遠くの光に踵を上げて

87. 涙

「嘘だ!!」
 ジークは自分の叫び声で目が覚めた。直前まで何かの夢を見ていたはずだが、目を覚ました瞬間、すっと闇に沈み込むように記憶ごと消え去った。嫌な夢だったという感覚だけは残っているが、その内容は思い出せない。
 起き上がろうとして、体が動かないことに気がついた。手足が固定されているようだ。右腕にはギプス、左腕には固定器具らしきもの、シーツの下で見えないが、脚にも何かが取り付けられているような感触がある。あたりは妙に消毒くさい。病院なのか? 首を動かしてあたりを窺おうとする。
「気分はどうだい?」
 突然、降ってきたその声に、ビクリと体がすくんだ。おそるおそる声の方に振り向く。
 そこにいたのはサイファだった。パイプ椅子に腰掛け、にこやかな微笑みをたたえている。
「怯えなくても、もう君を殺そうなんて思っていない。その理由がなくなったからね」
 ジークは少しずつ記憶が蘇ってきた。道場でサイファと戦ったこと、手も足も出なかったこと、殺される寸前でラウルに助けられたこと、そして――。
 あれは夢でも幻聴でもない。
 信じがたい内容だったが、その確信はあった。あのとき、確かに自分の意識はあった。確かにこの耳で聞いた。それが事実なのかはわからない。確かめる術はひとつしかない。しかし――。
 ジークはもの言いたげな視線をサイファに送った。
「両手両足とも骨折だよ。当分は入院になるが、完治するそうだ」
 サイファはまっすぐに彼を見据えたまま、落ち着いた声で言った。
「そうですか、よかった」
 ジークはうわの空だった。だが、自分の声を耳にし、その冷たさに驚いた。取り繕うように、慌てて付け足す。
「レイチェルさんは無事だったんですか」
「ああ……」
 サイファの返事は歯切れが悪かった。表情も暗く沈んでいる。あまり無事だったようには思えない。だが、彼女に何かあったのならば、もっと取り乱しているだろう。
 ジークは気になったが、何も尋ねられなかった。

「サイファ」
 半開きの戸口から、ラウルが姿を見せた。相変わらずの無表情だった。腕を組んだまま、目で呼びつけている。
「眠ってて」
 サイファはジークの頬に軽く触れて微笑んだ。その微笑みを残しつつ立ち上がり、颯爽とした足どりで外に出ると、後ろ手で扉を閉めた。
 その途端、彼の顔つきは険しくなった。目線を上げ、声をひそめてラウルに尋ねる。
「被害状況は?」
「死者3名、重傷者8名、軽傷者21名」
「そうか……」
 サイファは重々しくそれだけを口にした。すぐには二の句が継げなかった。
 ラウルは淡々と報告を続ける。
「長老たちの証言によれば、暴発が起こったとき、アルフォンスは自らの結界を張らず、ルーファスの結界を解除したらしい」
「そうだろうな。直撃を受けたとしても、あのふたりが結界を張っていれば、助からないはずがない。アルフォンスは計算ずくでレイチェルに魔導増幅器を渡したのだろう」
 サイファは難しい顔で腕を組んだ。
「しかし、なぜそこまで……私がジークを殺せないと思っていたということか……」
 考え込みながらつぶやく彼を、ラウルはじっと見つめた。
 サイファはその視線に気づき、訝しげに顔を上げた。
「何だ?」
 ラウルは一拍おいてから、静かに答える。
「レイチェルは、どのみち処刑される予定だったらしい」
 サイファは息を呑んで、大きく目を見開いた。
「……そうだな、確かに彼らにとっては邪魔な存在だ。処刑する理由はあっても、生かす理由はない。私との約束を破ったところで、彼らに何ら不利益はない。そんなことさえ気づかずに、私は彼らの思うままに行動してしまったというわけか」
 うつむきながらそう吐き捨てると、自嘲の薄笑いを浮かべた。
「少し休め」
 ラウルは無表情で言いつけた。
「心配してくれているのか」
「医者としての命令だ」
 サイファは目を伏せ、ふっと息を漏らした。
「何かをしていないと、よけいにおかしくなるよ」
「……勝手にしろ」
 ラウルはひと睨みすると、腹立たしげにため息をついた。
 サイファはそんな彼を見て、にっこりと微笑んだ。
 しかし、それはすぐに真面目な表情へと変わった。隣の病室に険しい目を向ける。扉は閉まっていた。
「レイチェルは?」
 声を落として質問する。
「さっき見たときはまだ眠っていた」
 ラウルは無愛想に答えた。
 サイファは音を立てないように扉を開け、中へ入っていった。部屋は薄暗かった。灯りは消されており、窓にはクリーム色のカーテンが引かれている。そして、中央にはパイプベッドがひとつ置かれていた。
「死者3名、重傷者8名、軽傷者21名」
 力のない小さな声が聞こえた。そのベッドに横たわるレイチェルの口から発せられたものだった。
 サイファはドキリと心臓が縮み上がった。同時に歩みも止まった。
「起きていたのか」
 平静を装って返事をすると、何事もなかったかのように再び足を進めた。だが、心の中では、自分の軽率さに舌打ちをしていた。部屋の前でする話ではなかった。もう少し配慮すべきだった。彼女にはまだ告げるつもりはなかったのだ。今は受け入れられる状態ではないはずだ。大丈夫だろうか――ベッドの横に跪き、不安そうに様子を窺う。
 彼女は天井を向いたままだった。目を開けてはいたが、焦点は定まっていないように見えた。白い肌は、いつもよりさらに白く、まるで血の気がなかった。小さな唇にだけ、微かな赤みが差している。
 サイファは柔らかな頬にそっと触れた。ほとんど温かさを感じられない。
「お父さまは?」
 レイチェルは彼に目を向けずに尋ねた。
 サイファは、一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐに真剣な顔になった。ここまで知られてしまった以上、ごまかすことが良策とは思えない。ゆっくりと語りかけるように口を切った。
「レイチェル、落ち着いて聞いて。アルフォンスは……」
「亡くなったのね」
 レイチェルは先回りをしてぽつりと言った。
 サイファは眉根を寄せ、うつむいた。
「私の力が足りないばかりにこんなことになってしまった。申しわけない」
 噛みしめるように、詫びの言葉を口にする。
 レイチェルは首を横に振った。目からは大粒の涙が溢れ出した。
「すべて私のせい。私がお父さまを殺してしまった。たくさんの人を傷つけてしまった」
「違う! 君は悪くない! 悪いのは処刑しようとしていた奴らの方だ。それに君の意思じゃない。魔導増幅器のせいで力が暴走してしまっただけだ。君も被害者じゃないか!」
 サイファは必死に擁護した。思いつく限りのことを捲し立てる。しかし、彼女を納得させることは出来なかった。むしろ、過敏になっている神経を刺激しただけだった。
「違うの! 私さえいなければこんなことにならなかった! すべての原因は私にあるの! サイファだって知ってるじゃない!!」
 激しく感情を昂らせ、震える声で泣き叫ぶ。
「レイチェル、聞いて」
 サイファは上から彼女の両肩を押さえるようにして覗き込んだ。
「私がいけないの!!」
 レイチェルは切り裂くような悲痛な叫びを上げた。右腕で目を覆い、何度も首を横に振った。流れる涙は止まらない。苦しそうに嗚咽を続ける。
「レイチェル……」
 サイファは途方に暮れた。
 彼女から否定の言葉を聞いたのは、今日が初めてだった。彼女はいつだって前向きだった。逃げることなくすべてを受け止めてきた。だが、今回のことはあまりに大きすぎた。いや、本当はずっと無理をしていたのかもしれない。そして、その無理を強いたのは自分だったのではないか――。
「ごめんね……」
 弱々しく紡がれた謝罪。彼女には届いていないかもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。ただ、口にせずにはいられなかった。温もりを求めるように、彼女の肩に頭を埋めた。

 コンコン――。
 扉をノックする音が聞こえた。
 サイファは返事をしなかった。レイチェルの肩に額をのせたまま、顔さえ上げない。ラウルだろうと思ったが、今は邪魔をされたくなかった。もちろん、泣き続けているレイチェルも、何も答えはしなかった。
 だが、扉は開いた。
「レイチェル」
 戸口から聞こえた女性の声。
 サイファははっとして振り向いた。ラウルではない。そこに立っていたのは、小柄で上品な雰囲気の婦人だった。薄い金色の髪を後ろでまとめ、深い蒼色の瞳をこちらに向けている。
「アリス……」
 サイファは呆然と名をつぶやいた。我にかえると、慌てて立ち上がり、自分の居た場所を譲る。彼女は柔らかい物腰でサイファに頭を下げ、流れるような動作でベッド脇に膝をついた。
 レイチェルは彼女の姿を瞳に映すと、怯えたように顔を引きつらせた。
「お母さま、ごめんなさい……私がお父さまを……っ!」
「落ち着きなさい」
 威厳と優しさを同時に感じさせる声だった。アリスは柔和に微笑み、人差し指で彼女の頬の涙を拭った。
 レイチェルはしゃくりあげながら、濡れた瞳で頼りなく母親を見つめた。
「アルフォンスはあなたを助けたかった。これが、望んだ結果だったのよ」
 アリスは小さな子供に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で語りかけた。
「違う……」
 レイチェルは強く目をつむり、小刻みに首を横に振った。
「私には助けてもらう資格も価値もないわ!」
「価値の基準はそれぞれが持っているものよ。アルフォンスにとっては、自分の命を懸ける価値があった。だから、そう行動したの」
 アリスはレイチェルの細い手をとり、その上に自分の手を重ねた。
「アルフォンスの想いを無駄にしないで。あなたに幸せに生きてほしいと願っていたのよ」
「だって……」
 レイチェルは泣き続けた。声は掠れている。
 アリスはぎゅっと手に力を込めた。
「しっかりしなさい。あなたは母親でしょう? 母親としてしなければならないことがあるはずよ」
「私……アンジェリカにどんな顔をして会えばいいのかわからない……」
 レイチェルは顔を歪め、泣きながら息苦しそうに喘ぐ。
「休ませたほうがいい」
 背後から抑えた低い声が聞こえた。いつのまにかラウルが部屋に入ってきていた。サイファたちに背を向け、注射の準備をしているようだった。それを片手にベッドへと足を進め、アリスを押しのけるように割り込むと、空いた方の手でパイプ椅子を広げて座った。そして、いまだ呼吸の荒いレイチェルの腕を取り、手際よく鎮静剤を打った。
「出ろ。今日はもうそっとしておけ」
 押し込めた声でそう言うと、睨みつけるような視線をふたりに送り、大きな足取りで病室を出て行った。

 レイチェルの嗚咽は、次第に浅くなっていった。薬が効いてきたのだろう。
 アリスは言われるままに病室を出た。だが、サイファはまだ離れられなかった。ラウルが座っていたパイプ椅子に、崩れるように腰を下ろした。静かな病室に、ギシ、と耳障りな音が響く。彼女を刺激してしまったかと少し焦ったが、目を閉じたまま反応はなかった。もう眠りに落ちていたようだ。呼吸は規則正しいリズムを刻んでいる。
 彼はそれを聞きながら、ぼんやりと彼女を眺めていた。そのとき、ふと、シーツからはみ出している左手に気がついた。白く細い指先は、ベッドから落ちかかっている。彼は、その手をシーツの中に戻そうとした。
 だが、不意に何かを思い出したように中断した。ズボンのポケットを探る。そこから取り出したものは、プラチナの指輪だった。結婚指輪として彼女に贈ったものである。ルーファスを経て、再び彼の手に戻ってきたのだ。
 彼は、そっと彼女の左手をとった。その仕種は、まるで壊れ物を扱うかのようだった。反対の手に持った指輪をゆっくりと近づけ、薬指に嵌めようとする。
 だが、寸前で手が止まった。
 そのまま、微動だにせず、じっと考え込む。
 刻が止まったかのような、長い、長い沈黙――。
 それは、小さな吐息によって終わりを告げた。
 目をつむり、そっと手を引くと、指輪をポケットに戻した。

 サイファは病室を出た。アリスはまだ廊下にいた。窓枠に手を掛け、ガラス越しに夕空を仰いでいる。先ほどまでは眩しいほどの茜色だったが、今はもう大部分が濃紺に侵食されていた。地平近くでわずかに光が放たれているが、それもあと数分で消えてしまうだろう。
「アリス、私の力不足だ。申しわけない」
 サイファは背後から声を掛けた。うなだれるように頭を下げる。
「どうしてあなたが謝るの?」
 アリスは片手を離して振り返った。
「謝らなければならないのは私たちの方だわ」
「謝らないでください」
 サイファは硬い声で言った。彼女を気遣っているわけではない。ただの我が儘だった。謝られてしまったら、今まで積み上げてきたものがすべて崩れ去ってしまう、そんな気がした。
 アリスはもの悲しげに微笑んだ。
「いつでも、どんなときでも、あなたは全力でレイチェルを守ってくれた。言葉にはしようのないくらい、深く、深く感謝しているわ。アルフォンスも同じ思いよ」
 優しく穏やかな音色で、包み込むように言う。
 だが、サイファは険しい表情で眉を寄せた。一歩、二歩と足を進めると、窓枠に手を掛け、紺色に覆われた空を見上げた。いくつかの星が薄く煌いた。
「私はただ、レイチェルを手放したくなかっただけなんだ。それが彼女の望んでいたことかどうかはわからない」
「めずらしく弱気ね」
 アリスはくすりと笑って、彼の頭を手の甲で軽く叩いた。
「そういうときもありますよ」
 サイファは穏やかにそう答えると、にっこりと笑顔を返した。
 そのとき、地平を照らす最後の光は、世界の裏側に吸い込まれるようにすっと消え去った。

 サイファはジークの病室に戻った。
 ジークは起きていた。ベッドに横たわったまま、気遣わしげなまなざしをサイファに送る。
「レイチェルさん、大丈夫ですか」
「聞こえていたんだね」
 サイファはそう言いながら、パイプ椅子に腰掛けた。驚きはしなかった。隣室であれだけ泣き叫べば、聞く気がなくとも耳に入るだろう。
「今は薬で眠っているが、どうかな……心の傷が癒えるには時間がかかるだろうな……」
 それは、ジークに答えているというより、ほとんど独り言だった。
 ジークは、考え込むサイファをじっと見つめた。そのまましばらく逡巡していたが、口元を引き締めると、意を決して切り出した。
「サイファさん、あの……」
「ジーク!!」
 彼を遮った高い声。それと同時に、叩きつけるように扉が開かれる。そこから飛び込んできたのは、血相を変えたアンジェリカだった。ベッドの上のジークを目にするなり、小さく息を呑んだ。
「……ひどい……」
 そうつぶやいて絶句した。包帯やギプスで固定された彼の姿は、彼女にとってあまりに痛々しいものだった。
 少し遅れて、リックも駆け込んできた。苦しそうに息を切らせている。ようやく追いついたという感じだ。彼もジークの姿に言葉を失った。荒い息のまま、呆然と立ちつくした。
「事故だなんて嘘!! お父さんが連れて行ったすぐあとなのよ? 何があったの?!」
 アンジェリカはサイファに振り向くと、責めるように激しく詰問した。
 サイファは両膝に手をのせ、視線を落としていた。しかし、ジークにちらりと目を向けると、おもむろに椅子から立ち上がり、まっすぐ彼女に向き直った。
「私が、ジークを殺そうとした」
「えっ……?」
 アンジェリカは目を大きく見開いた。その漆黒の瞳には、サイファの真剣な顔が映っていた。
「レイチェルが人質にとられてしまってね」
「え? 人質……? 人質ってどういうこと? お母さんは無事なの?!」
 縋るようにサイファの服をぎゅっと掴み、混乱した面持ちで見上げる。
「ああ、なんともないよ。隣の部屋で眠っている」
 サイファは安心させるように、彼女の肩に手をのせて言った。
 アンジェリカはほっと胸を撫で下ろした。
「でも、いったい何が……」
「ここで簡単に説明できることではないんだ。家に帰ってから話すよ」
 サイファは穏やかに、しかし、どこか寂しげに微笑んだ。
 アンジェリカはうつむいて唇を噛みしめた。曇り顔でジークに振り向き、ベッドの横に跪く。
「ごめんなさい、ジーク。本当に……なんて言ったらいいか……」
 祈るように両手を組み合わせ、泣きそうにジークを見つめた。理由があったとはいえ、自分の父親が彼を殺そうとしたのである。簡単に許されることではないはずだ。詳しい事情はまだわからないが、それでもとりあえず謝らなければと思った。
 ジークは柔らかく微笑んだ。
「なんて顔してんだよ。たいしたことねぇって。だいたいなんでおまえが謝るんだよ」
「私のせいだし、お父さんがやったことだし」
 アンジェリカは沈んだ声で訥々と言う。
「おまえのせいじゃねぇよ。俺が勝手にやったことだ」
「でも、私のためなんだもの!」
「俺自身のためだ」
 ジークは毅然と言い放つと、ふっと口元を緩めた。そして、優しい目で彼女を見つめる。
「良かった、もういちどおまえに会えて」
「ジーク……」
 アンジェリカは何ともいえない複雑な表情で目を伏せた。
 サイファは後ろから彼女の両肩に手をのせた。
「アンジェリカ、今日はこのくらいに」
「……お母さんのところへ行ってもいい?」
 アンジェリカは下を向いたままで尋ねた。
「眠っているから起こさないようにね」
 サイファは優しい口調で答えた。ラウルからはそっとしておけと言われたが、眠っている間であれば問題ないだろうと考えた。いくらなんでも会うなというのは酷だろう。
 アンジェリカはこくりと頷いた。そして、ジークに目を向けると、ぎこちなく笑いかけた。
「ジーク、あしたまた来るわ」
「ああ」
 ジークは笑って手を上げようとしたが、動かせる状態ではなかった。腕が固定されていることを忘れていた。もどかしさに苛立ちが募る。
「ジーク、じゃあね」
 リックも声を掛けた。アンジェリカの背後で、温厚な微笑みを浮かべながら、軽く右手を上げた。
「ん? あ、ああ」
 ジークはしどろもどろの返事をした。彼の存在をすっかり忘れていた。このとき初めてしゃべったのではないだろうか。自分やサイファ、アンジェリカに遠慮していたのだろう。少し、申しわけないような気持ちになった。

 アンジェリカとリックは連れ立って部屋を出て行った。すぐに、扉を開く音が聞こえる。隣のレイチェルの部屋へ入っていったようだ。しばらくして、再び扉が開閉された。長い時間ではなかった。ふたつの足音は、空虚な音を響かせながら遠ざかっていく。

「君の怪我は、表向きは魔導使用中の事故ということになっている」
 サイファは唐突に切り出した。アンジェリカたちが離れるのを待っていたのだろう。
「そうみたいですね」
 ジークは素っ気なく返事をした。それは、アンジェリカが「事故」と口にしたときに悟ったことだった。サイファならそのくらいのことはやるだろう。驚くことではない。だが、やはりどこかで残念に思っている自分がいた。
「私を告訴するか? 君にはその権利がある」
「告訴しても、揉み消しますよね」
「さあ、どうかな」
 サイファは口元に笑みを浮かべた。
 ジークには彼の考えていることが読めなかった。本当に揉み消すつもりなのだろうか。だとしたら、なぜこんな話をするのだろうか。その笑みの意味は何なのだろうか。
 ――考えても仕方ない。
 小さく息をつき、目を細めて天井を見つめる。
「事故でいいです。別にサイファさんのことを恨んでません。ああするしかなかったんです。それに、これ以上、アンジェリカを苦しませるようなことをしたくないですし」
 あきらめたような拗ねたような口調。だが、言った内容は本心だった。
 サイファは少し寂しげに微笑んだ。
「アンジェリカにはすべてを話すよ」
「俺にも話してください」
 ジークはじっとサイファを見つめた。強い、真剣なまなざしだった。
「そうだね、君はどこまで知っていたかな」
「サイファさんはルーファスに脅されていたんですよね」
「ああ、レイチェルを無事に返してほしければ、君を始末しろと。だが……」
 サイファはわずかに眉を寄せた。
「彼らはどちらにしてもレイチェルを殺すつもりだったそうだ」
「えっ?」
 ジークは目を丸くした。
「レイチェルの処刑は決定事項だったんだ。私も欺かれていたということだ」
 サイファは淡々とそう言うと、疲れたように小さくため息をついた。
「君の言うとおりにすべきだったな。ふたりで救出に向かえば良かったんだ」
「サイファさん……」
 冷静な声音の中に、彼のやるせなさを感じ取り、ジークは胸が締めつけられた。
 サイファはすぐに元の引き締まった表情に戻った。
「彼女の父親も長老会のメンバーのひとりでね。娘を助け出そうと、魔導増幅器の試作品を、密かに彼女に渡したらしい」
「魔導増幅器?」
 初めて聞く名称だった。ジークは思わず訊き返す。
 サイファはポケットから首飾りを取り出した。長めの鎖に、オレンジ色の結晶がついている。それを、ジークの眼前に掲げた。
「君がアルバイトをしていたあの研究所で作っていたものだ。試作品でまだ完成はしていない。だが、アルフォンスなら容易に手に入れられただろう。以前、あそこで所長を務めたことがあったからね」
 ジークは研究所の立入禁止区域のことを思い出していた。一度だけ、サイファに連れられて見学したことがある。レベルS区域で見たものは、巨大な円筒に入ったオレンジ色の液体――エネルギー増幅素子だった。それの結晶化を研究をしているとも聞いた。おそらくその技術を使ったものなのだろう。
 サイファは固い表情で話を続けた。
「彼女はそれを使って結界を破ろうとした。だが、この増幅器に誘発され、彼女の力が暴発してしまったんだ。あたりの家々は消し飛び、死者3名、重傷者8名、軽傷者21名の惨事となった。ルーファスと彼女の父親も亡くなった」
「…………」
 ジークは愕然とした。何も言葉にならなかった。
 サイファは首飾りを軽く投げ上げ、薙ぐように掴んだ。
「不幸中の幸いというか、この魔導増幅器が不出来でね。ある一定以上の力が流入した場合、増幅機構が上手く働かず、むしろ減衰してしまうようだ。だから、これだけの被害ですんだといえる」
「え……? 減衰、してたんですか? それで…?」
 ジークは声を詰まらせながら尋ねた。
 サイファは手の中のものをポケットに戻しながら、小さく笑った。
「レイチェルの魔導の潜在能力は、私などまるで及ばない。ただ、彼女は魔導が好きではなくてね。あまり訓練をしてこなかったんだよ。そのため、力のコントロールもままならない。普段は無意識のうちに力を封印していたようだが、魔導増幅器の作用で無理やり引き出されてしまったのだな」
 そこまで言うと、ポケットから手を出し、再びジークに視線を戻した。
「ルーファスは暴発が起こる寸前に気づき、結界を張ったが、彼女の父親がそれを解除したそうだ。ルーファスが生きている限り、娘の未来はないと思ったのだろう。レイチェルを助けるために、自分の命を犠牲にして、ルーファスを道連れにしたんだ」
 ジークは息をすることも忘れ、聞き入っていた。
「ラウルは爆発に気づいて駆けつけた。そこに倒れていたレイチェルから私のことを聞き、道場に止めに来たというわけだ」
 サイファは一気に言い切った。一呼吸おいてから、静かに付け加える。
「これで、すべてだ」
 だが、ジークの方は終わっていなかった。サイファの青い瞳を挑戦的に見つめる。
「……まだ、ありますよね」
「何かな?」
 サイファは前屈みになり、ジークを覗き込みながら尋ねた。
 ジークは顔の近さにどぎまぎした。一瞬、言おうとしていたことを忘れそうになった。
「えっと……」
 そう言いながら、思考を手繰り寄せる。
「道場で、長老のひとりが言ってたことは、本当なんですか? ラウルが、あの……」
 そこから後が続かなかった。尋ねる決意は固めたつもりだったが、実際に口にするには躊躇いがあった。言いよどんだまま、唇を噛みしめる。
 だが、サイファにはそれだけで十分に通じた。大きく目を見開いてジークを見たのち、小さく息をついた。
「聞いていたのか。てっきり気を失っているものとばかり思っていたよ」
「じゃあ……」
 ジークの鼓動が早くなった。
「本当だよ」
 サイファはさらりと言った。
 ジークは泣きそうに顔を歪ませた。サイファを直視できず、わずかに視線をそらす。
「アンジェリカは、知ってるんですか」
 震える声で質問をする。
「いや、知らなくていいことだ。君も黙っていてほしい」
 サイファの答えは当然といえるかもしれない。ジークは微かにこくりと頷いた。彼が秘密にしたがる心情は痛いくらいに理解できる。そして、彼女自身のためにも、それが最善なのかもしれない。
「サイファさんは、いつから知ってたんですか」
「最初から。あの子が生まれる前からだね」
 端整な表情を崩さず、冷静に答える。
「それで、どうして……」
 ジークはそこまで言いかけて、はっと口をつぐんだ。投げかけようとした質問の残酷さに気がついたのだ。気まずそうに目を泳がせる。
 だが、サイファは逃げることなく真摯に答えた。
「ただ、幸せになる選択をしただけだよ。それが最良で最善の選択だと確信したんだ。間違っていたと思ったことは一度もない」
「……つらいと思ったことは、ないんですか」
「ない、といえば嘘になるかな。でも、それ以上に幸せだったよ」
 サイファはそう言って、にっこりと笑った。
 ジークは何かをこらえるように頬を震わせていたが、彼の笑顔を目にすると、突然、ぼろぼろと涙をこぼした。
 サイファはぎょっとした。
「どうして君が泣くかな」
 困ったように笑って肩をすくめた。
 ジークは自分でも理由がよくわからなかった。だが、どうしても止められなかった。体の不自由なこの状態では、顔を隠すこともできない。止めどなく溢れる涙は、頬を濡らし、耳を濡らし、髪を濡らし、枕をも濡らしていく。
「まいったな」
 苦笑いしながら自らの額に手をやったサイファには、その言葉どおり、困惑がありありと見てとれた。
 ジークは気恥ずかしさと申しわけなさを感じながらも、ただ、しゃくりあげながら泣き続けるだけだった。
「涙も拭えない状態で泣くものじゃないよ」
 サイファはハンカチを取り出し、彼の目尻にあてがった。そっと優しく涙を拭う。薄いハンカチ越しに伝わる温度は、とてもあたたかかった。少しだけ、一緒に泣きたいような気持ちになった。