ピンクローズ - Pink Rose -

21. 流れゆく星のような

 ラグランジェ家のパーティから二ヶ月が過ぎていた。
 レイチェルの両手首の傷はすでに完治している。痕も残っていない。
 そのことは、彼女自身よりも、彼女のまわりの人間を安堵させた。当然ながらラウルもそのひとりである。サイファやアルフォンスと違い、あまり言葉や態度には表さなかったが、彼らに負けないくらいに心配していたのだ。
 それ以外では特に大きな出来事もなく、ただただ平和な日々が続いていた。ラウルが家庭教師としてレイチェルの家に向かい、彼女がお茶を飲みにラウルの部屋へ来るという、そんな穏やかでささやかな関係も、当たり前のように続いていた。

「今日はここまでだ」
 ラウルが終了を告げると、レイチェルはいそいそと教本を片付け始めた。授業中はそうでもなかったが、今はすっかり落ち着きをなくしているように見える。きのう彼女から聞いた話では、このあと何かとても楽しみなことがあるらしい。そのためラウルの部屋には行けないとも告げられている。もう気持ちはそちらに向かっているのだろう。
「私はこれで帰る」
 ラウルはそう言って立ち上がり、教本を脇に抱えて背を向けた。
 思えば、彼女が部屋に来るようになってから、一人で帰るのは初めてではないだろうか。そのことが思いのほか寂しく感じられた。彼女と並んで歩くことが当たり前になりすぎていたのかもしれない。
「待って」
 レイチェルの凛とした声が、去りゆくラウルの足を止めた。せっかく気持ちを振り切ろうとしていたのに、と少し恨めしく思いながら、彼女にしかめ面を振り向ける。
「何だ?」
「ラウルも用事があるのよ」
 レイチェルはニコニコしながらそんなことを言う。だが、ラウルにはその意味するところがまるでわからなかった。少なくとも自分はその用事とやらに覚えはない。
「来て」
 レイチェルは困惑しているラウルに駆けていくと、その大きな手を引いて、何の説明もないまま強引に部屋から連れ出した。

 ラウルが連れて行かれた先は、階下の応接間だった。
 レイチェルはラウルの手を引いたまま、その重みのある扉をゆっくりと押し開く。
 広がる視界に飛び込んできたもの――。
 それはホームパーティでも始めるかのような光景だった。気軽に食べられるような料理がテーブルの上にいくつも並び、その端にはグラスと取り皿が用意されている。いずれも手をつけられた形跡はない。
「あれ? ラウルも呼ばれていたのか?」
 窓際のソファでひとり寛いでいたサイファは、読みかけの本を置きながらそう言うと、立ち上がって二人の方へと足を進めた。濃青色の制服を崩さずきっちりと身に着けている。休暇というわけではないようだ。
「……おまえ、仕事はどうした」
「家庭の事情で早退だよ」
 サイファは悪びれもせず、あっけらかんと答えた。確か、以前もこんなことを言って早退していたことがある。そのときはレイチェルに勉強を教えるためだった。おそらく今回もたいした理由ではないのだろう。
「勝手なことばかりせず真面目に仕事をやれ」
「レイチェルの誕生日くらいいいだろう?」
 サイファは両手を腰に当て、軽く肩を竦めながら言った。
「誕生日……?」
「聞いてなかったのか? これからレイチェルの誕生日パーティだよ」
 それを聞いて、ラウルはようやく悟った。これはレイチェルの幼い策略なのだということを。前もって招待しても断られると思ったのだろう。だから何も教えることなく直接ここへ連れてきたのだ。
 彼女がこの手を使ったのは何度目だろうか――。
 確かに、以前は彼女に頼まれたことを何もかも断ろうとしていた。だが今は違う。出来るだけのことはしてやりたいと思っているのだ。しかし、それが伝わっていないのは自業自得なのだろう。ラウルは溜息をつきながら、ニコッと無邪気に笑う彼女を見下ろした。

「あ、ちょっと待っていてね」
 サイファは急に何かを思い出したようにそう言うと、部屋の隅に駆けていき、そこに用意してあったものを取って戻った。
 それは、十数本のピンクローズを中心とした花束だった。
 強烈な派手さはないが、上品な華やかさがあり、なおかつ可憐な雰囲気も持ち合わせている。それは、花が完全に開ききっていないことに起因するのかもしれない。無垢な色の柔らかな花弁は、まだその奥を隠したままだ。まさにこれから咲き誇るところなのだろう。
「レイチェル、お誕生日おめでとう」
「わあ、ありがとう」
 サイファが花束を差し出すと、レイチェルは嬉しそうに甘い笑みを浮かべて受け取った。そのピンクローズを胸いっぱいに抱え、ほのかな芳香を楽しむように、心地よさそうに目を閉じる。僅かに開いた窓からは、柔らかな風が滑り込み、淡いピンクの花弁と細い金の髪をささやかに揺らした。その姿はまるで絵に描いたように愛らしく、そして美しかった。
「ラウルはお誕生日いつなの?」
 彼女はふいに顔を上げて尋ねた。それはたわいもない世間話のようなものである。特に深い意味はなかったのだろう。だが、ラウルはすぐに言葉を返せなかった。
「……知らん」
 暫しの沈黙のあと、感情を抑えた低い声でぶっきらぼうに答える。
 レイチェルはきょとんとして瞬きをすると、不思議そうに小さく首を傾げた。
「教えてくれないってこと?」
「知らないと言っている」
 それは言い逃れなどではなく、紛れもない事実であり、ラウルの精一杯の答えだった。
 レイチェルは急に真面目な顔になると、少し考えてから口を開く。
「じゃあ、ラウルも今日が誕生日ってことにすればいいわ」
 あまりに簡単になされた突拍子もない提案。
 ラウルは面食らって息をのんだ。
「……おまえは何を言っているのだ」
「私と一緒の日なら忘れないでしょう?」
 レイチェルはくすりと笑って言う。そして、抱えていた花束から一輪のピンクローズを抜き取ると、ラウルの目の前に差し出した。
「お誕生日プレゼント」
 彼女のペースに流され、ラウルは呆気に取られたままそれを受け取った。微かな甘い匂いが鼻を掠める。頭の芯が少し痺れるように感じた。
「私、花瓶に活けてくるわね」
 レイチェルは二人に笑顔を見せてそう言うと、軽い足どりで応接間を後にする。後頭部の薄水色のリボンが、その足どりに合わせて小さく弾んだ。

「わかってるのかなぁ、年の数だけ贈ったってこと」
 サイファは片手を腰に当てて、小さく笑いながら言った。そこに責めるような響きはなく、ただ無邪気なレイチェルを慈しむような、そんな彼の想いが溢れていた。
「せっかくレイチェルがくれたんだ。大切にしろよ」
「ああ……」
 ラウルはそう答えながら、手の中のピンクローズを何気なく回した。
 そのとき、指先にチクリと痛み感じた。ごく軽い痛みである。顔をしかめるほどでもなかった。人差し指をそっと茎から離すと、そこからじわりと赤い血が盛り上がる。
「どうしたんだ? 棘? 全部とってもらったはずなんだけど……」
 出血したラウルの指を覗き込みながら、サイファはのんびりと考え込む。しかし、ふと何かに気づくと、血相を変えて弾かれるように飛び出していった。
「レイチェル、待って!!」
 まるで人生の一大事かのごとく焦った声が、廊下の高い天井に響き渡る。
 ラウルは遠ざかる靴音を聞きながら、血の盛り上がった指先を口に含んだ。少し気持ちの悪くなるような生ぬるい鉄の味が広がる。
 不用意に触れるから、か――。
 ふと頭をよぎったその言葉は、かつて自分がサイファに言ったものである。あのときの彼も同じようにピンクローズの棘で怪我をした。そのことに因縁めいたものを感じ、何ともいえない奇妙な気持ちになった。

「棘はそれ一つだけ取り忘れていたみたいだね。怪我をしたのがレイチェルじゃなくて良かったよ。身代わりになってくれて感謝すべきかな。さ、座ってくれ」
 応接間に戻って来るなり上機嫌で喋り出したサイファは、どこからか持ってきた薬箱を掲げて見せながら、近くのソファを勧めた。
「手当ての必要などない」
「医者のくせに舐めておけばいいなんて言うなよな」
 拒否することを予想していたかのように、サイファは間髪入れず嫌なところをついてくる。こういうときの彼には勝てない。ラウルは小さく溜息をつくと、怪我をしていない方の手を差し出した。
「それを貸せ。自分でやる」
「いいから座れよ」
 サイファは少しも譲歩しなかった。怪我の心配をしているというより、自分が手当てをすることにこだわっているようである。反論する気も失せて、言われるままソファにドカリと腰を下ろし、今度は怪我をしている方の手を差し出した。
 サイファは満足げに微笑むと、向かいに座って手当てを始めた。念入りすぎるほど丁寧に消毒し、傷薬らしきものを塗ると、ガーゼを当てて幾重にも包帯を巻いていく。どう考えても大袈裟すぎる。
「おまえ、楽しんでいるだろう……」
「今ごろ気付いたのか? 医者を手当てするなんて滅多にないことだからね」
 睨みを利かせるラウルに怯みもせず、サイファは澄ました顔でしれっと答える。
「この怪我もおまえが仕組んだことではないだろうな」
「まさか。ラウルが呼ばれていたことさえ知らなかったよ」
 確かにここに来たときの態度はそう見えたが、サイファならその程度しらばくれるのは造作もないことだ。しかし――。冷静に考えてみれば、ラウルの言うようなことを実現するには、レイチェルの協力が必要である。彼女がそんな計画に加担するとは思えない。自分の考えすぎだったのだとラウルは思い直す。
「そうか、ラウルに気を遣っていたんだな」
 サイファは薬や包帯を片付けながら、ふと呟いた。
 ラウルは怪訝な視線を彼に送る。
「毎年、レイチェルの誕生日はみんなで普通に食事をするだけだったんだよ。だけど、今年はパーティみたいにしたいって言い出したからさ。どういうことかと少し不思議に思っていたんだけど、どうやらラウルを呼ぶためだったみたいだね。普通の食事会ではラウルは居づらいだろう? 彼女なりにラウルが来やすい形を考えたんじゃないかな」
 サイファは薬箱の金具をカチンと留めると、取っ手を掴んで立ち上がった。
「楽しそうにしろとまでは言わないが、レイチェルの気持ちを踏みにじるような行動だけはとるなよ」
 ソファに座るラウルを見下ろし、真面目な顔で念押しをすると、踵を返して応接間を出て行った。颯爽とした足どりに合わせ、長くはない金の髪がさらりとなびいた。
 ひとり残されたラウルは、ソファの背もたれにゆっくりと身を預けた。そして、怪我をした手を視線の先に掲げ、巻かれた白い包帯をじっと見つめると、目を細めて小さく溜息をついた。

 それから間もなくしてアルフォンスが帰ってきた。
 彼もまた、少し早く仕事を切り上げてきたらしい。応接間で待ち構えていたレイチェルを抱き上げると、普段の彼からは考えられないほどに表情を崩した。娘を溺愛しているのは相変わらずのようである。
 応接間にいるのはレイチェル、サイファ、ラウル、アルフォンス、アリスの5人――これが、今から始まるパーティの出席者だ。
 自分以外は身内だけということに、ラウルは多少の居心地の悪さを感じたが、今さら帰るわけにもいかなかった。サイファにも釘を刺されている。そうでなくても、レイチェルに不快な思いをさせるような行動をとるつもりは微塵もなかった。

「レイチェル、お誕生日おめでとう」
 アルフォンスの声で皆が乾杯し、パーティが始まった。
 ラウル以外は楽しそうに会話をしていたが、ラウルだけはひとりで離れたソファに座った。あまり食べるつもりもなかったが、アリスが気を利かせて料理や飲み物を運んでくれたので、手持ち無沙汰にそれを口にする。
 テーブルの方を窺うと、レイチェルは立ったままサイファと楽しそうに話をしていた。パーティが始まってからずっと一緒にいるようだ。二人にとって、それはごく自然なことなのだろう。
 ラウルは不意にやりきれない虚しさに囚われた。
 今日がレイチェルの誕生日であることすら知らなかった。当然ながらプレゼントも用意していない。そして、おめでとうの一言さえ言えていないのだ。このパーティにいる意味など無いも同然である。そもそも何のために呼ばれたのかもわかっていない。彼女は自分に何を求めているのだろうか――。

「ラウル、いいか?」
 頭上から降ってきた太い声で、ラウルは現実に引き戻された。顔を上げると、そこにはアルフォンスがワイングラスを片手に立っていた。同席の許可を求めているようである。
「……ああ」
 ラウルが承諾の返事をすると、彼はその正面に大きな体を下ろした。手にしていたグラスをローテーブルに置き、離れたところにいるレイチェルを横目で窺うと、抑えた声で話を切り出す。
「レイチェルの魔導のことなんだが……」
 ラグランジェ家のパーティのあと、レイチェルは魔導の訓練を行うことを決意したが、いまだにアルフォンスの許可は下りていない。この二ヶ月の間、彼女が折に触れて説得を試みているようだが、まだ成功はしていないと聞いている。
「ラウル、君は聞いているな? あの子の決意を」
「ああ」
 ラウルは腕を組み、無表情のまま相槌を打つ。
「私は娘を危険な目には遭わせたくない。だが、出来れば意思を尊重してやりたいとも思っている。しかし、君もわかってくれるだろうが、これがなかなか難しい問題でな。どうすればいいか決めかねているのだ」
 アルフォンスは膝の上で両手を組み合わせてそう言うと、顔を上げ、怖いくらい真摯な眼差しでラウルの双眸を見つめた。
「そこで君の意見を聞かせてほしい。魔導の訓練がどのような影響を与えるのか、そしてどれほどの危険があるものなのかを」
 ラウルは僅かに眉を寄せた。
「……正直言ってわからん。このまま魔導から遠ざけておけば、暴発することはないのかもしれん。だが、もしそれを誘発するような何かが起これば、今の彼女にそれを止める手立てはない。魔導の制御だけでも身に着けておくべきだとは思う」
「訓練に危険がないのかを聞きたい」
 アルフォンスはラウルから少しも目を離さずに追及する。
「以前のような無謀なことはしない。精一杯、慎重に行うつもりだ」
「それは答えになっていない。危険はないのかと聞いているのだ」
 ラウルの答えに納得しなかったアルフォンスは、感情を昂ぶらせ、ローテーブルに片手をついて身を乗り出した。革張りのソファが高い摩擦音を立てる。だが、その音で我にかえったのか、複雑な表情を浮かべると、ゆっくりとその身を引いていった。そして、組んだ両手を腹の上に乗せ、疲れたように深く息を吐いて言う。
「私は君を信じる。君が大丈夫だと断言するのならば、許可をしようと思っている」
 それはまるでラウルを試しているかのような言葉だった。
 実際にアルフォンスの意図はそこにあるのかもしれない。
 ラウルは無表情を装ったまま考え込む。
「レイチェルの場合、何が起きるかは未知数だ。どれほど配慮したとしても、絶対に危険がないとは言いきれない」
 静かに口にした答えは、自分の正直な考えだった。
 アルフォンスは目を細めて溜息をついた。
「そうか……、それでは許可はできんな。張り切っているあの子には可哀想だが、諦めてもらうことにしよう」
「ああ……」
 危険はない、そう答えるべきだったのだろうか――。
 だが、それを言い切るだけの自信がなかった。以前のような目に遭わせてしまうことが怖かった。要するに逃げたのだ。そんな自分には、やはりレイチェルを指導する資格はないのだと思う。
「何も起こらないことを祈るしかないな」
 アルフォンスはそう呟くと、ローテーブルに置いたグラスを手に取り、半分ほど残っていたワインを一気に呷った。

「二人で何の話ですか?」
 サイファは人なつこい笑みを浮かべながら、ソファに座るラウルたちに声を掛けた。その返事を待たずにアルフォンスの隣に腰を下ろすと、ローテーブルの上に置かれていた淡緑色のワインボトルを示して尋ねる。
「いただいても?」
「ああ」
 アルフォンスはそう答えると、ボトルのコルクを外し、サイファが持ってきた空のグラスに注ぐ。微かに黄味を帯びた液体が、その中で大きくまわりながら波を打ち、爽やかな香りを立ち上らせた。
 サイファはそのグラスを持ち上げ、アルフォンスに軽く会釈をした。
「ほら、ラウルも付き合えよ」
「酒は飲まないことにしている」
 ラウルは紅茶を手にして素っ気なく答える。逃げ口上ではない。特に理由があるわけではないが、以前から自分でそう決めているのだ。
 しかし、サイファは納得しなかった。ムッとして口をとがらせながら言い返す。
「乾杯のときに飲んでいたじゃないか」
「あれは付き合いだ」
「僕には付き合えないっていうのか?」
 まるで酔っぱらいのようにしつこく絡んでくる。それも、いつもの彼らしくない稚拙な絡み方だ。顔を見る限りではまだ素面に見えるが、頭の方には少し酔いがまわっているのかもしれない。
「レイチェルに嫌な思いをさせるなと言ったのはおまえだろう」
「ああ、だから乾杯には付き合ってくれたってわけか」
 レイチェルの名前を出すと効果覿面だった。彼にしては簡単すぎるほどにあっさりと頷いた。やはり酔っているのかもしれないと思う。
 そういえば……と、ラウルはあたりを見まわす。
「おまえ、レイチェルはどうした? 一緒にいたのではなかったのか?」
「向こうのソファで寝ているよ」
 ラウルはサイファが指さした方に目を向ける。先ほどは間にあるテーブルが邪魔をして気付かなかったが、確かにレイチェルはソファで横になっていた。体の上には毛布が二枚ほど掛けられている。
「まさか酔わせたのではないだろうな」
 訝しげにそんな疑念を口にすると、サイファは眉根を寄せて睨み返した。
「僕がそんなことをする人間に見えるのか? 酒は飲ませてないし、他に何もしていない。ただ普通に話をしていただけだ。だけど、急に眠いって言って寝ちゃったんだよ」
 多少の怒りを含んだ声で毅然と反論すると、隣のアルフォンスに同意を求める。
「アルフォンスは信じてくれますよね?」
「ああ、あの子はそういう子供みたいなところがあるからな」
 アルフォンスは何か思い悩むような様子でそう答えると、硬い表情で目を伏せる。
「15……か……」
「15ですね。ようやくあと1年です」
 サイファは落とされた言葉を引き取ると、満面の笑みを浮かべながらそう続けた。
 あと1年――。
 それは、彼が待ち望んでいることが実現するまでの時間であり、自分と彼女の関係が終わる期限でもある。そのことについて、具体的な話はまだ聞いていない。だが、自分が彼女の家庭教師でいられるのは、長くてもあと1年なのだろうと思う。
「サイファ、そのことなんだが……」
 アルフォンスは苦渋に満ちた顔で、言いにくそうに切り出した。
「どうだろう? あと4、5年ほど待ってはもらえないだろうか」
「手放すのが惜しくなってきたのですか?」
 サイファは薄く笑みを浮かべ、反応を愉しむように尋ねる。
「そういうことではない」
 アルフォンスは慌てて否定した。
「あれはおまえも知ってのとおり、まるきり子供でな。とても結婚など……」
「16歳のアリスと結婚した人が何を言ってるんですか」
 サイファは動じることなく鋭い反撃をする。
 アルフォンスはますます慌てた。顔に赤みが差し、うっすらと汗が滲む。
「いや、アリスはしっかりしていたのだ。しかしだな、レイチェルは無邪気というか、危なっかしいほどに幼い。とても嫁にやれる状態とは思えん。そう育ててしまったのは私たちなのだが……」
 そこで言葉を詰まらせると、申し訳なさそうにうつむいた。
「だから、あと4、5年……、その間に色々と身に付けさせ、しっかり役目を果たせるように育てるつもりだ。おまえのためにも、レイチェルのためにも、それが最善の選択だと思う」
「今のままでいいですよ」
 サイファはアルフォンスの提案をやんわりと突っぱねた。
「とりあえず結婚をして、それから少しずつ出来ることを増やしていけばいいでしょう。無理はさせませんよ。ルーファス前当主の言ったように、ラグランジェ家のことはすべて僕がやります。といっても、今はまだ父が当主なので、僕の仕事はそれほど多くないですけどね」
 涼しい顔でそう言ってワイングラスを口に運ぶ。
 対照的に、アルフォンスは難しい顔をしていた。
「しかし、そうはいってもな……おまえ、一度、過労で倒れたことがあっただろう。魔導省の仕事だけでもきついというのに、レイチェルの面倒までみることになったら体が持たんぞ」
「では鍛えておきます」
 サイファはにっこりと微笑んで答える。その返答からは、絶対に引き下がらないという強い意志が透けて見えた。何を言われようとも、どんな説得をされようとも、決して考えを変えるつもりはないのだろう。
 アルフォンスは当惑したように彼を見つめた。
「おまえは、なぜそれほどまで……」
「レイチェルと少しでも長く一緒にいたい、ただそれだけです」
 普通であればにわかに信じられない答えだが、サイファの場合は偽りない本心だろうとラウルは思う。彼の家庭教師をしていた頃から、幾度となく同様の話を聞いていたのだ。彼がどれほどその日を心待ちにしているか、どういう思いでそれを望んでいるか、どちらも嫌というほど知っている。
 アルフォンスも彼の気持ちは疑っていなかった。だからこその苦悶を滲ませる。
「サイファ……残酷なことを言うようだがな、おまえとレイチェルとでは随分と温度差があるように思う。レイチェルにとっては、おまえが特別というわけではないぞ」
「わかっていますよ」
 サイファは動揺も見せず、静かに受け止めた。
「お父さまが好き、お母さまが好き、サイファが好き、ラウルが好き――彼女にとってはどれも同じようなものですよね」
 ラウルも薄々そんな気はしていた。そう思うようになったのはわりと最近のことである。初めから気付くべきだったのかもしれない。そうすれば、これほどまでに振り回されることはなかっただろう。
「でも、それでもいいと思っています。少なくとも、僕を好きだということは確かなわけですから。他に添い遂げたい人がいるのであれば、話は別ですけれども」
 サイファの言葉が途切れると、アルフォンスは目を閉じて小さく息をついた。
「おまえの気持ちはよくわかった。レイチェルのことをそこまで想ってくれて、父親として本当に深く感謝をしている。レイチェルを託せるのはおまえしかいない。だからこそ、こちらも相応の準備を整えてから嫁がせたいのだ」
「駄目ですよ、約束は守ってください」
 サイファは鋭い視線を向け、丁寧ながら強い口調で言う。
「しかし……」
 アルフォンスは視線を落として言い淀んだ。反論の言葉ならいくらでもあるはずだ。それを飲み込んだのは、少なくともこの件に関しては、自分の方が弱い立場にあることを理解しているからに違いない。相手は本家であり、しかも既に約束を交わしているとなると、覆すのは難しいだろう。
「ラウル、おまえはどう思う? 意見を聞かせてくれ」
 今まで黙って聞いていたラウルに、サイファは急に話を振ってきた。
「私には関係のない話だ」
「だから聞きたいんだよ。第三者の意見としてね」
 サイファがなぜ今さら自分に意見を求めるのか、ラウルにはわからなかった。話はすでに彼自身の望んだ結論に達しかけている。何に頼ることもなく押し切れるはずだ。それとも他に何か意図でもあるのだろうか。
 いずれにしても、自分には彼の意に沿うようなことは言えそうもない。
「レイチェルのためを思うなら、こんな結婚はやめた方がいい」
 それは、これまでの話を根本から否定するものだった。
 サイファは息をのんで大きく目を見張った。ゆっくりと顎を引き、青く燃えたぎる瞳でラウルを睨みつけると、低く抑制した声で尋ねる。
「どういうことだ」
「あいつはおまえたちが思っている以上に、自分の立場や自分に求められていることを考えている。そして、しなくてもいい苦労を背負い込んでいる。レイチェルを救うには、その呪縛から解放してやるしかないだろう」
 ラウルは感情を見せないように、冷静な意見として述べていった。
 サイファは不機嫌に、しかし真剣にそれを聞いた。じっと目を伏せて思考を巡らせると、僅かに視線を戻し、おもむろに形のいい唇を開く。
「確かにつらい目に遭わせたことはあるし、彼女が自分ひとりで抱え込んでいることも知っている。それでも僕は諦めはしない。彼女のそばで、彼女を守っていくつもりだ。そして、つらさや悲しみを補って余りあるくらいの愛情を注ぎ、彼女を幸せにする――それが僕の決意だ」
 静かに迷いなくそう言い切ると、挑むような瞳をラウルに向けて畳み掛ける。
「僕との婚約を解消したとして、それで彼女はどうなる? 幸せになれるというのか? 誰が僕以上に彼女を守ってやれる? 幸せにしてやれる? ラウル、おまえならそれが可能だとでも言うのか?」
「…………」
 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、ラウルは何ひとつ答えられなかった。自分ならレイチェルを幸せに出来る――そう断言できるほどの自信があるのなら、とっくに彼女を連れ去っていただろう。
「サイファ、おまえ少し酔っているのではないか?」
「かもしれません」
 心配そうに顔色を窺うアルフォンスに、サイファは弱く微笑んで溜息まじりに答えた。彼にしてはめずらしく感情的になり、少し息を切らせていた。興奮のためか、酒のためか、顔も少し紅潮している。ゆっくりとソファの背もたれに身を預けると、深く呼吸をし、額に手の甲をのせて目を閉じた。
「でも、いま言ったことは僕の本心だよ」
「意見を求められたから言っただけだ。議論するつもりはない」
 ラウルは冷ややかな態度でティーカップを手に取った。
 そんなラウルの様子を、サイファは目を細めて見つめる。
「ラウルには、認めてほしかったんだけどな」
 どこか寂しげな声でそう呟くと、気を取り直したように、体を起こして笑顔を作る。
「まあ、確かに僕にもまだ至らない面はあるし、力不足は否めないからね。ラウルの忠告を真摯に受け止めて、今後さらに努力を重ねていくよ」
 彼は冷静に自分を見つめながら、前向きに決意を述べていく。忠告のつもりではなかったが、彼はそう受け取ったらしい。いや、あえてそう解釈することにしたのだろう。
「そういうわけで、いいですよね?」
 サイファは他人事のように聞いていたアルフォンスに振り向いた。
「レイチェルが16になったら結婚します」
「あ……ああ……」
 静かだが強い決意を秘めたその宣言に、アルフォンスは押し切られるように肯定の言葉を返した。

「サイファの粘り勝ちね」
 アルフォンスの斜め後ろに立っていたアリスは、くすりと笑ってそう言うと、プレートに載せてきた人数分の小さなカップを、男たちの前のローテーブルに置いた。
「おまえ、聞いていたのか……」
「あら、秘密のお話だったの?」
 アリスが立てた人差し指を唇にあて、悪戯っぽくそう尋ねると、アルフォンスはきまり悪そうに頭に手をやった。
「おまえはどう思っている? 16で結婚させてもいいのか?」
「そうね、サイファがそこまで言ってくれているんだから」
 アリスは悩むこともなくさらりと答えた。彼女の中ではすでに結論は出ていたようだ。そのことが面白くなかったのか、アルフォンスは複雑な表情で眉をひそめた。気を悪くしていることは明らかである。しかし、アリスは平然としたまま小さなカップを差し出して言う。
「これでも食べて機嫌を直して。レイチェルが作ったのよ」
「レイチェルが、作った……?」
 アルフォンスはその小さなカップを覗き込み、大きく瞬きをする。
「アルフォンスは知らなかったんですか? レイチェルがプリンを作っていたこと。僕とラウルはこれで二回目ですよ」
 サイファは少し得意げな顔でカップのひとつを手にとった。
「なっ……、私を差し置いて、そろって抜け駆けとは……」
 アルフォンスは本気で悔しそうだった。サイファに対抗するようにプリンを手に取ると、少し慌てたようにスプーンですくって口に運ぶ。
「……美味い」
 彼は一口食べて動きを止めると、ぽつりと一言呟いた。カップを持つ指先が僅かに震え、心なしか目も潤んでいるように見える。
「あの子もこんな美味いプリンを作るまでに成長していたのか……」
「どういうわけかプリンしか作らないんだけどね」
 アリスは肩を竦めて言い添えた。それは、今は何も耳に入らないであろうアルフォンスにというより、その隣のサイファに言っているようだった。二人は互いに小さく笑い合うと、感慨に耽るアルフォンスを優しい眼差しで見つめた。
 そんな三人を横目に、ラウルも自分の前に置かれたプリンに手を伸ばした。
 それは自分の作るものと遜色のない出来だった。美味しいことは前回食べてわかっていたが、見た目も申し分なく、そのまま市販されてもおかしくないくらいである。
 当初は、作れるようになるとは思わなかった。
 火傷をしたときはもう無理だろうと思った。
 しかし、彼女は少しずつ努力を重ね、いつしかここまで出来るようになったのだ。それは、自分の意思を持って着実に歩いてきた結果である。
 ラウルは彼女の成長に思いを馳せながら、じっくりとそれを味わった。

「ラウル、来て!」
 寝ていたはずのレイチェルが、庭からガラス戸を開けて声を弾ませた。いつのまにか起きて庭に出ていたようだ。少し息がきれているが、溌剌としていて、とても眠そうには見えない。
 なぜ自分だけが彼女に呼ばれたのだろうか――。
 ラウルにはまったく見当がつかず、期待と不安の入り交じった気持ちが胸に渦巻いた。少し躊躇いながらも立ち上がり、彼女の方へと向かう。
「何の用だ?」
 その極めて端的な質問に、レイチェルは何も答えなかった。ただにっこりと微笑むと、小走りで庭へと駆けていく。芝生を踏みしめる規則的な音が、次第に遠ざかっていった。
 ラウルも庭に降りて後に続いた。
 すると、彼女は庭の中央で足を止め、くるりと振り返った。ドレスが大きく風をはらみ、金の髪がさらりと艶やかに舞い上がる。
「一緒に星空を見るって約束したでしょう?」
 澄んだ声が一面の空に拡散する。
 彼女は両腕を大きく広げて、愛らしい笑顔を浮かべた。彼女の背後には濃紺色の空が広がり、そこにいくつもの星がキラキラと瞬いている。彼女の言ったように、それは宝石よりもずっときれいだった。
 ラウルは目を細め、ゆっくりと腕を組んだ。
「あら? どうしたの?」
 レイチェルはふと何かに気付いて尋ねる。その視線は、ラウルの人差し指に巻かれた白い包帯に注がれていた。
「ああ、棘が刺さったのだ」
 ラウルは問われたまま、何の気なしに答えた。
 しかし、それを聞いたレイチェルは、口もとに手を当てて顔を曇らせる。
「私のあげたバラのせい?」
「いや、たいしたことはない、気にするな」
 もとよりレイチェルを責めるつもりなど微塵もなかった。原因は自分の不注意であり、彼女に非がないことは明らかである。そして、実際に怪我はごく些細なものなのだ。
「でも、包帯が……」
「サイファが大袈裟に巻いただけだ」
 本当に余計なことをする奴だ、と心の中で舌打ちする。たいしたことはないと言っても、確かにこれでは説得力がない。そもそもこんなものを巻かなければ、彼女に気付かれることすらなかったはずだ。
「ごめんなさい……」
「おまえは悪くない。そんな顔をするな」
 自責の念に駆られる彼女に、ラウルは拙い言葉を掛けることしか出来なかった。本当は彼女の頬に触れたかった。その方が気持ちを伝えられる気がした。しかし、その衝動は理性が押しとどめる。求める指先をこぶしの中にしまい込むと、うつむく彼女を見下ろして静かに口を開く。
「プレゼント、大切にする」
 レイチェルは驚いたようにラウルを見上げた。彼女にとってはそれほど意外な言葉だったのだろう。大きくぱちくりと瞬きをして、ラウルと目を見合わせると、やがて小さくはにかんで頷いた。

「ねぇ、どうしてラウルなの?」
 サイファも庭に降りてきて、二人に足を進めながら尋ねた。取り立てて不機嫌な様子はなく、ニコニコと笑顔を浮かべている。もしかすると内心は面白く思っていないのかもしれないが、少なくともレイチェルの前でそれを見せることはないだろう。
 レイチェルは弾むように一歩飛び出すと、無邪気な笑顔を見せて答える。
「パーティのときの星空の話をしたら、ラウルも見たいって言ったから」
「そうは言っていない」
 ラウルは焦って振り返り、釈明しようとする。自分から言い出したわけではなく、彼女が言ったことに頷いただけである。たいした違いではないかもしれないが、ラウルにとっては譲れない部分だった。変に誤解をされては困る、ということが大きかったのかもしれない。
「むきになるなよ。だいたいわかるからさ」
 サイファは軽く笑いながら受け流すと、ラウルの肩に腕をのせて声をひそめる。
「それより何の話をしていたんだ? 深刻そうに見えたけど」
 ラウルはじとりとした視線を流すと、包帯が巻かれた人差し指を立てた。
「おまえがこんなものを巻くから心配させてしまうのだ」
「ああ……」
 サイファは気の抜けた返事をすると、いきなり何の躊躇いもなくその包帯をほどいた。そして、不思議そうな顔をしているレイチェルの前に、包帯を取ったラウルの右手を晒して言う。
「レイチェル、これ、本当にたいしたことないんだよ」
 サイファにとってはレイチェルが何よりも最優先である。わかってはいたことだが、ラウルはその身勝手さに閉口した。しかし、ほっとしたように胸を撫で下ろすレイチェルを見て、それですべてが報われたように感じている自分は、サイファとたいして違いはないのかもしれないと思う。
「そんなことより空を見ようよ」
 サイファはレイチェルを引き寄せると、後ろから優しく抱きすくめた。
「この前のパーティのときの方がきれいだったかな」
「今日は特別だから一緒に見られただけで嬉しいの」
 レイチェルは幸せそうに柔らかく微笑むと、小首を傾げて振り向く。
「ラウルも嬉しい?」
「……ああ」
 ラウルは腕を組んで空を見上げながら、小さく返事をする。緩やかな風が頬を撫でるように掠め、長い焦茶色の髪を小さく揺らした。
「三人で星空を眺めるなんて、これが最初で最後かもしれないね」
 サイファは誰にともなくそう言った。
 それきり会話は途絶えた。

 星がひとつ流れた。
 一瞬だけ強い煌めきを放ち、すぐにすっと消えていく。

 自分とレイチェルの出会いは、この流れゆく星のようなものかもしれない。
 煌くような二人の時間は、やがて思い出だけを残して終わりを告げる。それはどうすることもできない。誰にも止めることはできないし、止めてはならないのだ。
 変わらないものは何もない。だからこそ、今という時間はかけがえのないものになる。
 そんな当たり前のことを、長い時間を無為に生きる中で、ラウルは忘れてしまっていた。思い出させてくれたのは、紛れもなく――。
 まっすぐ空を見上げるレイチェルの横顔を、ラウルはそっと見つめて目を閉じた。