遠くの光に踵を上げて

40. 不条理な交渉

「来たよ!」
 リックは目を凝らして遠くを見ながら声をあげた。そして、アカデミーの門柱に寄りかかっているジークの肩を、急かすように軽く二度たたいた。ジークは腕組みをしながら暗い顔でうつむいていたが、彼に促されると、顔を上げその視線を追った。朝靄の中に小さな影がふたつ、だんだんと近づいてくる。ひとつはアンジェリカ、そしてもうひとつは……。

「あら、おはよう、ジーク」
 恐い顔で仁王立ちしているジークを見上げて、アンジェリカは少しとぼけたようにあいさつをした。
「なんでコイツと一緒なんだ。まさかきのうおまえが泊まったのって、コイツのところじゃねぇだろうな」
 ジークはアンジェリカと並んで歩いていたレオナルドを指さしながら彼女に詰め寄った。レオナルドは眉をひそめて、鼻先に突きつけられた指を払いのけた。ジークはあからさまにむっとして、レオナルドを睨みつけた。
「そうよ。いいでしょう、別に」
 アンジェリカはつんとしてそう答えた。しかし、それと同時にふと疑問を感じた。ジークの口ぶりは、まるで自分が家出をしたことを知っているかのようだった。父親に聞かされたのかもしれない。だが、それならなぜレオナルドのところにいたことは知らなかったのだろう。
「良くねぇよ!」
 ジークの大きな声がアンジェリカの思考を現実に引き戻した。
「なんでよりによってコイツなんだよ! ラウルならまだわかる……いや、アイツも良くねぇが……」
 出だしの勢いはどこへいったのか、次第に歯切れ悪く口ごもっていった。アンジェリカは呆れ顔で彼を眺めていた。
 レオナルドは何かを思いつき、小さくニヤリと笑った。
「こんなやつらは放っておいて早く行こうか、アンジェリカ」
 優しさを装ってそう言いながら、アンジェリカの肩を強く引き寄せた。彼女は不意をくらい、よろけてレオナルドの胸に寄りかかる格好になった。
 ジークは目を大きく見開き、息をのんだ。言葉は出てこなかった。リックも隣で目をぱちくりさせていた。
「ふざけないで」
 アンジェリカは体勢を立て直すと、レオナルドの手を冷たく払いのけた。
 彼の小さな悪だくみはあっさりと崩れ去った。ジークに反発している今の彼女なら乗ってくるかもしれないと思ったが、にべもなく拒絶された。ジークへ精神的なダメージを与えたかったのだが、逆に自分の方が軽くダメージを受けてしまった。
 少し寂しそうな彼を残し、アンジェリカは早足で歩き出した。無表情でジークとリックの間を突っ切っていく。ふたりは慌てて彼女を追った。レオナルドもその後ろからついていった。
「きのうのこと、怒ってるんだろ」
 ジークは神妙な面持ちで、後ろから静かに声を掛けた。「きのうのこと」とは、図書室でアンジェリカを残しユールベルに会いに行ったことだ。そのときに彼女はいなくなった。だから、それが原因としか考えられなかった。わずかに見える彼女の横顔をちらりと窺う。その表情から感情は読み取れなかった。
「怒っているわけじゃないわ」
 アンジェリカは前を向いたまま答えた。小さいがはっきりとした声だった。それでもジークはその言葉を素直に受け取っていいものか迷っていた。
 彼女は淡々と話を続けた。
「ただ少しショックだっただけ。ジークのことだけじゃなくて……いろいろあったのよ」
 ジークは強く締めつけられる思いがした。
「裏切ったわけじゃない。わけを話す」
 耐えきれなくなった彼は、思わず弁解めいたことを口にした。
「いいわもう。だいたいわかったから」
「わかったって……」
 そこまで言って、ジークははっとした。眉をひそめ、嫌な顔で後ろを振り返る。
「まさかおまえが言ったのか、あのときのこと……」
 押し殺した声でそう言い、レオナルドを苦々しげに睨みつけた。ユールベルにハンカチを返しに行ったとき、レオナルドは一部始終を見ていた。そして、そのことをアンジェリカに言いかねない様子だった。自分を嫌っている彼のことだ。あることないことを吹き込み、アンジェリカと自分を引き離そうとしても不思議ではない。
「あのときのことって? レオナルドが何か知ってるの?」
 アンジェリカは足を止め振り向いた。ふたりを眺めながら、きょとんとして尋ねた。
「え?」
 今度はジークがきょとんとした。
「くっ……はっはははは! 自爆とは愚かな奴だ」
 レオナルドは空に向かい、はじけたように高笑いをした。
 彼の言うとおり自爆だった。レオナルドは何も言ってはいなかったようだ。ジークはやり場のない悔しさを抱え、歯をくいしばり耳を赤くした。目の前の嫌味な男を、ただ恨めしく睨むことしかできない。
「なんだ、逆恨みか?」
 レオナルドはせせら笑いながらジークを挑発した。斜めにあごを上げ、ニヤニヤした目を流す。ジークはこぶしをぐっと握りしめ、煮えたぎる気持ちを抑え込んだ。
「話してくれなくてもいいわよ」
 アンジェリカは無表情で言った。
「え?」
 ジークは驚いて振り返った。さっきからどうもアンジェリカの様子がおかしい。まるで自分にまったく興味がないかのようだ。もしかしたら、もう愛想をつかされてしまったのだろうか。ほんの一瞬のうちにそんな考えが頭を駆け巡った。
 アンジェリカはジークから目をそらせた。
「だいたい見当がつくもの」
 ため息まじりにそう言うと、腕を組んだ。
「どうせユールベルに振り回されたって話なんでしょう?」
 ジークは彼女がそう考えていることに驚いた。口調からして、怒りの矛先は自分ではなくユールベルに向いているようだ。何か知っているのだろうか。それともユールベルとの間に何かあったのだろうか。
「……いや、そうじゃなくてな」
 なんと説明しようか迷いつつ、口を切った。振り回されたといえばそうだが、それだけではない。だが、下手にユールベルを弁護するようなことを言っては、アンジェリカの機嫌を損ねてしまうだろう。
 アンジェリカは視線を戻し、大きな瞳を彼に向けた。何かを秘めたような真剣な表情。彼はごくりと息を呑み、言葉を失った。
「ジークのことは信じてる。それでいいじゃない」
 アンジェリカは真顔でそう言ったあと微かに笑った。そして、ジークに背中を向け、アカデミーへと駆けていった。

 夕方になり、終業を告げるベルが鳴った。
 アンジェリカは帰り支度をすると、ジークの席へと小走りで向かった。しかし、彼はだらしなく大口を開けてあくびをすると、机の上に腕を投げ出し突っ伏した。
「ずいぶん眠そうね」
 アンジェリカはこんなジークを見るのは初めてだった。彼は机の上で、再び大あくびをした。
「さっきの授業、ずっと寝てたよね。ラウルに気づかれてたよ」
 リックは彼を見下ろして笑いかけた。ジークもつられて表情を緩めた。
「まあ、あいつも今日くらいは大目に見てくれるだろ」
「今日くらいって?」
 アンジェリカはきょとんとして尋ねた。
「あ……」
 今日のジークは口を滑らせてばかりだった。リックは肩をすくめ苦笑いした。
「実は、きのう、アンジェリカがいなくなったことで大騒ぎだったんだよ。ラウルもあまり寝てないんじゃないかな。クラスメイト全部に連絡してるはずだし。ジークも責任を感じてずっと……」
「リック!」
 ジークの強い制止により、リックはそこで言葉を止めた。大まかな説明は仕方ないにしても、彼女の負担になるだけの余計な話はしてほしくない――ジークはそう思った。しかし、アンジェリカはそれだけ聞けば十分だった。
「……ごめんなさい」
 下を向き小さな声でぼそりと謝った。急にまわりからの視線が気になり始めた。落ち着かない。今すぐこの教室を出たい、そんな衝動に駆られた。
 しかし、ふたりはそのことに気がつかなかった。彼女が真摯に謝っているのだとしか思っていなかった。リックはにっこり笑いかけた。ジークも机に伏せたまま顔だけ横に向け、ほんの少し笑ってみせた。アンジェリカはとまどいながらぎこちない笑顔を作って返した。

「でもよりによってレオナルドのところだったとは思わなかったよ」
 リックは意外だということを強調するように、大げさな抑揚をつけて言った。
「ああ、でもおかしいとは思ったぜ。サイファさん、教えてくれなかったからな。アンジェリカを見つけた場所」
 ジークは体を起こし、帰り支度を始めた。教本を無造作に鞄に放り込む。
「そりゃ、言えないよね」
 そう言ってリックはくすくす笑った。ジークは何がそんなにおかしいのかと思いながらも、つられてなんとなく笑った。
 アンジェリカはその会話を聞いて、ようやく今朝の謎が解けた。家出をしたことは知っていたのに、レオナルドのところにいたことは知らなかった――。それはこういうことだったのだ。ただ、なぜサイファが黙っていたのかということまでは、彼女には理解できなかった。

「今日はちゃんと帰るんだろ」
 ジークはアンジェリカに振り向いて尋ねた。
「ええ、そのつもりよ」
 アンジェリカは鞄を後ろ手に持ちかえた。一晩の家出だけでだいぶ気は済んだ。これ以上、両親やジークたちに心配や迷惑をかけるわけにもいかない。それに、逃げたところで何も解決などしない。冷静になってそのことがよくわかった。
「送っていく」
 ジークは立ち上がり、鞄を肩に引っ掛けた。
「え? いいわよ別に。眠いんでしょう?」
 アンジェリカは少しあせったように、早口でそう言った。しかし、ジークは彼女に顔を向けると、にっと白い歯を見せた。
「またいなくなられたら、それこそ眠れねぇからな」
 アンジェリカには返す言葉がなかった。観念したようにため息をつくと、暗い声でぼそぼそと言った。
「帰る前に、寄るところがあるんだけど……」
「どこだ? 一緒に行くぜ」
 アンジェリカは上目遣いでじっとジークを見つめた。
「……ユールベルのところ」
「え?」
 ジークの笑顔が凍りついた。

「ジーク、本当についてくるわけ? ジークがいると話がしづらいんだけど……」
 アンジェリカは眉をひそめて困ったような顔を見せた。
「ひとりで行かせるわけにはいかねぇよ」
 ジークは前を向いたまま冷静にそう言った。だが、内心は穏やかではなかった。アンジェリカはともかく、ユールベルはどういう言動をとるのか読めないだけに怖い。アンジェリカの前で、また抱きつかれでもしたら、自分はどういう態度をとればいいのだろうか。考えると頭が痛くなった。
 リックも一緒なのが唯一の救いだった。いてくれるだけでありがたい。ユールベルとアンジェリカの間にひとりなど、とてもいたたまれない。ジークはすがるような気持ちで彼を見た。リックがその視線に気がつき振り向くと、ジークは慌てて目をそらせた。

 一年生の教室に着いた。授業が終わってから時間が経っているせいか、残っている生徒はもう半分以下になっていた。
 三人は戸口から覗き込んでユールベルを探した。しかし、姿は見当たらない。
「なんだ?」
 教室に残っていたレオナルドが、立ち上がって声を掛けた。
「あなたに用なんてないわよ。私が探しているのはユールベル」
 アンジェリカは目もあわさず冷たくあしらった。レオナルドはむっとして、恨めしそうな視線をジークとリックに向けた。ジークも負けじと睨み返した。
「彼女なら帰ったはずだ」
 レオナルド再び席につくと、ぶっきらぼうに言った。
 ジークは拍子抜けした。もっと嫌味を言ったり、突っかかったりしてくるかと思った。それどころか、頼んでもいないのに、彼女のことを親切に教えてくれた。素直にそれを信じていいものか疑問に思ったが、どちらにしろジークにとって嬉しい情報だった。ユールベルが帰ったと聞けば、アンジェリカもあきらめるだろう。ほっとして安堵の息をもらした。
 アンジェリカは踵を返し、玄関へと向かった。
「帰るんだな?」
 ジークの声は弾んでいた。
「居場所の見当はついているわ」
 アンジェリカはまっすぐ前を見据えて言った。そして、さらに足を速め、迷いなく進んでいった。

 三人はアカデミーの外れにある小さな礼拝堂へやってきた。ジークもリックも、ここへはほとんど来たことがない。ふたりはさびれた建物を眺めまわした。
「こんなところにいるのか? そもそもなんでそう思うんだ?」
 アンジェリカはジークの問いに答えず、無言で扉を押し開けた。
「ユールベル、いるんでしょう」
 アンジェリカの声が小さな礼拝堂の中に反響した。しかし返事はなかった。それきり静まり返った。
「いないんじゃないの?」
 リックが後ろから覗き込んで、あたりを見渡した。
「もう帰ろうぜ」
 ジークはいらついた様子で急かした。
 ――コトン。
 どこかで小さな音がした。アンジェリカに緊張が走った。
 ――ギギ……。
 いちばん後ろの長椅子から、金の髪がむくりと現れた。そして、合間からのぞく白い包帯。ユールベルだ。彼女は顔を上げ、三人を虚ろに見つめた。
「ジーク、来てくれたのね」
 ユールベルはぼうっとした調子でそう言うと、長椅子の上に立ち上がった。さらに背もたれに素足を掛けてのぼり、まっすぐに背筋を伸ばしたままつま先立ちをした。薄地の白いワンピースとウェーブを描いた金色の髪が、風を受け、緩やかに舞う。そして左から差し込むステンドグラスの光は、彼女を色とりどりに輝かせた。風が吹くたびに形を変え、きらめきを放っている。
 ――天……使……。
 そんな言葉がふとジークの脳裏をよぎった。彼はだらしなく口を開けて彼女を見上げている。リックも惚けた顔で、彼女を瞳に映している。アンジェリカだけが固唾を飲んで、ユールベルの次の行動にそなえ身構えた。
 ユールベルは目を細めてジークを見下ろすと、わずかに表情を緩めた。そして、顔を天に向け瞳を閉じると、体を伸ばしたまま、前に倒れていった。
 ジークは吸い込まれるようにそれを見ていた。しかし、彼女の足が背もたれから離れたのを目にすると、はっと我にかえった。
「危ねぇ!」
 ジークは彼女の落下地点に滑り込み、ぎりぎりで彼女を受け止めた。冷たい床の上でふたりは重なった。
「げほっ」
 ジークは苦しそうにむせた。
「ジーク!」
 アンジェリカとリックが同時に叫び、駆け寄った。
「な……なんでもねぇ。ちょっと打っただけだ」
 ジークはまだ苦しそうに顔をしかめ、つぶれた声で言った。
 ユールベルは彼の胸の上で肩を震わせくすくすと小さく笑っていた。そして、かぼそい指を彼の頬に這わせ、小さな声でささやいた。
「あなたなら、助けてくれると思った」
 喉元にかかる熱い息、鼻をくすぐる甘い匂い。平静を装ってはいたが、耳元が紅潮していくのは止められなかった。
「ユールベル、あなたどういうつもり?!」
 アンジェリカは耐えかねて叫んだ。しかし、ユールベルは答えなかった。
 ジークはユールベルを抱きかかえながら体を起こして座った。そして、小さく息をつくと、脚の上の彼女をそこから下ろそうとした。しかし、彼女はジークの背中に手をまわし、離してはくれなかった。彼はそれを振り切るほど非情にはなれなかった。
「あ……あのな……」
 そんな困りきった弱々しい声をもらすのが精一杯だった。
「あなたに用があってここに来たのは私よ」
 アンジェリカは今度は冷静に言った。腕を組み、ユールベルを冷たく見下ろした。
 ユールベルはジークの肩ごしにアンジェリカを見上げて、うっすらと不敵に笑った。アンジェリカは一気にカッと頭に血が上った。組んだ腕の中で強くこぶしを握りしめ、きゅっと下くちびるを噛んだ。
 ジークは背中に妙な空気を感じ、冷や汗がにじんできた。
「あのな、ユールベル……」
 彼は再びそう切り出した。だが、彼女はまわした手の力をよりいっそう強めた。無言の返事。ジークは言葉を続けられなかった。
「ユールベル、私の話を聞いて」
 アンジェリカは低く抑えた声で言った。しかし、そこからは隠しきれない苛立たしさがにじんでいた。
「聞いているわよ」
 ユールベルはジークに寄りかかったまま返事をした。その声はどこか愉しげで、まるで挑発しているかのようだった。
 アンジェリカは軽く目を閉じため息をついた。それからゆっくりとまぶたを上げ、強いまなざしをユールベルに向けた。
「私と対戦してほしいの、VRMで」
 ユールベルの瞳に鈍い光が宿った。
「た……対戦?!」
「なに言ってんだおまえ!」
 リックとジークは驚いた声をあげながら、アンジェリカに振り向いた。

 VRM(ヴァーチャル・リアリティ・マシン)は仮想空間を作り出し、そこへ現実世界の人間を投影させる機械である。神経信号を読みとり仮想空間に即時に反映させる。また、仮想空間で受けた刺激は、そのまま神経信号として脳に送られる。それにより触覚も痛覚もリアルに感じることができるのだ。以前、アンジェリカとジークが戦ったとき、許容を超える信号によりジークが失神するという事件があった。ヴァーチャルとはいえ危険な代物であることは間違いない。

 ユールベルは動じていなかった。
「目的は何?」
 彼女がそう言うと同時に突風が吹き込み、アンジェリカの髪を後ろからさらさらと舞い上がらせた。そして、スカートのはためく音があたりに広がった。やがて風がやみ、もとの静けさを取り戻すと、アンジェリカはゆっくりと口を開いた。
「私が勝ったら……昔、私たちの間に起こったことを教えて」
 その真剣なまなざしに、ユールベルは意味ありげな笑顔を返した。
「私におじさまとの約束を破れというの?」
「ええ。あなたも相応の望みを出してくれていいわ」
 アンジェリカは負けじと強気な態度を示した。
「そうね……」
 ユールベルはそう言いながら、アンジェリカの反応を愉しむかのようにもったいつけた。
「私は……ジークをもらうわ」
 彼の肩に口を押し当て、上目遣いでアンジェリカを見つめた。明らかにアンジェリカを挑発している。
 しかし、アンジェリカは冷静だった。その挑発にはのらなかった。
「ジークは関係ないでしょう。他のことにして」
 あきれたと言わんばかりに、わざと大きくため息をついて見せた。だが、ユールベルは引かなかった。
「関係あるかどうかなんて知ったことじゃない。ジークがほしい、ただそれだけ。他の条件では受けないわよ。どうするの?」
 アンジェリカはきゅっと口を結び、難しい顔で考え込んだ。そして、ひとつの結論を出した。
「……わかったわ」
「おい! 『わかったわ』って何だよ! 俺の意思はどうなるんだ!!」
 ジークは振り返り、焦って大声でまくしたてた。彼女がそんな条件を受けるとは微塵も思わなかった。驚くと同時にどこか寂しい気持ちになった。
「悪いけどジーク、条件をのんで。絶対に私が勝つから」
 強い意志を秘めた瞳をまっすぐジークに向ける。彼は困ったように目をそらせた。
「随分な自信ね。私のことなんて何も知らないのに」
 ユールベルは冷たい笑顔を浮かべた。しかし、アンジェリカは眉ひとつ動かさなかった。
「あなたがどんな力を持っていようと私が勝つ。それだけよ」
 自らに言い聞かせるようにその言葉を噛みしめると、ユールベルをじっと見下ろした。
「待てよ。俺は取引の道具に使われるなんてゴメンだぜ。俺にはなんのメリットもねぇしな!」
 ジークはやってられないとばかりに、床に手をついて上を向き、投げやり口調で言った。アンジェリカは一瞬きょとんとして、それから緩く頷きながら考え込んだ。
「じゃあこうするわ。私が勝ったら、何でもひとつジークの言うことをきく。それでどう?」
「そんなの不公平よ」
 ユールベルは間髪入れずにアンジェリカのあとに続けた。そして、ジークに顔を近づけた。
「私が勝ったら、私がジークの願いをかなえるわ」
「お、おまえらに頼みたいことなんてなんもねーよ!」
 ジークはユールベルから逃れるように体を後ろにそらせた。
「……お願い、ジーク」
 今までとは違うアンジェリカの弱々しい声。ジークは思わず振り向いた。
「私、どうしても自分の過去を知りたいの。なくした記憶を埋めたいの」
 思いつめた表情、泣きそうな声、哀願する瞳。こんなものを見せられては拒否することなどできない。どうすればいい……。ジークはくちびるを噛みしめた。
「あの、取り込み中、悪いんだけど」
 リックが遠慮がちに口をはさんできた。
「大事なことを忘れてない? VRMでの人間と人間の対戦はもう禁止されてるんだよ」
 リックの言うとおりだった。アンジェリカとジークの一件が原因なのかはわからないが、それからしばらくして通達が出た。VRMの使用は対プログラム(仮想人間)のみに限定するというものだ。
 アンジェリカはそれを忘れていたわけではなかった。
「ラウルに頼めばなんとかなるわ」
 彼女はしれっとして言った。
「ならなかったら?」
「……そのときは、そのときよ」
 何か、彼女には思うところがありそうだった。リックの心に不安が広がった。
「いいわね、そういうことで」
 アンジェリカはユールベルとジークに向き直り、強く念押しした。ユールベルは返事の代わりに挑戦的な笑みを返した。ジークは相変わらず困り顔で返答に迷っていた。
「それじゃ、ユールベル」
 アンジェリカは冷たく無表情にそう言うと、背を向け外へと出ていった。
 リックはジークに目配せした。ジークは我にかえり、脚の上のユールベルを下ろそうとした。それを察知した彼女はまた腕を伸ばしてきたが、今度はそれを阻止した。
「悪いな」
 短くそう言うと、さっと立ち上がり、リックと連れ立って走り去った。
 ユールベルはオレンジ色に照らされたジークの後ろ姿を無言で見送った。

 ザッ、ザッと砂を踏みしめながら、三人は校庭を横切り門へと向かう。空は赤く染まり、三つの長い影を地面に映し出していた。
「本気……なんだよね?」
 リックは横からアンジェリカを覗き込みながら、おそるおそる尋ねた。
「もちろんよ」
 彼女は前を向いたまま、きっぱりと言い放った。
「おっまえなぁ……。どうしてくれるんだよ。意味わかってねぇんだろ。ユールベ……」
「ジークをひとりじめにしたいってことでしょう? まったく子供じみたことを言ってくれるわ」
 アンジェリカはジークの言葉を遮り、やや感情的にまくしたてた。
「……まぁ……そう……だな」
 歯切れ悪く、ジークはあいまいな返事をした。彼女の考えはどこかずれているような気がしたが、それを指摘するだけの確信が、彼の側にもなかった。ユールベルが何を考えているか、それは彼女自身にしかわからないことだ。
「だいたいジークがついてきたから、ややこしいことになったんじゃない」
 アンジェリカはおさまらない怒りの矛先をジークに向けた。
「俺が悪いってのかよ!!」
「私にはこんなにえらそうなのに、どうしてユールベルには強気に出ないのよ」
「そ……そんなことねぇだろ!」
「自覚がないわけ?!」
「関係ねーだろ!!」
 リックは隣であきれたように苦笑いしていた。このくらいの言い合いは日常茶飯事である。そして、こんなことではふたりの絆は壊れないということを、リックはわかっていた。
 ひとしきり言い合いをしたあとで、アンジェリカは思いついたように、小さく「あっ」と声をもらした。
「お父さんやお母さんには言わないでよね」
 ジーク、そしてリックへと、念を押すように視線を送った。
「さあな。サイファさんに問いつめられたらしゃべっちまうぜ、俺は」
 ジークは頭の後ろで手を組んで、空を見上げた。
「僕たちが黙ってても、ラウルが黙ってないと思うよ。頼むんでしょ? VRMのこと」
 リックはアンジェリカの横顔を見つめた。
「もちろんラウルには口止めするわ。何がなんでもね」
 強い決意を秘めた表情。それを見たふたりは、もう彼女を止めることはできない、そう思った。
 ジークの心には不安が渦巻いていた。戦い自体はもちろんだが、それ以上に彼女の望みが心配だった。サイファが過去のことをひた隠しにしているのは、アンジェリカのことを思ってのことだろう。それを彼女が知ってしまうのは、果たして彼女のためになるのだろうか。だからといって彼女の負けを望むわけにはいかない。
「大丈夫よ、ジーク。絶対に勝つから。私を信じて」
 アンジェリカはジークを見上げてにっこり笑った。
「……ああ」
 ジークは複雑な顔でそう返事をすることしかできなかった。