ピンクローズ - Pink Rose -

20. 空回りの行方

「今日はここまでだ」
 ラウルがいつものようにそう言うと、隣のレイチェルはにっこりと微笑み、小さな手で分厚い教本を閉じた。バタンという重みのある音とともに、小さな風が起こり、彼女の細い金髪を微かに揺らす。
 今日はいつもより早くに授業を終えた。
 特にこれといった理由はない。ただ、朝からずっと気もそぞろで、授業どころではなかったのだ。それゆえ、ちょうど区切りがついたからと自分に言い訳をしつつ、少し早めに切り上げることに決めたのである。
 ラウルは焦る気持ちを抑えながら、その原因となっていたことを切り出す。
「きのうのパーティはどうだった」
「なんとか大丈夫だったわ。心配を掛けてごめんなさい」
 レイチェルは何事もなかったかのように、屈託のない明るい笑顔で答える。
 一見、問題はなさそうに見えた。
 しかし、ラウルはその言い方に引っかかりを感じた。何もなかった、とは言わなかった。やはり何かはあったのだと思う。これ以上の心配を掛けまいとして隠しているのだろう。大丈夫という言葉も信じていいものか疑問である。
 笑顔の向こう側では傷ついているのかもしれない。
 彼女の脆い部分を目の当たりにしてしまったから、そして、それを他人にあまり見せないことを知ってしまったから、些細なことでも過剰なまでに心配になる。せめて自分にだけは気を遣わないでほしい、あのときのように本心を見せて頼ってほしい――ラウルはそう願った。
「星空がすごくきれいだったの」
 彼女の小さな口から不意にそんな言葉が紡がれた。
 ラウルは何のことだかわからず、訝しげに眉をひそめる。
「パーティが終わってから、サイファと一緒に外に出て夜空を眺めたの。数え切れないくらい星が出ていて、眩しいくらいにキラキラしていて、たくさん降るように流れて……宝石よりもずっときれいだったわ」
 彼女は膝の上で両手を組み合わせ、嬉しそうに声を弾ませた。
「星くらいこれまでにも見たことがあるだろう」
「あんなにきれいなのは初めてだったの。私、あまり夜は外出しないし、早く寝てしまうから、星空ってそれほど見たことがなくて。きっと今までたくさん見逃してきたのね。きのうがパーティの日で本当に良かったわ」
 ラウルは軽く溜息をついて腕を組んだ。
 彼女が何を伝えたかったのかがようやく理解できた。要するに、つらいことが霞んでしまうくらいの楽しい出来事があった、だからパーティも大丈夫だった、ということが言いたかったのだろう。これほど嬉しそうに話されては信じざるをえない。そのことに関しては、心から良かったと思う。
 だが、複雑な気持ちがあったのも事実だった。
 結局、彼女を守ったのはサイファである。自分はただ気を揉んでいただけで、行動を起こすことはなかった。パーティに出席していない自分には、彼女を守ることは出来ないと諦めていたが、何かしら出来ることはあったのかもしれない。
「ねぇ、ラウルは星空って好き?」
「さあな、好きでも嫌いでもない」
 投げやりな答えだが、はぐらかしたつもりはない。昔は好きだったが、嫌いになり、今はどちらなのか自分でもわからないのだ。
 星空を背に優しく微笑む少女が、ラウルの脳裏に浮かぶ。
 彼女を守れなかったあのときから幾星霜が過ぎただろう。それでもまだラウルは自分を責めている。彼女のことを忘れることは決してない。だが最近は、思い出すことは少なくなっていた。
 自分は薄情なのだろうか。
 今はレイチェルに頭が占められている。少女とよく似た面影を持っているが、二人を重ねて見ているわけではない。確かにきっかけはそうだった。しかし今は違う。どちらも大切な存在ではあるが、その意味合いは違っているのだ。
 だからこそあらためて思う。
 レイチェルには彼女のような運命を辿らせてはならない。そうならないように守っていかなければならない。救えなかった彼女の代わりではなく、レイチェル自身の幸せのために――。
「今度はラウルと一緒に見られたらいいなって思っているんだけど」
 レイチェルの可憐な声で、思考の海から現実に引き戻される。
「……ああ、そうだな」
 ラウルは僅かに目を細めて答えた。
 だが、それが実現することはないだろうと思う。満天の星が見られる時間まで彼女といられる機会があるとは思えない。簡単なようで難しいことなのだ。ラウルはただ彼女がそう願ってくれただけで十分だった。
「じゃあ、約束ね」
 レイチェルは声を弾ませてそう言うと、軽い足どりで立ち上がり、急いで教本やノートを片付け始めた。手を伸ばして本棚にしまう。
 そのとき――。
 ラウルはハッとして彼女の腕を掴んだ。自分の方へ引き寄せ、長い袖を少しだけ引き上げる。そこから白い物が覗いた。すべては見えなかったが、それが何なのか医者のラウルにはすぐにわかった。いや、医者でなくともわかるだろう。
 彼女の手首には包帯が巻かれていた。
 彼女はきまりが悪そうに目を伏せる。
 今にして思えば、授業中も何か気にしている様子だったし、いつもに比べて動きが大人しかった。おそらくこれを隠すためだったのだろう。なぜもっと早くに気づかなかったのかと思う。
「これは何だ。きのうのパーティで何かあったのか?」
「……少し怪我をしただけ。たいしたことはないの」
 レイチェルはそっと手を引き戻すと、袖を捲り、自ら包帯を外してガーゼを取った。
 そこには赤く擦れたような傷が幾重にも走っていた。縄で強く縛られたのだろうか。彼女の言うように重傷ではなさそうだ。しかし、白く細い手首にこれだけの傷がついていると、目を背けたくなるくらい痛々しく見える。
「どうしたのだ。誰かにやられたのか」
「……ええ」
 嘘はつけないと思ったのか、彼女は困惑した顔を見せながらも肯定する。
「誰だ。前に言っていたユリアとかいう奴か」
 心当たりとして思い浮かぶのはその名前だけだった。レイチェルを出来損ないなどと罵っているラグランジェ家の女である。一度も会ったことはないが、そういう話を聞いたことを覚えていたのだ。
 レイチェルは驚いたように目を見開いた。しかし、すぐに視線を落として考え込むと、戸惑いがちに瞳を揺らしながら小さく頷いた。
 まさか、ここまでやるとは――。
 ラウルは奥歯を噛みしめた。嫌味を言われたり冷たい目を向けられたりするだけだと聞いていたが、それどころの話ではなかった。これはすでに立派な犯罪である。魔導を使って故意にやったのであれば、禁錮刑に処せられてもおかしくないくらいだ。
「サイファは何をやっていた!」
「サイファは何も悪くないわ」
 レイチェルはラウルを見つめて冷静に答えた。それでもラウルは納得できなかった。むしろ、彼女が庇い立てをしたことで、なおさら腹立たしさが増していた。
「あいつにはおまえを守る義務があるはずだ」
「ユリアにはもう二度としないように言ってくれたみたい」
「事が起こってからでは遅いだろう」
「それは私がいけなかったの。私がサイファに何も言わなかったから……」
 レイチェルはほどいた包帯を無造作に絡ませた手で、胸元をぎゅっと押さえる。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。
「なぜ、そんなに必死に庇う」
「本当のことを言っているだけよ」
 確かに本当のことなのだろう。だが、それでも庇っていることには違いない。彼女に自覚のないことが、ラウルになおのことやりきれなさを募らせる。
「……座れ」
 小さく溜息をついてそう言い、彼女を椅子に座らせた。ここは医務室ではないため、新しいガーゼも薬もない。剥がされたガーゼをそっと手首に戻すと、丁寧に包帯を巻いていく。
「医務室に着いたらきちんと診てやる」
「うん……」
 レイチェルは神妙な顔つきで、小さくこくりと頷いた。
「怪我はここだけか」
「こっちも……」
 彼女は左手を軽く上げた。袖口から白い物がちらりと覗いている。右手と同じように手首に包帯が巻かれているようだ。両手を拘束されていたということだろう。そうなると、それだけで終わったとは考えづらい。自由を奪った上で何かをしたと考えるのが自然だ。
 まさか――。
 いや、そんなことはない。脳裏に浮かんだ可能性を懸命に否定する。だが、考えれば考えるほどそれが困難になる。相手は女であるが、彼女ひとりだけだったとは限らない。レイチェルが本家に嫁ぐことを阻止したがっているのだとしたら、男をけしかけるくらいのことはしたかもしれない。
「レイチェル、正直に話せ。何をされた。ここで聞いたことは絶対に口外しない」
 ラウルは彼女の細い両肩を掴み、真剣に真正面から見据えて言う。
 レイチェルはその勢いに圧倒されて大きく目を見張ったが、やがて冷静な顔に戻ると、思い出すような素振りを見せながら少しずつ話し始めた。
「ユリアに、地下の訓練場に連れて行かれて……」
 彼女の肩を掴む手に力が入る。そこは防音対策がなされた部屋で、悲鳴程度の音ならほとんど漏れることはない。事を為すにはうってつけの場所だ。
 レイチェルは斜め上に視線を向けて淡々と続ける。
「魔導の紐みたいなもので手首を縛られて、サイファとの結婚をやめなさいって迫られたけれど、拒否したら頬を平手打ちされたわ」
「それからどうなった」
「それだけよ」
 彼女は軽くそう答えるとニコッと笑顔を見せた。
 しかし、ラウルは訝しげに眉根を寄せる。
「……本当にそれだけなのか?」
「本当よ。信じてくれないの?」
 レイチェルはきょとんとして尋ね返す。
 それでもラウルは首を縦に振ることができなかった。彼女が嘘を言っているようには見えない。それでも一抹の疑念までは拭いきれなかった。彼女なら心配を掛けまいとして頑固に口をつぐむだろうことは想像がつくからだ。
「じゃあ、見る?」
 ぽつりと落とされた言葉に反応し、ラウルは怪訝な視線を彼女に向ける。今までの話とどう繋がるのかわからない。それどころか何を言っているのかさえ理解できなかった。
 その無言の問いに答えるように、レイチェルは真面目な顔で言う。
「体を見せて傷がないことを証明すればいいのよね。脱ぎにくい服だから少し時間がかかると思うけれど、ここで今から見てくれてもいいわ」
「……いや、いい。信じる」
 ラウルは低い声でそう言うと、彼女の肩から手を引いて溜息をついた。
 完全に負けたと思った。
 だが、彼女は駆け引きをしたわけはでなく、実際にそうするつもりで言ったのだろう。だからこそ自分が引かざるをえなかったのである。これしきのことで狼狽えたわけではない。彼女にそこまでのことをさせてはならないと判断したのだ。
「こんな馬鹿なことを言うのはやめろ」
「誰にでも言うわけじゃないわ。ラウルだから言えるのよ」
 まっすぐ向けられた言葉に、ラウルの心臓が大きく跳ねた。息を止めて彼女を見つめる。その無垢な瞳に吸い込まれるように感じた。しかし――。
「だってラウルはお医者さまだもの」
 レイチェルは行儀良く両手を膝にのせたまま、にっこりと無邪気に微笑み、ラウルの視線にそう答えを返した。

「今日もいいお天気ね」
 レイチェルは玄関を出ると、後ろで手を組んで青空を仰ぎ、そのまま心地よさそうに目を閉じた。長い金の髪がさらさらと優しく揺れ、きらきらと上品に煌く。そして、振り返って目映い笑顔をラウルに見せると、後頭部のリボンを弾ませながら、軽い足どりで門に向かって歩き出した。
 しかし、その足が途中でピタリと止まった。ドレスの裾が大きく揺れて戻る。
 彼女は胸元に小さな手を当て、まっすぐ正面を見つめていた。無言のまま口を開こうとしない。その表情からは微かな驚きが窺えた。
 ラウルは彼女の視線を辿った。
 その先には一人の女が立っていた。鮮やかな金の髪に青い瞳――ラグランジェ家の人間だろう。眉をしかめてレイチェルを睨みつけると、門を開いてツカツカと中に入ってくる。
 どうやら彼女がユリアのようだ。その敵意を露わにした態度と、レイチェルの狼狽した様子から考えると、おそらく間違いないだろうと思う。
 ラウルはレイチェルを庇うように前に出た。
 しかし、彼女は二人に目を向けることなく、豊かな巻き毛をなびかせながら、まっすぐ前を向いて通り過ぎようとした。間際に憎しみのこもった小さな声を落とす。
「もうあなたとは二度と関わり合いになりたくないわ」
 その瞬間、ラウルは彼女の手首を強く掴み上げた。
「おまえがユリアか」
「痛っ……!!」
 ユリアは眉をしかめ、反抗的な眼差しでラウルを見上げた。だが、その凍てつくような鋭い瞳に射抜かれると、はっと息を呑んで顔を引きつらせ、脚を震わせながら一歩後ずさった。
 ラウルは逃がさないとばかりに詰め寄る。
「レイチェルに傷を負わせておきながら何だその態度は。謝罪はしたのか」
「ラウル、やめて、もういいの」
 レイチェルは袖を掴んで懇願した。
 しかし、ラウルはユリアを放さなかった。たとえレイチェルが許しても、自分は許す気にはなれなかった。反省しているならまだしも、少しもそのような素振りはなく、むしろ逆恨みさえしてそうに見える。このままではいずれ同じことが繰り返されてしまうだろう。いや、さらに酷いことになるかもしれない。
 レイチェルはラウルの袖を引き、なおも首を左右に振って訴える。
「もう終わったことなの」
「私が悪かったわよ! 二度とこんなことはしないわ!!」
 突然、ユリアは顔をそむけてヒステリックに叫んだ。ラウルに手首を拘束されたまま、肩を震わせて大きくうなだれる。豊かな巻き毛が肩から滑り落ち、その表情を覆い隠した。
「もう二度と……こんなことは御免だわ。サイファに脅され、シンシアとリカルドに責められ、これからあなたの両親に怒鳴られに行くのよ。私の人生もうおしまいよ」
 彼女は涙声で吐き捨てるように言った。
 ラウルは彼女の手首を放した。許したわけでも同情したわけでもない。ただ、もう十分に譴責を受けていると感じたのだ。ラウルが責め立てても同じことの繰り返しにしかならないだろう。たいして意味のあることとは思えない。
「おまえはそれだけのことをした。当然の報いだ」
 腕を組みながら冷ややかな目で見下ろし、彼女の行いを断罪する。
 ユリアは唇を噛んだまま、何も言い返さなかった。
「ねぇ、ユリア」
 レイチェルはそう言って遠慮がちに進み出ると、胸元で両手を組み合わせた。
「私、お父さまとお母さまにお願いしてくるわ。もうユリアを怒らないでって」
「余計なことはしないで」
 ユリアは感情を抑えた声で撥ねつけると、濡れた目元を手の甲で拭って歩き出した。扉の前に立ち、震える手でチャイムのボタンを押そうとする。
「行くぞ」
 ラウルが声を掛けても、レイチェルは心配そうにユリアの背中を見つめたまま、動こうとはしなかった。何か迷うように瞳を揺らす。ユリアには拒否されたが、やはり両親に頼みに行こうと考えているのかもしれない。
 ラウルは無言で彼女の手を引き、半ば強引にその場から連れ去った。

「おまえはもう少し自分のことを大事にしろ」
 ラウルは彼女の傷を診ながら小さく溜息をついて言う。
 そこは医務室ではなくラウルの自室だった。医務室である必要はないと判断してのことだ。ダイニングテーブルの隣で、椅子を向かい合わせにして座っている。
 彼女の手首の傷は、擦り傷と火傷を同時に負ったものだった。完治までは時間を要するだろう。もしかすると傷痕が残るかもしれない。もちろん、そうならないように手は尽くすつもりだが、どうにもならないこともあり得るのだ。
「危険を感じたら迷わず誰かに助けを求めろ。遠慮などしている場合ではない。おまえに何かあったら、その方がまわりに迷惑が掛かるのではないのか」
「ええ……そうよね……」
 レイチェルは顔を曇らせてそう言うと、しゅんとしてうなだれた。
 それでもラウルは止まらなかった。
「おまえは危機感がなさすぎるぞ。世の中、優しい良い人間ばかりではない。もっと気をつけろ。自分に怪我まで負わせた奴に、甘い顔など見せている場合ではない」
「でも、かわいそう……」
 彼女は視線を落としたまま、呟くようにぽつりと言う。
「あんな奴に同情などするな」
 ラウルは少し苛立っていた。自分のことを大事にしろと言ったばかりなのに、彼女はなおも他人のことを優先して考えている。それも相手は自分を傷つけた人間だ。なぜ同情など出来るのかまったく理解不能だった。
「うん……でも、私には守ってくれる人がたくさんいるけれど、もしかしたらユリアには一人もいないのかもしれないって思ったから……」
「自業自得だろう」
 素っ気なくそう言いながら、彼女の手首に新しいガーゼを被せ、包帯を巻いていく。
 今日のユリアの態度を見る限りでは、とても守ってやりたいと思わせるような人物ではない。もし一人も味方がいないのだとすれば、彼女自身の行動が招いた結果なのだろうとラウルは思った。
 しかし、レイチェルは真面目な顔で反論する。
「立場の違いもあると思うの。私だって本家次期当主の婚約者じゃなければ、こんなに大事にされていなかったはずだわ」
「それは違う。おまえは本気でそんなことを考えているのか?」
 ラウルは包帯を巻く手を止め、彼女の双眸を見つめる。
 アルフォンスもアリスも、そんな理由で大切に育ててきたわけではないだろう。サイファも婚約者の義務のみで大切にしているとは思えない。見ていればそのくらいのことはわかる。そして、何より確実に言えること――。
「少なくとも、私にはそんなものは関係ない」
 ラウルはラグランジェ家の人間ではないし、ラグランジェ家に取り入ろうと考えているわけでもない。そのことはレイチェルもわかっているはずだ。
「ありがとう」
 彼女は小さく笑みを浮かべてそう答えた。
 しかし、ラウルは彼女の様子に何か釈然としないものを感じた。本心から納得しているように思えなかったのだ。根拠はない。何となくそう感じただけである。だが、それだけでは行動の起こしようがない。自分の気のせいであることを願うしかなかった。

 ラウルは彼女の傷の手当てを続けた。
 右手首に包帯を巻き終わると、次は左手首の包帯を取り、傷の具合を診ながら消毒して薬を塗る。傷は左右とも同程度のものだった。両手首に包帯を巻いていると仰々しく見えるが、日常生活にはさほど支障はないだろう。
「ねぇ、ラウル」
「何だ?」
 ラウルは包帯を巻きながら、レイチェルに先を促す。
「あのね、私、魔導の訓練をちゃんとしようと思うの」
「……それは自衛のためか?」
 一瞬、何を言い出すのかと驚いたが、考えてみればわかりやすい話だ。今回のことで、さすがに彼女も危機感を覚えたのだろう。結界くらいは使えるようになりたいと思っても不思議ではない――ラウルはそう考えた。
 しかし、レイチェルは首を横に振った。
「そうじゃなくて、やっぱり本家に嫁ぐのに魔導もまともに扱えないのは問題があるでしょう? どれだけ上達するかわからないけれど、頑張っても下手なままかもしれないけれど、それでも努力だけはしなければって」
 落ち着いた口調でそんなことを言う。無理をして力んでいる様子もない。冷静に考えた上で決めたことのようだ。そのことが、かえってラウルに複雑な感情をもたらした。
「あいつに言われたことなど気にするな」
「ユリアの言ったことは間違っていないわ。私みたいな出来損ないは本家当主の妻に相応しくない。なのに私は、みんなの優しさに甘えるばかりで、何の努力もしていなくて……」
 レイチェルはそこで表情を引き締めると、真摯にラウルを見つめて言う。
「だから、ラウルにはまた魔導を教えてほしいの」
「ああ……いや、だが、アルフォンスに止められている」
 あれほど魔導を怖れていた彼女が、今は自ら魔導を学ぶ気になっている。その理由までは肯定できないが、しっかりと自分の意思をもって前に進もうとしていることは、大きな成長と言えるだろう。
 しかし、ラウルは気が進まなかった。
 暴発事件以前なら歓迎しただろうが、今は不安の方が大きかった。彼女に適切な指導を行えるかわからない。その自信がない。またあのような目に遭わせてしまうのではないかと考えてしまう。
 それ以前に、彼女に魔導を扱わせることが正しいことなのかわからなかった。魔導に触れなければ暴発を起こすこともないのではないか、魔導に触れるほど暴発の危険性が高まるのではないか、そんなふうにも考えられなくはない。
「お父さまには私がお願いするわ」
「……おまえは怖くないのか」
「少しは、怖いわ」
 レイチェルは硬い表情で答えた。伏せられた瞳が微かに揺れる。包帯を巻きかけの左手も小さく震えた。それでも彼女は顔を上げて気丈に微笑む。
「でも、ラウルと一緒なら大丈夫って信じているから」
 そのまっすぐな瞳を、ラウルは受け止めることができなかった。逃れるように視線を落とす。
 自分には信じてもらう資格などない。
 一度、身勝手な行動で失敗して、そのことで迷いが生じている。自分でさえ信じることが出来ないのに、他人に信じられていいはずがない。彼女に大丈夫と言ってやることすら出来ないのだ。
 レイチェルも危険であることは身をもって理解しているはずである。怖がっても構わない。いや、むしろ怖がるべきなのだ。それが自らの身を守るための本能である。しかし彼女は、頼りないラウルを信じることで、その感情を乗り越えようとしていた。
 彼女の選択は間違っている――。
 ラウルは眉根を寄せ、奥歯を強く噛みしめた。彼女の左手を握る手にも力がこもる。
「もうやめろ」
 思わずそんな言葉が口をついた。
「……え?」
「結婚などやめてしまえ」
 今度は顔を上げ、強い意思を持って言う。感情的な部分も確かにあったが、それに流されて口を滑らせたわけではない。それゆえ、驚いて呆然としているレイチェルを見ても、その忠告を止めることはなかった。
「おまえの結婚は生まれる前に勝手に決められたものだ。おまえが望んだわけではない。なのに、なぜおまえがそこまでしなければならない。なぜあんな目に遭わなければならない。あまりにも不条理だろう」
 ラウルは一気に捲し立てると、小さく息を継ぎ、真剣な表情で彼女を見つめた。
「おまえ一人くらい私が守ってやる。どこへでも連れて行ってやる。ラグランジェ家など捨てて逃げろ」
「そんなこと出来ないわ」
 レイチェルは少しも迷うことなく、当然のようにさらりと答えた。
「そんなことをしたらみんなに迷惑を掛けてしまうもの」
「自分のことを大事にしろといったはずだ。おまえの気持ちはどうなんだ」
「私は大好きな人たちが笑っていてくれると嬉しいの。みんなを困らせるようなことはしたくない。だから、逃げないわ」
 気負うことなく淡々と落とされる言葉――。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。彼女の手を取ったまま、背中を丸めてうなだれる。肩から焦茶色の長髪がさらさらと落ち、少し熱を帯びた頬を掠めていく。
「怒っているの?」
「怒ってはいない」
 ただ、自分の無力さを思い知って嫌になっただけである。所詮、自分は雇われているだけの家庭教師にすぎず、ラグランジェ家の事情に介入できる立場にはない。彼女を救うにはここから逃がしてやる以外にないと思った。だが、ラウルがどれほどそれを強く願っても、彼女自身にその気がないのでは、もはやどうすることもできない。
 ラウルは中断していた手当てを再開した。包帯を巻いて留める。これで両方の手当てが終わった。触れている理由のなくなった彼女の手をゆっくりと放す。
「診察してくれてありがとう」
 レイチェルはそう言って腰を上げ、椅子に座るラウルの脚の間に立った。そして、その広い肩に両手をついて自分の体を支えると、踵を上げ、焦茶色の髪のかかる額に、そっと柔らかな口づけを落とす。
「元気の出るおまじない」
 レイチェルは甘く微笑んだ。いつもは身長差で随分と下の方にある彼女の顔が、今はほとんど正面といってもいいくらいの位置にある。それもかなり近い。
「落ち込んでいるときにお母さまがしてくれるの。ラウルがとてもつらそうだったから……ごめんなさい……私のせいなのよね……」
「いや、何ともない。気にするな」
 ラウルは慌ててそう言った。
 確かに打ちのめされて落ち込んではいたが、それは彼女のせいではない。自分の問題である。彼女を守りたいという思いが空回りしていた。自分の気持ちを押し付けすぎていたような気がする。
「私、いつも迷惑をかけてばかりで、ラウルには何もしてあげられないけれど……それでもラウルに傍にいてほしいって思っているの」
 不安そうに小さく首を傾けるレイチェルを見て、息が詰まりそうになった。
「それは……私が言うべきことだ」
 僅かに目を細めてそう言うと、彼女の華奢な肩口にゆっくりと額をつけて寄りかかる。そして、そのまま目を閉じて小さく息を吐いた。
 何もしてやれないのは自分の方である。守ることも、救うことも、願うばかりで実現していない。それどころか、自分に与えられた魔導を教えるという役目すら果たせていないのだ。
 ――それでも、傍にいてほしい。
 そんな単純な気持ちにようやく気がついた。いや、気付いていなかったわけではない。心のどこかで自覚はしていたが、向き合うことなく目を背けてきたのだと思う。
 それは、おそらく、終わりの日がそう遠くないことを知っているからだ。
 だからといって割り切れるはずもなく、無意識のうちに気持ちが追い詰められていたのだろう。
 そんなラウルを、レイチェルは何も言わずに受け止めた。寄りかかる頭にそっと両手を回し、その小さな手に優しく力をこめる。
 温もりがじわりと広がっていく。心がほどけていく。
 ラウルはまるで自分のすべてが彼女に包み込まれているように感じた。