彼を睨みつけた。そして、怒りをぶつけるようにバタンと大きな音を立てて扉を閉めた。
 サイファは頬杖をつき、にこにこしながらラウルを見た。
「彼女なりの甘え方だな、あれは」
「いや、本気で嫌っているはずだ」
 ラウルは素っ気なく答えると、机の上に書類を投げ置いた。
「彼女の診療記録だ」
 サイファはそれを手に取り、目を落とした。
「長い間、幽閉され人と関わることがなかったんだ。感情のコントロールが出来なかったり、極端な行動に出たり、矛盾した言動をとったりするのも無理はない。まだ小さな子供みたいなものだよ」
 書類を読み進めながら、彼は淡々と言った。
「それだけではないだろう」
 ラウルは腕を組んで、彼を見下ろした。サイファは手を止め、顔を上げた。
「ああ、だがそれも幼く不安定なものだ。おまえはわかっていたのだろう。だから拒絶することも受け入れることもしなかった」
 ラウルは無表情のまま何も答えなかった。サイファは背もたれに寄りかかり、目を細め遠くを見やった。
「もっと、守ってやるべきだったな」
「おまえはよくやっている」
 ラウルの言葉に、サイファはふっと表情を弛めた。
「おまえに慰められるとは、私も落ちたものだな」
 茶化すようにそう言うと、にっこりと笑いかけた。

 レオナルドはひとり教会に残っていた。ここを出ても行くあてがない。途方にくれ、最後列の長椅子に座り、ぼうっとしていた。
 ギィ……。
 かすかな軋み音とともに、中央に光が差し込んできた。誰かが入ってきたらしい。レオナルドは外に出ようと立ち上がった。
「レオナルド?! どうしてここに……」
 レオナルドはその声に敏感に反応し、勢いよく振り返った。
「ユールベル?!」
 彼女はぽかんとして立ち尽くしていた。レオナルドももちろん驚いた。だが、それよりも、とにかく謝らなければという思いが大きかった。
「さっきは悪かった。どうかしていた。許してくれ」
 唐突にそんな言葉が口をついた。ユールベルは思い出したように、表情に暗い陰を落とした。
「私も、ごめんなさい……」
 続けて何かを言おうとしたが、彼女は躊躇して言葉を飲み込んだ。レオナルドはその様子を見逃さなかった。
「もうあんなことはしない。冷静に聞くから言ってくれ」
 落ち着きを見せながらそう言ったものの、心の中は慄然としていた。心臓は早鐘のように打っていた。
 ユールベルはしばらく考え込んだあと、ためらいがちに口を開いた。
「……私、やっぱりあなたの気持ちに応えることは出来ないと思う」
 わかっていた。わかっていたこととはいえ、彼女の口からあらためてはっきり聞かされると、やはりショックだった。
「ジークか」
 感情的にならないよう、抑えた口調で尋ねる。ユールベルは目を伏せた。
「とっくにあきらめている。わかっているわ。でも、気持ちはどうしようもないの」
「それは俺も同じだ。でも俺は……あきらめない」
「……」
 静かに決意を口にするレオナルドを見て、ユールベルは胸が詰まりそうになった。目を細めて彼を見つめる。そして、小さく声を漏らした。
「勉強……そう、一緒に勉強しましょう」
「……勉強?」
 レオナルドは面くらった。話のつながりが見えない。
「レオナルドには、言葉で言い尽くせないほど感謝しているわ。だから、力になりたいと思っているの。だから……」
 ユールベルは真剣に訴えた。だが、彼の表情はみるみるうちに陰っていった。
「サイファに言われたんだな」
「私の意思よ」
 強い光を秘めた右目を彼に向け、きっぱりと言い切った。
「拒絶しておきながら力になりたいなんて、自分勝手だと思うけれど……」
「いや、嬉しいよ」
 レオナルドは穏やかに表情を和らげた。ユールベルは固い面持ちの中に、わずかに安堵を覗かせ、小さく息をついた。
「言っただろう、俺はあきらめていないと。それに……」
 感情を抑えたまなざしを、扉の方に向ける。
「これ以上、ジークに馬鹿にされたくないしな。サイファも見返してやりたい」
 レオナルドは静かに闘志を燃やしていた。
「よろしく頼む」
 差し出された右手を見て、ユールベルはとまどった。自信なさそうに、迷いながら右手を上げていく。レオナルドはその手をとり、優しく握った。
「ユールベル、おまえと一緒なら、おまえがそう言ってくれるなら、やれそうな気がする」
 まっすぐに彼女を見つめ、少し緊張ぎみに、だがしっかりとした口調で言う。ユールベルは胸の中にあたたかいものが広がるのを感じた。傷だらけの乾いた心に沁み込む満ち足りた思い。自分を必要としてくれている――。そのことを初めて実感した。柔らかく、彼の右手を握り返す。
「今まで、近づきすぎて見えなかったのかも」
 彼女はぽつりとつぶやいた。
「なんのことだ?」
 レオナルドは怪訝に尋ねた。彼女はつないだ手に視線を落とした。
「ちょうどいい距離を見つけたかもしれない……ということよ」
「意味がさっぱりわからないが……」
 難しい顔で首をかしげるレオナルドに、ユールベルはそっと微笑みかけた。ややぎこちないものの、作り物ではなく、心からの温かい笑顔。
 レオナルドははっとして顔を上気させた。彼が初めて見る表情だった。その笑顔の理由はわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。とにかく単純に嬉しかった。ずっとこの笑顔を待ち望んでいたのだ。彼は目頭が熱くなっていくのを感じた。
「レオナルド?」
「希望が見えた気がする……勉強、頑張るよ」
 レオナルドはうつむき、かすかに震える声で言った。