ピンクローズ - Pink Rose -

7. 砕けた幻想

「家庭教師だと?」
「そう、レイチェルのな」
 アルフォンスは真面目な顔で頷いた。大きな体にはいささか頼りない小さな丸椅子に腰掛け、正面のラウルをまっすぐに見据えている。
「サイファの家庭教師を終えたばかりで申し訳ないが、引き受けてはもらえないだろうか」
 ラウルは眉根を寄せ、横の机に肘をついた。
「魔導の制御を学ばせるということか」
「それも目的のひとつだ」
 アルフォンスは目を逸らすことなく冷静に答える。
「ただ、今は魔導を嫌がっている状態でな。無理強いはしたくない。いずれ説得をして学ばせるつもりだが、とりあえずは、あの子を見守りつつ、普通に勉強を教えてやってほしい」
「おまえに説得などできるのか。娘には甘いのだろう」
 ラウルは冷ややかに言う。アルフォンスが娘を溺愛していることは知っていた。サイファはよくその話をしていたし、ラウル自身もそういう光景を目撃したことがある。魔導の教育を止めているのも、娘の我が侭を聞き入れてのことだろう。そもそも「無理強いをしたくない」ということが、甘いとしか言いようがない。
 アルフォンスは眉間に皺を寄せ、表情を険しくした。
「確かに難しいとは思うが、やらねばなるまい。それがあの子のためだからな。そのときは君にも手伝ってもらうかもしれない。もちろん、家庭教師を引き受けてくれたらの話だが」
「……いいだろう」
 ラウルは表情を動かさず、低い声で言った。
 断ることなど初めから考えていなかった。レイチェルを見守ることは、彼自身の望みでもあったのだ。ただ、微かな不安が胸にわだかまった。彼女の傍で心を乱さずにいられるだろうか、と――。
 外で木々がざわめいた。クリーム色のカーテンがふわりと丸みを作り、大きく波を打つ。そこから滑り込んだ新鮮な風が、消毒液の匂いを攫い、焦茶色の長髪を舞い上げた。

 数日後、ラウルはレイチェルの家へやってきた。
 非常識に大きなラグランジェ本家と比べると格段に小さいが、その家も豪邸と呼んで差し支えないくらいのものだった。新しくはないが、単に古びているという印象ではなく、価値のある年代物といった風格がある。
 玄関で呼び鈴を鳴らし、しばらく待つと、重厚な扉がゆっくりと開いた。
「待っていたよ、来てくれてありがとう」
 アルフォンスは穏やかな笑顔を浮かべ、歓迎の意を表した。平日だが休暇を取ったと聞いている。律儀な男だ、とラウルは思う。
「紹介しておこう、妻のアリスだ」
「初めまして、アリス=ローズマリー=ラグランジェです」
 アルフォンスの背後に控えていた彼女は、一歩前に出ると、ドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を曲げた。長い金色の髪がさらりと揺れる。まだ若く可愛らしい印象ではあるが、レイチェルとはそれほど似ていない。そのことに、ラウルは無意識に安堵する。
「ウチは壊さないでもらえるとありがたいんだけど」
 アリスは上目遣いで悪戯っぽく言った。サイファの家庭教師のときに、ラグランジェ本家の屋敷を壊したことを知っているのだろう。本気で頼んでいるのか、からかっているだけなのか、彼女の本心はわからない。
「今のところ壊すような予定はない」
「ずっとそんな予定は立てないでね」
 愛想のないラウルに臆することなく、アリスは明るく答えてくすくすと笑った。
 アルフォンスは二人の間に入り、両の手のひらを上に向けて提案する。
「どうだろう、家庭教師を始める前に、我々だけで少しお茶でも」
「気遣いは不要だ」
 ラウルはぶっきらぼうに言った。
「では、レイチェルのところへ案内しよう」
 アルフォンスは落ち着いた声で、すぐに話を切り替えた。右手で幅の広い階段を示すと、そこを静かに上がってラウルを先導した。

 コンコン――。
 アルフォンスは二階の突き当たりにある白い扉をノックした。
「レイチェル、新しい先生が来たよ」
「はい」
 中から可憐な声が聞こえた。しばらくして、カチャリと扉が開き、レイチェルが姿を現した。薄水色のドレスを身につけている。アルフォンスの後ろに立っているラウルを見上げると、驚いたように大きく目を見開いた。新しい家庭教師が誰であるかは、聞かされていなかったらしい。
「サイファのところで何度も会っているな? 王宮医師のラウルだ」
「私の家庭教師?」
「そうだよ。おまえ以外にはいないだろう」
 アルフォンスは優しく笑いながら言った。娘の頭に大きな手をのせる。
「言うことを聞いて、よく勉強しなさい。あまり困らせるんじゃないぞ」
「はい、お父さま」
 レイチェルはよく通る澄んだ声で答えた。
 アルフォンスは嬉しそうに顔を綻ばせる。彼のこのような表情は、娘の前でしか見られないだろう。ラウルに振り返ると、急に神妙な顔になる。
「では、よろしく頼む」
「わかった」
 ラウルは短く返事をした。
「どうぞ」
 レイチェルはにっこりと微笑むと、扉を大きく開き、ラウルを中へ招き入れた。

 彼女の部屋は広かった。だが、豪華という印象はあまりなく、拍子抜けするくらい簡素ですっきりとしていた。置いてあるものに無駄がないのである。人形やぬいぐるみといったものは見当たらず、家具類のほとんどは飾り気のないものだった。カーテンも、勉強机も、本棚も、さすがに質は良さそうだが、形状的にはごく普通のものである。普通でないものは、天蓋のついたベッドくらいだった。これだけはとても華やかで人目を惹いていた。だが、浮いているというわけではない。むしろ、この広い部屋には、ほどよく釣り合っているように感じられた。
「まずはこれをやれ。おまえの力を知っておきたい」
 ラウルは紙の束を取り出し、レイチェルの前の机に置いた。それはテスト問題だった。分量はかなり多い。彼女がこれまで勉強してきた内容をアルフォンスから聞いて、ラウルが作ったものである。これで今の実力を量ることが出来るだろう。けっこう頭がいい、とアルフォンスは言っていたが、親バカの言うことでは当てにならない。
 レイチェルは「はい」と答え、素直に机に向かって解き始めた。ときどき考え込みながら、紙に鉛筆を走らせていく。静寂の中で、筆記の軽い音だけが淡々と響いた。
 ラウルは彼女の斜め後ろの椅子に座り、腕を組んでその様子を見つめた。身じろぎもせず、ずっと目を逸らすことなく視線を送る。そうする必要はない。他のことをして時間を潰せばいいのだ。実際、サイファのときはそうしていた。だが、今は、彼女に重なる面影が、自分の目を惹いて離さなかった。
 レイチェルは不意に手を止めた。ゆっくりと振り向き、不思議そうにラウルを窺う。
「どうした」
 ラウルが尋ねると、彼女は曖昧に目を伏せ、首を横に振った。金の髪がさらさらと揺れ、後頭部のリボンも小さく揺れる。何か言いたげな表情を抑え込むと、無言のまま、再び机に向かって手を動かし始めた。
 彼女は自分に向けられた視線が気になったのだろう。じっと見つめられては無理もないことだ。そして、その相手を訝しく思う気持ちもあったのかもしれない。
 ラウルは椅子から立ち上がった。彼女に背を向けて窓際に向かう。レースのカーテンをさっと開け、窓枠に寄りかかりながら腕を組むと、ガラス越しに空を見上げた。流れゆく雲を眺めながら、小さく溜息をつく。こうでもしないと彼女から目を離すことが出来なかった。

「終わったわ」
 レイチェルはそう言って鉛筆を置いた。窓際のラウルに駆け寄り、何枚もの解答用紙を両手で差し出す。
 ラウルは無表情でそれを受け取った。
「今日はここまでだ。明日、これを採点してくる」
「はい」
 レイチェルは明るく返事をして微笑んだ。
 ラウルは眉根を寄せた。手にした紙束をまとめ、部屋を出ようと足早に扉に向かう。その後ろから軽い足音が追いかけてきた。
「送っていくわ」
「来なくていい」
 ラウルは振り返りもせず、冷たくあしらった。だが、レイチェルは素早く前に回り込むと、後ろで手を組み、ラウルを見上げてにっこりと笑った。やめるつもりはなさそうだった。

 外はまだ日が高かった。澄みきった青い空から、強めの陽射しが降り注いでいる。予定では夕方頃までかかるはずだったが、レイチェルは随分と短い時間で終えた。だが、感心するのはまだ早い。きちんと解けているかどうかは、採点しなければわからないのだ。
 前を見ながら嬉しそうに歩くレイチェルに、ラウルはふと疑問に思ったことを尋ねる。
「他の家庭教師も送っていたのか」
「ううん、ラウルだけよ」
 なぜだ、と続けて問いたかったが、一瞬の躊躇いが口に出すことを止まらせた。だが――。
「ラウルは特別だから」
 レイチェルは愛くるしい笑みを浮かべて言った。まるで心を読んだかのような、絶妙のタイミングだった。
 ラウルは僅かに眉を寄せ、視線だけを彼女に流す。
「特別?」
「サイファがそう言っていたの」
 レイチェルは無邪気に答えた。
 ラウルはそれで合点がいった。彼女のこの行動に深い意味などない。サイファのやっていたことを真似ているだけなのだ。それが正しいと信じ込んでいるのだろう。他人との接触があまりない彼女にとって、サイファの影響は想像以上に大きいようだ。
「サイファとはどんな話をしていたの?」
 レイチェルはラウルを見上げ、顔を斜めにして尋ねた。頭のリボンがひょこりと弾む。
「あいつが勝手に喋っていただけだ」
「じゃあ、私が喋らなくちゃいけないのね」
「無理に喋らなくてもいい」
 ラウルは前を向いたまま、淡々と答えを返した。
 その隣で、レイチェルは柔らかい微笑みを見せた。

 暖かい陽だまりの中を、ふたりは並んで歩いた。他には誰の姿も見えない。そこは通路にはなっていないため、普段からあまり人通りがないのだ。両側には高低の木々が立ち並び、視界は豊富な緑に彩られている。時折、草の匂いが鼻を掠めた。
 ふたりとも何も喋らなかった。無言のまま足を進める。だが、そこに張り詰めたものはなかった。少なくとも、ラウルの方は、心地よい穏やかな空気を感じていた。

 建物内に入り、無機質な廊下を歩いていく。途中で何人かとすれ違った。その多くが、遠慮がちに、あるいは物珍しそうに、ラウルたちを窺っていた。化け物との噂もある王宮医師と、魔導の名門一族の愛らしい娘――確かに奇妙な取り合わせなのだろう。
 しかし、レイチェルには、まわりの視線を意識している様子は見られなかった。実際はどうなのかわからない。気がついているのか、ついていないのか、それさえラウルには判別がつかなかった。嫌な思いをしていなければいいが、と願うような気持ちになる。
「ここだ」
 ラウルは医務室の前で足を止めた。隣のレイチェルを軽く一瞥する。そして、カチャリと鍵を開け、ガラガラと扉を引いた。
「今日はありがとう」
 レイチェルの澄んだ声が背後から聞こえた。
 ラウルはそのままの体勢で、顔だけ僅かに振り返る。
「あしたもよろしくね」
 彼女はそう言って、綿菓子のようなふわりと甘い笑顔を浮かべた。
 ラウルは眉を寄せ、目を細めた。
「……ひとりで帰れるか」
「王宮にはよく来ているから大丈夫」
 レイチェルは微笑んだまま答えた。そして、小さく手を振ると、まっすぐな廊下を歩いていった。後頭部の大きな薄水色のリボンが、その足どりに合わせて揺れた。
 ラウルは扉に手を掛けたまま、彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。

 その夜、ラウルは自室でテストの採点をした。結構な分量があるため時間がかかる。一通り終えた頃には、すでに深夜といってもいい時間に差し掛かっていた。
 息をついて立ち上がると、部屋の明かりを消し、カーテンと窓を開け放った。濃紺色の空を見上げる。その片隅には、下弦の月がひっそりと浮かび、淡く儚い光を放っていた。

 翌日、ラウルは再びレイチェルの部屋に来ていた。もちろん、家庭教師としてである。
 きのう採点したテストを机の上に広げると、軽く溜息をついて腕を組む。
「習ったところは良く出来ているが、習っていないところは面白いくらいに空欄だな」
「だって習っていないんだもの」
 レイチェルは当然のように言った。
 ラウルは呆れたように彼女を見下ろす。
「応用という言葉を知っているか」
 だが、レイチェルは何も答えず、にこっと笑顔を返すだけだった。
 ラウルは頭に右手をやり、深く溜息をついた。
 決して出来が悪いわけではない。習っている部分に関しては、ほぼ完璧に近かった。アルフォンスの言うとおり、頭は良い方なのだろう。だが、未知の問題となると、途端に考えもせずに放棄している。それは、もしかすると、性格によるものなのかもしれない。
「これから授業を始める。数学、物理学、魔導理論、どれか選べ」
「数学」
 レイチェルは即答した。
「数学が好きなのか」
 ラウルが問いかけると、彼女は首を横に振った。
「魔導よりはましということか」
「……すごい。ラウルって何でもわかるのね」
 レイチェルは目を大きく見開き、感心したように言った。
 ラウルは無表情で口を開く。
「魔導もそのうちにやる。理論も実技もな」
 実技、という言葉を耳にした途端、レイチェルの顔に小さな怯えの色が浮かんだ。無言のまま、逃げるように視線を逸らせて目を伏せる。
 ラウルは眉根を寄せて言う。
「おまえを守るために必要なことだ」
 レイチェルは戸惑ったような表情で、上目遣いにラウルを窺った。僅かに首を傾げる。自分が危ういくらいに強大な魔導力を抱えていることなど、彼女自身は何も知らない。その意味を理解できなくても当然である。
 だが、ラウルは答えを示さなかった。
「今日は数学だ」
「……はい」
 レイチェルはそう返事をしてから、ゆっくりと微笑んだ。

 途中で一度だけ休憩を挟み、3時間ほど授業を行った。
 レイチェルは手のかからない教え子だった。言われたことには「はい」と返事をして素直に従う。サイファとは大違いである。もっとも、比較対象がサイファでは、ほとんど誰でも「手のかからない子」ということになってしまう。
「今日はここまでだ」
 ラウルはそう言うと、束ねた教本を脇に抱えて部屋を出た。
 当然のように、今日もレイチェルがついてきた。軽い駆け足でラウルに追いつくと、横に並んで歩き、にっこりと笑顔を見せる。
 ラウルはもう何も言わなかった。

 今日も空は青かった。
 言葉もなく、静かな道を並んで歩く。
 彼女に振り向けば、無条件で笑顔を返してくれる。
 ただ、それだけのこと。
 ラウルの歩幅は、いつもより心持ち小さかった。

「ラウル、どこへ行くの?」
 医務室とは違う方向へと足を進めるラウルに、レイチェルは顔を上げて尋ねた。不安そうにはしていない。ただ、不思議そうな顔をしていた。
「別の道を行くだけだ」
 ラウルは素っ気なく答えた。
 レイチェルは疑う様子もなく、嬉しそうな笑顔を見せた。

 ふたりは、王宮内の中庭のひとつに足を踏み入れた。さほど広くはないが、隅々まで手入れが行き届いており、清々しく居心地の良い空間だった。豊かな緑に囲まれたその中央には、透明な水を湛える小さな噴水が佇んでいる。派手な演出はなく、単純に水を噴き上げるだけのものだ。それでも、爽やかな涼しさを感じさせるには十分だった。
 ラウルは噴水の脇で足を止めた。ここは、かつての懐かしい場所にとてもよく似ている。それを知っていてここに来た。知っていたからこそ連れて来たのだ、彼女を……。口を結んで眉根を寄せると、ゆっくりとレイチェルに振り向いた。一瞬遅れて、彼女は花が咲いたようにふわりと微笑んだ。その背後では、噴き上げた水と揺れる水面が、太陽の光を受けてキラキラと煌めいていた。色彩を持って目の前に甦った、色褪せたはずの遥か遠い追憶――意識は過去を浮遊する。
 しかし、それは長くは続かなかった。
 不意に右手に感じた小さな温もりに、はっと現実に引き戻される。
 噴水の奏でる和音が、急に大きく聞こえた。
 レイチェルの小さな左手は、ラウルの右手に重ねられていた。
 まっすぐに向けられた蒼の瞳には、ラウルの姿が映っていた。
 その目が苦しげに細められる。
 胸を衝かれ、息が止まった。
 小さな温もりはそっと離れていった。
 ラウルは追い縋るように手を上げかけて、止めた。奥歯を噛み締めてうつむく。そのまま背を向けると、再び医務室を目指して歩き出した。レイチェルも後ろから黙ってついてきた。

 翌日も、ラウルは家庭教師に向かった。
「今日も来てくれて嬉しいわ」
 レイチェルは微笑んで迎え入れた。いつもと変わらない愛らしい笑顔だった。
 ラウルは怪訝な視線を彼女に向けた。昨日のことがあったにもかかわらず、今日の彼女はあまりにも普段どおりである。もしかしたら、あの柔らかな温もりは夢だったのかもしれない、という疑念さえ頭をもたげる。
 しかし、冷静に考えれば、手に触れてきただけである。ほんの些細なことだ。特別な意味などないのかもしれない。ぼんやりしていた自分を呼んだだけかもしれない――そう思おうとするが、どうしても腑に落ちない。あのときの彼女の表情が、脳裏に焼きついて離れないのだ。
「きのうの続き?」
 先に椅子に座ったレイチェルが尋ねる。
「……ああ」
 ラウルも椅子に座った。机の上に置いた教本を開き、目的の箇所を探して捲っていく。だが、なかなか見つけられない。行ったり来たりとページを繰る。
 そのとき、凛とした声が、彼を不意打ちにする。
「ラウルは、いつも、誰を見ているの?」
 ドクン、とラウルの心臓が大きく打った。
 止まった指先から、するりと紙が滑り抜けた。
 ゆっくりと顔を上げ、その声の主を窺う。
 彼女は、今までに見たこともない真剣な表情をしていた。大きな蒼の瞳をまっすぐにラウルに向けている。その奥には、とても12歳とは思えないほどの鋭さが潜んでいた。
「ラウルは私を見ていない。小さいときからずっとそうだった」
「何を言っているのかわからん」
 ラウルはそう答えるのが精一杯だった。
 レイチェルは濃色の瞳をじっと探るように見つめる。
「私を通して遠くの誰かを見ている。そうでしょう?」
 ラウルの鼓動は次第に速く強くなる。指先が冷たくなっていく。あまりに唐突で、心の準備が何も出来ていなかった。否定すべきなのか、認めるべきなのか、それさえ決めかねている。頭が混乱して何も考えられない。
「その人は私と似ているの?」
 レイチェルは胸もとに手をあて、首を傾げた。金色の髪がさらりと流れる。レースのカーテン越しに広がる柔らかな光が、背後から彼女をほんのりと照らす。
「私に何を求めているの?」
 静かなその声が、ラウルの胸に深く突き刺さる。もう目を合わせることなどできない。何一つ答えを返さないまま、固く口を閉ざしてうつむいた。長い焦茶色の髪が、その表情を覆い隠す。
 レイチェルはゆっくりと呼吸をした。
「ラウル、私は……」
「もうやめろ」
 ラウルは唸るような声で彼女を遮った。椅子を揺らして立ち上がると、大きな足どりで扉に向かう。
「ラウル、待って!」
 レイチェルは呼び止めながら追いかける。
「来るな!」
 腹の底から絞り出した凄みのある重低音。
 背後の足音が止まった。
 ラウルは勢いよく振り切るように部屋をあとにする。長い髪が大きくなびいた。
 レイチェルは追いかけてこなかった。

 ラウルはまっすぐ医務室に戻った。乱暴に扉を開け、医務室を突っ切り、そのまま自室へと入る。バタンと叩きつけるように扉を閉めると、そこに背中をつけてもたれかかった。深くうなだれ、体の横でこぶしを強く握りしめる。
 幻想は、砕けた。彼女自身によって砕かれた。
 何もかも見透かしたあの蒼い瞳。
 思い返すだけで体の芯から震えがくる。
 長らく忘れていた感情――。
 そう……、これは、恐怖だ。
 腰から体を折り曲げ、額を掴むように押さえる。
 指先が小刻みに震えていた。

 その夜、ラウルはアルフォンスに連絡を入れ、レイチェルの家庭教師を断った。王宮医師の仕事が忙しくなった、と嘘の理由を告げる。彼にも嘘だということはわかっていただろう。だが、何も言わずに了承してくれた。
 ――私は、逃げた。
 カーテンを閉め切った真っ暗な寝室で、ラウルはベッドに腰掛け、ずっと、ずっとうなだれていた。