ピンクローズ - Pink Rose -

1. 婚約者

 サイファは足早に階段を駆け下りていく。清潔感のある金色の短髪がさらりと揺れ、天窓からの光を受けてきらりと煌めいた。まだ小さな彼には高すぎる手すりに手を掛けると、くるりと方向転換をしてリビングルームに向かう。

「アリス、いらっしゃい」
 サイファは扉を開けるなりそう言うと、幼いながらも綺麗に整った顔で、にっこりと微笑んだ。
「こんにちは、サイファ」
 アリスはソファに身を預けたまま、澄んだ高い声で挨拶を返した。少しだけ体を起こし、愛らしい笑顔を浮かべる。あどけなさの残る顔立ちが、16歳という実年齢よりも彼女を幼く見せていた。
 アリスの斜め向かいに座っていたシンシアは、小さな息子に振り返って尋ねる。
「サイファ、勉強は済んだの?」
「済んだよ」
 サイファは軽く答えると、アリスの方へ駆けていき、その隣にちょこんと座った。彼女を大きく見上げ、嬉しそうに笑顔を弾けさせる。
 シンシアは呆れたように肩をすくめて笑った。息子のサイファは、執着といってもいいくらいにアリスに懐いている。彼女が家に遊びに来たときは、ほとんど離れることなく付いてまわる。彼女の隣はサイファの指定席といってもいい。一時のはしかのようなものだろうが、多少、心配に思う部分もあった。

「アリス、来ていたんだね」
 再び扉が開き、今度は大人の男性が姿を現した。柔らかい物腰に、和やかな笑みといった、いかにも優しそうな風貌である。彼がこの家の主人――つまり、シンシアの夫であり、サイファの父親だ。
「お邪魔しています。おじさま、今日はお休みですか?」
「ああ、このところ休日出勤が続いていたからね。久々の休暇だよ」
「アルフォンスにこき使われているのね」
 アリスは少し申し訳なさそうに肩をすくめた。アルフォンスというのは彼の上司であり、彼女の夫でもある。彼女より20も年上で、ここにいる誰よりも年長だ。
「忙しいのはアルフォンスのせいじゃないよ」
 彼は笑いながら弁護した。
 アリスは安堵したように小さく笑う。
「良かった。おじさまには恨まれたくないもの」
「誰も恨みはしないよ。みんなちゃんと理解しているから」
「リカルド、座ったら?」
 立ったまま話を続ける夫に、シンシアは軽く促した。
「ああ、そうだね」
 リカルドは素直に頷き、シンシアの隣に座る。
「随分、大きくなったね。動きまわって大丈夫なのかい?」
「無理はしていないから心配なさらないで。うちに独りでいるより、ここにいる方が安心だから居させてもらっているの」
 アリスは大きく膨らんだおなかに手を置いて微笑んだ。
 その言葉どおり、彼女は毎日のようにこの家に来ていた。彼女の家からは歩いて来られる距離であるため、いつも散歩がてらにやってきて、日が沈む頃まで入り浸っている。
「アリスは本当に甘えるのが上手いのよね」
 シンシアは笑いながら言った。図々しいと思えることでも、アリスは無邪気に頼んでくる。そして、自分はそれを嫌だと思わずに引き受けてしまう。自分以外にもそういう人は多いようだ。それは、彼女の生まれ持った才能の成せる業といってもいいだろう。その才能の中には、外見や声の愛らしさも含まれている。真似しようと思って出来るものではない。
 彼女に甘いのはリカルドも同じだった。いや、シンシア以上かもしれない。
「まあ、ここの方が安心なのは確かだね。行き帰りだけは気をつけて。帰りは送ってあげようか?」
「おじさま、お気遣いは嬉しいけれど、近いからひとりで大丈夫よ」
 アリスは優しい口調で辞退した。
「そうはいっても、そろそろ予定日じゃないのか?」
「まだ一ヶ月あるわ」
「ねぇ、名前は考えているの?」
 シンシアは声を弾ませてふたりの会話に割り込んだ。あと一ヶ月なら、そろそろ具体的に考えている頃だろうと思ったのだ。
 アリスはにっこりと微笑んだ。
「男の子ならレオナルド、女の子ならレイチェルにするつもり」
「……女の子がいいな」
 リカルドは真面目な顔でぽつりとつぶやいた。
 シンシアも急に表情を険しくした。腕を組み、ため息をつく。
「サイファの婚約者ね。頭の痛い問題だわ」
 リカルドは魔導の名門ラグランジェ家の本家当主である。そして、息子のサイファが次期当主であることはほぼ決定している。当主を継ぐ者は10歳までに婚約者を定めなければならないというのが、ラグランジェ本家の掟なのだ。
 ラグランジェ家は、本家の他にいくつもの分家を抱える大規模な一族である。もちろん規模だけではなく、その政治的影響力も計り知れない。それは、ラグランジェ家の人間が持つ魔導の力に裏打ちされたものである。魔導の能力は遺伝によるところが大きいとされている。そのため、彼らは純血を守ることでそれを維持してきた。つまり、ラグランジェ家の者どうしで婚姻をし、子孫を残すのだ。次期当主の婚約者を早期に定めるのは、少しでも安全に家系を存続させるための策のひとつなのだろう。
 サイファは現在6歳である。期限まではあと4年もない。
「アリスの子が女の子なら、その子で決まりなんだが」
 リカルドは祈るように手を組み合わせて言う。
 婚約者の決定は、単純にはいかない問題である。分家間の力関係や、種々のバランスも考慮しなくてはならない。そして、なるべく遺恨の残らないような決定が求められるのだ。
 アリスもラグランジェ家の人間である。もちろん、彼女の夫のアルフォンスもそうだ。彼は勤めている研究所の次期所長と目されており、他の分家を黙らせるだけの実績と地位と人脈を持っている。また、サイファはアリスにとても懐いており、すでに家族に近い間柄といえる。この夫婦の子を婚約者にすれば、すべてが丸く収まるだろう。それゆえ、リカルドたちの間では、その方向で話が進められていた。ただし、当然ながら、女の子であればという条件つきだ。
 シンシアはソファに手をついた。隣の夫に顔を向けて尋ねる。
「アルフォンスの許可はもうとったの?」
「ああ、一応な」
「一応ってどういうこと?」
「娘を手放すことが許せなくなるかもしれないってさ」
 リカルドは可笑しそうに笑った。
 それを聞いて、シンシアも吹き出した。
「今からそんなことを言っていたら、この先が思いやられるわね」
「大丈夫よ。私がついているんだもの」
 アリスは胸元に手を置いて言った。
 シンシアとリカルドは目を合わせて笑った。これだけの自信がどこからくるのかはわからないが、彼女を見ていると本当に大丈夫だと思えてくる。華奢で小柄な少女が、なぜかとても頼もしく感じられた。

「ねぇ、サイファ」
 隣でおとなしく座っていた彼に、アリスは無邪気な笑顔を向けた。自分の大きなおなかに両手を当てて尋ねる。
「この子が女の子だったら、サイファのお嫁さんにしてくれる?」
 本来は、本人の許可を得る必要などない。双方の親の合意のみで決定することだ。だが、事前に了承をとっておきたいというのがアリスの考えだった。
 シンシアもそれには同意していた。ただ、彼女は、もう少し見通しを明確にしてから話すつもりでいた。突然アリスが話を振ったので驚いたが、考えてみれば、今でも問題はないだろうと思う。もともと隠すつもりは微塵もなく、今日のように目の前で話題にすることも多かったのだ。
 サイファは利発な子である。話の断片から、おおよその状況は理解していたに違いない。それでも特に反発するような態度は見られなかったので、素直に受け入れてくれるものと予想した。
 だが、サイファの返答は、予想もつかないものだった。
「僕はアリスがいいよ」
 落ち着いた声でさらりと言う。表情もいたって普通で、笑っているわけでもない。冗談ではなさそうだ、とシンシアは思う。しばらく様子を見ようと考え、無言でソファにもたれかかった。
 アリスは人差し指を立て、笑顔で優しく諭す。
「私はアルフォンスと結婚しているの。だから、サイファとは結婚できないわ」
「離婚すれば問題ないんじゃない?」
 サイファは涼しい顔で切り返した。子供とは思えない発言だった。いや、子供だからかもしれない。その重みを認識していないからこそ、簡単に言えるのだろう。
「ダメ」
 アリスは動じることなく平然と却下した。立てた人差し指を左右に動かす。
「10年も粘ってようやく結婚してもらったんだから、離婚なんて絶対にしないわ」
 サイファは不満そうに口をとがらせた。眉をひそめて尋ねる。
「アルフォンスと僕と、どっちが大事なの?」
「アルフォンス」
 アリスは少しの迷いもなく即答した。当然と言わんばかりの口調だった。

 ふたりの会話を聞きながら、リカルドは肩をすくめて苦笑した。
「容赦ないね、サイファもアリスも」
「はっきり言うのは悪いことじゃないわ」
 シンシアはアリスの態度を評価した。相手が子供だからといって、口当たりの良いことを言ってごまかしてはいけない――アリスは自らの経験により、そう考えるようになっていた。そして、しっかりとそれを実践している。可愛らしい顔に似合わず、芯の強いところがあるのだ。

「もちろんサイファのことも好きよ。だから、この子をお嫁さんにしてってお願いしているの。ねぇ、どうかしら?」
「生まれてからじゃないとわからないよ」
 サイファは素っ気なく答えた。まだ不機嫌が治まっていないらしい。だが、彼の言うことももっともではある。どんな子かもわからないうちに結婚相手として認めるなど、普通ではありえないことだ。
 アリスは安心させるように明るく言う。
「心配しなくても、きっと私に似て良い子になるわ」
「アルフォンスに似るかもしれないよ」
 サイファはふてくされながら淡々と反論する。
 アリスはくすりと笑った。
「そうしたら私よりも優しい子になるわね」
「性格はともかく、外見はあんなの困るよ」
 サイファは眉根を寄せた。
「もしかして、あんなに大きく厳つくなるって思っているの?」
「なるかもしれないよ?」
「ならないわよ、絶対に!」
 アリスはくすくす笑いながら言った。サイファの鼻先に人差し指を立てる。
「私が保証するから、ね?」
「……わかったよ。アリスがそこまで言うなら」
 気の乗らない様子ながら、サイファは一応の了承をした。いくら言い返しても勝てないと諦めたのかもしれない。アリスが意外と強情だということは、彼もよく知っている。
 アリスはにっこりと微笑む。
「それじゃあ約束。女の子だったらお嫁さんね」
 サイファはじっと考え込んだ。やがてゆっくりと顔を上げて尋ねる。
「男の子だったらお婿さんにすればいいの?」
「……え?」
 ぷつりと音が途切れた。あたりがしんと静まり返る。
「あははははは!」
 一拍の間ののち、大人たちは一斉に声を立てて笑った。リカルドの声が最も大きかった。大きく肩を揺らしながら、苦しそうに横腹を押さえている。アリスは口元に手を添え、鈴を転がすような声で笑っている。
 サイファだけが状況をつかめず、きょとんとしていた。アリスと両親を交互に見る。
「どうして笑うの?」
「男どうしでは結婚できないのよ」
 シンシアは笑いを噛み殺しながら説明した。サイファは妙に大人びたところがあるが、やはりまだ子供なのだと少し安心した。
「男の子だったら、友達になってあげてね」
 アリスはサイファの頭に優しく手を置いた。まっすぐな金色の髪がさらりと小さく揺れた。

 リカルドはひとしきり笑うと、急に表情を曇らせた。
「しかし笑っている場合でもないな。許されるものなら婿にでもしたい気分だよ」
「しっかりしなさい、リカルド」
 シンシアは頼りなく丸まった背中をぽんと叩いた。
「ああ、現実から逃れられないことはわかっているよ」
 リカルドはソファにもたれかかりながら腕を組んだ。小さくため息をつく。
 気が重いのはシンシアも同じだった。
「次の候補はやはりユリア?」
「そうなるかな。だが、あの子はサイファとそりが合わないようだし、それに年上だろう」
「あら、年齢は関係ないわ」
 アリスが会話に割り込んだ。彼女は年齢のことでは何かと苦労してきた。年齢差を理由に結婚を反対されたことも少なくない。そのため、黙ってはいられなかったのだろう。
 リカルドは申し訳なさそうな微笑みを浮かべた。
「断る理由には使えるよ」
「私はユリア本人より、父親の方が問題だと思うわ」
 シンシアは腕を組んで言った。リカルドもそれに同意して頷く。
「確かに熱心すぎるな」
「本家との繋がりを強くして力を手に入れようとしている。そのこと自体は悪いとは思わないけれど、態度があからさますぎるのよ。がっついていて下品だわ」
「わかりにくいよりは対処しやすくて安心できるがな」
「そう? どうせなら完全に騙し通してくれるくらいの方がいいけれど」
 シンシアは利用されることは構わなかった。ただ、その意図が中途半端に垣間見えると、いかにも浅はかに思えて苛立つのだ。堂々と宣言するか、もしくは完全に意図を隠すか、どちらかであってほしいと考えていた。
 リカルドは大きくため息をついた。
「アリスの子供が女の子であることを祈るしかないな」
「そうね。男の子だったら、そのときまた考えましょう」
「ねぇ、おじさま」
 アリスは僅かに首を傾げて呼びかけた。
「もし男の子でも、あまりがっかりした顔をなさらないでくださいね」
「あ、ああ、そうだな。気をつけるよ」
 リカルドは少し焦りつつ返事をした。彼女の指摘があまりにも的確だったせいだろう。彼ならそんな顔をしかねない、とシンシアも思う。良くいえば素直であり、悪くいえば配慮が足りないのだ。
「男か女か、産まれるまでわからないの?」
 サイファはアリスを見上げて尋ねた。
「そう、産まれるまでのお楽しみ。アルフォンスは女の子じゃないかって言ってるけど」
「どうやってわかるの?」
「さあ、おなかを触ったり、耳を当てたりしているけど、たぶん根拠は何もないわよ」
「科学者とは思えない非科学的な言動だな」
 リカルドは笑いながら言った。アルフォンスは研究職ではなく管理職だが、それでも一応は科学者の端くれである、というのが、リカルドの認識だった。
「サイファも触ってみる? 男か女かはわからないと思うけれど」
 アリスは片目を瞑って言った。
 サイファはぱちくりと大きく瞬きをした。
「いいの?」
「いいわよ、どうぞ」
 アリスはおなかに両手を当てて微笑んだ。
 サイファはゆっくりと手を伸ばした。膨らんだおなかにそっと触れる。
「この中に赤ちゃんがいるんだ……」
 何かとても不思議そうにつぶやいた。手を置いたまま身を屈め、顔を近づけていく。寄りかかるようにして片耳を当てて目蓋を閉じた。音に集中しているらしい。
「どう?」
「うーん、聞こえるような、聞こえないような」
 微妙に眉をひそめる。それでも、まだあきらめてはいないようだ。聞こえる場所を探るように、耳の位置を少しずらした。
 そのとき、アリスは急に顔をしかめた。唇をきゅっと結ぶ。
「どうしたの? アリス」
 シンシアは身を乗り出して尋ねた。
 サイファはその声に反応して体を起こした。そして、アリスの表情を見てうろたえた。
「ごめん、痛かった?」
「そうじゃないの、大丈夫、サイファのせいじゃないわ」
 アリスは笑顔を作った。かなり無理をしているようだ。うっすらと汗が滲んでいる。大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。痛みと気持ちを落ち着けようとしているのだろう。
 シンシアは軽く握った手を口元に当て、難しい顔で考え込んだ。
「アリス、さっきここへ来たときも、何か顔をしかめてなかった?」
「少し痛みを感じたけれど、すぐに治まったから、心配しなくても大丈夫よ」
「もしかして、けっこう前から何度も痛みが来てない?」
「え? ええ、でもすぐに治まっているから……」
「痛みが規則的に来てる? 間隔が短くなってきていない?」
「言われてみれば……」
 アリスの瞳が揺れた。表情に浮かぶ不安の色が、次第に濃くなっていく。
「それ、たぶん陣痛だわ」
 シンシアはあっさりと言った。
 アリスは先ほどのやりとりで見当がついていたのか、それほど驚いた様子は見せなかった。ただ、困惑したようにシンシアを見つめていた。
 驚いたのはリカルドの方だった。
「ちょっと待て、予定までまだ一ヶ月あるんだろう?」
「予定はあくまで予定よ」
 シンシアは平然と言って立ち上がった。夫に振り向き、歯切れよく指示を出す。
「リカルド、先生を呼んできて。アルフォンスにも連絡を」
「わ、わかった」
 リカルドはあからさまな動揺を見せながら返事をした。ソファから弾かれるように立ち上がると、走って部屋を出て行く。
 サイファは呆然とその様子を見ていた。会話の意味はわからなかっただろうが、まわりの緊迫した空気を感じ取り、不安そうに表情を曇らせていた。小さく口を開いて、母親に尋ねる。
「どういうこと?」
「そろそろ産まれるってこと」
 シンシアは口元を上げた。
「アリス、歩ける?」
 彼女に歩み寄りながら気遣わしげに尋ねると、身を屈めて覗き込んだ。
「ええ」
 アリスは困惑した表情のまま、素直に小さく頷いた。シンシアの手を取り立ち上がる。
 隣のサイファもつられて立ち上がった。
「母上、僕は?」
「無事に産まれるよう祈ってなさい。あと、アルフォンスが来たら対応をよろしく」
 シンシアは幼い息子にも端的な指示を出した。
「わかった」
 サイファは顔を引き締めて、こくりと頷いた。

「アリス!!」
 深みのある太い声が、高い天井に反響した。
 アルフォンスは息を荒くしながら屋敷に飛び込み、焦った様子であたりを見まわしていた。屋敷は非常識なほどに広く、どちらへ行けばいいのかわからない。奥歯をぎり、と噛みしめる。
「おじさん、こっち」
 廊下の奥からサイファが顔を覗かせた。小さな手で手招きをしている。
 アルフォンスは大きな体で俊敏に駆けていった。
「ここか?!」
「そうだけど、部屋の外で待つようにって」
 その言葉の後半は、彼の耳には届いていなかった。突進する勢いでドアに手を伸ばす。だが、ノブに届く前に弾かれてしまった。バチリと静電気のような音が響く。
「落ち着いてよ。結界が張ってあることに気がつかないの?」
 サイファは呆れたように言った。結界には無色透明なものもあるが、これはわかりやすいように薄い青色をつけてある。そうでなくても、魔導を扱う者であれば当然わかってしかるべきだ。アルフォンスはそれに気がつかないほどに混乱していた。
「くそっ、こんな結界」
 かなり複雑で強力な結界ではあったが、アルフォンスに解除できないものではない。一歩下がって、呪文を唱え始める。
「おじさん、落ち着いて」
 サイファはそう言うと、小さな声で素早く呪文を唱え、アルフォンスのまわりに結界を張った。ぼんやりとした光が、彼ひとりだけを包む。
「サイファ、おまえ……」
「母上に頼まれているんだ。アリスは大丈夫だよ。頭を冷やしてよ」
 その結界は内側からは解除できないものだった。手練の魔導師でもこの結界を扱えない者は多くいる。それを、まだ幼い少年が難なく張ったことに驚いた。とはいえ、それほどの強度はない。このくらいなら強引に破ることは可能である。だが、この場でそれを行えば、周囲の壁や窓も壊すことになりかねない。この状況で、そのような騒ぎを起こすべきではないだろう。
「わかった、落ち着いた」
 アルフォンスは手を下ろし、観念したかのように低い声で言った。
 サイファはアルフォンスの結界を解いた。壁を背にして座り込む。
「アルフォンスも座ったら? まだ時間がかかるかもしれないよ」
「そうだな」
 アルフォンスもサイファの隣にどっしりと腰を下ろした。疲れたように額を押さえ、小さく息をつく。
「おまえ、随分と落ち着いているな」
「僕たちに出来ることは何もないんだ。せめて邪魔しないようにしなくちゃ」
 サイファの言うことはもっともだった。だが、ときおり聞こえるアリスの苦しそうなうめき声を耳にすると、胸が掻きむしられ、我を忘れそうになる。アルフォンスは理性を総動員し、必死に堪えていた。
「父上は? 一緒じゃなかったの?」
「仕事を代わってもらった。外せない作業があってな」
 仕事のことに関しては、リカルドはとても頼りになる男だった。自分の代わりを務められるのは、リカルドの他にはいない。彼が代わってくれなければ、ここに駆けつけることも叶わなかっただろう。快く引き受けてくれた彼には、言いようもないくらいに感謝している。
 不意に、中からアリスの悲鳴にも似た声が聞こえた。
 アルフォンスは大きな背中を丸めて膝を抱えた。ズボンを無造作にぎゅっと掴む。ミシミシと音がして、今にも破れそうだった。
「耳を塞ぎたくなるな」
「ダメだよ。アリスが頑張ってるんだから」
 そう言ったサイファの声も、少し強張っていた。だが、彼はしっかりと受け止めようとしている。自分も見習わなければ、とアルフォンスは思った。
 そのとき――。
「ふぎゃぁ、ふぎゃあ、ふぎゃあ!」
 元気のいい産声が耳に届いた。アルフォンスとサイファは顔を見合わせ、同時に飛び上がるように立ち上がった。
「アルフォンス、落ち着いてね」
「ああ、わかっている」
 サイファが感情を抑えた声を掛け、アルフォンスも低い声で返事をする。ふたりは張りつめた顔で身構えた。すぐにでも駆け込める体勢だ。しかし、扉は一向に開く気配がない。
 アルフォンスは奥歯を噛みしめた。苛立ちが募る。だが、時間が経つにつれ、それは不安へと変わっていった。産声もやがて聞こえなくなった。
 まさか、何かあったのでは――。
 突入したい衝動に駆られる。もう堪えられなかった。心配で、いても立ってもいられない。手を下ろしたまま、サイファに悟られないように呪文を唱えようとする。
 だが、その瞬間。
 ふっ、と結界が消えた。がちゃりと中から鍵が外され、ゆっくりと扉が開く。
「お待たせ」
 シンシアはにっこりと笑って言った。
 アルフォンスは彼女の隣をすり抜け、一目散に部屋に滑り込んだ。そのすぐ後ろをサイファがついていく。
「アリス!!」
 彼女は積み重ねた枕とクッションにもたれて、少しだけベッドから体を起こしていた。顔の汗は拭ったようだが、顔にかかる髪はまだ濡れていた。そうとう汗をかいたのだろう。しかし、疲れた様子ながら、その表情はとても柔らかかった。彼女の目線の先には、白い布でくるまれた赤ん坊がいる。担当医がアリスに手渡そうとしているようだ。
「来てくれたのね、アルフォンス」
 アリスは手を止めて振り向いた。にっこりと笑顔を見せる。
「無事なのか?!」
 アルフォンスは勢いよく詰め寄った。
「母子ともに健康よ。赤ちゃんは少しだけ小さめだけど、特に問題はないわ」
 アリスの代わりに、横にいた担当医が答えた。
 アルフォンスは大きく安堵の息をつき、膝に手をついて、力の抜けた体を支えた。
「ねえ、男の子? 女の子? どっち?」
 大きな体の後ろから、サイファがひょいと飛び出して尋ねた。
 アリスは自分の腕でぎこちなく赤ん坊を抱くと、その子の顔がサイファに見えるように体を僅かに傾けた。そして、にっこりと微笑みかけて言う。
「“レイチェル”よ」
 サイファは息を吸いながら、目を大きく見開いた。ベッドに手を掛けて、つま先立ちで身を乗り出すと、アリスの腕の中の赤ん坊を覗き込む。小さな彼女――レイチェルを見ているうちに、彼の顔は次第にほころんでいった。
「こんにちは、レイチェル。僕のお嫁さん」
「ちょっと待て、気が早すぎるぞ。おまえの嫁じゃない、私の娘だ」
 アルフォンスは慌ててそう言うと、後ろからサイファの襟を掴んで引き離した。
 アリスも、シンシアも、そして担当医までもが笑った。
「気が早すぎるのはアルフォンスの方ね」
「まったくだわ。子供相手にむきになっちゃって」
「父親の私を差し置いて、勝手に娘に挨拶したのが許せなかっただけだ」
 アルフォンスは苦しい言い訳をした。どちらにしろ、大人げないことには変わりない。照れ隠しにコホンと咳払いをしてから、身を屈めてアリスに両手を伸ばす。
 アリスは微笑みながら、小さな娘をアルフォンスに手渡した。
「首が据わっていないから気をつけてね」
「昔、姪をあやしていたから、アリスよりは上手いはずだ」
「あら本当、大きな図体に似合わず、意外と堂に入っているわね」
 危なげなく赤ん坊を抱く彼の姿を見て、シンシアは横から茶々を入れた。からかい半分の口調だったが、実際のところは真面目に感心しているのだろう。それは、彼女の表情から見て取れた。
「おじさん、僕にももういちど見せてよ」
 サイファは隣で背伸びをしながら、両手を上に伸ばして催促していた。背の高いアルフォンスが立っていては、サイファからはまったく赤ん坊の顔が見えない。
 だが、アルフォンスは口元を緩めて娘を見つめたまま、彼には目も向けなかった。
「今日は諦めろ」
「何それ、嫉妬? 独占欲?」
 いい年をした大人の理不尽な態度に、サイファはむっとして口をとがらせた。
「相当な子煩悩になりそうね」
「ええ、本当に」
 苦笑しながら言うシンシアに、アリスもくすくすと笑いながら同意した。

 とても穏やかであたたかな空気が流れていた。
 小さな命がもたらした、たくさんの喜び。
 小さな命に注がれる、たくさんの愛情。
 これから先も、この優しい幸せが続きますように――。
 娘を取りまく光景を眺めながら、アリスは柔らかく微笑んだ。