東京ラビリンス

54. 幻の終焉

 本日午後十時、橘美咲女史所有の「其の瞳に映るもの」を戴きます。
 なお、これをもって怪盗ファントムは完全引退いたします。
 最後となるこのパフォーマンスを、どうぞ存分にお楽しみください。

 それが、怪盗ファントムが送ってきたとされる予告状の内容である。
 どうやら美咲の死を公表した直後に届いたらしい。標的は、美咲の父親である故・相沢修平の作品で、彼女の少女時代を印象的に描いた油彩だ。美咲の死亡を公表した直後というタイミングで、怪盗ファントムの完全引退という話題もあり、かなりの注目を集めていると思われる。屋敷の前には、あふれんばかりの野次馬がひしめき合っていた。
 世間の声は橘に同情的なようだ。対して、怪盗ファントムには批判的である。自らの引退に話題性を与えるために、美咲の死を利用したと思われているのだ。ただ、それでも怪盗ファントムの人気は根強く、引退は残念という声もちらほら聞かれた。もっとも、本当に引退するのか半信半疑という人が多いようだ。

「うーん……模倣犯、かなぁ?」
 澪は椅子に腰掛けて前屈みでテレビを見ていたが、一段落して体を起こすと、そうつぶやきながら眉を寄せて隣の遥を窺った。彼はテレビから目を離すことなく口を開く。
「引退っていうのが引っかかるね」
「どういうこと?」
「じいさんたちが何か企んでるのかも」
 今ひとつ要領を得ないその答えに、澪はますます難しい顔になって小首を傾げる。
「でも、私たち二人ともここにいるよ?」
「初代を引っ張り出してくるつもりかな」
「え、師匠とお父さま?」
 言われてみると、もはやそうだとしか考えられなくなってきた。二代にわたる怪盗ファントムの物語として見れば、最後に初代が幕引きするというのは、それなりに理にかなっているといえるだろう。いかにも剛三が好みそうな筋書きである。
「十時になればわかるよ」
 伏し目がちにあれこれ考えを巡らせていた澪に、遥はそっけなく言う。
 予告時刻の十時はもう間近に迫っている。テレビからは、あと二分と告げるリポーターの緊迫した声が聞こえてきた。

『いました! 怪盗ファントム……でしょうか?』
 リポーターの興奮した声は、一瞬でトーンダウンして戸惑いを含んだものに変わった。
 理由は一目瞭然である。屋根の上に立っている怪盗ファントムと思われた人物は、長い黒髪をなびかせたミニスカートの少女ではなく、スーツにマントを羽織った大人の男性だったのだ。ただ、顔を隠すための白い仮面だけは共通していた。
 彼はバサリと派手にマントを翻すと、一瞬で姿を消した。
 テレビではリポーターが解説を始める。二十数年前に活躍した初代怪盗ファントムと似ているが、同一人物かどうかはわからない、と隠しきれない困惑を滲ませながら話している。数ヶ月前にも初代怪盗ファントムらしき人物の目撃情報があったらしい。おそらく悠人が罠に掛かった澪を救出してくれたときだろう。ここ数ヶ月のうちで初代が姿を見せたのはあのときだけのはずだ。
 そうこうしているうちに、黒い布にくるまれた平たいものを抱えた怪盗ファントムが、再びマントをひらめかせながら屋根の上に飛び出してきた。歓声とブーイングが同時にどっと沸き上がる。それに応えるように、黒い布をするりと抜き取って後方に投げ捨てると、剥き出しになった絵画を高々と両手で掲げて見せた。
 それは、まさしく『其の瞳に映るもの』だった。
 ようやく警官たちが屋根まで追いかけてきたが、弄ぶように軽々とかわしていき、まっすぐ飛んできたヘリコプターの縄ばしごに飛び乗る。そこから大量のカードをばらまくと、バサバサとマントをはためかせながら、ヘリコプターごとあっというまに遠ざかっていった。

 相沢修平『其の瞳に映るもの』を戴きました。
 これをもって完全引退いたします。
 長きにわたるご声援ご観覧に感謝します。
 ――怪盗ファントム一同

 それがカードに書かれていた言葉だった。橘の敷地外に散らばっていったカードは、野次馬やマスコミの争奪戦になっているようだ。舞い落ちるそれを我先に手にしようと踊らされている。
 澪はテレビの騒動を見つめて唖然とした。
「なにこの茶番。お母さまの絵を盗むとか意味がわからないし」
「多分、怪盗ファントムを終わらせるのが目的だったんだろうね」
「終わらせるって……あ、もしかして私たちのために?」
「だといいけど」
 遥は息をついて椅子の背もたれに身を預けた。
 澪にはそれ以外に何があるのか見当もつかない。けれど、彼の思わせぶりな物言いに漠然とした不安を覚え、いてもたってもいられず弾かれるように立ち上がる。
「私、師匠に電話してくる」
「夜遅いし僕もついていくよ」
 携帯電話は圏外なので公衆電話を使うしかないが、幸い電話ボックスが近くにあることは確認している。わざわざついてきてもらうほどの距離ではない。しかし、彼にも話したいことがあるのかもしれないと思い、あえて断ることなくこくりと頷いた。

 洗いたての濡れた髪が、夜風でみるみる冷えていく。
 宿の浴衣で出歩くわけにもいかないので、先ほどまで着ていた服に着替え直していた。せっかくシャワーを浴びてさっぱりしたのに、洗濯予定のものなど身に着けたくなかったが、他に替えがないのだから我慢するしかない。あたたまった体も冷めてしまいそうなので、あとでもう一度シャワーを浴び直そうと心に決めた。
 電話ボックスに入り、きのうの残りのテレホンカードで悠人に電話をかける。二人でボックスに入るのは窮屈なので、遥はすぐ後ろで折りたたみ扉を押し開いて立っていた。これだけ静かであれば、扉を閉めなくても電話の声は聞き取れるだろう。
『はい』
 数コールののちに電話が繋がった。一言だけだが、間違いなく悠人の声だとわかる。
「澪です。さっきテレビ見ました。あれ、どういうことです?」
『絵画は奪われたけど、みんな無事だから心配はいらないよ』
 返ってきたのはとぼけたような白々しい答えだった。一瞬、からかわれているのかと思いムッとしたが、電話の向こうはやけに騒がしく、周囲に大勢の警官がいるらしいことが窺える。おそらく橘の屋敷なのだろう。だとすれば、絵画を盗んで逃亡した怪盗ファントムは大地ということになる。
「お父さまも無事?」
『ああ、心配はいらない』
「本当に?」
『澪は心配性だね』
 悠人はそう揶揄するが、いきなりあんなものを見れば心配にもなる。何も事情がわからないのだから当然だ。
「せめて前もって教えておいてほしかったです」
『黙って小笠原に行ったのは誰だったかな?』
「うっ……すみません……」
 それを言われてしまうとぐうの音も出ない。電話の向こうで、悠人がクスッと笑うのが聞こえた。
『詳しい話は二人が帰ってきてからするよ』
「はい……橘の家に行けばいいですか?」
『船が着くころにターミナルまで迎えに行く』
「わかりました」
 受話器を握る手に力がこもった。橘の家に戻るのは久しぶりのことである。大地とどんな顔をして会えばいいのか、会って何を話せばいいのか、そんなことを考えると自然と緊張してくる。だが、今から悩んでいても仕方ないだろう。
『遥もいる? 代わってほしいんだけど』
「あ、はい」
 そう答えると、すぐ後ろにいる遥にそのことを告げ、場所を入れ替わりながら受話器を渡した。
「代わりました、遥です…………わかった……元気そうだよ……うん、ちゃんと楽しんでるから……まかせて……じゃあ」
 遥は淡々と話したあと受話器をフックに掛けた。ピピ、と音がしてテレホンカードが戻ってくると、すぐにそれを引き抜き、戸口の澪を促しつつ狭い電話ボックスから外に出た。ガラスの折りたたみ扉が静かに戻っていく。
「もしかして私のこと話してた?」
「心配してたよ」
「師匠の方こそ心配性だよね」
 澪が肩をすくめて笑うと、遥もつられるように小さく笑みを浮かべた。
「戻る?」
「うん」
 澪はにっこりと笑顔を見せて頷いた。電話ボックスの外にいると夜風の冷たさを実感する。濡れた髪はとっくに冷えきって身震いするほど寒い。早く熱いシャワーを浴びてあたたまろうと、急かすように遥の手を引いて小走りに駆け出した。

 翌日、近くの喫茶店で朝食をとってから海岸へと向かった。
 そこには、旅行のパンフレットで見るようなエメラルドグリーンの海が広がっていた。湾内ということも影響しているのだろうか。海面はとても穏やかで、太陽の光を反射してきらきらと宝石のように輝いている。
 ぐるりと視線を巡らせると、若い女性たちが波打ち際で遊んでいるのが遠くに見えた。微かにはしゃぎ声も聞こえる。遠目だが誰も水着は着ていないようだ。本土より暖かいとはいえまだ春先であり、さすがに海水浴をするつもりはないのだろう。
 二人は白い砂浜を歩き出した。ゆったりとした波のリズムが心地良くて、気持ちも自然と凪いでいく。澪は後ろで手を組み合わせて青空を仰ぎ、深く息を吸い込むと、あらためてエメラルドグリーンの海に目を向けた。
「きれいだね」
「そうだね」
 遥も足を止め、長めの前髪を風になびかせながら海を眺めている。その隣に寄り添いながら、澪は両手を前に伸ばして親指と人差し指でフレームを作ってみた。そうやって切り取るとますます写真や絵葉書のように見える。
「現実じゃないみたい」
「海に入ってみる?」
「水着なんてないけど」
「足だけだよ」
「あ、そうだよね」
 肩をすくめて苦笑すると、その場に立ったまま片方ずつ靴と靴下を脱ぎ、白い砂浜を踏みしめて波打ち際へ進んでいく。ザブン、と波がかかったところで足を止めた。まだ春先のため少し冷たくてひやりとするが、間近で見る海水は見事に透きとおっていて感動する。そこに立っているうちに、寄せては返す波に足元の砂が削られて、海に引きずり込まれていくように感じた。
 遥も隣でジーンズをまくり素足を浸していた。遠くを見つめながら深呼吸する彼につられ、澪も思いきり両手を上に伸ばして深呼吸して、潮風と細波を受けながら全身でこの風景を感じ取る。
「ねえ、あの国ってここから近いんだっけ?」
「この前の出入り口は船で数十分のところかな。国がどんなふうに広がっているのか知らないけど、もしかしたらこの真下にも続いてたりするのかもね」
 この直下で暴発が起これば、間違いなく島の一部が破壊されてしまう。集落の真下なら惨劇になるだろう。もっともあれほどの暴発はめったに起こらないらしく、可能性はほとんどないだろうが、澪はついその光景を想像してしまいゾクリと身震いした。

「遥さん、澪さん!」
「あ、おはようございます」
 道路の方から声を掛けられて振り返ると、きのうから世話になっている宿の主人がいた。ふらりと散歩にでもやってきたのだろうか。手ぶらでサンダル履きというラフな格好をしている。彼はニコニコと人懐こい笑みを浮かべながら、砂浜へ続く石段をゆっくりと降りてきた。
「のどかに見えると思いますが、海には気をつけてくださいね。天候が良くても、急に高波が来ることもありますから。それほど頻繁にあることではないのですが、一週間ほど前にそういう高波が来たばかりですし……幸い、夜だったので海岸には誰もいなかったのですが」
 澪と遥は互いに目を見合わせた。一週間前の高波というのは、おそらく澪たちがあの国に行ったときに起こったものだ。メルローズの魔導の暴発か、溝端たちのミサイル攻撃か、そのどちらかが原因ではないかと容易に推測できる。
 遥が砂浜へ上がっていく。
 澪も水しぶきを上げながらすぐにあとを追った。踏みしめた白砂のあたたかさにほっとしつつ、遥とともに宿の主人の方へ向かう。
「それで、きれいなところなのにあまり人がいないんですね」
「いえ、それはそもそも観光客が少ないからですよ」
 宿の主人は軽く笑いながら答えると、遠くの海を見やりふっと目を細めた。
「二十数年前のフェリー事故までは賑わっていたんですけどね。あの一件以降、この諸島の観光客はめっきり減ってしまいまして……そもそも、数年の間は観光できる状態でもありませんでしたし」
 両親が巻き込まれた小笠原フェリー事故のことだ。澪の心臓はドクンと跳ねた。島の方にまで影響が及んでいたとは知らなかったし、考えたこともなかった。何かいたたまれないものを感じ、胸元に手を当てながらおずおずと尋ね掛ける。
「どんな状態になってたんですか?」
「あまり気分のいい話ではないので……」
「聞かせてください」
 言葉を濁そうとした宿の主人に強く懇願する。
 彼は迷うような素振りを見せていたが、やがて神妙な面持ちで話し始めた。
「流出した油などで付近の海が汚れ、船の瓦礫やご遺体が島のあちらこちらに流れ着き、まるで地獄絵図のようなひどいありさまだったのです。ご遺体の多くは焼き焦げていたり切断されていたりと損傷が激しく、船体の瓦礫も焼きただれていたり融けたようにひしゃげていたりと、ただの海難事故とは思えない様子でした。海中から光の柱が上がるのを見た人もいるようですし……」
 澪は小さく息をのんだ。
「そのこと、警察には……」
「もちろん話してますよ」
 宿の主人は遠くを見やりながら淡々と答え、少し眉を寄せる。
「ですが、世間の混乱や動揺を防ぐためだったのか、そのことを明るみにはしなかったようです。私たちには厳重な箝口令が敷かれました。代わりに、島に多大な援助をしてくださったようですが」
「援助……?」
「主に資金援助と公共事業です」
 話を聞く限り、金で口止めをしたということになる。もっとも、何の力もない島民が声を上げたところで、たいして問題にはならなかっただろう。主要産業である観光業に打撃を受けた彼らが、ここで生きていくためには、賢明な判断だったのかもしれない。いや、そうする以外になかったのかもしれない。
「とはいえ、決して私たちの目撃情報を無視したわけではなく、本当の事故原因を突き止めようとはしていたみたいですね。国の調査船が頻繁にやってくるようになりました。自然の美しいこの地にそぐわない無骨な船が……まあ、援助を受けているので文句は言えませんけれど」
 彼の口もとに、ふと自嘲の笑みが浮かんだ。
「一週間ほど前には物騒な護衛艦までやってきましてね。フェリー事故のときと同様に光の柱が上がっていたようです。そして、護衛艦がどこかに何発もミサイルを撃ち込んだとも……いったい、この地で何が起こっているのでしょうね」
 その核心をついた独り言に、澪も遥も何も反応できなかった。すぐに宿の主人は我にかえる。
「申し訳ありません。このような話を……」
「箝口令を破ってまで、どうして僕たちに?」
「さあ、どうしてでしょうね」
 本当にわからないのか、それともとぼけているのか、彼の口調からは判別がつかなかった。もし理由があるのだとしたら気になるところだが、だからといって追及するだけの勇気はない。相手がほとんど面識のない人なのでなおさらだ。隣の遥もそれ以上尋ねるつもりはなさそうである。
「勝手に話しておいて何ですが、他言しないでいただけるとありがたいです」
「わかりました……」
 澪が戸惑いがちに返事をすると、彼はにっこりと微笑む。
「私たちは皆さんに遊びに来ていただけるよう奮闘してきました。その甲斐もあって、ここ数年は次第に観光客が戻りつつあります。遥さんも澪さんもぜひ楽しんでいってください。お気に召しましたら、ご家族の方やご友人を誘ってまたいらしてください」
「はい」
 いつのまにか宿の主人としての顔に戻っていた彼を見て、澪は安堵の息をついて笑顔を返した。

「母さんのニュースを見たのかな」
 宿の主人と別れて再び二人で海に足をひたしているうちに、遥がふとそんなことを口にした。どうやら宿の主人のことを言っているようだが、何を言いたいのかまではよくわからない。澪が不思議そうな顔を見せると、遥は足元を見つめて淡々と説明する。
「母さんが小笠原フェリー事故の生き残りっていうのは知られてる話だよ。そして、僕らが母さんの子供だってことも知ってるんじゃないかな。名前や住所はわかってるわけだし、橘財閥の人間だってことくらい簡単に推測できるよね」
 それを聞いてもまだ判然とせず、澪は小首を傾げた。
「だから、昔のフェリー事故を思い出してつい話してしまった?」
「子供である僕たちに、真実を知らせるべきだと思ったのかもね」
「んー……ただ誰かに聞いてほしかっただけなのかも……」
 知らせるべき、などという使命感を持っているようには感じられなかった。美咲が死亡したというニュースを聞いてフェリー事故を思い出し、そこにたまたま関係する人がいたので話したくなった、というだけのような気がする。つらい思い出は誰かに話すことで整理をつけられるものだが、箝口令が敷かれていたのなら、島民の間でもそう軽々と話題に上すことはできなかったはずだ。
「あの事故で、この島の人たちにすごく迷惑かけてたんだね」
 後ろで手を組み、透きとおった海水に足先を泳がせながら独り言のようにつぶやく。穏やかな潮騒やちゃぷちゃぷという水音に混じって、呆れたような溜息が隣から聞こえた。
「澪や僕が責任を感じることじゃないけどね」
「でも、無関係ってわけじゃないし……」
 下を向いたまま眉をひそめてそう言いかけると、いきなり横からドンと突き飛ばされた。とっさに受け身を取りながら浅い海へ倒れ込む。直後にザバンと波を浴びて全身ずぶ濡れになり、しょっぱい味が口の中に広がった。わけがわからず、その場で上体を起こしてきょとんと遥を見上げる。
「背負えもしないくせに、責任ないことまで責任感じてどうするの? 澪の悪い癖だよ」
 冷たく見下ろしながらそう言われ、澪はようやく何が起こったのかを把握した。浅い海に足を崩して座り込んだまま、恨みがましい目を向けて口をとがらせる。
「だからって、何で突き飛ばすわけ?」
「頭が冷えたんじゃない?」
 遥は少しも悪びれずにそう言うと、ザバザバと波を蹴りながら沖の方へ向かう。
「え、ちょっと」
「せっかくだから泳ごうよ」
 うろたえる澪を尻目に、服が濡れるのも厭わず、まだ泳ぐには冷たい海に飛び込んでいく。澪もすでにどうしようもないほど濡れているので、もういいやとやけっぱちになり、先を行く彼に追いつこうと全力で泳ぎ出した。

「なんか、久しぶりにこんなに体を動かした気がする」
「僕も」
 二人は誰もいない海をしばらく競うように泳いだあと、砂浜に上がって笑い合った。冷えた体に強い日射しが心地良い。遥はどうだかわからないが、澪はここしばらく筋トレすらも怠っていたので、かなり体がなまっていたように感じた。泳ぎ疲れてくたくたにはなったものの、おかげで頭も気持ちもすっきりとした。両手を広げて伸びをしながら太陽を仰ぐ。
「ねぇ、遥」
「何?」
「私、お母さまの研究を継ごうと思う」
 そう告げると、遥は振り向いて大きく目を見開き、それから訝るように眉をひそめた。
「……澪が?」
「やってみなくちゃわからないじゃない」
 澪は軽く口をとがらせる。
「他人事じゃないもん。お母さまみたいに天才じゃないのはわかってるけど、本気で頑張れば何とかなるかもしれないし、っていうか何とかしなきゃいけないんだって……」
 遥が怪訝に思うのは当然だろう。自分でも自信があるわけではない。それでも――。
「今さらあの研究をなかったことにはできない。お母さまがつけた研究の道筋があるのなら、お母さまがいなくても止まることはない。もしかしたら暴走したり悪用されたりするかもしれない。あの生体高エネルギーで、そしてお母さまの研究で、もう二度と悲しいことを起こさせたくない。だから、対処できるだけの知識と手段を持っておかないと……それが抑止力にもなると思うし……」
 考えを巡らせながら言葉を紡ぐ。それはこれまでも漠然と考えていたことであり、誰かがやらなければとは思っていたが、自分がやろうとまでは思っていなかった。思い立ったのはつい今し方である。だが、決して一時の気の迷いではないと信じている。
 遥は全身に水を滴らせたまま立ち尽くし、驚いた顔をしていた。
「僕も同じことを考えてた」
「うん、でも遥はダメだよ」
「橘を継げって?」
 彼の声には不満が滲んでいる。澪は表情を緩め、ゆるりと首を横に振った。
「遥はお母さまに似てるんだもん」
 遥は虚をつかれて目を丸くした。しかし、すぐに澪の言わんとすることを察し、わずかに眉根を寄せて渋い顔になる。
「僕はあんなに愚かじゃないよ」
「そうだね、遥ならもっと上手くやりそう」
「…………」
 彼には常識にとらわれないところがあるうえ、極端なところもある。研究を進めるためなら自らを実験台にしかねない。もしかすると、美咲たちと同じように道を踏み外すかもしれない。彼なら足元をすくわれないよう上手くやるだろうが、だからこそなおさら危険ではないかと思うのだ。
 少し言い過ぎたかな、と険しくなった表情を見てヒヤヒヤしていると――。
「わかった、僕は橘を継ぐよ」
 彼は腰に手を当て、吐息を落として静かに言った。そして、次から次へと滴り落ちる雫を拭いもせず、怖いくらい真剣な顔になり澪に向き直る。いかに責任重大であるかを知らしめるかのように。
「澪に託したからね」
「ん、まかせて」
 澪は端的な言葉で応じると、すっと腕を伸ばして小指を差し出した。それだけで、遥はすぐに意図を理解して自らの小指を絡めてくれた。互いに見つめ合いながら無言で約束を交わす。降りそそぐ白い日射しが、絡めた指から流れ落ちる水滴をキラリと輝かせた。