ピンクローズ - Pink Rose -

5. 最後の日

「もういいだろう。とうに時間は過ぎている」
「ダメだよ」
 立ち上がろうとしたラウルの手首を、サイファは指の痕がつくくらいに強く掴んで引き留めた。半ば怒ったような真剣な顔で、ラウルの瞳をじっと見つめる。

 サイファ=ヴァルデ=ラグランジェは18歳になっていた。
 子供の頃から人目を引く容姿をしていたが、成長するにつれ、ますますそれに磨きがかかっていった。すっと通った鼻筋に、甘く涼やかな目もと、形の良い薄い唇、そして、聡明さを映し出したかのような、理知的な輝きを放つ青い瞳――いずれのパーツも、全体のバランスも、文句のつけようもないくらいに端整だった。特に、真剣な表情を見せるときなどは、一分の隙もないほどだ。だが、普段の彼には、まだ少年らしい雰囲気が多分に残っている。そのあたりの落差も、人目を引く一因なのだろう。
 身長もかなり伸びていた。といっても、並外れて長身のラウルには遠く及ばない。成年男子の平均くらいである。サイファ自身はそれで不満には思っていないようだった。ラウルを抜かせないのが悔しいと言ったことはあったが、その軽い口調からいっても、あくまで冗談であり、本気ではなかったのだろう。
 そして、頭脳の方も成長し、さらに切れ味を増していた。
 家庭教師を始めて最初の3年くらいは、辛うじて教えるという体裁をとっていたが、その後は対等に議論する形へと自然に変わっていった。一方的に教えることなど、少なくともラウルが受け持っている分野においては、何もなくなってしまったのだ。乾いたスポンジのように知識を吸収し、それを新たな発想で組み立てていく。ラウルが考えもしなかった思考の飛躍を見せる。そんなサイファとの時間は、ラウルにとっても刺激の多いものだった。
 今日が、家庭教師としての最後の日である。
 辞めさせられるわけでも、辞めるわけでもない。サイファの就職が決まったためである。明日から、この国の中央行政機関のひとつである魔導省に勤めるのだ。本来であれば、高倍率の試験と適性検査、面接などにより選抜されるのだが、サイファは例外的に無試験で入省が決定したらしい。ラグランジェ家の力を持ってすれば、このくらいの特別措置は極めて容易に実現できるのだろう。
 だが、サイファの場合は、優遇されることなく競い合ったとしても、不採用になるとは考えられなかった。魔導、頭脳、いずれの面においても、彼に勝る者がいるとは思えない。問題があるとすれば性格だけだ。

 サイファは、ラウルの手首を掴んだまま、じっと濃色の瞳を見据えて言う。
「ラウルにとってはたった8年だろうけど、僕にとっては人生の半分近くなんだ」
「それがどうした」
「名残を惜しむ僕に、少しくらい付き合えってことさ」
 ラウルは煩わしげに溜息をついた。
「私は教師として雇われている。それ以外の理由で引き留められる道理はない」
 正当な言い分を論理的に説明し、冷淡に突き放す。
 だが、サイファはそれを聞いて何かを画策したらしく、思わせぶりに口の端を上げた。
「では、ラウル先生にひとつ質問だ」
 人差し指を立て、緩やかに瞬きをすると、やや上目遣いにラウルを見つめた。形のよい唇が滑らかに開く。
「明日からの僕のために、社会人として留意すべきことを助言してほしい」
 ラウルは眉をひそめた。サイファは時折、わざと「先生」と呼ぶ。ラウルが嫌がるのを知った上でのことだ。そうやって、揶揄したり、挑発したりするのだ。今回も、真面目な口調ではあるが、質問の内容からしても、からかっているとしか思えなかった。
「私にそれを訊こうというのか」
「社会性がないのは知っているが、物事を見通す目は持っているからな」
 サイファはにっこりとして言う。
 ラウルは勢いよく腕を引き、サイファの手を振りほどいた。彼をじっと睨み下ろす。
「おまえは能力のない人間を馬鹿にする傾向がある。そんなことでは軋轢を生み、孤立することになるだろう」
「わかっているよ」
 サイファはさらりと答えた。体を斜めに傾け、机に寄りかかるように頬杖をつく。
「能力がなくても権力を握っている人間は多いからね。人当たりよく近づいて、適当にご機嫌をとりつつ利用させてもらうつもりさ」
 悪びれることもなく、至極当然のように言う。
 ラウルは眉根を寄せた。
「そこまでは言っていない」
「でも、たいして違わないだろう?」
 サイファは頬杖をついたまま、僅かに首を傾げて同意を求める。
「おまえには無理だ。感情をすぐ表に出すような奴にはな」
 ラウルは冷たく言い放つ。
「ああ、それはラウルの前だけだよ」
 サイファは軽くそう言うと、頬杖を外して体を起こした。
 ラウルは怪訝に眉をひそめる。
「なぜだ」
「さあね。自分で考えたら? 何でも知ってるラウル先生」
 サイファは上目遣いで視線を送り、僅かに口もとを上げた。
 ラウルはムッとして言い返す。
「おまえは本当のことを言っていない」
「さあ、どうかな」
 サイファは膝の上でゆっくりと手を組み合わせた。
「僕はね、自分をコントロールできる人間だよ。感情とは裏腹の態度を装うことだって可能なんだ。ラグランジェ本家の人間であれば、子供といえども、そういうことを求められる場面は多い。昔から鍛えられているんだよ」
 落ち着いた口調だった。表情も急に大人びたものに変わった。鮮やかな青の瞳が、真正面からラウルを捉えている。
「まあ、持って生まれた資質もあるんだろうけどね。父上よりは世渡りが上手い自信はあるよ」
 小さく肩をすくめ、悪戯っぽさを覗かせながら付言する。
 ラウルにはサイファの本心が掴めなかった。表情をくるくると変え、意味ありげな言葉を重ねつつ、核心だけはかわして相手を翻弄する。サイファのよく使う手だ。いったい何のためにこんなことをするのかわからない。だが、そんなことは今さらどうでもよかった。
「質問には答えた。もう帰ってもいいだろう」
「まだだよ」
 サイファは再び手首を掴んで引き留めた。先ほどよりも力が込められていた。
「いい加減にしろ」
 ラウルは語調を強めて言った。
 それでもサイファは引き下がらなかった。手を緩めようとしない。それどころか、はしゃいだ様子で話し掛けてくる。
「そうだ、ラウルに何かお礼をするよ」
「礼など不要だ。報酬はもらっている」
 ラウルは冷ややかに言う。
「そうじゃなくて、8年間の僕の感謝の気持ち」
 サイファは自分の胸もとに左手を当てて微笑む。
「おまえの感謝など受ける気はない」
「何か欲しいものはあるか?」
 身勝手に話を進めるサイファを、ラウルは思いきり睨んだ。眉間に深い縦皺が刻まれる。
「少しは人の話を聞け」
「聞いているよ」
 サイファはにっこりと屈託なく笑った。
 ラウルは口を固く結び、再び力任せにサイファの手を振りほどいた。捲れた袖を下ろしながら、疲れたように溜息をつく。
「おまえは、なぜいつも無駄なことばかりに労力を使う」
「無駄なことほど楽しいんだよ。ラウルにはそういう潤いが足りないね」
 サイファは澄ました口調で言った。

 ――トン、トン。
 ふいに扉が叩かれた。会話中ならば聞き逃してしまいそうな小さな音だ。
「はい、開いているよ?」
 サイファはそちらに目をやりながら、不思議そうに返事をした。
 カチャリと音がして、遠慮がちに扉が開く。そこから、レイチェルがそろりと斜めに顔を覗かせた。後頭部に留めてある淡い水色の大きなリボンが、動きに合わせて微かに揺れる。
「ごめんなさい、まだお勉強中だったのね。遅いから心配になって来てみたの」
 サイファは満面の笑みを浮かべる。
「心配かけてごめんね。今日で家庭教師が終わりだから、ラウルと名残を惜しんでいたんだ」
「私は惜しんでなどいない」
 ラウルは横からつっけんどんに否定する。
 レイチェルはくすっと小さく笑った。
「じゃあ、下で待っているわね」
「いいよ、おいで」
 サイファは自分の膝を軽く叩いて呼んだ。
 レイチェルは部屋に入って扉を閉めると、軽い足どりでサイファのもとへ向かった。そして、示された場所、すなわち彼の膝の上に、素直に躊躇いなく腰掛けた。今日が初めてというわけではないのだろう。随分、慣れているように見えた。
 ふたりは近い距離で見つめ合い、互いににっこりと微笑んだ。
「考えてみれば、レイチェルとだって、今までみたいに頻繁には会えなくなるね」
 サイファは寂しげに言うと、小柄な体を包み込むように抱きしめた。

 レイチェル=エアリ=ラグランジェは12歳になっていた。
 誰の期待も裏切ることなく、彼女は愛らしいままに美しく成長しつつあった。白く透きとおった肌、大きな引力を秘めた蒼の瞳、形のよい小さな薄紅色の唇、柔らかく輝く金の髪――一目するだけではっと息を呑むほどだった。まるでお人形のようだ、と王宮内でも評判になっていた。
 彼女の強大な魔導力は、いまだ顕在化していない。
 8年間、サイファのところへ遊びに来る彼女をそっと見守ってきたが、危険な兆候は見られなかった。変化自体がまったくないのだ。それが良いことなのか悪いことなのか、現時点では判断はつかない。
 制御の方は上手くいっていないようだ。やはり、かなり困難であるらしい。前例がないため、その教育も手探りである。そのうえ、最近はレイチェルが魔導に関することを嫌がっているという。実際、魔導関係の教育は、今現在すべて停止していると聞いた。
 もし、このままずっと魔導力の大部分が封じられた状態ならば、確かに制御を学ぶ必要はないだろう。だが、その保証はどこにもない。それにもかかわらず、レイチェルの両親やサイファは、随分と楽観しているように見受けられた。
 しかしラウルも、楽観まではしていないが、危機感は薄れつつあった。頭では気をつけなければならないと思っていても、何事も起こらない日々が続けば、無意識のうちに油断が生じてしまう。人間とはそういうやっかいな生き物だ。

「そうだ」
 サイファは何かを思いついたようにそう言うと、レイチェルを抱き上げて椅子から立った。いわゆるお姫様だっこの状態だ。重そうにはしていない。ゆっくりと身を屈めると、彼女をラウルの膝に横向きに下ろして座らせる。
「何だ」
 ラウルはサイファに振り向いて睨んだ。
「レイチェルを見ていてくれ。着替えてくる」
 サイファはそそくさと部屋の隅へ向かった。大きめのクローゼットから、ハンガーに掛かった濃青色の服を取り出し、ベッドの上にさっと投げ置いた。そして、本当に服を脱いで着替え始めた。
 ラウルは溜息をつき、前に向き直った。
 レイチェルは片手でラウルの服を無造作に掴み、宙に浮いた足を前後に揺らしながら、幼い子供のようなあどけない表情で、虚空に視線をさまよわせていた。サイファの着替えている方には目を向けていない。たとえ振り返ったとしても、その位置からではラウルの体に遮られてしまい、不自然に身を乗り出さない限りは見られないだろう。サイファはそこまで計算して彼女をここに置いたのだろうか、とラウルはじっと考える。
 自分に向けられた視線に気がついたのか、レイチェルは瞬きをして振り向いた。柔らかい金の髪がさらりと揺れ、頭のリボンが跳ねるように弾む。そして、大きな瞳をラウルに向けると、ふわりと花が咲くように可憐な微笑みを浮かべた。その無防備で愛らしい笑顔は、これまで幾度となく目にしてきたが、この至近距離で見たのは初めてだった。
 ラウルは眉根を寄せた。
 ほとんど無意識に手が動いた。
 薄い色の前髪をゆっくりと払う。
 無垢で穢れのない蒼の双眸。
 その奥を探るように見つめる。
 何を探っているのだろう。
 何を求めているのだろう。
 何を――。
 ラウルは僅かに顔をしかめた。いくら面影が重なったとしても、別の存在であることは最初から理解していた。それでも、あの笑顔を見せられると、論理的な思考が一瞬で砕け散ってしまう。どうしても何かを期待してしまうのだ。
 レイチェルはきょとんとしていた。小さく首を傾げ、不思議そうにラウルを見つめる。
「すまなかった」
 ラウルは彼女の額から手を引いた。
 しかし、強い引力に捉えられたかのように、彼女の瞳から目を逸らすことは出来なかった。

「ちょっとお二人さん、なに見つめ合っているのさ」
 サイファは軽く咎めるようにそう言うと、腰に両手を当てて覗き込んだ。もう着替え終わったようだ。先ほどクローゼットから出していた濃青色の上下を身につけている。詰襟のホックまできっちりと締められていた。
 ラウルは彼を一瞥すると、無表情のまま口を開く。
「おまえが見てろと言った」
「うわ、ラウルも冗談を言うんだ」
 サイファは大袈裟に驚いて見せると、愉快そうに軽く声を立てて笑った。
「サイファ、それって魔導省の制服でしょう?」
 レイチェルがにっこりと微笑んで問いかけた。彼女は昔からよく王宮に遊びに来ている。魔導省の制服も見慣れているに違いない。
「そう、レイチェルに見せたくてね。どうかな?」
 サイファは両腕を広げて見せた。微かに真新しい服の匂いがした。
「ええ、とても似合っているわ」
 レイチェルは彼を見上げて言う。
「本当? 良かった、レイチェルにそう言ってもらえて」
 サイファは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ラウルは? どうこれ? 感想を聞かせてよ」
 調子に乗ってラウルにも尋ねる。答えを急かすように、体を屈めて覗き込んだ。
 だが、ラウルは目も向けずに素っ気なく言う。
「レイチェルに見せたくて着替えたのだろう」
「おまえ、拗ねているのか?」
 サイファは真顔で尋ねた。
 ラウルは無言のまま、氷のような眼差しで睨めつけた。
「冗談だよ」
 サイファはあっけらかんと言った。ラウルの視線など、まるで意に介していないようだった。たいていの人間は軽く睨むだけでも震え上がるのだが、サイファはどれほどきつく睨みつけても、いつも平然としているのだ。
「似合ってるか?」
 懲りもせず、再びにっこりとして尋ねる。
 ラウルは眉根を寄せた。じっと彼を見つめ、低い声で静かに答える。
「……ああ」
「えっ、うそ、本当? もう一度はっきり言ってよ」
 サイファは目を大きく見開き、少しうろたえながらも嬉しそうに聞き返す。
「断る」
 ラウルは今度はきっぱりと拒否した。
 それでもサイファは上機嫌だった。
「ラウルに似合ってるって言ってもらえるなんて思ってもみなかったな」
 ラウルは溜息をついた。
「これをどうにかしろ。いつまで乗せておくつもりだ」
 膝の上に座るレイチェルを指さして言う。
「乗せていると帰れないだろう?」
 サイファは片目を細め、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「………………」
 突然、ラウルはレイチェルを抱え、勢いよく立ち上がった。そのまま、大きな足どりで扉の方へ向かう。
「ちょっと、レイチェルをどうするつもり?」
 サイファはラウルの後ろ髪を掴んで引き留め、焦ったように言う。
 ラウルは僅かに振り返り、視線を流してひと睨みする。
「おまえがつまらないことをするからだ」
「悪かったよ」
 サイファはむくれながらも素直に詫びた。掴んだ髪を放す。長い焦茶色が大きな背中で揺れた。
 ラウルは前に向き直ると、レイチェルを足からそっと下ろして立たせた。ワンピースの後ろのリボンをまっすぐに直し、彼女の顔にかかった髪を軽く払う。そして、彼女にだけ届くくらいの声で「すまなかった」と言い、屈めた体を起こした。
 レイチェルは不思議そうにラウルを見上げ、瞬きをした。
「私は帰る」
 ラウルはぶっきらぼうに声を張ると、振り返りもせずに部屋を出た。
「僕らも行こう」
 サイファはレイチェルの手を引いてラウルのあとを追った。
 階段を降りたところで、ラウルは足を止めて振り返った。サイファに冷たい視線を投げて尋ねる。
「おまえ、その格好で外を歩くのか」
 サイファは魔導省の制服を着たままだった。明日から勤務することになっているが、今日はまだ魔導省の人間ではない。家の中ならともかく、外を歩くのは問題があるだろうと思った。
 だが、サイファはそう思っていないようだった。平然とした顔でしれっと答える。
「心配ないよ。何か言われたとしても謝ればすむ話だ」
 確かにそうだ。ラグランジェ本家の人間であるサイファなら、このくらいで問題になることもないのだろう。彼は、自分の立場というものを、嫌味なほど正確に把握しているのだ。ラウルはもう何も言わなかった。

 外は、風が冷たかった。
 すでに空の半分近くが紺色に塗り替えられている。沈みゆく太陽は、最後の役目を果たすかのように、地平付近を朱く鮮やかに染め上げていた。

 ラウルは医務室に戻るため、いつもの道を進んでいく。
 そのすぐ後ろを、サイファとレイチェルがついて歩いた。何度となく顔を見合わせながら、楽しそうに言葉を交わしている。主にサイファが話しかけ、レイチェルは相槌を打つといった感じだ。会話は途切れることなく続いていた。
 この状況に、ラウルは何か腑に落ちないものを感じていた。
 家庭教師が終わると、サイファは医務室に戻るラウルについてくる。それは、8年前から変わらず続いている日常だった。だが、いつもはサイファひとりだけである。レイチェルと一緒に来たことは一度もなかったのだ。それが、よりによって最終日の今日という日に、今までなかったことが起こっている。たまたま居合わせたから一緒に来た、それだけなのだろうか。それとも――。
「ラウル」
「何だ」
 サイファの不意の呼びかけに、ラウルは足を止めて振り返った。焦茶色の長髪がさらりと風に揺れる。
「今日はここでお別れだ。医務室まで送れなくて悪いな」
 サイファはにこやかに言った。声も少し浮かれているようだ。悪いと思っている雰囲気ではない。
「そうか」
 ラウルは無表情でふたりを見下ろし、感情のない声で応じた。
 サイファは何か意味ありげに、何か言いたげに、じっと彼を見つめる。
「理由はきかないのか」
「私には関係のないことだ」
 ラウルはきっぱりと言い切った。
「そう……じゃあな」
 サイファは軽く右手を上げた。レイチェルは挨拶代わりに軽い微笑みを見せた。ふたりは互いに手を取り合い、医務室とは逆方面の道を歩いていく。その後ろにはふたつの長い影が伸びていた。
 あれほどしつこく引き留めていたのが嘘のように、サイファはあっさりと去っていった。やはり最後の日は婚約者とともに過ごしたい、そう心変わりしたのだろう。おそらく、彼女を連れてきたのもそのためだ。これから彼女とともにどこかへ出かけるに違いない。
 ようやく合点がいった。
 最後の最後まで自分勝手な奴だ、とラウルは嘆息した。

「こんにちは」
 サイファは明るい声で挨拶をすると、レイチェルの手を引きながら、慣れた様子でリビングルームに入っていった。そこはレイチェルの家だったが、普段からほとんど自分の家のように当たり前に出入りしていた。
「いらっしゃい、サイファ」
 白い革張りのソファに座っていたアリスは、優しい笑顔で迎えた。まだ十分に若く美しいが、昔と比べて落ち着きは増していた。母親らしくなった、といえるかもしれない。
「お父さま、お母さま、ただいま」
 レイチェルは澄んだ綺麗な声で挨拶をした。
「おいで、レイチェル」
 アリスの隣に座っていたアルフォンスは、両手を広げてレイチェルを呼んだ。
 レイチェルは小走りで駆けていくと、彼の膝に横から飛び乗るように座り、目を閉じて広い胸にもたれかかった。満たされたような表情を見せる。
「お父さまに甘えるの、久しぶりだわ」
「最近は忙しかったからな」
 アルフォンスは優しく目を細めながら、大きな手で柔らかな頬を包み込む。
 アリスも、サイファも、その光景を微笑ましく眺めていた。
「まあ、君も座れ」
 立ったままのサイファに気がつくと、アルフォンスは右手で向かい側を示した。
 サイファは促されるまま白いソファに腰を下ろす。ギュッと革の擦れる音がした。
 サイファとアルフォンスは、年齢はだいぶ離れているが、互いのことを認め合い、尊重し合うような関係だった。サイファはアルフォンスの仕事上の手腕に一目置いていたし、アルフォンスはサイファの頭脳と魔導の資質を正確に評価していた。
「今日は休暇ですか?」
「ああ、あしたからまた忙しくなるよ」
 アルフォンスはゆったりとした口調で答える。
「いよいよ所長就任ですね。おめでとうございます」
 サイファは笑顔で祝福した。
 アルフォンスは、娘の肩を抱いたまま、背もたれに体重を預けた。複雑な表情で、軽く溜息をつく。
「もう少し早く就けると思っていたんだがな。前任者がしつこく居座ったせいで、随分と時間が掛かってしまったよ」
 アルフォンスは勤めている研究所の所長に就任することになっていた。明日からである。奇しくもサイファの就職と同じ日だった。
「サイファ、それ、魔導省の制服でしょう?」
 アリスが身を乗り出して、興味津々に尋ねる。
 サイファは両腕を広げた。
「そう、アリスとアルフォンスに見せに来たんだ。どうかな?」
「よく似合うわ。すっかり立派に見えるわね」
 アリスは胸もとで両手を組み合わせ、嬉しそうに言う。
「リカルドよりサマになっているな」
 アルフォンスは全体を眺めながら、満足げに言った。
 リカルドは数年前に、研究所から魔導省へ異動になっていた。ラグランジェ家の本家当主が研究所勤めでは格好がつかない、という前当主の判断に基づくものだった。リカルド自身は研究所の方が良かったようだが、前当主である彼の父親には逆らえなかったらしい。おかげで、随分と苦労しているようだ。制服もいまだに馴染んでいるようには見えない。
「しかし、おまえが就職とはな。月日が流れるのは早いものだ」
「もう、アルフォンスってば年寄りくさいことを言わないで」
 アリスは苦笑しながら窘めた。
「実際にもういい年なんだ。仕方ないだろう」
 アルフォンスは肩をすくめた。少し寂しげな、どこか諦めたような笑みを浮かべている。まだ20代のアリスと違い、彼はもうすぐ50に手が届こうかという年齢だ。
「いい年だなんて言っている場合ではないですよ」
 サイファはにっこり微笑んで言った。明瞭な口調で続ける。
「これから所長として研究所を牽引していかなければならないわけですし、老け込むにはまだ早すぎます」
「ああ、そうだな。まったくそのとおりだ」
 アルフォンスは気を取り直して、表情をを引き締めた。力強く頷く。
「そうだ、これから家族だけでパーティをやるんだが、おまえも一緒にどうだ」
「何のパーティですか?」
 サイファは不思議そうに尋ねた。
「アルフォンスの所長就任祝いよ。二度目だけどね」
 アリスが横から答えた。指を二本立てて肩をすくめている。
 一度目は、一週間ほど前に開催されたものだ。サイファも家族ぐるみで招待されて出席した。研究所の同僚や、親しい友人などを呼び、大規模ではないがそれなりに華やかなパーティだった。
 今度は、落ち着いて自分たち家族だけでもう一度、ということなのだろう。サイファは家族ではなかったが、すでに家族も同然の間柄である。今さら遠慮する理由はない。だが――。
「すみません、今日はちょっと……そろそろ行かなければならないので」
「あら、何か用事でもあるの?」
 アリスは瞬きをして尋ねる。
「ええ、はい」
 サイファは膝の上で軽く両手を組み合わせた。
「どうしても外せない、とても大切な用事なんです」
 ゆったりとした口調でそう言うと、穏やかに柔らかく微笑んだ。

 医務室に戻ったラウルは、不必要なまでに明るい蛍光灯の下で、古めかしい本を読んでいた。今日も患者はひとりも来ていない。それでも律儀に待機していた。それが仕事である。
「やあ、ラウル」
 何の前触れもなく扉が開き、サイファが愛敬を振りまきながら入ってきた。いまだに魔導省の制服を着たままである。
「さっきは悪かったな。寂しかったか?」
「ノックくらいしろ。何をしに来た」
 ラウルは視線だけを流し、眉をひそめて睨みつけた。まさか来るとは思っていなかったので驚いたが、声にも表情にもそれは出さなかった。
「感謝の気持ちを届けにね」
 サイファはにっこり微笑んでそう言うと、右手に持った一輪のピンクローズを差し出した。まだ咲き始めで開ききっていない状態のものだ。透明フィルムと白いリボンでラッピングされている。
 ラウルは読んでいた分厚い本を閉じた。
「不要だといったはずだ」
「ラウルの好きな花がわからなかったから、僕の好きな花にしたんだ」
 サイファは無邪気に声を弾ませた。
「花瓶はあるか?」
「そんなものはない」
「だと思ったよ」
 サイファは口もとに笑みを浮かべ、もう片方の手に持った細長い箱を差し出した。こちらにも白いリボンが掛けられている。
「開けて」
「自分で開ければいいだろう」
「開けてほしいんだよ」
 ラウルは面倒くさそうにそれを受け取ると、無造作にリボンをほどき、包装紙を乱雑に破いて箱を開けた。中に入っていたのはガラス製の一輪挿しだった。細身で飾り気がなくシンプルだが、安っぽくは見えない。
「気に入ったか?」
「不要だと言った」
 ラウルの答えは、相変わらず愛想の欠片もないものだった。
 だが、否定はしなかった。
 サイファはにっこりと微笑んだ。その一輪挿しを箱から取り出すと、洗面台で水を入れてピンクローズを挿した。それを、ラウルの机の上に置き、腰に両手を当てて満足げに言う。
「少しは机の上が潤っただろう?」
「面倒が増えた」
 ラウルは少しも表情を動かさずに言い返す。
 サイファは小さく笑った。
「時間を作って水を替えに来るよ」
「水替えよりおまえの方が面倒だ」
「来るなと言われても来るよ」
「もう帰れ」
 ラウルの声には苛立ちが滲んでいた。
「わかったよ」
 サイファは肩をすくめ、諦めたような笑みを漏らした。
「最後にひとつだけ願いを聞いてくれないか」
「何だ」
 ラウルは顔を上げた。
 サイファは急に真剣な表情になった。怜悧な光を放つ青い瞳が、まっすぐに濃色の瞳を捉える。
「ラウルの部屋を見せてほしい」
「断る」
 ラウルは即座に拒否し、溜息をつきながら腕を組んだ。このやりとりは今回が初めてではなかった。これまでにもサイファが幾度となく望み、ラウルはそのたびに断っていたのだ。いい加減、うんざりしているくらいである。
 サイファはぱっと人なつこい笑顔を見せた。軽い口調で畳み掛ける。
「ほんの少しだけでいいからさ」
「断る」
「どうしても?」
「ああ」
「卒業祝いってことで頼むよ」
「駄目だ」
 ラウルの答えは少しも揺らがなかった。
 サイファは腰に手をあて、寂しげに目を細めた。曖昧な笑みを浮かべる。
「最後まで、心を開いてくれなかったな」
「明日も来るつもりなのだろう」
 ラウルは感情を見せずに言った。
 サイファは大きく瞬きをした。それからふっと表情を緩めると、視線を落として言う。
「そうだった、最後というわけではないな」
「今日はもう帰れ」
 ラウルは腕を組んだまま素っ気なく命じる。
「ああ、そうするよ。じゃあな……また、あした」
 サイファは軽く右手を上げ、名残惜しそうにしながらも、素直に医務室を出た。引き戸がゆっくりと閉められる。磨りガラスの向こうの人影は、すぐに見えなくなった。一定のリズムを刻む靴音も、次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 医務室は静けさを取り戻した。耳に届くのは木々の微かなざわめきだけだ。
 ――愚かな奴だ。
 ラウルは机に向き直り、眉根を寄せて頬杖をついた。
 読みかけの本を片手で開き、ゆっくりパラパラと捲っていく。
 ふいに、ほのかな甘い匂いが鼻を掠めた。
 本を捲る手が止まった。
 一輪挿しのピンクローズに視線を向ける。
 触れると壊してしまいそうな、淡く優しい色の花びら。
 そこから小さな水滴が滑り落ちる。
 机の上で音もなく弾けて散った。
 ラウルは手にしていた本を閉じ、その古めかしい表紙に手を置いた。