遠くの光に踵を上げて

86. 大切な人のために

「ここは……」
 薄く開いた目に映る、見知らぬ天井。
 レイチェルは、真上の小さな灯りに眩しさを感じ、目を細めて左手をかざした。そのとき、薬指の指輪がなくなっていることに気がついた。右手をつき、ゆっくりと体を起こして立ち上がる。体も頭も、異様に重い。それでも状況を把握しようと、ぼんやりあたりを見まわした。
 部屋はそう広くない。天井も低い。おまけに窓もなく、陰鬱な雰囲気である。天井、壁、床は、コンクリートで塗り固められているだけのようだ。空気にはわずかな湿り気と、土の匂いを感じる。地下に違いない。普通に人が住まう部屋ではないだろう。物置と考えるのが自然だが、物は何も置かれていなかった。強いていえば、自分の下に敷かれている毛布くらいである。
 ふと、部屋の隅に石段があることに気がついた。それを上りきったところに、出入り口らしき扉が見える。
 だけど――。
 レイチェルは壁に手をあてた。強力な結界が、部屋全体を囲むように張られている。この結界を破らない限り、外に出ることは出来ない。
 一歩、二歩と後ろに下がり、壁から離れると、呪文を唱え始めた。向かい合わせた手の間に、白い光が満ち、たちまち溢れそうになった。慌てて指先に力を込めて押し止める。それが安定したところで、勢いよく両手を突き出すと、壁に向けて一気に放った。速度はあった。だが、衝突する手前で静かに消滅した。まるで吸収されたかのようだった。
 私の力では無理ね――。
 結界を強引に破るには、そこに込められた魔導力を遥かに上回る力をぶつけなくてはならない。先ほどのものがまるで及ばないことは、自分でもよくわかっていた。結界を解除する呪文も得意ではない。簡単なものなら可能だが、このような複雑で強力なものを解除する知識など、持ち合わせていない。
 魔導の勉強、真面目にしておくんだったわ――。
 彼女はため息をついて座り込んだ。だが、今さら後悔しても手遅れである。成り行きに任せるしかない。壁にもたれかかり、目を閉じて深呼吸をした。
 ギギギギ……。
 突然、嫌な軋み音が部屋に反響した。
 レイチェルは目を開き、音のする方へ視線を向けた。その音を発していたのは、石段の上の錆びた扉だった。誰かが外から押し開けているようだ。ゆっくりと扉が動く。そこから伸びた光の帯が、流れるように石段を駆け下りた。

 ジークは結界を張った。サイファが放った大きな光球を防ぐ。だが、その反動で後方に弾き飛ばされた。背中から壁に叩きつけられ、げほっと咳き込む。
「サ……サイファさん! どうして!!」
 痛みに顔をしかめながら、必死に問いかけた。
 サイファは腕を下ろした。
「レイチェルが人質に取られている」
「えっ?」
 ジークは目を見開いた。
「君を殺さなければ、レイチェルが殺されてしまうんだ」
 サイファが語った答えは明快だった。しかし、その内容は重かった。ジークは頭の中が真っ白になり、何も言葉に出来なかった。
「アンジェリカに危害を加えられることはない、その確信が油断に繋がったのだろうな。レイチェルのことまで考えが及ばなかった。私の最大の弱点であることは明白にも拘らずだ。私の落ち度だよ」
 サイファはまるで他人事のように、落ち着いた口調で話した。
「だ、だったら助けに行きましょう! 俺も行きます!」
 ジークはこぶしを握りしめ、一歩前に踏み出した。
 しかし、サイファの反応は冷ややかだった。
「五人もの手練の術士を相手に、そんなことが可能だと思っているのか」
「やってみなければわかりません!!」
「そうだな、救出できる可能性もある。だが、私にそのリスクを冒す理由はない。君を始末する方が確実なんだよ」
 ジークはぞっとして身をすくませた。実に合理的な判断、そして冷酷な決断だった。微塵の迷いも見られない。これ以上、いくら反論を重ねても徒労に終わるだろう。
 サイファはさらに畳み掛けた。
「それに、今回は助け出せたとしても、君がいる限り状況は変わらない。私たちはラグランジェの人間だ。逃れる術はない」
「俺が、いる限り……」
 ジークは噛みしめるようにつぶやきながら、懸命に解決策を探った。
 自分が手を引けば……いや、それはどうしても譲れない。手を引くふりをしてこの場を収め、アンジェリカを連れ出してどこかへ逃げれば……どこか? どこへ? どこへ行ってもラグランジェ家を相手に、逃げ切れるとは思えない。
 そもそも、手を引くと言ったところで、収まるものでもない気がしてきた。きっと自分は知りすぎてしまった。手を引いたとしても、彼らにとって危険因子であることに変わりはない。だからこそ、有無を言わさず始末しようとしているのだろう。いったいどうすれば……。
「君を巻き込んだのは私だ。申しわけなく思う。だが――」
 サイファの青い瞳が鋭く光を放った。
「私は君を殺す。死にたくなければ、君が私を殺すしかない」
「サイファさん!!」
 ジークは哀願するように名を呼んだ。
 だが、サイファはそれに応えることなく、両手を向かい合わせ、再び呪文を唱え始めた。

「お父さま、おじいさま……」
 レイチェルは驚いて立ち上がった。開いた扉から姿を現したふたりは、彼女の父親アルフォンスと、義理の祖父にあたるルーファスである。ルーファスとはほとんど交流はなく、面と向かって話したことは数えるほどしかない。
 ルーファスは後ろで手を組み、戸口から冷たく彼女を見下ろした。
「レイチェル=エアリ。おまえがなぜここへ連れてこられたか、わかるか?」
「人質ですか? 指輪がありません」
 そう言って、彼女は左手を掲げた。薬指の根元に細い痕が残っている。ここに来る前までは、そこに指輪が嵌められていた。サイファから結婚指輪として贈られたものである。それがなくなっているということは、人質に取った証として持ち去ったのだろう。そして、それを見せる相手は、おそらくサイファ――。
 レイチェルは顎を引き、上目遣いで睨みつけた。
 しかし、ルーファスは気にも掛けなかった。平然としたまま、眉ひとつ動かさずに言う。
「処刑だ」
「えっ?」
 レイチェルは思いがけない言葉にきょとんとした。まるで事態を飲み込めなかった。そんな彼女を見て、ルーファスは丁寧に言い直す。
「おまえを処刑することに決定した。心当たりがないとは言わせんぞ」
 レイチェルは無言で目を伏せた。小さな口はきゅっと固く結ばれている。ルーファスは満足そうに鼻先で笑った。
「その前に人質として使わせてもらったがな。今頃、サイファがジークを始末にかかっているだろう。おまえの処刑はそれが済んだあとに行う」
 レイチェルははっとして顔を上げた。
「アンジェリカは? あの子はどうなるの?」
 胸元で両手を組み合わせ、すがるように尋ねる。
「アンジェリカ=ナールは、我々にとって必要な存在だ。心配せずとも処刑などしない」
 その答えに、彼女はほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、ルーファスは意味ありげに口元を斜めにした。
「あの子はサイファが幸せにするだろう」
「サイファ……?」
「そうだ、サイファがアンジェリカの夫になるのだ」
 レイチェルは大きく目を見開いた。しかし、その意図はすぐに理解できた。本家筋を途絶えさせないため、そして、強い魔導の力を残すため――。
「だから、私が邪魔なのですね」
 そう言って視線を落とし、寂しげな笑みを浮かべた。
「サイファがなかなか首を縦に振らないのは、おまえの存在のせいだ。おまえが死に、ジークが死ねば、あのふたりは大切な存在を失った者どうし、身も心も寄せ合って生きていくしかないだろう」
 ルーファスは筋書きを語った。どこか楽しんでいるふうな声音だった。
「覚悟は決まったか、レイチェル=エアリ」
 狭い地下室に、高圧的な声が反響する。
「怖れを知らぬ裏切り者、そして、我らが救世主の母――最期に望みがあれば、出来うる限り聞き入れよう」
 レイチェルは視線を落とし、じっと考え込んだ。そして、何かを決意したように表情を引き締めると、ゆっくりと顔を上げた。澄んだ蒼い瞳には、強い力が宿っていた。ルーファスを見据え、静かに凛と訴える。
「処刑はお父さまの手で、お願いします」
「検討しておこう」
 ルーファスは感情なく答えた。その隣で、アルフォンスは隠しきれない苦悩を滲ませていた。
「ルーファス」
 思いつめたように名を呼ぶと、真剣な顔を彼に向けた。
「少しの間でいい、レイチェルと話させてほしい、抱きしめさせてほしい」
 堰を切ったように懇願する。しかし、そんな彼に、ルーファスは冷淡な視線を流した。
「処刑のときでもいいだろう」
「抱きしめたその手で殺せというのか」
 アルフォンスは唸るように言った。声が僅かに震えていた。
 ルーファスは横目で彼を見つめた。
「まあ、よかろう。ただし、妙なことは考えるな」
「そこまで愚かではない」
 アルフォンスは無愛想にそう言うと、呪文を唱え、結界の一部を開いた。人ひとりがようやく通れるくらいの大きさだ。彼は身を屈めながらそこをくぐり、しっかりとした足どりで石段を下りた。薄暗い中で待ち構えていたレイチェルを、つらそうに目を細めて見つめる。
「助けてやれなくてすまない」
「お父さまが責任を感じることではありませんわ」
 レイチェルはにっこりと笑った。いつもと変わらない屈託のない笑顔――この状況で、なぜこんなふうに笑えるのか、アルフォンスにはわからなかった。やるせない思いに、目頭が熱くなる。小さな彼女の体を、大きな腕で思いきり抱きしめた。
「お父さ……ま……?」
 レイチェルは目を大きく見開いて、顔を上げようとした。だが、アルフォンスは、そんな彼女の頭を、自分の胸に強く抱え込んだ。彼女は口が塞がれるような格好になり、声を出すことが出来なくなった。
「アルフォンス」
 しばらくして、戸口からルーファスが呼びかけた。もういいだろう、というニュアンスだった。
 アルフォンスは腕を緩め、レイチェルを放した。彼女は大きく息をすると、ゆっくりと顔を上げた。深い蒼色の瞳と、半開きの小さな唇で、何か言いたげに目の前の父親を見つめる。
 アルフォンスは薄く微笑んだ。彼女の髪を撫で、頬にそっと口づける。そして、無言で背を向けると、ルーファスの元へ戻っていった。
「処刑までは、あと数時間ほどだろう。祈りを捧げながら待つがいい」
 ルーファスは非情にそう告げると、結界を張り直し、錆びた扉を閉めた。

 部屋は再び暗くなった。
 足音が遠ざかったのを確認すると、レイチェルは背中に手を伸ばした。ドレスの隙間に挟まれた何かを取り出し、手のひらに載せる。それは、オレンジ色の宝石らしきものだった。長い鎖が通してあり、首飾りになっているようだ。だが、まるで洗練されておらず、アクセサリと呼ぶには程遠い。
 彼女はそれを見つめながら、父親の言葉を反芻していた。
 魔導増幅器だ。おまえは生きろ――。
 先ほど抱きしめられたときに、そう耳打ちされた。それと同時に、この宝石をドレスに差し込まれた。これで魔導の力を増幅し、結界を破って逃げろ――それがアルフォンスの思惑に違いない。しかし、どこへ逃げろというのだろうか。逃げる場所などどこにもない。自分が大人しく処刑されさえすれば、すべてが終わるのではないか。
 でも――。
 レイチェルはその宝石を握りしめた。サイファを止めたい。ジークを殺させてはならない。もし、止めることができるのならば、ここを脱出する価値はある。今ならまだ間に合うかもしれない。
 彼女は心を決めた。そろりと手を開き、魔導増幅器と思われる結晶を見つめた。だが、そのまま困ったように首を傾げた。肝心の使い方がわからなかったのだ。
 増幅器ということは、これに魔導の力を込めればいいのかしら――?
 悩んでいる時間はない。とりあえず実行してみることにした。長い鎖を首に掛け、オレンジ色の結晶を両手で包み込み、そっと目を閉じる。魔導の力を高め、結晶に注ぎ込んでいく。
 彼女のまわりに緩やかな風が起こった。ドレスが大きく波打ち、長い金髪がさらさらと舞い上がる。
「……えっ?!」
 彼女は不意にとまどいの声を上げた。突然、結晶が強く激しい光を放ち始めたのだ。それと同時に、体から急激に力が抜けていくのを感じた。立っていられなくなり、その場に膝をつく。危険を感じ、慌てて結晶から手を放した。だが、もう手遅れだった。その結晶は空中に浮かんだまま、直視できないほどの光をほとばらせていた。そのまわりに風が大きく渦巻き始める。
 レイチェルの意識は次第に遠のいていった。ゆっくりと後ろに倒れていく。そのとき、彼女の瞳には、大きな光の柱が映っていた。

「ラウル!! いるんでしょ!! ラウルっ!!」
 アルティナは医務室で大きな声を張り上げ、奥の部屋へ通じる扉をドンドンと何度も叩いた。
「何だ」
 ラウルは思いきり迷惑そうな顔で扉を開けた。午前の授業を終え、昼食をとりに自室へ戻ってきたところだった。まだ何も口にしていない。
「レイチェル来てない?!」
 アルティナは切迫した声で尋ねた。
「……なぜそんなことを訊く」
「いるの? いないの? どっち?!」
 ラウルの胸ぐらを掴み、必死の形相で詰め寄る。ラウルは動じることなく、冷静に答えた。
「いない。いるはずないだろう」
「そう……」
 アルティナは途端に勢いを失った。力が抜けたように手を下ろす。
 ラウルはため息をつきながら腕を組んだ。
「レイチェルが、どうした」
「いなくなったのよ。子供たちを置いたまま、何も言わずに」
 アルティナはうつむいたまま眉根を寄せ、きゅっと下唇を噛んだ。
「いつの話だ」
「一時間くらい前。私がちょっと部屋を空けている間に消えちゃったのよ」
「急ぎの用でもあったのだろう」
 そう言いつつも、ラウルは少し気になり始めていた。
 アルティナは顔を上げ、怒りを含んだきつい視線を彼に向けた。
「子供たちだけを残していくなんてありえない。用事があるなら、代わりの人を手配していくわ。何人かはすぐ近くに待機してるし、時間なんてかからないもの。それに……」
 そこまで言うと、軽く握った右手を口元に添え、難しい顔でうつむいた。
「どうした」
「衛兵が、何か隠している気がするの。反応がぎこちなかった。問いただしても知らないの一点張りだけど……サイファにも連絡がつかないし……嫌な予感がするのよ」
 ラウルは無表情のまま考え込んだ。確かに妙だ。彼女の言っていることが真実ならば、レイチェルの身に何かが起こったという推測も十分に成り立つ。
「ねぇ、あなたの魔導の力で探せないの?」
 アルティナは顔中に不安を広げて尋ねた。だが、ラウルは呆れたような冷ややかな目を返した。
「魔導は超能力とは違う」
「もうっ! 役立たず!」
「保安に連絡しろ」
「えっ?」
 アルティナは目を大きくして聞き返した。
「おまえの付き人で、なおかつラグランジェ本家の人間なら重要人物だ。捜索のために人を出してもらえるだろう」
 ラウルは淡々と説明をした。
「そうね、そうする」
 アルティナは真剣な顔で頷いた。言われてみれば当たり前のことである。気が動転し、正しい判断力を欠いていたようだ。
「あなたにも経過は知らせるわ。あなたも何かわかったら……」
 その話の途中、ラウルは突然はっとして窓際に駆け出した。乱暴にガラス窓を開けながら、身を乗り出す。どこか遠くを見ているようだ。
 残されたアルティナは呆気にとられていた。
「どうしたの?」
「魔導力が急激に高まっている」
 ラウルは目を離さずに答えた。
「それってどういうこと?」
 彼女は首を傾げ、窓際に駆け寄った。ラウルの隣の窓を開け、同じように身を乗り出すと、彼が見つめている方に視線を向ける。だが、そこにあったのは、いつもと変わらない風景だった。
「ラウル、いったい何を見てるわけ?」
 訝しげに眉をひそめて問いかけた。
 まさに、そのときだった。
 まるで答えを示すかのように、遠くで大きな光の柱がほとばしった。爆音とともに天を突き抜けていく。この建物にも僅かに振動が伝わってきた。ただ、木々や建物に阻まれ、それが起こった場所を目にすることは出来なかった。
「今の……」
 アルティナは何が起こったのか把握できなかった。だが、とんでもない何かが起こったということは察しがついた。説明を求めるようにラウルに振り向く。彼は深くうつむいていた。窓枠に掛けた手は、小刻みに震えている。
「くっ」
 小さく苦悶の声を漏らすと、凄まじい勢いで医務室を飛び出した。
「待って!!」
 アルティナは慌てて彼のあとを追った。

「な……何よこれ……」
 アルティナは息を切らせながら、呆然と立ち尽くした。目の前には信じがたい光景が広がっていた。町の一部が消えていたのだ。正確にいえば、建物が崩壊していた。数軒分の広さが平らになっている。地面には瓦礫が積もり、あたりは埃で煙っていた。周辺を見渡すと、立ち残った家も多くが半壊しているように見受けられる。その光景は、さながら廃墟のようだった。
 ラウルは迷うことなく、その中心部へ向かう。アルティナも瓦礫を踏みしめながら、彼についていった。
「レイチェル!!」
 アルティナは悲鳴に近い声を上げた。
 レイチェルは一段低いところで、仰向けに倒れていた。まわりは瓦礫の山となっていたが、彼女の上には少しの欠片が散らばっているだけだった。ドレスは多少汚れているものの、ほとんど損傷はしていない。首には細い鎖が掛かっていた。その鎖に繋がったオレンジ色の宝石は、首もとの地面に落ちていた。
 ラウルは彼女の隣に膝をつき、首筋に手を当てた。脈があることを確認すると、覗き込みながら静かに声を掛けた。
「レイチェル」
 頬に手を当て、軽く二度叩く。
 彼女は目蓋を震わせながら、うっすらと目を開いた。ラウルの顔を認識すると、何かを伝えようと苦しげに唇を動かした。
「何だ」
 ラウルは自分の長い髪を押さえながら、彼女の小さな口元に耳を近づけた。
「サイファを……止め……て……ジークさんを……殺してしま……う……」
 彼女は喘ぎながら懸命に言葉を紡いだ。そして、何とかそれを伝えきると、再び意識を失った。
「レイチェル!!」
 アルティナは彼女の隣に座り込み、肩に手を掛けて揺すろうとした。だが、ラウルがそれを制した。
「おそらく衰弱しているだけだろうが、念のため動かさない方がいい。医者を呼んで詳しく診てもらえ」
「医者はあなたでしょう?! ふざけないでよ!!」
 アルティナは涙ぐみながら責め立てた。
「私はサイファを止めに行く」
 ラウルはそう言って、レイチェルに掛かっていた首飾りをそっと外した。それをぐっと握りしめながら立ち上がる。
「レイチェルを、頼む」
 感情を抑えた声だったが、怖いくらいの迫力があった。激しい怒りが端々から滲んでいた。
「わかった」
 アルティナは涙を拭いながら、強く頷いた。

 ラウルは道場へ向かい始めた。サイファたちの本気の魔導戦に耐えられる建物は限られている。相手がジークであることを考えると、アカデミー内の道場を使うと考えるのが妥当だ。
 ふと、後方から微かな話し声が聞こえた。ラウルは足を止め、振り返った。
 そこにいたのは三人の男たちだった。足元の何かを囲み、沈痛な面持ちでひそひそと話し合っている。
 あいつらは――。
 ラウルは切りつけるようなまなざしで睨みつけると、大きな足どりで彼らに近づいていった。

 サイファは長い呪文を詠唱していた。突き出された両手に光が満ち溢れていく。彼の姿はそれに飲み込まれるようにして見えなくなった。
 大きい――!
 ジークは目を見張った。大きさだけではなく、その強さも桁外れだった。これほどのものを実際に目にしたのは初めてである。ぞくりと震えがきた。
 しかし、見入っている場合ではない。
 我にかえると、自分も呪文を唱え始めた。振り絞るようにして力を注ぎ、前面に結界を張った。まわりすべてを囲むよりも、この方が強い結界を作ることができる。一面だけに力を集中させるためだ。そうでもしないと防ぎきれない。これでも防ぎきれるか自信はない。
 奥歯を噛みしめながら、睨みつけるように大きな光球を見つめる。そろそろだろうか――。
 タタッ。
 不意に横から軽い音が聞こえ、ジークはびくりとして振り向いた。
「えっ?!」
 彼が目にしたのは、大きく腕を引き、自分に殴りかかろうとしているサイファだった。考える間もなく、反射的に右腕で防いだ。しかし、それは無謀なことだった。サイファのこぶしには魔導の力が込められていた。そのため、通常の何倍もの破壊力がある。魔導的にはほとんど無防備の状態で、まともに受け止められるものではない。ジークの腕からは鈍い音がした。同時に、弾かれるように後ろに倒れ込んだ。
「……ぐっ」
 突き刺さるような腕の痛みに、低いうめき声を上げた。体中から汗が流れ出す。
 サイファは無表情で近づいてきた。
 ジークは背筋に冷たいものが流れるのを感じた。歯を食いしばり、痛みに耐えながら上体を起こす。そして、床に座り込んだまま、自分のまわりに結界を張った。魔導だけでなく、あらゆる物体を遮断する強力なものだ。
 しかし、サイファは難なくそれを解除した。
「互いの魔導力に歴然とした差がない場合は、正面から戦っても消耗戦になるだけだ。いかに早く相手を不意打ちにするか、また、その一撃でどれほど決定的なダメージを与えられるかが重要になる」
 淡々と語りながら近づいてくる彼を、ジークは呆然と見上げた。吹き出す汗は止まらない。白い床にポタポタと落ちる。それは、痛みのためだけではなかった。死を意識した激しい恐怖が、彼の体から平常を奪っていた。
 サイファは再び殴りかかってきた。今度は防がずに避けた。右腕を庇いながら床の上を一回転し、その勢いで立ち上がった。だが、それと同時に脇腹に熱い衝撃を受けた。魔導の白い閃光が直撃したのだ。体が弾き飛ばされ、肩から壁にぶつかった。崩れるように床に倒れ込む。苦悶の表情で体を丸め、喉から絞り出すようなうめき声を上げた。
 それでも、彼はあきらめていなかった。そのままの体勢で、呟くように呪文を唱えた。そして、足元まで歩み寄ったサイファに、左手を突き出し、白い光を放った。
 不意をついたつもりだった。
 だが、サイファには少しの焦りも見られなかった。広げた右手に小さな結界を作り、あっけなく跳ね返した。そして、それはジークの左腕に命中した。
「ぐあっ……」
 ジークはつぶれたような声を上げ、顔を引きつらせた。白い床に赤い血が広がった。だが、出血はそれほど多くない。むしろ、骨が砕けたことの方が問題だった。これで両腕とも使えなくなったのである。
 サイファは攻撃の手を緩めなかった。短く呪文を唱えると、彼の左右の大腿部に向け、二度、連続して放った。小さなものだったが、彼の自由を奪うには十分だった。
 ジークは仰向けのまま、ぐったりとしていた。何とか意識は保っていたが、もはや逃げることも不可能な状態だった。起き上がることすらできない。
 サイファはジークの隣に跪いた。無表情で呪文を紡ぐ。白い光が手から溢れ、光の剣へと姿を変えた。両手で柄の部分を握ると、先端を下に向け、ジークの胸の上方でまっすぐに構えた。
 朦朧としたジークの瞳に、剣の切っ先とサイファが映っている。
「こんなことになってしまって残念だ」
 サイファは端整な顔で、ジークを見つめながら言った。少し目を細めると、続けて、静かに言葉を落とす。
「君のことは、本当に好きだったよ」
 ジークは無反応だった。彼の耳に届いているかどうかもわからなかった。かろうじて目は開いているが、意識が混濁しているように見えた。
 サイファは光の剣をわずかに引き上げた。
 すまない――。
 心の中で詫びると、奥歯を噛みしめ、一気にジークの胸に突き降ろした――はずだった。が、彼の手からは剣がなくなっていた。勢いのついた手だけが、虚しく空を切った。
 サイファは眉をひそめた。光の剣が突然、掻き消えた。それと同時に空気が変わった。魔導自体が使えなくなっているようだ。こんなことが出来るのは――。おもむろに立ち上がり、入口に目を向け、腕を組んだ。
 ギィ――。
 扉が開いた。そこから姿を現したのはラウルだった。サイファは青く冷たい瞳で睨みつけた。
「事情を知れば、おまえも私の行動を支持するはずだ」
「すべては終わった」
 ラウルはきっぱりと言った。そして、扉の外から男を引きずり込んだ。胸ぐらを掴み、乱暴に道場の中へ放り込む。それに続いて、二人の男性がおずおずと中へ入ってきた。怯えたようにラウルの顔色を窺っている。
 サイファはこの三人の男たちをよく知っていた。ラグランジェ家の者である。そして、おそらく長老会の五人のメンバーのうちの三人だ。
「あと二人いるはずだ」
「死んだ」
 ラウルは素っ気なく答えた。
 サイファは小さく息を呑んだ。
「おまえがやったのか?」
 ラウルはポケットからオレンジ色の宝石がついた首飾りを取り出し、サイファに放り投げた。サイファは片手でそれを受け取ると、手のひらの上で一瞥した。
「魔導増幅器の試作品だな。なぜおまえが持っている」
「持っていたのはレイチェルだ」
「なにっ?」
 サイファは眉をひそめた。深刻な表情でうつむく。
「まさか、それでは……」
 何かを言いかけたが、はっとして言葉を切り、勢いよくラウルに詰め寄った。
「レイチェルは無事なのか?!」
「魔導を吸い上げられ、かなり衰弱していたが、命に別状はなさそうだ」
 ラウルは簡潔に答えた。
 サイファは安堵の息をついた。だが、すぐに厳しい表情に戻った。長老たちを鋭く睨みつけ、無造作に掴んだ首飾りを前に突き出す。
「なぜこんなものをレイチェルに渡した」
「知らん! 私たちではない!」
 いちばん前の男が、険しい顔で言い返す。しかし、後ろの男は、難しい顔でうつむいていた。
「アルフォンス、かもしれんな」
 ぽつりと落とされたその言葉に、三人の男たちは一様に顔を曇らせた。
「自業自得だな」
 ラウルは吐き捨てるように言った。
 長老のひとりは逆上して振り向いた。ラウルをキッと睨みつけ、激しい非難を浴びせる。
「何が自業自得だ! すべてはおまえのせいではないか!! おまえが――――」

 なっ……そん……な……。

 仰向けで倒れたまま放置されていたジークは、薄れゆく意識の中で、彼らの会話を耳にした。その内容はとても信じがたく、受け入れられるものではなかった。

 嘘だ。
 何かの間違いだ。
 そんなこと、ありえない……。

 大声で叫びたい衝動に駆られたが、彼の体は微動さえ叶わなかった。目を開くことも出来ない。せめてもの抵抗なのか、頭の中で懸命に否定を繰り返す。そのまま、意識は暗い闇に沈んでいった。