ピンクローズ - Pink Rose -

3. 家庭教師

「やあ、ラウル。今日も暇そうだね」
 リカルドは軽く右手を上げ、にこやかな笑みを浮かべながら医務室に入ってきた。そこにいたのはラウルひとりきりである。今日も患者はひとりも来ていない。リカルドが何日かぶりの訪問者だ。
「何の用だ」
 ラウルは本をめくる手を止めると、冷たく一瞥して言った。開け放たれた窓から流れ込む新鮮な空気が、焦茶色の長髪を微かに揺らした。
「めずらしいね。どういう心境の変化?」
 リカルドはにっこり笑いながら尋ねた。
 めずらしいというのは、ラウルが窓際に椅子を置いて座っていたことだろう。おまけにガラス窓まで全開にしている。ラウルにしてはずいぶん開放的だと思ったに違いない。リカルドの表情から察するに、自分の忠告が効いたなどと勘違いしているのかもしれない。
 ラウルはその態度が癪に障った。眉をひそめて睨みつける。
「何の用だと聞いている」
「覚えているか? 頼みたいことがあるって言ったこと」
 リカルドは急に真面目な表情になった。
「ああ、今まで忘れていたがな」
 ラウルは低い声で素っ気なく答えた。一ヶ月前、リカルドが診察を受けに来たときに聞いた話だった。それきりになっていたので、話自体がもうなくなったものと思っていた。
「改めて頼みに来たよ。聞いてくれるな?」
 リカルドは近くのパイプベッドにゆっくりと腰掛けた。真新しい白のシーツに、いくつかの皺が緩やかに走った。患者用のベッドであるが、肝心の患者が来ないため、本来の目的で使用されることは滅多にない。ほとんどリカルドの椅子代わりとなっていた。
「話せ」
 ラウルはため息まじりに言った。面倒だと思ったが、そういう約束をしたことを覚えている。話だけでも聞かなければならない。
 リカルドは膝の上で両手を組み合わせた。小さく呼吸をしてから切り出す。
「おまえに頼みたいことというのはな、家庭教師なんだ」
 ラウルは怪訝に眉をひそめた。
「……家庭教師、だと?」
「そう、家庭教師」
 リカルドはにっこりとして頷いた。
 ラウルは無言で彼を見つめた。肩透かしを食らった気分だった。一ヶ月も前からもったいつけていたので、よほど重大なこと、つまり政治的な類ではないかと想像したのだ。相手が名門ラグランジェ家の当主となればなおのことである。それが、まさか家庭教師などという極めて個人的なこととは、まったくの想定外だった。しかし、どちらにしろ引き受けるつもりはない。
「いいだろう? 家庭教師くらい」
 リカルドは人なつこい笑顔のまま、軽い調子で畳み掛けた。
 ラウルは冷たく鋭利な眼差しで睨みつける。
「ふざけるな。おまえに教えることなどない」
 だが、リカルドにはまったく効き目はなかった。少しも怯むことなく、穏やかに応じる。
「私じゃないよ、息子のサイファだ。もうすぐ10歳になる」
「息子でも同じだ。私は医師だ。家庭教師などやるつもりはない」
 ラウルは低い声で明瞭に一蹴した。
「こんなことを言うと親バカだと思われるだろうけど……」
 リカルドはそう前置きをして続ける。
「サイファはとても頭が良い子でね。魔導に関してもかなりの力を持っている。もう並の家庭教師では、まともに教えられないんだよ。おまけにちょっと生意気なところがあって、すぐに先生を辞めさせてしまうんだ」
 そう言うと、肩をすくめて苦笑する。
「その点、おまえなら安心だ。魔導については言うまでもなく、科学や医学などの学問にも造詣が深いし、何よりサイファにやりこめられるとも思えない」
「断る」
 ラウルは間髪入れず、端的すぎる言葉を返した。少しの迷いもなかった。リカルドの丁寧な説明は、まったくの徒労に終わった。
 しかし、それでも彼は引き下がらなかった。
「許可はすでに取ってあるよ。家庭教師をやっている時間は、休診しても構わないとね」
「おまえ、人の話を聞いているのか」
 ラウルは白い目を向け、半ば呆れぎみに言った。
 もともとラウルの医務室には患者はほとんど来ない。休診しようがしまいが、何ら影響がないことは明白である。ラグランジェ家の当主ならば、許可を取ることは極めて容易だろう。だからといって、あらかじめそこまでの手回しをするとは思わなかった。甘い人間に見えるが、意外と抜け目がない。
「もうおまえしか頼む相手がいないんだ」
 リカルドは顔の前で両手を合わせ、片目を瞑ってみせる。愛嬌の中にも必死さが窺える表情だ。だが、ラウルはこんな泣き落としにはびくともしない。
「それほど頭がいいのなら、自習でもさせておけ」
「出来るだけ才能を伸ばしてやりたいんだよ。親心ってやつかな」
「私は教え方など知らん」
「子供相手だと思わなくて大丈夫だよ。逆に子供だと思っていると、痛い目を見るかもしれない」
 リカルドはなぜか嬉しそうに声を弾ませた。その内容もどこか微妙にずれている。
「出て行け」
 ラウルは鋭く睨みつけ、凄みのある低音で命令した。
「引き受けてくれたらね」
 リカルドは動じることなく涼やかに言葉を返した。ラウルが承諾するまでは、どうあっても帰るつもりはないらしい。普段の物腰は柔らかいが、ここぞというときには頑固である。
 ラウルは手にしていた本を後ろの棚に置き、椅子から立ち上がった。焦茶色の長髪をなびかせながら、パイプベッドに座るリカルドの前に歩み出る。冷たく射抜くように睨み下ろすと、彼の首に右手を掛けた。そのまま、上から覗き込んで顔を近づける。肩から落ちた長い髪が、カーテンのように二人を外界から遮断した。
「これ以上しつこくすると命の保証はない」
「なぜ、そんなにむきになる」
 リカルドは目をそらさず、静かに尋ねる。
 ラウルは首に掛けた手に力を込めた。
 それでも、リカルドの表情は動かなかった。
 ラウルはさらに力を込めた。指が白い首筋に沈む。
 一瞬、リカルドの顔が歪んだ。だが、その目はラウルを捉えたままだった。
 ラウルは深い濃色の瞳で睨み返した。
 青い瞳は逃げずにそれを受け止めた。
 視線が交錯したまま、無言の時間が流れる。
 やがて、ラウルはため息をついた。
「むきになっているのはおまえも同じだろう」
 そう言って、体を起こしながら手を引いた。眉をしかめて腕を組む。
「教える価値がないと判断したら、いつでも辞める」
 それは、一応の承諾を意味する言葉だった。リカルドは何があっても引きそうもない。これ以上、言い合っても泥沼にはまるだけである。そんな面倒なことは願い下げだった。ここはとりあえず収めた方が良いとラウルは判断した。こう言っておけば、何かしら理由をつけて辞めることは可能である。
「ありがとう」
 リカルドはにっこりと笑った。
「それじゃあ、あしたからさっそく来てもらおうかな。最初のうちは、昼すぎから3時間くらいで」
「何を教えればいい」
「すべて任せるよ。サイファはアカデミー修了程度と想定してくれ」
「わかった」
 ラウルは面倒くさそうに返事をした。前髪を掻き上げながら、疲れたように小さく息を吐く。
 そんな彼を横目で見ながら、リカルドはパイプベッドから立ち上がった。両手を腰にあて、背筋を反らせるくらいに伸ばすと、目を細めて表情を緩めた。
「これから昼食なんだが、一緒にどうかな?」
「断る。これ以上、おまえと顔を突き合わせたくはない」
 ラウルは目も向けずに答えた。
「残念だな。いつか奢らせてくれ」
 リカルドは笑いながらそう言うと、軽く右手を上げて医務室を出て行った。家庭教師の一件と比べると、随分あきらめが早い。本気ではないのだろうとラウルは思った。

 医務室は再び静寂を取り戻した。遠くの微かな声や足音、そして木々のざわめきが聞こえるだけである。

 ラウルは窓際の椅子に戻った。無表情で腰を下ろす。棚に置いた読みかけの本を一瞥したが、今は手に取る気にもなれなかった。鼻から小さく息を漏らすと、窓枠に右肘をついて空を見上げた。意味もなく、流れゆく雲を目で追う。
 そのとき、ふと下方から声が聞こえた。
「お父さま、この花はなあに?」
「ん? ああ、これはバラだな」
「きれいね」
「触るんじゃないぞ、棘があるからな」
「とげ?」
「刺さると血が出るんだ」
 ラウルは視線を落とした。目にしなくてもわかっていたが、そこにいたのはアルフォンスとレイチェルの親子だった。日だまりの中で、野生のバラを眺めながら会話をしている。微笑ましいといえる光景だ。
 やがて、アルフォンスは幼いレイチェルの手を引いて歩き始めた。彼女の長い金色の髪と、淡い水色のワンピースが、ふわりと柔らかく風をはらんだ。
 医務室の下を通りかかる。
 レイチェルは大きく顔を上げた。
 ラウルと目が合った。
 迷うことなく、にっこりと華やかに笑った。
 幸せそうな笑顔だった。
 あどけない無防備な笑顔だった。
 それは、とても大切だった少女を想起させた。
 だが、別人だ。何の関わりもないのだ。
 そんなことはわかっている。なのに、なぜいつまでも――。
 ラウルは眉を寄せた。
 レイチェルを初めて見かけた日から、窓際で過ごすことが増えていた。言い訳はしない。間違いなく彼女を待っているのだ。
 彼女は父親とともに、週に数回ほど、ここを通っているようだった。そして、通るたびに顔を上げ、無邪気に笑いかけてきた。ラウルは何の反応を返すわけでもなく、無表情で見下ろすだけだったが、彼女はそれでもやめることはなかった。
 彼女の笑顔に惹かれていた。それ以上に、自分に笑顔を向ける理由が気になった。そのためなのだろうか、姿を見るたびごとに、彼女から目が離せなくなっていった。
 しかし、もうこれも最後になるだろう。明日からはリカルドの息子の家庭教師が始まる。ここで待つ時間はなくなるのだ。一抹の寂しさを感じたが、断ち切るにはちょうどいい機会だと思った。いつまでもこんなものに惑わされているわけにはいかないだろう。
 そう、これが最後だ――。
 ラウルは去りゆく少女の小さな後ろ姿を、いつまでも目で追った。強い日差しの当たる右側が、焼けるように熱かった。

 翌日、ラウルは約束どおり、リカルドの家、すなわちラグランジェ本家を訪れた。それは、王宮に隣接した場所に存在していた。いや、隣接というより、一部であるかのように敷地の一角を占めている。家自体も個人のものとは思えないほど非常識に大きい。まるで城のようだ。知らない人間が見れば、王宮の一部と誤解しても無理はないだろう。

「来てくれて嬉しいよ、ラウル」
 リカルドは両腕を広げ、満面の笑顔で出迎えた。
 ラウルは眉根を寄せて睨んだ。平日だが仕事は休みなのだろうか、と怪訝に思ったが、尋ねることはしなかった。
「紹介するよ、妻のシンシアだ」
「初めまして」
 リカルドの後ろに控えていた女性が、一歩前に出て、軽くドレスを持ち上げ膝を曲げた。客観的に見て、間違いなく美人といえるだろう。ただ美人というだけではなく、その表情からは聡明さが見て取れる。青い瞳には理知的な光を宿していた。
「こちらは王宮医師のラウル」
 リカルドは、次にラウルを示して妻に紹介した。だが、ラウルは彼女を冷たく見下ろしただけで、何も言わなかった。面倒くさそうにリカルドに振り向いて尋ねる。
「サイファとやらはどこにいる」
「二階だ。案内するよ」
 リカルドは緩やかにカーブする幅広い階段を指差すと、ラウルを先導して上っていった。

「サイファ、先生が来たよ」
 リカルドは二階に上がってすぐの部屋をノックして、声を掛けた。
「はい」
 中から返事が聞こえた。子供にしてはしっかりとした声だった。
 扉が開いた。
 そこには少年が立っていた。これがリカルドの息子、サイファなのだろう。整ったきれいな顔に、鮮やかな金髪といった、とても人目を引く容姿をしていた。背格好はもうすぐ10歳という年相応のものだったが、表情は見るからに聡明そうで大人びている。彼の青い瞳には、シンシアと同じような理知的な輝きが宿っていた。
 サイファは背の高いラウルをじっと仰ぎ見た。少し目を大きくして、僅かに驚いたような顔を見せる。しかし、すぐに表情を緩め、にっこりと笑った。
「ようこそ、先生」
 そう言うと、ラウルの手を取り、広い部屋の中へと引き入れた。

 リカルドが軽い足取りで階段を下りていくと、シンシアが訝しげな表情で待ち構えていた。
「大丈夫なの? あの人。強い魔導力を持っているのはわかるけれど」
「悪い人じゃないよ。ああ見えて実直だしね。愛想はないけれど、信頼に足る人物だと思っている」
 リカルドは自信を持って言った。
 それでもシンシアの不信感は拭えなかった。腕を組み、眉をひそめる。
「問題は、リカルドに人を見る目があるかどうかね」
「少しは信用してほしいな」
 リカルドは苦笑した。難しい顔をした妻の腰に手をまわすと、リビングルームへと促した。

「先生は何を教えてくれるの? 魔導?」
 サイファは好奇心いっぱいに目を輝かせ、ラウルにまとわりついた。先ほどとは別人のような、子供っぽい無邪気な表情だった。
「ラウルだ。“先生”は必要ない」
 ラウルは小さな教え子を見下ろしながら、無表情で言った。
「じゃあラウル、座って」
 サイファは急に大人びた口調になった。口調だけではない。表情も落ち着いたものに変わっていた。微笑を浮かべながら、用意してあった椅子を右手で示す。
 ラウルは促されるまま、椅子に腰を下ろした。
 サイファもその隣の椅子に座った。机に左手をのせて寄りかかりながら、ラウルの目をじっと見つめる。出方を窺っているのだろう。
「これを読め」
 ラウルは手にしていた3冊の本を机に投げ置き、突き放すように言った。その本はいずれも魔導に関する論文で、読者は専門の研究者を想定している。最高学府であるアカデミーの生徒でも、理解は難しいに違いない。
 サイファは醒めた目でそれを一瞥すると、ラウルに向き直った。
「もう読んだよ。だいたい本を読ませるだけなんて、家庭教師としては手抜きじゃない?」
「おまえこそ、読んだなどと嘘を言っているのではないだろうな」
 ラウルはムッとして言い返した。どれもつい二ヶ月ほど前に発表されたばかりのものだ。こんな子供がもう読み終わったなど、信じることが出来なかった。
 サイファはフッと挑発的な笑みを浮かべた。机の上の本を一冊、手に取って掲げる。
「この本、第四章の結論が間違っているよね。むしろ逆じゃないのかな。第六章は導き方が強引すぎる。この実験だけでは、この結論は出せないよ。結論ありきで実験をして急ぎすぎたんだろうね」
 それは、ラウルが考えたこととまったく同じだった。きちんと読まなければその指摘はできない。いや、読んでいたとしても、そこに気がつく人間はそうはいない。
「それはおまえの意見か?」
「そうだよ。前の家庭教師が、これを書いた人でさ。教本として読ませられたんだけど、今みたいに指摘したら辞めちゃったんだよね」
 サイファはつまらなそうに言うと、手にしていた本を投げ出すように机に落とした。まるで、読む価値がないと言わんばかりだった。
 ラウルは眉をひそめた。
「指摘しただけではないのだろう」
「こんなところで小遣い稼ぎしてないで、研究に本腰入れた方がいいんじゃない? って言っただけだよ」
 サイファは事も無げにしれっと言った。
 ここまで言われて家庭教師を続けられる人間は皆無だろう。リカルドの言っていたことが、ラウルはようやく理解できた。「ちょっと生意気」どころではない。相当に生意気だ。
「ねえ、こんな本よりさ、魔導を教えてよ。実戦的なやつ」
 サイファはパッと顔を輝かせてそう言うと、身を乗り出してラウルの手を取った。
「ラウルってすごく強くて深い魔導力を持っているよね。今まで僕が出会った中で圧倒的に一番だよ。医師って聞いてたから期待してなかったけれど、今はラウルが来てくれて嬉しく思ってるんだ」
 その言葉は、彼の魔導使いとしての水準を証明していた。向かい合っただけで相手の魔導力を測ることが可能なのは、上級以上の使い手のみだ。
 もちろん、最上級の使い手であるラウルにも、それが可能である。彼はサイファの魔導力をかなりのものと評価した。王宮に勤める人間でも、敵うものはごく少数だろう。父親のリカルドよりも上である。ただし、それ相応に優秀な使い手であるかは、また別の話だ。いくら強い魔導力を持っていても、知識と技術がなければ、単なる宝の持ち腐れにしかならない。
「ねえ、教えてよ。家庭教師なんだから、教えるのが仕事じゃない?」
 サイファは人なつこい笑顔で、催促するように大きな手を引いた。
 ラウルは腕を取られたまま、険しい顔で睨みつけて言う。
「その前におまえの力を見せてみろ」
 サイファはにっこりと笑った。
「わかった。じゃあ、地下へ行こう。稽古場があるんだ」
「ここでだ」
 ラウルは低い声でそう言うと、サイファの手を払いのけ、椅子から立ち上がった。そして、短く呪文を唱えると、部屋の内壁に沿うように、青白く光る結界を張った。魔導も物体も遮断する強力なものである。
「私をここから一歩でも動かしてみろ。手段は問わない」
 サイファは肘掛けに右手を置き、ラウルの横顔をじっと見つめた。そのままゆっくりと顎を引くと、ニッと口の端を上げる。
「面白いよ、それ」
 その静かな声には、挑みかけるような色が含まれていた。
 だが、ラウルはピクリとも反応しなかった。無表情な横顔を見せたまま、腕を組み、まっすぐに立っている。一見、無防備そうに見えるが、攻撃を仕掛けにくい隙のない構えだ。そう、すでに「試験」は始まっているのだ。
 サイファは口元をきゅっと引き締めた。椅子から軽く跳ねるようにして立ち上がると、足早にラウルの正面に回り込み、少し距離を取って向かい合う。
 小さく息を吸った。
 ラウルを見据えたまま短い呪文を唱え、ふたりの間に透明な結界を張る。
 間髪入れず、胸の前で両手を合わせ、次の呪文を紡ぐ。両手の間に白い光が生じた。かなり輝度の強いものだ。眩しくて正視できないくらいである。光の向こう側にあるラウルの姿を捉えることは不可能だろう。
 サイファの額に汗が滲んだ。
「やぁっ!」
 幼い掛け声とともに、ラウル目掛けて光球を放出した。それは、ふたりの間の結界を消滅させ、それでも勢いを失うことなく目標に突き進む。
 ラウルは開いた左手を突き出し、サイファの攻撃を受け止めた。その瞬間、ジュッと何かが焼けるような音がして、光球は激しい光を放ちながら霧散した。
 サイファは身を低く前傾して地面を蹴った。素早く光の海をくぐり抜ける。地面に手をつき、体ごと遠心力をつけ、コンパスのように足先をくるりと回す。計画通りラウルの足首を薙ぎ払った、いや、払おうかという、そのとき――。
「うわっ!」
 逆に細い足首を掴み上げられ、一瞬で逆さづりになった。何が起こったのか理解できない表情で、あたふたと周囲の状況を窺う。
「稚拙な手だ」
 ラウルは冷淡にそう言うと、腕の力だけで、小さな体を勢いよく放り投げた。
 サイファは受け身を取ろうとしたが、不完全なまま、部屋を覆う結界に打ちつけられた。僅かに弾むようにして床に落ちる。
「う……っ……」
 顔をしかめ、頭を押さえ、よろめきながら立ち上がった。眉根を寄せて前を見る。
 ラウルは感情のない顔で、開いた右手を正面に突き出した。そこに、呪文の詠唱なしに、白い光球を生じさせる。先ほどサイファが放ったものより何倍も攻撃力が強いものだ。あたりが強く照らされ、ラウルの後ろに長い影を作る。
 サイファははっとした。防御の呪文を口にのせる。
 白い光がサイファに襲いかかる。
 まだ詠唱は終わっていない。
 もう間に合わない。
 サイファは息を呑んだ。視界が白で覆われた。
 だが――。
 それは目の前で中央から分かれ、彼を避けるように両側を通り過ぎた。凄まじい速度だった。背後の青白い結界に衝突し、部屋の壁ごと突き破る。それでも止まらず、屋敷の外壁にも穴を開けた。粉塵が舞い、瓦礫が山となる。
 ――ガ、タン。
 サイファは呆然としながら、その場に崩れるように両膝をついた。
 白い頬には薄く傷が走っていた。
 袖にはいくつもの切れ目が入っていた。
 金の髪が幾本か舞い上がり、はらりはらりと落ちていく。
 それでも、目は、粉塵で煙る向こう側の人影に釘付けになっていた。長髪をたなびかせながら腕を組み、二つの足でしっかりと直立している。いまだ一歩も動いていない。
 上方から次第に靄が晴れていく。
 凍てついた無感情な瞳が露わになった。ギロリ、と視線が動く。
 サイファはびくりと体を竦ませた。そして、芯から痙攣するように震え出した。僅かに口を開いたが、そこから声は出てこなかった。彼のすべては、戦慄と畏怖に支配されていた。