ピンクローズ - Pink Rose -

番外編「指定席」

まえがき】2010年カップル・コンビ投票記念(1位 サイファ&レイチェル)で書きました。

 最近、レイチェルに変な虫がついた。

 虫といっても昆虫のことではない。彼女にまとわりつく男のことだ。サイファは細心の注意を払い、疑わしい家庭教師をすべて排除してきたが、それが裏目に出たともいえる。授業がなくなったことで空いた彼女の時間に、そいつは上手く入り込んでいったのだ。雇用関係にある家庭教師とは違い、排除することは極めて困難である。
 その男の名はレオナルド。
 彼女の隣家に住む、まだ幼いといってもいいくらいの少年である。だからといって油断は禁物だ。隣のお姉さんに懐いている、程度なら、何とも思わなかったかもしれない。だが、彼は明らかにレイチェルに好意を寄せ、サイファを敵視しているのだ。排除はできないまでも、出来うる限り目を光らせておく必要があるだろう――。

 その日、夕方になる前に仕事を終えたサイファは、レイチェルと過ごそうと思い、迷うことなく彼女の部屋へと足を向けた。しかしノックをしても返答がない。それどころか、しんと静まり返ったまま、物音ひとつ聞こえてこない。
「レイチェル?」
 名前を呼びながら、そっと扉を開けて覗きこむ。だが、そこには誰の姿も見つけられなかった。僅かに開いた窓から滑り込んだそよ風が、レースのカーテンを緩やかに波打たせるだけである。
 外にいるのだろうかと思い、庭に降りて一通りまわってみるが、そこにも彼女の姿はなかった。ふと嫌な予感が胸に湧き上がる。急いで踵を返すと、居間にいた母親のアリスに尋ねた。
「レイチェルはどこかへ出かけているのでしょうか。部屋にも庭にもいませんでしたが」
「あら? 庭にいなかった? さっきは庭の花壇でレオナルドと遊んでいたんだけど……」
 その名を聞いた瞬間、サイファはカッと頭に血がのぼるのを感じた。しかし、ラグランジェ本家次期当主として、彼女の婚約者として、取り乱すようなみっともない姿をさらすわけにはいかない。
「レオナルドの家へ行ってみます」
 あくまで冷静を装いながら、穏やかな笑顔さえ見せてそう言うと、アリスに軽く一礼して居間を後にした。

 すぐ隣にあるレオナルドの家へ行き、彼の母親に尋ねてみたが、レイチェルのところへ遊びに行ったきり戻ってきていないとのことだった。文句の一つでも言いたい衝動に駆られるものの、ぐっと言葉を飲み込み、丁寧に礼を述べて外に出た。

 あいつがどこかへ連れ出したのか――。
 レイチェルが自分から黙ってどこかへ行くということは考えにくい。おそらくレオナルドが上手く言いくるめて外に連れ出したのだろう。しかし、まだ幼い彼が、それほど遠くまで行くとも思えない。
「すみません」
 サイファは道行く人に片っ端から声を掛け、レイチェルとレオナルドの特徴を伝えて、見なかったかどうか尋ねていった。レイチェルの目立つ容姿と衣装のせいか、見かけた人は皆よく記憶しており、どちらへ向かったかの情報は難なく得られた。
 目撃情報を辿っていくと、大きく視界の開けた場所に着いた。下方にはそこそこ大きな川が見渡せる。沈みゆく太陽の光を受けて川面はキラキラと輝き、緩やかな流れはさらさらと心地よい音を立てていた。
 その川原へと続く細い石段に、レイチェルとレオナルドは並んで腰掛けていた。その微笑ましささえ感じる二人の後ろ姿が、サイファには無性に腹立たしく感じられた。小さく呼吸をして気持ちを立て直すと、にっこりと笑顔を作って声を掛ける。
「レイチェル、こんなところにいたんだ」
「サイファ」
 レイチェルは目を丸くして振り返った。長い金の髪がさらりと舞い、日の光を浴びて透き通るように煌めく。そして、まっすぐにサイファを見つめると、ふわりと甘い笑みを浮かべた。
「ここにいるってどうしてわかったの?」
「レイチェルのことなら何でもわかるよ」
「本当? サイファってやっぱりすごいわ」
 ニコニコしている彼女の隣で、言外の圧力を感じ取ったのだろう、レオナルドは顔を引きつらせていた。それでも負けじとサイファを睨みつける。そんな彼に、サイファはちらりと視線を送って口を開く。
「レオナルド」
 それだけで彼はビクリと体を震わせた。
「君はもう帰れ。君の母親も心配していたぞ」
「うそだ! これくらいで心配なんかしない!」
「聞き分けのないことを言わないで帰れ」
 一瞬、レオナルドは非難するような視線を向けたが、反論しても無駄だと悟ったのか、それ以上言い返すことなく立ち上がった。悔しげに歯がみしながらすれ違っていく彼に、サイファは無感情な低い声を落とす。
「二度とレイチェルを勝手に連れ出すな」
 それを聞いた途端、レオナルドはぎゅっと目をつむり、その場から逃げるように駆け出した。短めの柔らかい金の髪がふわりと風になびく。靴音は次第に小さくなり、小さな後ろ姿もほどなく視界から消えていった。

 空いたレイチェルの隣に、サイファは腰掛ける。
「サイファ、怒っているの?」
 硬い表情で前を向いたままのサイファを、レイチェルはじっと覗き込むように見つめて尋ねた。不思議そうに大きな瞳を瞬かせる。サイファはふっと目を細めると、彼女の肩に手をまわした。
「心配したんだよ」
「ごめんなさい」
 レイチェルは素直にサイファに身を任せて、肩に寄りかかった。その小さな重みに、温かさに、サイファは大きく安堵して気持ちが和らいでいくのを感じる。
「川原に来たかったの? それとも夕日が見たかったの?」
「レオナルドが、きれいなところがあるから行こうって」
 レイチェルはニコッと笑って答えた。
 サイファは、彼女の肩を抱く手に少し力をこめる。
「レイチェル、行きたいところがあったら僕に言ってね。どこへでもとは言えないけれど、出来る限り連れて行ってあげるから」
「ありがとう」
 サイファの方に寄りかかったまま、レイチェルは屈託のない笑顔を見せる。その無垢な笑顔は、サイファの心を温かくしてくれると同時に、そこはかとない不安をも呼び起こす。

 きっと君は知らないだろう、僕がどれほど怖れているのかを――。

「ねえ、レイチェル、僕たちが結婚するまであとどのくらい?」
「私が16歳になったらすぐだから、あと2年くらいだと思うわ」
 レイチェルは何の疑いもなく自分の運命を受け入れている。しかし、もしいつか反発するようになってしまったら、他の誰かを好きになってしまったら――そのことを考えると、冷たい手で心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖を感じる。
 たとえ彼女が誰に恋いこがれようと、サイファの婚約者であるという事実は覆らない。互いの気持ちはどうであれ、ラグランジェ家として決定されたことなのだ。
 だが、それではあまりにも悲しすぎる。
 だから、幼い頃からずっと、彼女が自分だけに目を向けるように仕向けてきた。明確に意識してそうしたつもりはないが、なるべく他人と交流させないようにするなど、結果的にはそういう行動をとっているのだ。外の世界など何も知らなくていい、という歪んだ気持ちは、心のどこかに確かに存在している。
 僕を許してほしい、必ず、君を幸せにするから――。
 サイファは彼女を抱く手に再び力をこめると、その額にそっと口づけを落とした。

 川の向こうの空が赤く染まる。静かに沈みゆく夕日は、強く輝き、川面をきらきらと眩く照らしていた。その朱い光を浴びながら、レイチェルもきらきらとした表情で目の前に広がる光景を眺めていた。
「きれいだね」
「ええ、とても」
 疑うことを知らない澄んだ笑顔で、彼女は答える。
 そのとき、サイファは少しだけレオナルドに感謝したい気持ちになった。しかし、彼女の隣というこの場所は、レオナルドにも他の誰にも、決して譲るつもりはなかった。