遠くの光に踵を上げて

番外編「明日に咲く花 - 終幕」

 今日で必ず終わらせる。自分で終幕を下ろすの――。
 ユールベルは鏡を正面から見据えて、その向こうの自分に暗示を掛けるかのごとく、胸の内で決意の言葉を繰り返す。鏡は嫌いだった。そこに映される自分の姿を目にするのが苦痛で、いつもは避けているのだが、今日は挑むようにまっすぐに相対していた。

「今日もおにいさんとデート?」
 ベランダから顔を覗かせたアンソニーが、さらさらと短い金髪をそよがせながら、小さな如雨露を片手にそう尋ねた。如雨露の先からは水滴がしたたっている。ちょうどプランターに水をやっていたところのようだ。
 そのプランターは、ジョシュが作ってくれたものである。
 話し合って決めたわけではないが、平日はユールベル、休日はアンソニーが世話をするようになっていた。何をすればいいのかわからなかったが、ジョシュに言われたように適当に水をやっていたら、本当に若緑色の小さな芽が出てきた。今は、まだ花は咲かせていないものの、青々とした背丈がしっかりと着実に伸びてきている。
「ゆっくりしてきなよ。遅くなってもいいからね」
 彼は軽く笑いながらそんなことを言う。
 ユールベルはムッとして眉をひそめる。そして、口をつぐんだまま、緩いウェーブの金髪をなびかせて足早に部屋をあとにした。

 空は鮮やかに晴れ渡り、眩しいくらいの日差しが地上に降り注ぐ。
 待ち合わせ場所には、すでにジョシュが来ていた。
 ユールベルより早いのはいつものことであり、不思議でもなんでもないが、硬い顔で唇を引き結んでいることが少し気にかかった。何か思い詰めているようにも見える。しかし、ユールベルに気がつくと、ほっと安堵したように表情を緩ませた。
「とりあえず公園へ行くか」
 その声は普段と何ら変わりのないものだった。ユールベルも素直に頷く。それから二人並んで公園に向かうと、小径をゆっくりと散歩したり、木陰でのんびり話をしたりと、あたたかい陽だまりに包まれながら、これまでの休日と同じように穏やかな時間を過ごした。
 日が傾き、帰る時間が近づいた頃――。
 ジョシュがぎこちなく遠慮がちに手を繋いできた。
 ユールベルが顔を上げると、彼は照れたような表情で前を向いていた。夕陽のせいではっきりとはわからないが、頬もほんのり紅く染まっているように見える。その緊張ぎみの横顔に、その手のあたたかさに、ユールベルの胸はキュッと締め付けられる。決意が鈍りそうになるが、これが最後だからと自分に強く言い聞かせた。

「来週も今日と同じ時間でいいか?」
 別れ際、ジョシュは軽く尋ねてきた。
 そう、こうやって次に会う日時を決めることが、二人には当たり前になっていた。途切れることのなかった約束、終わりの見えなかった逢瀬――しかし、それも今日までのこと。ユールベルは口を引き結ぶと、そっと首を横に振る。
「何か予定があるのか?」
「……もう、会わない」
「えっ?」
 単純に声が聞き取れなかったのか、訝しむ様子もなく、ジョシュは少し顔を近づけて聞き返した。ユールベルは小さく息を吸い込み、あらためて心を決めると、今度ははっきりとした口調で言い直す。
「もうあなたと会うのをやめるわ」
 ジョシュの目が大きく見開かれた。
「……な、んで……?」
「今までありがとう」
 ユールベルは抑揚のない言葉を返す。
「理由を教えてくれよ!」
「もう会いたくないから」
「……嘘だ」
 ジョシュは喉の奥から絞り出すように言う。ユールベルはたまらず顔をそむけた。
「お願い……あなたといると苦しいの。これ以上、私のことを苦しめないで」
「……違う。俺と一緒にいるから苦しいんじゃない。俺から逃げようとするから苦しいんだ」
 彼は冷静にそう言いながら、沸き上がる感情を堪えるように、体の横でこぶしをギュッと爪が食い込むほどに握りしめる。それを見て、ユールベルは、まるで自分の心臓を鷲掴みにされたかのように感じた。
「……そうよ」
 胸を押さえて声を絞り出す。右目に涙が滲み、頭に熱い血が上っていく。
「でもそうするしかないの! あなたもいつか私から離れていく! 今は意地になって無理をしてるだけ。私がどんな人間かもうわかったでしょう? いつも誰かを利用して縋って……弟さえも……。心も体も穢れきっている。誰にも好きになってもらう資格なんてない。だから……」
「勝手に決めつけるなよ!」
 ジョシュは感情的に言い返した。そして呼吸を整えると、涙目のユールベルを正面から見据える。
「俺は、逃げない」
「今はそう思っていても、いつか……」
「どうやったら信じてもらえるんだよ!」
「ジョシュは悪くない。悪いのは私……だから、どうしようもない……ごめんなさい……」
 ユールベルは泣きそうになるのを懸命に堪えようとしていた。唇を強く噛みしめて目を伏せる。けれど、怖いくらいまっすぐな彼の眼差しに、全身が熱を帯び、胸が焼けるように熱くなり――そして、右目から大きなひとしずくが零れ落ちた。
 さらに強く唇を噛み、こぶしを握りしめる。
 それでも、次々と溢れくる涙は止められない。やがて、堰を切ったように大声で泣き崩れた。その場でうずくまって激しく慟哭する。そこが往来の真ん中であることも、研究所の近くであることも、誰かが見ているかもしれないことも、知り合いが通るかもしれないことも、何もかもどうでもよかった。

 時折吹く風が冷たい。
 空はすっかり濃紺色に塗り替えられていた。星もあちらこちらで瞬き始めている。
 二人は、植え込みまわりの煉瓦に、並んで座っていた。
 ユールベルが泣き崩れたあと、ジョシュは何も言わずに、ずっと背中に手を置いて寄り添ってくれていた。ひとしきり泣き疲れるまで泣いて、少し落ち着いてくると、すぐ近くの植え込みの方へそっと促された。それから1時間ほど、ただ黙って膝を抱えるだけである。彼がどう思っているのか不安だったが、それを知るのが怖くて、尋ねることも顔を向けることもできない。
「なあ……」
 不意に落とされた声に、ユールベルの体がビクリと震えた。それでも彼は言葉を繋げる。
「おまえ、あの家を出てさ、俺の家に来ないか?」
「……えっ?」
 ユールベルは大きく目を見開いて振り向いた。
「おまえの家と比べるとだいぶ狭いけど……いや、もう少し広いところに引っ越してもいい。今までと同等というわけにはいかないが、なるべく不自由させないようにするから」
「……私たちって、そういう関係?」
「これからそうなるんじゃ、駄目か?」
 ジョシュは許しを請うように尋ね返す。
 ユールベルは眉を寄せてうつむいた。頭が混乱する。彼の言うことがあまりにも飛躍しすぎて、まともに受け止めることができなかった。家を出るように勧める理由はわかっているつもりだ。だからといって、どうして彼と一緒に住むことになるのかは理解できない。確か、自分は終幕を下ろそうとしていたはずなのに――。
「軽薄な気持ちじゃない。俺は、真剣におまえと……」
「弟を一人にするわけにはいかないわ。未成年だもの」
 ジョシュの言葉を遮って、ユールベルはそう告げた。論点をずらした自覚はあるが、言ったことは嘘ではない。一人にするわけにはいかないし、両親のもとに返すわけにもいかないのだ。家族の関係を説明しなければ納得してもらえないかと思ったが、彼は何も尋ねてこず、ただ苦い表情で唇を引き結んでいた。しばらく考えて、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ、あいつが18になるまで待つ」
「そんな先のこと……」
「俺は、待つよ」
 困惑して口ごもるユールベルに、ジョシュは迷いなく言った。少なくとも現時点では、彼が本気でそう思っているだろうことは、ユールベルにも疑いようもないくらいに伝わってきた。

 しばらくして、ジョシュが自宅まで送ってくれた。
 いつもは近くの交差路で別れるのだが、夜遅くなったからといって、断ったにもかかわらず強引についてきたのだ。おそらく、まだ精神的に不安定なユールベルを心配しているのだろう。扉の前に着いても、ジョシュは手を掴んだまま離そうとしなかった。何か言いたげに目を泳がせている。
「やっぱり今日だけでも俺の家に来ないか?」
「もう大丈夫よ」
 ユールベルは努めて無感情に言う。
「なあ、もしつらくなって、泣きたくなっても……その……」
「わかっているわ」
 それでもジョシュは手を離そうとしない。中にいるアンソニーと二人きりにしたくないのだろう。彼が何を懸念しているのかはわかっていたが、それでも帰らないわけにはいかないのだ。
 握った手に、少し力がこめられた。
「なかなか信じてもらえないけど、俺は、本当におまえのことが好きなんだよ」
 ジョシュは、思いつめたように切々と訴えかけた。
 しばらく苦悶の表情でユールベルを見つめていたが、やがて細い肩に手を置き、様子を窺いながら少しずつ身を屈めていく。
 彼が何をしようとしているかわかった。けれど、拒絶しなかった。
 ユールベルが近づくジョシュの顔をじっと見つめると、彼は少し戸惑いを浮かべたが、それでも逃げることなくそっと触れるだけの口づけを落とした。優しい熱が伝わる。次の瞬間、彼の表情を確かめる間もなく、ユールベルは強い腕で思いきり抱きしめられた。足もとがよろけて、白いワンピースがふわりと舞う。
「何かあったら、何でもいいから俺を頼ってくれ」
 彼の声が耳にかかる。
 唇も、体も、心も、すべてが心地よくあたたかかった。
 こんなことは初めてである。
 今まで誰と一緒にいても、誰に縋ってみても、虚しさや悲しさという負の感情が消えることはなかった。それどころか縋るたびに大きくなっていた。けれど、今はどうしてだか幸福感の方が大きい。終幕を下ろそうとしていたはずなのに、その動機すら見失いそうになっていた。
 もしかしたら、彼なら本当に――?
 信じると断言することはまだできないけれど、気持ちは傾きつつあった。もし、信じることができれば、彼とずっと一緒にいられたら、きっとどれだけ幸せだろうと思う。そんな安易な自分に、幾何かの嫌悪感を覚えながらも――。

「アンソニー?」
 ようやく家に帰ったユールベルは、真っ暗なリビングルームで弟の名を呼んだ。
 しかし返事はない。
 寝室やキッチンなど他のどこからも明かりが漏れておらず、浴室にもいる気配もない。もう寝てしまったのだろうか。何となく嫌な予感がしながらも、手探りで照明のスイッチを入れると、テーブルに紙が一枚置いてあるのが見えた。ユールベルは近づいて目を落とす――瞬間、それを掴み取って凝視し、大きく息を呑んだ。
 紙にはアンソニーの筆跡で、ひとことだけ書かれていた。
 さようなら、と――。