ピンクローズ - Pink Rose -

28. 変わらない関係

 サイファはペンを机に置き、小さく息をついた。
 魔導省での忙しかった二ヶ月が終わり、今は報告書を作るくらいで急ぎの仕事はない。腕時計で定時を過ぎていることを確認すると、書類をまとめて机の上を片付け始める。

 レイチェルが身ごもっていることが発覚したあの日から二日が過ぎ、殴られた頬の腫れはだいぶ引いていたが、内出血による変色はまだ治っておらず、何らかの問題があったことは誰の目から見ても明らかだった。
 休日明けの今朝、出勤早々に上司に尋ねられ、サイファは正直に理由を答えた。
 サイファが口にしたのはそれ一度きりであるが、まわりで聞いていた人が多かったせいか、話は瞬く間に内局中に広がってしまったようだ。
 隠すつもりはなかったので構わないが、その予想を超える速さにはただ驚くしかなかった。もう誰も自分には訊いてこない。ただ、触れてはならないという空気と、それでも止められない好奇の眼差しがあるだけである。陰ではさぞかしこの話題で盛り上がっていることだろう。サイファがラグランジェ本家の次期当主であるということが、必要以上に皆の関心を引いていることは想像に難くない。
 あらかじめこうなることは覚悟していた。
 それでもこの居心地の悪さは尋常ではなく、いずれ時間が解決してくれるのを待つしかないが、今日ばかりは一刻も早くここから離れたいと思わずにはいられなかった。

 サイファが書類を机の引き出しにしまって立ち上がろうとした、そのとき――。
「よお、サイファ!」
 野太いにもかかわらずよく通る声が、広いフロア中に響き渡った。
 サイファを含めた皆が、一斉に振り向く。
 そこにいたのは山のように大きな体躯のマックスだった。サイファがかつて配属されていた公安局一番隊第二班の班長である。彼は場違いともいえるタンクトップ姿のまま、軽く右手を上げ、何の躊躇いもなく豪快な足どりで内局に入ってきた。
 その後ろには、部下であるエリックとティムが、ビクビクと身を縮こまらせて歩いていた。ティムはマックス以上に良い体格をしているが、マックスの陰に隠れるように背中を丸めて「班長〜」と今にも泣き出しそうな情けない声で縋りついている。
 現場の人間が内局に来ることはほとんどない。
 入室を禁止する規則があるわけではないが、暗黙の了解のようなものがあり、普通は気軽に足を踏み入れることなどまずありえないのだ。それは一年目の新人でさえも知っていることである。魔導省で長く勤務するマックスが知らないはずはないだろう。知っていてあえて無視したに違いない。
 サイファは椅子に座ったまま、自分の方へやってくるマックスに無表情で横目を向けた。マックスはそのすぐ前まで来て立ち止まると、両手を腰に当て、まるで少年のように邪気なくニカッと白い歯をこぼして笑う。
「おまえ、婚約者を孕ませちまったんだってな!」
 その瞬間、フロアの空気が凍り付いた。内局の皆が固唾をのんで状況を見守っている。マックスの後ろのティムは頭を抱えてしゃがみ込み、エリックは申し訳なさそうに顔をしかめてサイファに両手を合わせて見せた。
「何か御用ですか」
 サイファはピクリとも表情を動かさず、横目を向けたまま冷ややかに言った。しかし、マックスは臆することなく、明るく笑いながら非常識に大きな声を弾ませる。
「めでたいことだから祝いにきたんだよ。破談にならずに結婚も決まったんだろ? 久しぶりに俺たちで飲みに行こうじゃねぇか!」
「お気持ちだけいただいておきます」
 サイファは丁寧な口調で突き放した。
「つれないこと言うなよ。おまえいつからそんなに可愛げがなくなったんだ?」
 マックスは逞しい腕を机について、ぬっと身を乗り出し、正面からサイファの顔を覗き込む。その途端、彼の目は大きく見開かれた。
「うわっ、おまえこんなにひどく殴られたのか! くっ……綺麗な顔を台無しにするような奴は許せん! あの研究所の所長だったな? 待ってろ! 腕っぷしでは負けんぞ!!」
「班長! 落ち着いてください!!」
 腕の筋肉を見せつけながら鼻息荒く捲し立てるマックスを、エリックとティムは後ろからタンクトップの裾を掴んで懸命に引き留める。食い込むくらいに引っ張られて、ようやくマックスは我にかえった。
「そうだ、まずサイファを祝ってやらねぇとな」
「そうそう、そうですよ、班長!」
 サイファは騒々しい三人組を見て小さく溜息をつくと、一度は片付けた書類を引き出しから取り出し、机の上にパサリと置きながら言う。
「申し訳ありませんが、仕事が忙しいんです」
「それは嘘だろう」
 間髪入れず横やりを入れたのは、隣に座る先輩のデニスだった。彼はサイファと同じチームで仕事をしており、今は互いにさほど忙しくないことを知っているのだ。それでもサイファは負けじと言い返す。
「探せばやるべきことはいくらでもあります」
「仕事は逃げ込むためにあるんじゃない。そんな理由で残業など迷惑だ」
 デニスは淡々とした口調で、しかしきっぱりと言い放つ。
 その正論に、サイファは何も言い返すことが出来なくなった。自分の方が間違っていることは初めからわかっていた。これ以上の反論は見苦しいだけである。
「いいこと言うな、兄ちゃん!」
 マックスは白い歯をこぼしながら、奥のデニスに力強く親指を立てて見せると、いきなりサイファの体をひょいと荷物のように肩に担ぎ上げた。脚は太い腕でがっちりと抱え込まれ、頭は背中側に落とされて逆さになっている。今までずっと冷静を装っていたサイファも、これにはさすがにギョッとした表情を見せた。
「んじゃ、行くぞ、サイファ!」
「自分で歩きます! 逃げませんから下ろしてください!」
 マックスの広くがっちりとした背中を叩きながら、サイファはめずらしく慌てふためいて訴えかけた。顔が火照っていたのは、逆さにされたせいなのか、恥ずかしさによるものなのか、自分でもわからなかった。

「飲みに行く口実が欲しかっただけですよね」
 夕日に染まる寂れた道を歩きながら、サイファは隣のマックスにぽつりと問いかけた。離れてからもう2年になるというのに、なぜ自分を祝おうなどと言い出したのか理解できず、単純に訊いてみたくなっただけである。今さらつまらない理由をつけて逃げ出すようなみっともない真似をするつもりはない。
「いや、俺は口実なんかなくても飲みたければ飲みに行く」
 マックスは胸を張って堂々と言った。
 言われてみれば、確かに彼はそういう性格である。本能の赴くままに生きているような男なのだ。こんなことで下手な小細工などしないだろう。
「祝ってやるって言ってんだから素直に喜べばいいんだよ」
「強引に連れ出しておいて、よくそんなことが言えますね」
「細かいことは気にするな!」
 サイファが落とした呆れ口調の怨言を、マックスは軽く一蹴して豪快に笑った。一方、やはり強引に連れ出されたらしいエリックとティムは、後ろで力なく乾いた笑いを浮かべていた。

 カランカランカラン――。
 マックスが勢いよく扉を開くと、チャイムは急かすように乾いた音を立てる。客は誰もいないようだ。ひとりカウンターにいた白エプロン姿のアルティナは、パッと振り返ると、屈託のない弾けんばかりの笑顔を見せた。
「いらっしゃい、マックス!」
「よっ、アルティナちゃん!」
 マックスは敬礼のようなポーズを取りながら、彼にとっては狭い戸口をくぐって中に入る。そして、続いて入ったサイファの頭をがっちりと抱えて、アルティナに見せた。
「今日はサイファも一緒だぞ」
「お久しぶりです」
 サイファは頭を抱えられたまま、少し苦しそうに、それでも笑顔を見せて挨拶をした。
 アルティナはぽかんと呆気にとられた。
 しかし、その顔はすぐに険しいものに取って代わる。顎を引いてキッとサイファを睨みつけ、両のこぶしを握りしめながら、全身をわなわなと小刻みに震わせた。
「こんの……はくじょーものっっ!!!」
 そう叫ぶやいなや、彼女はカウンターに置いてあったレモンを全力で投げつけた。まっすぐにサイファの顔面を目掛けて飛んでいく。直撃する寸前で、サイファはそれを受け止めた。右手にレモンを収めたまま不思議そうに尋ねる。
「薄情者って僕のことですか?」
「今さら何しに来たのよ!!!」
 傍から見ているとまるで痴話喧嘩のようなやりとりである。マックスもそう思ったのだろう。腕の中のサイファにじとりと訝るような視線を落として尋ねる。
「おまえ、まさかアルティナちゃんに手ぇ出したんじゃねえだろうな」
「そんなことするわけないじゃないですか」
 サイファは苦笑しながら否定した。そうするより他になかった。彼女の怒りにはまったく心当たりがないのである。それでもマックスは信じていないようだった。
「いや、何かはあっただろう。じゃなきゃ……」
「何もないから怒ってるのっっ!!」
 天井に向かって力いっぱい声を張り上げたアルティナに、マックスとサイファは大きく瞬きをして振り向いた。
「また来るって言ってからもう1年よ? ひどいじゃない! せっかくサイファにボトル入れてもらおうと思って、すっごく高いウィスキーを仕入れて待ってたのに!!」
「それは、申し訳ありませんでした」
 サイファは小さく笑いながら肩を竦めて詫びた。いかにも彼女らしい理由にほっと胸を撫で下ろす。マックスもやはりほっとした様子で、「そうだよな」などと言いながら、短い前髪を掻き上げて苦笑していた。
 しかし、アルティナはなおもきつく睨みつける。
「ねえ、サイファ。あなた自分が金づるだって自覚あるわけ? ちゃんとこまめに通ってきて、たくさん飲み食いして、しっかりお金を落としていってよね。当てにしてるんだから!」
 それはあまりにも身勝手で無茶苦茶な言い分だが、彼女が言うとなぜか憎めない。直球で嫌味がないからだろうか。サイファは微笑みながら「はいはい」と軽い調子で返事をした。
 その扱いに、アルティナはムッとして頬を膨らませた。しかし、すぐにパッと表情を晴らすと、カウンターに両肘をついて身を乗り出し、流れるような銀の髪を肩から滑らせながら声を弾ませる。
「じゃあさ、とりあえず今日はじゃんじゃん飲んでくれる? 酔いつぶれるまで!」
「……そうですね、たまにはいいかもしれませんね」
 サイファは口もとに淡い笑みをのせると、小さく独り言のようにそう呟いた。

「ええーっ?! 婚約者が妊娠?!!」
 アルティナはカウンターの中で素っ頓狂な声を上げた。持っていたグラスを落としそうになりながら、混乱したように眉をひそめて尋ねる。
「ちょっと待ってよ、サイファの婚約者って私と同じ年じゃなかった?」
「ああ、だからこれ、相手の父親に殴られたんだとよ」
 マックスは隣に座るサイファの肩に手をまわして抱き寄せると、細い顎を持ち上げて、痛々しく変色した頬をアルティナの方に向けた。
「うわっ、痛そう……でも、殴りたくもなるわよねぇ……」
「まあ仕方ねぇかもな。15じゃまだ結婚もできないしな」
 アルティナが複雑な表情で相手の父親に同情を示すと、マックスもめずらしく真面目に同調した。サイファも同じ気持ちではあったが、張本人が言うべきことではないと判断し、口をつぐんだまま静かにビールを口に運んだ。
「でもちゃんと結婚は認めてもらえたんでしょう?」
「ええ、渋々ですけどね。そもそも僕は婚約者ですし、彼女が16になったらすぐに結婚する予定になってましたので、まだ説得の余地があったのかもしれません」
 それでもまだアルフォンスの怒りはおさまっていない。心情的には認めたくなかったが、様々な状況を鑑みると、認めざるをえなかったというのが実際のところなのだ。
 決め手となったのはサーシャの言葉だったらしい。
 レイチェルの体のことを考えるならば、中絶するよりも産んだ方がいいだろう――彼女はアルフォンスを医務室に呼びつけて、そのような医師としての見解を述べたのである。それは、感情的になっていたアルフォンスに現実を直視させるには十分な内容だった。
「ふーん、こんな状況でもサイファは冷静なのねぇ」
 アルティナはカウンターに頬杖をつき、理解を超えると言わんばかりの口調で相槌を打った。
「ま、自分がやっちゃったことなんだから、オロオロしてる場合じゃないわよね」
「そうですね。きちんと説得しなければ、彼女までも不幸にしてしまいますから」
 そう答えながらも、本当は逆ではないかとサイファは思う。自分のしでかしたことでないから、これほどまでに冷静でいられるのではないだろうか。そして、アルフォンスをまっすぐに見据えることができるのではないだろうか――。
「アルティナ! しゃべってばかりいないで、こっちを手伝いなさい!」
 奥からフェイが大きな声で呼んだ。マックスたちが大量に注文をした料理を作っているのだろう。何かを炒める音、水を流す音、歩きまわる足音などが、慌ただしく重なって聞こえてくる。
「えー、せっかく面白い話をしてるのにぃ」
「遊ぶためにいるわけじゃないでしょう!」
「わかったわよ」
 アルティナは不服そうに口をとがらせてそう答えたが、すぐに気を取り直すと、笑顔でサイファたちに手を振りながら小走りでカウンターの奥へと消えていった。

「しかしなぁ、話を聞いたときは本当に驚いたぜ。何もかもすべて計算づくで行動しているようなおまえが、まさかそんなヘマをするとはな」
 マックスはカウンターに両腕を置いて、遠くを見ながらしみじみと言った。それが何の話であるかは今さら聞き返すまでもない。サイファは緩慢に頬杖をつくと、僅かに顔をしかめて息をついた。
「本当に、どうしようもない馬鹿ですよ」
「まあそんなに自嘲するなって」
 マックスは大きな手でサイファの背中をバシンと叩き、白い歯を見せてニッと笑う。
「俺はちょっと嬉しかったぞ。おまえの人間らしい一面が見られて」
 サイファは頬杖をついたまま、隣のマックスにちらりと視線を流して言う。
「人ごとだと思って気楽ですね」
「まあな。でも、俺にできることなら何でも協力するつもりだぞ。たいして役に立てんかもしれんが、愚痴くらいならいつでも聞いてやれる。こう見えても俺は口が堅いからな」
 マックスは親指で自信たっぷりに自らを指し示す。
「本当ですかね」
 サイファは小さく笑みを漏らしてそう言うと、グラスに両手を添え、泡の少なくなったビールをじっと見下ろした。

「うぉぉおぉん!」
 突如、唸るような太い泣き声が、小さな酒場を揺るがすように響いた。
 カウンター席に座っていたサイファとマックスは、その声のするテーブル席の方に振り返る。泣いていたのはティムだった。小さな机を覆い隠すように突っ伏し、大きな背中を震わせている。その前に座るエリックは、皿やジョッキを隣のテーブルに移しながら、困ったように眉尻を下げていた。
「班長、助けてくださいよ」
「どうしたんだ、そいつ?」
「どうも悪酔いしたみたいで……」
 エリックが説明しようとした途端、ティムはガバッと体を起こした。目元の涙を拭おうともせず、赤ら顔でこぶしを振り回して力説する。
「そりゃ、自分だってわかっていました! いずれはサイファと結婚するんだって……わかってはいたけどよ……だけど、いきなり子供ができたなんて、そんなのあんまりじゃねぇか!」
 それがレイチェルの話であることに間違いはないだろうが、なぜ彼が泣き叫んでいるのかはさっぱりわからない。そもそもティムとレイチェルに面識はなかったはずである。サイファが不思議に思っていると、隣のマックスはニヤリと口の端を吊り上げた。
「おまえ、横恋慕してたのか?」
「そんなんじゃないですっ!!」
 いつもは弱気なティムが、驚くほど強い調子でマックスに言い返した。
「俺にとって、彼女は一点の曇りも穢れもない神聖な存在だった。なのに、こんな……。百歩譲ってサイファになら彼女を託してもいいと思ってたんだぞ! 人の信頼を裏切りやがって!!」
「そう言われても……」
 矛先を向けられたサイファは、言葉を濁して口をつぐんだ。確かに責められるべきことではあるが、ティムに言われるのはどうも筋違いのように思えて、素直に謝る気にはなれなかった。
「まあ落ち着けや」
 マックスが二人の間に割って入り、ティムの肩に大きな手を置いて覗き込んだ。
「確かにあの子は可愛いと思うが、もうちっと現実を見た方がいいぞ。なんだったら何人か女の子を紹介してやろうか。どんな子が好みだ?」
「だからそんなんじゃないんですって!!」
 ティムは再び憤慨して反論すると、胸ポケットから端がボロボロになっている年季の入った写真を取り出した。寂しげな顔でそれを見つめながら、目に涙を溜めて言う。
「彼女への思いは恋愛感情とは別物です。付き合いたいとか、お近づきになりたいとか、そんな畏れ多いことは思っていません。こうやって無垢な笑顔を眺めて彼女のことを思う、ただそれだけで自分は幸せな気持ちになれたんだ」
 マックスとサイファは背後からその写真を覗き込む。そこには10歳くらいのレイチェルが写っていた。アルフォンスと思しき男性に手を引かれているところだ。
「これ、隠し撮りですよね……」
「王宮に来たときに撮ったんだな」
 さすがのマックスもこれには渋い顔になった。まさかこれほど重症だとは思っていなかったのだろう。体を起こして腕を組むと、深く重く溜息をついた。
「ここまでくると、さすがにどうしたもんかと思うな」
「班長! この純粋な気持ちのどこが悪いんですか!!」
 ティムの必死な訴えに、まわりの皆は苦笑するしかなかった。確かに純粋といえば純粋なのかもしれないが、むしろ恋愛感情の方が良かったような気がするのは、サイファだけではないだろう。
「まあティムがどうこうするとは思わんが、中には頭のおかしいヤツもいるかもしれん。逆恨みで襲われる可能性もあるだろう。おまえも婚約者も気をつけろよ」
「ええ、そうですね」
 マックスの忠告にサイファは真面目な顔で頷いた。レイチェルは王宮内の人間に可愛がられている、という話は聞いたことがあったが、まさか神聖視されているなどとは考えもしなかった。それがごく一部の人間であっても用心するに越したことはない。自衛の手段を持っているサイファはともかく、そうでないレイチェルはなるべく外出させない方がいいだろう。何かがあってからでは遅いのだ。

「ねえ、それサイファの婚約者の写真? 見せてっ!」
 どこから聞いていたのかわからないが、アルティナはそう声を弾ませながら、ビールのジョッキと料理を山盛りにした皿を運んできた。それを急いでテーブルに置くと、ティムの肩に寄りかかって後ろから写真を覗き込む。
「あ! 可愛い!! でも、これまるきり子供にしか見えないんだけど……」
「10歳くらいのときの写真ですからね。今はもっと成長していますよ」
 サイファはカウンターのスツールに腰を掛けながら説明した。
「いや、そんなに変わっちゃいないぞ。顔だけなら今でも10歳で通用するな」
「そんな子を襲っちゃうなんて、サイファってやっぱりロリコンだったんだ」
 マックスとアルティナは写真を眺めつつ口々に言った。サイファは思わず苦笑を浮かべる。この状況ではどうにも分が悪い。言い訳をすればするほど不利になるだろう。
「襲ってはいませんけどね」
 独り言のようにぽつりとそれだけ反論するのが精一杯だった。

 サイファはひとりカウンターでグラスを傾けた。
 マックスはテーブル席の方で、エリックとともにティムを元気づけながら飲んでいる。彼の豪快な明るさは十分ティムの救いになるだろう。そのことはサイファ自身が身をもって実感していた。
「サイファ、ちゃんと飲んでる?」
 アルティナはテーブル席にジョッキを運んでカウンターに戻ると、そう尋ねながらサイファのグラスを横から覗き込んだ。あまり減っていないのを確認すると、口をとがらせて恨めしそうにサイファを睨む。
「すみません、本当に強くないんですよ」
「じゃあせめて、コレ、入れてくれる?」
 下の方からボトルを取り出してそう言うと、ニコニコしながら顔の横で掲げて見せる。
「ああ、先ほど言っていたすごく高いウィスキーですか?」
「未開封だから大丈夫だと思うわ。ね? いいでしょう?」
 媚びを売るでもなく、策を巡らすでもなく、ただ単刀直入に身勝手ともいえるお願いをする彼女に、サイファは思わずくすりと笑みをこぼした。
「いいですよ」
「やった! ありがと!! 水割り、作ってあげるわね」
 アルティナはボトルを抱えて無邪気に小躍りすると、長い銀の髪をなびかせながら、グラスを取り出してテキパキと水割りの準備を始めた。その背中に、サイファは声を送る。
「みなさんの分も作ってあげてください」
「ダメよ! これはサイファがひとりで飲んで」
 アルティナはそう言いながら、ボトルを片手に持ったまま顔だけ振り返った。少し口をとがらせて怒ったような表情を作っている。
「どうしてですか?」
「マックスに飲ませたら今日で空になっちゃうわ。それじゃ意味がないの。私はサイファにボトルを入れてもらって、こまめに通ってもらおうと思ってるわけ。金づるを逃さないための作戦よ」
 軽妙にそう言って人差し指を立てるアルティナに、サイファは笑顔を浮かべながら肩を竦めて見せた。たいして飲まない自分を通わせても金にならないのではないかと思ったが、あえてそのことは指摘しないことにした。
 アルティナは水割りを作ると、サイファに差し出しながら言う。
「ね? 私もサイファと乾杯したいな」
「お酒はダメですよ」
 サイファはさらりと窘める。彼女はまだ15歳であり、酒の飲める年齢ではない。これまで飲んだことがあるのかは知らないが、少なくとも自分の前で飲ませるつもりはなかった。
「わかってるって。ジュースにするわよ」
 そんなことは承知していると言わんばかりに、アルティナは歯切れよくそう答えると、冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出してウィスキーグラスに注いだ。
「じゃあ、あらためて……おめでとー!」
「ありがとうございます」
 二人はグラスを掲げて軽く合わせた。少し濁った音が鳴る。
 アルティナはオレンジジュースを一気に呷り、まるでビールでも飲んだかのようにプハァと息を吐くと、空になったグラスを無造作にカウンターに置いた。その様子を目を細めて眺めながら、サイファは静かにグラスに口をつける。
「何かあんまり嬉しそうに見えない。私じゃ不満?」
「そんなことありませんよ」
 酔っぱらいのように絡んでくる彼女に、サイファは落ち着いた口調で返事をした。他意があったわけではないが、その軽くあしらうかのような態度が気に入らなかったのだろう。彼女の機嫌はますます悪くなった。
「じゃあ何? マリッジブルー? 男のマリッジブルーなんて見たくないんだけど! 念願叶って大好きな彼女と結婚できるんだから、もっと素直にパーっと喜べばいいじゃない」
「いろいろと大変なことがあるんですよ」
「でも、それって自業自得でしょう?」
「ええ、そうですね。わかっています」
 彼女の厳しい追及にも、サイファはまるで達観したかのように淡々とした答えを返した。無表情のままグラスを手に取る。しばらくそのまま身じろぎもせずじっとしていたが、突然、勢いよく流し込むようにウィスキーを呷った。
 アルティナは顔を曇らせ、カウンターの上で重ねた手に顎をのせた。
「後悔……してるんだ……」
「彼女とはみんなに祝福されて結婚したいと思っていました。彼女には笑顔で花嫁になってほしかった。僕がもう少し気をつけていれば、こんな事態を招かずにすんだのかもしれません」
 サイファはグラスを静かに戻し、中のウィスキーを見つめながら言う。その視線に耐えかねたかのように、氷が溶けてカランと小さな音を立て、琥珀色の水面に細波が起こった。
 アルティナは少し顔を斜めにして上目遣いで尋ねる。
「もしかして子供が嫌いなの?」
「好きとか嫌いとか考えたことはありませんね。でも、彼女の子供ならきっと可愛いでしょうし、生まれてくる日を楽しみにしていますよ」
「サイファに似ちゃうかもしれないわよ?」
 サイファはふっと小さな笑みを浮かべた。グラスに掛けた指先に力を込め、ゆっくり顔を上げると、優しく目を細めてここではないどこかを見やる。
「どちらに似ても可愛いですよ、きっと」
「そういうこと自分で言っちゃうんだー」
 アルティナはからかうように茶化して言った。彼女には何の意図もなかったのだろうが、そんなふうに笑い飛ばしてくれたことで、サイファの気持ちは少しだけ軽くなった。
「お父さん、かぁ……」
 不意に、アルティナは遠くに思いを馳せるようにぼんやりと呟くと、カウンターの上で腕を組み、そこに埋めるように顔をのせた。彼女には生まれたときから父親がいなかったらしい。それを気にしている様子はこれまで見られなかったが、それなりにいろいろと思うことはあるのだろう。
「サイファはどんなお父さんになるのかしら」
「さあ、想像もつきませんね」
 サイファはまるで人ごとのように答えた。現実を受け止めたつもりではいるが、父親になる実感まではまだ持てずにいた。雲を掴むように捉えどころがなく、考えようとしても何も思い浮かばない。それでも諦めているわけではなかった。
「でも、きちんと精一杯の愛情を注いで育てるつもりではいます。彼女も子供も幸せにしますよ。それが自分の選択に対する責任ですから」
「サイファはきっといい父親になるわ。何かちょっと羨ましいかも」
 アルティナは眩いばかりの笑顔を浮かべてそんなことを言った。その言葉のせいか、アルコールのせいか、サイファの胸は焼けるように熱くなった。

「まさか本当に酔いつぶしちまうとはな……」
「そんなつもりなかったわよ!」
 カウンターに伏せて眠るサイファを見下ろしながら、マックスは深く息をついて腕を組んだ。アルティナはなおも必死になって弁明する。
「だって酔った様子もなくて、顔も赤くなってなくて、全然普通に話してたのよ? なのに急にくてーんって寝ちゃって……。私だってビックリしたんだから!」
 マックスはカウンターに置かれた飲みかけのウィスキーを指さして尋ねる。
「それ、何杯目だ?」
「最初がビールで、次がウィスキーで、そのあとボトルを入れてもらって水割りを作ったのがこれだから……多分3杯目だと思う」
 アルティナは指折り数えながら答える。
 マックスは溜息をつきながら頭に手をやった。
「酒が弱いってのは本当だったんだな。名家の坊っちゃんだから、酔ってみっともないところを見せないように控えてるだけかと思ってたんだが……」
 サイファはいつも弱いと言っているものの、飲んでも見た目上の変化はあまりなく、言い訳だと思われるのも仕方のないことだった。それでもマックスはサイファの意思を尊重し、無理に飲ませるようなことはしなかったのである。
「どうしよう?」
「まあしゃーねーな。俺が送っていってやるさ」
 アルティナが心配そうに尋ねると、マックスは両手を腰に当てて筋肉のついた厚い胸を張った。仕方がないとは言いながらも、どことなく嬉しそうに見える。
「もしかするとガッポリ謝礼をもらえるかもな」
「それはないと思います」
 まるで子供のように短絡的な発想を、エリックは後ろから冷ややかに否定した。しかし、マックスは聞いているのかいないのか、それに反応することはなかった。
「んじゃ、そろそろ帰るか!」
 前を向いたまま威勢よくそう声を張ると、寝ているサイファの頭を軽くポンポンとたたく。それでもピクリとも瞼を動かさず、目を覚ます気配はまったくない。
「おぶっていくんですか?」
「美人は前、巨乳は後ろというのが俺のポリシーだ。美人で巨乳だと悩むところだが、サイファの場合は迷うことなく前だな。いわゆるお姫様だっこというやつだ」
 マックスはニッと白い歯を見せて、太い腕で抱きかかえるようなポーズを取った。エリックとアルティナは呆れた視線を送ったが、それでも彼は一向に気にすることなく、親指と人差し指を顎に添えながら、眠っているサイファに顔を近づけてじっと覗き込む。
「こいつは寝顔も本当に綺麗だな。酔っぱらいとはとても思えん」
「……班長、お願いですから変な気は起こさないでくださいよ」
「おまえは一々くだらん心配をするな! これでも妻子ある身だぞ! 変な気を起こしても実行には移さん!!」
 大きなこぶしを握りしめながら真顔で力説するマックスに、エリックは深く息を吐いて体中から疲れを滲ませた。アルティナも同情するように頷きながら、エリックの肩にポンと手をのせた。

「置いていきなさい」
 不意に聞こえた鋭く冷徹な声。
 マックスたちが振り向くと、奥から仕切りのカーテンをくぐってフェイが姿を現した。声と同様にその表情も厳しい。黒髪をさらりと後ろに払いながら、煩わしそうに気だるく溜息をついて続ける。
「甘やかすことないわ。酒の飲み方も知らない坊やは一度痛い目を見た方がいいのよ」
「相変わらずフェイは厳しいなぁ。こいつ、ちょっといろいろあったらしくてな、参ってるみたいなんだ。今日くらい大目に見てやってくれよ」
 マックスは軽く笑いながらサイファを庇ったが、フェイは同情することなく、さらに表情を厳しくして刺すように睨んだ。
「落ち込んで酒に逃げる人間が一番危険なのよ」
「わかった、わかったよ」
 マックスは顔の横で両手を広げ、ご機嫌ななめの彼女を懸命に宥めようとした。めずらしく腰の引けている彼を、エリックは不思議そうに見上げて尋ねる。
「置いて帰るんですか?」
「フェイは言い出したら聞かねぇんだ。俺も昔、酔いつぶれてきついお灸を据えられたことがある。あのときのことは、今でも思い出すだけで身の毛がよだつぜ」
 マックスは目をつむって強く眉根を寄せながら腕を組んだ。
「それ以来、俺は酒の量には細心の注意を払うようになったってわけさ」
「……いや、とてもそうは見えませんけど」
 エリックの脳裏にはひたすら豪快に飲みまくっているマックスの姿しか思い浮かばなかった。一体どのあたりが気をつけているのかさっぱりわからない。
「でもいいんですかね。ラグランジェ本家の次期当主なのに……」
 まさかこの酒場で彼の身に何かが起こるとは思わないが、名家の一人息子を酔い潰したまま残していくことに、エリックは多少の抵抗を感じた。しかし、マックスの反応はあっけらかんとしたものだった。
「ま、いいんじゃねぇか? こいつも大人なんだし」
 たいしたことではないかのように軽く流すと、残っていたサイファの水割りに手を伸ばし、顔を上に向けて一気に飲み干した。空になったグラスを戻してエリックに振り向く。
「じゃ、俺らは帰るぞ。ティムはどうした?」 
「まだ泣いてますね……」
 エリックはテーブル席を振り返って答えた。そこにはテーブルに突っ伏して嗚咽している大きな体があった。マックスは面倒くさそうに顔をしかめて呟く。
「あいつも置いて帰るか……」
「班長ーっ!!」
 その小さな呟きが聞こえたのか、ティムはガバリと体を起こし、ますます大泣きしながら、あからさまに嫌がるマックスに駆け寄って縋りついた。

 マックスたち三人が帰り、酒場は嵐が去ったように静かになった。
 カウンターで眠っているサイファはそのままにして、アルティナは手際よく後片付けを始めた。食器やグラスを洗い、テープルを拭いて床を掃く。もう他に客がいないため、明日に備えて開店時の状態に戻すのだ。
 一通りの作業を終えると、アルティナはカウンターに伏せているサイファの様子を窺った。結構うるさくしていたにもかかわらず、まだ安らかな寝息を立てて眠りこけたままである。呆れたように溜息をつくと、隣に腰掛け、頬杖をついてじっと観察するように見つめた。殴られた部分は下になっていて見えないこともあり、マックスの言うように、確かに酔い潰れているとは思えないくらい綺麗な顔をしていた。同時に、まるで子供のようにあどけなくも感じられた。
「ねぇ、母さん。サイファどうするの? 居間のソファくらいしかないけど……」
 アルティナは奥で仕込みをしているフェイに尋ねた。彼女は手を拭きながら出てくると、サイファに冷たい一瞥を送って言う。
「そこにそのまま置いておきなさい」
「ここに? だって夜中は冷えるわよ?」
「死にはしないわ」
 フェイは情け容赦なく突き放した。どうなろうと知ったことではないという口調である。アルティナは眉をひそめて母親を見上げた。
「母さん、冷たい……」
「そうじゃないとお灸にならないでしょ。ちやほやされてきたおぼっちゃんには、こうやって放置するのがいちばん効くのよ」
「でも、だからって……」
 そう言いながら、なおも顔を曇らせるアルティナに、フェイはわざとらしく肩を上下させて面倒くさそうに言う。
「女二人だけのところに男を泊めるなんてできるわけないでしょう。それが危険だってことくらい、あなたもそろそろわからなければならない年頃よ」
「サイファはそんな人じゃないわ」
 アルティナはキッと睨んで反論する。それでもフェイは冷淡な態度を崩さなかった。
「店でしか会ったことのないあなたに何がわかるの」
「わかるわよ!」
 強気な光を湛えていた深い紺色の瞳がじわりと潤む。そこには目一杯の怒りと悔しさが滲んでいた。それを横目で見ながら、フェイは壁に寄りかかって腕を組んだ。
「男なんて簡単に信用するものじゃないわ。特に酒に酔った男はね」
「…………」
 アルティナは隣のサイファをちらりと見やる。確かに、酒に酔った男を信用するなという母親の言葉は理解できる。そして、ここにいるのは酒に酔った男だ。だが、それでもサイファは違うのだと、母親の言うような男ではないのだと、そう信じていた。
「ねぇ、アルティナ」
 フェイは低い声で切り出した。呼ばれたアルティナが不安げに顔を上げると、彼女はおもむろに目を閉じて、静かに言葉を繋いだ。
「サイファはやめておきなさい。あなたがつらいだけよ」
 ――バン!
 カウンターに両手を叩きつけて、アルティナは立ち上がった。上目遣いにフェイを睨むその顔は、みるみるうちに、耳たぶまで真っ赤になっていく。
「何よそれ! そんなんじゃない!!」
 腹の底から猛然と抗議をすると、下唇を噛み、くるりと背を向けて全速力で走り出した。居住側の階段を一段とばしで駆け上がり、自分の部屋に飛び込んでバタンと勢いよく扉を閉める。
「そんなのじゃ……ない……」
 月明かりだけが差し込む暗い部屋で、アルティナは自分の言葉を確かめるように口先でそう繰り返すと、閉めた扉に背をつけて崩れるように座り込んだ。体を拾い集めるようにぎゅっと膝を抱え、そこに額をつけて顔を埋める。長い銀色の髪がさらさらと腕を掠めて流れた。
 ――そんなのじゃない、私は、ただ……。
 アルティナはそれに続く言葉を、頭の中で懸命に探した。

 サイファは薄暗い中で目を覚ました。小さな暖色の灯りがひとつだけ自分の上にともっている。それだけの光量でも、ここがフェイの酒場であることはすぐにわかった。しかし辺りには誰もいない。背中には柔らかい毛布が掛けられていた。
 酔って寝てしまったのか――。
 ゆっくりと頭を持ち上げると、それだけでズキズキと痛みが走る。少し気分も悪い。前髪を掻き上げながら、頭を掴むように押さえて顔をしかめる。
 アルティナと話をしていたことは覚えているが、その途中からの記憶がない。醜態をさらしたくらいならいいが、言ってはならないことを口走っていないだろうか――そのことを考えるとぞっとするものの、今はどうすることもできない。杞憂であることをただ祈るしかなかった。
 視線を落とすと、すぐそばに水の入ったコップと錠剤が置いてあることに気がついた。誰かの飲みさしというわけではないようだ。コップの下にはメモが挟まっている。
『二日酔いに効くから飲むように!』
 そこに名前は入っていなかったが、アルティナの書いたものに間違いないだろう。いつも伝票を見ているので彼女の文字は知っているのだ。そのぶっきらぼうな優しさに、思わずふっと笑みがこぼれる。
 サイファは素直にそれを飲んだ。
 一息ついて腕時計に目を落とす。もう朝といってもいい時間だった。そろそろ日も昇ってくるだろう。帰らなければならない。このような状況下において、酒を飲み過ぎたなどという理由で仕事を休めば、どういう噂を立てられるかは目に見えている。これ以上、ラグランジェ家の品位を落とすことは本意ではない。
 サイファはメモの下に『ありがとうございました』と返事を書くと、毛布を畳んでスツールの上に置き、なるべく音を立てないようにそっと外に出た。ゆっくりと閉めた扉の向こうから、カランカランとチャイムが小さく音を立てた。
 ちょうど朝日が顔を出し、空は白みかけている。
 早朝の空気には凜とした冷たさがあった。二日酔いの体には効き過ぎるくらいである。額を押さえて顔を上げると、細い階段を上がり、家路に向かって足を進めた。
「サイファ!!」
 呼ばれたサイファが振り返ると、そこには、酒場からの階段を駆け上がって息を荒くしているアルティナがいた。エプロンこそつけていなかったが、着ている服は昨晩と同じもののようだ。肩幅ほどに脚を開いてしっかりと立ち、膝丈のスカートをギュッと握り、上目遣いでサイファを凝視している。会話をするには少し遠い距離だが、それ以上、彼女は間を詰めようとはしなかった。
 サイファはにっこりと人なつこい笑顔を浮かべた。
「薬、ありがとうございました」
「うん……」
 アルティナは目を伏せて消え入るような声で返事をした。そして、しばらく何か物言いたげに視線を泳がせていたが、やがてキュッと下唇を噛みしめると、手にしていたレモンを大きく腕をまわして投げた。緩やかな弧を描いて手元に来たそれを、サイファは右手で受け止める。
「それも二日酔いに効くからあげるわ」
 アルティナは少し睨むような目つきで無愛想に言った。息を切らせたせいなのか、それとも他の理由なのか、その頬にはほんのりと赤みが差しているように見えた。
 サイファは顔の横にレモンを掲げたまま、柔らかく微笑んだ。
「また行きます、薄情者にならないうちに」
「ヤケ酒は禁止だからね!」
 アルティナは怒ったように苦言を呈すると、不意に目を伏せ、彼女にしてはめずらしく躊躇いがちな弱々しい声で続ける。
「元気、出してね……」
 思いがけない彼女の言葉に、サイファは少し目を大きくした。そして、ふっと表情を緩めて、精一杯の気持ちを伝えるように、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
 その瞬間、アルティナは僅かに目を逸らした。だが、もう一度サイファと視線を合わせると、大きく息を吸って、いつもと変わることのない清々しいくらいに晴れやかな笑顔を見せた。
「じゃあ、またね!」
「ええ、それではまた」
 サイファもいつもと同じように簡潔な言葉を返した。手にしたままのレモンを軽く掲げると、踵を返し、薄い朝靄のかかる帰路に足を進めていく。そのまま、立ち止まることも振り返ることもなく、規則正しいリズムを刻む靴音を、早朝の寂れた街に響かせた。