伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい

公爵家の次期当主は最愛の妻をエスコートしたい

 リチャードは支度部屋の扉を開けるなり息を飲んだ。
 そこに盛装したシャーロットがいることはわかっていたはずなのに、それでも圧倒されてしまった。言葉をかけるどころか息をすることさえ忘れたまま、ただただじっと見入ってしまう。
 まるで天から降臨したかのようだ。
 淡いアイスグレーに星々のようなきらめきが鏤められた、ふんわりと豪奢なドレス。その胸元は大きく開き、いとけない彼女もいつもよりすこし艶やかに見える。そしていつもどおりにみずみずしい。
「あの、どこかおかしいですか?」
 不安のにじむ声に、リチャードはようやく我にかえった。
「すまない、想像以上にきれいで思わず見とれてしまった。君の魅力が何も損なわれることなく引き出されている。さすが俺の見立てだ」
「まあ」
 シャーロットが安堵したようにくすくすと笑うと、やわらかそうな胸元も揺れる。それを目にして憂うべき忌々しい現実を思い出した。
「しかし他の男のまえでこんなに肌をさらすのはなぁ」
「みなさんこのくらい見慣れているのではないですか?」
「まあ、それはそうだが……」
 これから二人は宮廷舞踏会に出席する予定だ。
 こういった夜会において、女性は肩や胸元を露出したドレスを着用することになっている。それゆえ何度も出席している男性なら確かに見慣れているだろうが、だからといって邪な気持ちを抱かないとはかぎらない。なにせ彼女はとびきり愛らしくて美しくて輝いているのだから。
「やっぱり行くのはやめよう」
「ええっ?」
 驚くシャーロットを見て、うっすらと笑みを浮かべながらその手をとると、なめらかなシルクのグローブ越しに軽く口づける。
「体調が優れないとか何か理由をつければ許されるさ」
「でも、せっかく支度したんですから……」
「このままうちで二人だけの舞踏会をすればいい」
 もともと王妃に厳命されたから招待を受けただけで、気は乗らなかったのだ。いずれ何かしらの夜会に出なければならないにしても、わざわざ注目度が段違いの宮廷舞踏会に出ることはない。そう思ったが――。
「わたし宮廷舞踏会を楽しみにしていたんです。きらびやかな王宮でリチャードと踊りたいですし、皆さんに見てもらいたいです。わたしたちが仲睦まじいこともわかってもらえるでしょうし……行きません?」
 ペリドットの瞳でじいっと見つめながらそう請われると、頷くしかなかった。我ながらチョロすぎるとは思っているがどうしようもない。
 執事が笑いを噛み殺していることには気付かないふりをした。

 宮廷舞踏会――。
 それは国王が主催する最も格式の高い夜会だ。年に一度、国内の有力貴族を招待して王宮で開催されている。招待を受ければ有力貴族と認められることになるため、名誉と考えるひとが多い。
 だがリチャードにとっては面倒でしかなかった。成人してからは毎年招待されているものの、学校だの仕事だのと理由をつけては欠席している。さすがにすべてというわけにはいかなかったけれど。
 一方、十六歳のシャーロットは実質これが社交デビューとなる。本来ならデビュタントとして純白のドレスで臨むところだが、既婚者ゆえ許されない。せめて雰囲気だけでもということで白系統の色にしたのだ。
 もっとも彼女自身にはあまりこだわりがないようだった。それでもリチャードがそうしたかったし、何より国王夫妻の意向でもある。口添えの結果としてこうなったので責任を感じているのだろう。

「さあ、行こうか」
 馬車を降りると、シャーロットをエスコートしながら王宮へつづく階段を上がる。
 いまのところ彼女に緊張した様子は見られない。淑女を装いつつも、夜会らしい雰囲気を感じてひそかにワクワクしているようだ。リチャードの視線に気付くとニコッとかわいらしい笑みを返した。

 ザワッ――。
 二人が足を踏み入れると、きらびやかな大広間にざわめきが広がっていく。
 同時にあちらこちらから好奇の目が向けられた。けれどそれは想定内のこと。二人とも気にするような素振りはいっさい見せず、ときどき視線を交わして微笑み合いながら優雅に足を進める。
「まずは国王陛下と妃殿下に謁見だ」
「はい」
 案内役の侍従に促されて奥の一段高いところに上がり、豪奢な椅子に並んで腰掛けている国王夫妻の前に出ると、二人で最敬礼を行う。国王は威厳のある居住まいでひとつ鷹揚に頷いたあと、ふっと目元をやわらげた。
「さすがに今回は逃げなかったな」
「当然です」
 つい先刻、行くのをやめようとしていたばかりなのに、素知らぬ顔でそう答えた。隣ではシャーロットがこっそりと笑っている。
「ウィンザー侯爵夫人もよく来た」
「この日を楽しみにしておりました」
「ドレスもよく似合っておる」
「ありがとうございます」
 彼女が国王に謁見するのはこれが初めてである。しかしながら萎縮した様子はなく、凜とした声でいつもどおり気負いなく答えていた。国王は満足げに頷く。
「グレイ伯爵夫妻もすでに来ておる」
 アーサーが――?
 爵位を継いでから何度か招待されているらしいので、別におかしくはないのだが、彼からは何も聞いていなかったのですこし驚いた。シャーロットもおそらくは知らなかったはずだ。
「ゆっくり話をしていくといい」
「お気遣いに感謝します」
 彼女はうれしさを抑えきれないような表情になり、わずかに声をはずませた。国王はやわらかく目を細めると、今度は隣のリチャードに視線を移してにやりと笑う。
「おまえもゆっくりするのだぞ」
「承知しています」
 謁見のあと一曲だけ踊って帰るつもりでいたのだが、見透かされていたようだ。何となくはめられたような心持ちになりつつも、シャーロットが喜んでいるので水をさすわけにはいかない。
「シャーロット」
 つづいて王妃エリザベスが口を開いた。本来であればウィンザー侯爵夫人と呼ぶべきところだが、あえて親しみをこめて名前で呼んだのだろう。
「またお茶会をしよう」
「はい、ぜひ」
 シャーロットはふわりと可憐な笑みを浮かべる。
 お茶会で面識があるのは知っているが――その愛らしい表情を向けられているのが自分ではなく、自分の天敵ともいえるエリザベスだということが、リチャードとしてはすこし面白くなかった。

 つつがなく謁見を終え、二人は再びきらびやかな大広間に降り立った。
 四方八方から探るような好奇の目を向けられても、シャーロットは意に介さず、あたりに視線をめぐらせて両親の姿を探していく。リチャードもぐるりと見まわしてみたが見当たらない。
「ウィンザー卿」
 そんなとき、急に背後からなれなれしく声をかけられた。
 振り向いた先には自身より幾分か年上のダービー伯爵がいた。何度か話しかけられたくらいで親しいわけではないし、そうなりたくもない人物だ。だからといってまるきり無視するわけにはいかない。
「何でしょう」
 冷ややかに返したが、彼はワインの入ったグラスを手にしたまま、臆することなく無遠慮に距離を詰めてくる。
「そちらが噂の奥方ですな」
「どんな噂かは存じませんが」
「ずいぶんとお若いそうで」
「成人はしていますよ」
「うらやましいかぎりです」
 そう言いながら、ひどくねっとりとした視線をシャーロットに向ける。
 リチャードは不快に思いながらも表情には出さず、さりげなく彼女を後ろに庇おうとしたが――そのときタイミングよく楽団による演奏が始まった。
「失礼、我々は踊ってきますので」
 一方的に告げると、シャーロットの手をひいて大広間の中央へと向かう。
 彼女も見るからにほっとした顔をしていた。容赦のない視線を向けられることくらい覚悟していたと思うが、さすがにあの目で眺めまわされるのは気持ちが悪かっただろう。
「すまなかった」
「平気です」
 気丈にも彼女はにっこりとして答えた。
 リチャードも気を取りなおして微笑を浮かべると、すっと手をとり、視線を交わし、リズムに合わせて踊り始める。一瞬で曲に乗り、軽やかに流れるように華麗なステップを踏んでいく。
 不思議なことに、彼女とは合わせようとするまでもなく自然と合う。最初に踊ってみたそのときから。もちろん互いに素養があることが前提ではあるが、きっと運命的に波長が合うのだろう。
 音楽が終わり、二人はそっと動きを止めた。
 ただただ楽しくて心地のいい夢のような時間だった。ここが王宮であることさえ忘れるくらいに。彼女も同じ気持ちに違いない。視線を交わすと、示し合わせたかのように二人して屈託なく笑う。
 まわりからは拍手が起こった。もちろん自分たちだけに向けられたものではないが、明確にこちらに向けて拍手しているひとも少なくない。二人は会釈で応えつつ下がろうとしたが――。

「シャーロット」
 ざわめきの中で、女性の声がはっきりとそう呼ぶのを耳にした。
 振り向くと、シャーロットの両親であるグレイ伯爵夫妻がそこにいた。娘が踊っているのを見つけて会いに来たのだろう。
「お母さま、お父さま!」
 シャーロットは破顔し、すぐに二人のほうへ軽やかに駆けていく。
「お会いできてうれしいです」
「わたしもよ」
 母娘が声をはずませるのを、父であるグレイ伯爵は一歩下がったところで見守っていたが、リチャードの視線に気付くと少々きまりが悪そうに会釈する。リチャードも無言のまま口元だけを上げて応じた。
「あら」
 そのとき再び演奏が始まった。
 夫人は邪魔にならないようダンスフロアから下がろうとしたが、逆にグレイ伯爵はすっと前に進み出た。そしてどこかあらたまった様子でリチャードを見つめて口を開く。
「ウィンザー侯爵、ご夫人と踊っても構いませんか?」
「え、ああ、シャーロットさえよければ……どうする?」
「ふふっ、喜んで」
 ほかの男と踊らせる気などさらさらなかったが、実の父親となれば別だ。
 グレイ伯爵は紳士的に一礼してからシャーロットの手をとり、ダンスフロアの空いているところへ向かう。それを見送ると、リチャードはふっと息をついて残された夫人に振り返った。
「わたしと踊っていただけますか?」
「ええ、喜んで」
 そう答えた彼女の笑顔は、ドキリとするくらいシャーロットと雰囲気が似ていた。

「わたし、実はあなたのことをあまり信用していなかったの」
 ゆったりとしたワルツの調べにのせてグレイ伯爵夫人と踊っていると、彼女はどこか遠くに思いをめぐらせるような顔をしながら、そんなことを言った。
「それは、そうでしょうね」
 地位と立場を利用して強引に娘を娶った男など、信用するほうが難しいだろう。恨み言くらいなら甘んじて受けようと覚悟したが、どういうわけか彼女はおかしそうにふふっと笑う。
「でも今日こっそりとあの子を見ていたら、すごく幸せそうで……そちらでとても大切にされているんだとわかったわ。だからいまはあなたでよかったと思っています」
「そう言っていただけて安堵しました」
「わたしたちではあんなに生き生きとさせてあげられなかった。あの子のことを思って狭い世界に閉じ込めてしまったけれど、間違っていたのかもしれないわね」
 その声には自嘲めいた色がにじんでいた。
 確かに、シャーロットが外の世界にあこがれていたのは間違いない。笑顔を見せつつも内心つらい思いをしていたのかもしれない。それでも両親の思いはきちんと理解して受け止めていたはずだ。それに――。
「わたしは感謝しています。おかげでシャーロットに悪い虫がつかなかった」
「まあ」
 冗談めかすように口元を上げたリチャードを見て、夫人はくすくすと笑った。冗談めかしながらも本気でそう思っているということは、きっとわかっているのだろう。

 それからまもなくして楽団の演奏がやみ、ダンスを終えた。
 夫人と組んでいた手を離して一歩下がり、互いに礼をする。シャーロット以外の女性に心を奪われることはないが、シャーロットと似た部分がふと垣間見えると、不思議な気持ちにはなった。
「ダンス、とてもお上手ですのね」
「おかげでシャーロットに恥をかかせないですみました」
「ふふっ、それは母親としてありがたいですわ」
 その笑い方もドキリとするくらいシャーロットと似ていた。けれどシャーロットではなくて――。
「リチャード」
 一瞬、幻聴が聞こえたかと思った。
 振り返ると、そこにはグレイ伯爵にエスコートされたシャーロットがいた。幻聴でも幻覚でもない。リチャードはふっと甘やかに目を細めつつ手を差し出す。
「おかえり」
「ふふっ、ただいま」
 そう応じながら素直に手をのせてくれる彼女が愛おしい。果たすべき義務は果たしたのだから、もうこのまま帰ってもいいだろう。そう結論づけて彼女の手をひこうとしたのだが――。
「そうだわ、シャーロット、あなたに知り合いのご婦人方を紹介しておくわね。あちらの女性用の談話室にいるはずだから行きましょう」
 夫人が両手を合わせてそんなことを言い出した。そしてすかさずリチャードに振り向くとにっこりと笑みを浮かべる。
「構いませんわよね?」
「まあ、仕方ありませんね」
 リチャードは肩をすくめるしかなかった。
 行かせたくはないが、行かせたほうがシャーロットのためになるのは間違いない。女性だけの場だし、社交の面でも母親がついているので心配はいらないだろう。何より彼女自身が興味津々のようなのだ。
「では、行ってきますね」
「適当に時間を潰してるよ」
「はい」
 彼女は愛らしい笑顔を見せながら声をはずませた。そしてすぐにグレイ伯爵夫人のほうへ向かおうとしたが、そのとき何かに気付いてパッと顔をかがやかせる。
「ロゼリア様!」
 彼女の視線をたどると、そこには美しく盛装したポートランド侯爵夫妻がいた。すぐに侯爵は胸に手を当ててお辞儀をし、夫人は軽く膝を折る。リチャードとシャーロットはにこやかに応じて挨拶を交わした。
「そうだわ、よろしければロゼリア様もご一緒しません?」
「女性用の談話室に向かうところでしたの」
 シャーロットが思い出したように両手を合わせて誘い、後ろにいたグレイ伯爵夫人が言い添える。それを聞いてロゼリアはかすかに表情をやわらげた。
「ご迷惑でなければ、ぜひ」
 三人は各々の夫に会釈すると、おしゃべりをしながらその場をあとにした。
 シャーロットは何度かロゼリアとお茶会で一緒になっており、それなりに親しくしているらしい。彼女が同席するのであればよりいっそう心強いだろうと思う。

「さて、我々は我々で話でもしましょうか」
 グレイ伯爵の提案に、ポートランド侯爵はそうしましょうと素直に頷く。
 リチャードとしても、三人でいたほうが他の貴族に声をかけられなくてすむし、何よりグレイ伯爵――すなわちアーサーとは気心が知れているので楽でいい。そんな打算まじりの考えで応じることにしたのだが。

 そういえば、あらぬ噂を立てられてるんだった――。
 三人が男性用の談話室に入ると、あちらこちらから詮索するような好奇のまなざしが向けられるのを感じた。よくあることなので最初はあまり気にしていなかったが、年配の二人組がこちらを見ながらひそひそと揶揄するように話すのを目撃し、ようやく噂のことを思い出したのだ。
 リチャードが男色だとか、アーサーに懸想しているから娘を娶ったとか、ロゼリアと婚約解消したのもそのためだったとか、結婚して数か月たったいまでもまことしやかに囁かれている。その関係者である三人がこうして集まっているのだから、傍から見ればさぞや面白いのだろう。
「はー……」
 大きく溜息をつき、渋面でソファの背もたれに寄りかかって腕を組む。
「急にどうしました?」
「おまえとは別行動すべきだった」
「ああ……」
 アーサーはその意味するところをすぐに理解したようで、確認するようにチラッと周囲に視線を走らせる。それでも平然としたまま眉ひとつ動かさない。
「あなたなら注目されることくらい慣れているのではありませんか?」
「それでも、おまえとの仲を下卑た目で見られてると思うと居心地が悪い」
「元凶はあなたですけどね」
 うっ、とリチャードは言葉を詰まらせる。
 男色だと誤解されたことに関しては自分のせいではないと思っているが、それを放置したこと、女性に言い寄られるのを避けるために利用したことは自分の意思である。アーサーとの噂はその延長線上で生まれてしまったようなので、元凶と言われても否定はできない。
「でもまさかおまえまであんな噂を信じてたとはなぁ」
「こちらこそ娘が目当てだなんて思いもしませんでした」
「……おまえ、もしかして怒ってる?」
 彼の態度はさきほどからどことなく冷ややかで刺々しい。図星だったのか、その顔にほんのすこしだけムッとしたような表情が浮かんだ。
「十年もわたしを利用していたことを棚に上げて、自分だけが被害者と言わんばかりの態度をとられれば、腹が立つのも当然でしょう」
「悪かったよ」
 リチャードはそう苦笑まじりに応じたあと、すこし真面目な顔になる。
「だが、ひとつ言わせてくれ。おまえからシャーロットの情報を得ようとしていたのは事実だが、そのためだけに親しくしていたわけじゃない。おまえと一緒にいるのは純粋に楽しかったし、そもそも学生時代からけっこう好きだった……あ、いや、変な意味じゃなくてな!」
 誤解されかねない言いまわしだと気付いてあわてて釈明したものの、すべて本当のことだ。友人と呼べるのもアーサーしかいない。けれど彼はまだ信じられないらしく疑わしげな視線を投げかけてくる。
「結婚してから一度も手紙をいただいていませんが」
「あー……送るよ。今度はこっちがシャーロットの写真を添えて」
「期待せずにお待ちしています」
 そういえば何だかんだ忙しくしているうちに手紙のことを忘れていた。シャーロットを手に入れたので、無意識に優先順位が下がっていたというのはあるかもしれない。言い訳にしかならないが、まさか彼がそこまで手紙を楽しみにしているとは思わなかったのだ。

「お二人はずいぶん親しいのですね」
 会話が一段落すると、それまで黙って聞いていたポートランド侯爵が口を開いた。こころなしか驚いたような声音だ。こうして一緒にいるところを見るのは初めてなのかもしれない。リチャードはうっすらと挑発的な笑みを浮かべて彼を見つめ、言葉を返す。
「おかしな噂が立つのも道理だと?」
「いえ、そこまでは……」
「あなたも他人事ではありませんよ」
「えっ?」
 どうやらわかっていないらしい。彼の視線を誘導するようにゆっくりと隣へ目を向けると、案の定、興味深そうにこちらを窺っている連中がいた。彼らはギクリとしてぎこちなく顔をそむける。
「ここにいれば否応なく注目の的になります。わたしと奥方の婚約解消は誰もが知るところですし、こうしてわたしとあなたが話をしているだけで、何を噂されるかわかったものではない」
「確かに……」
 ポートランド侯爵は思案顔で頷く。
「ですが、妻はわたしのことを信じてくれていますし、わたしも妻を信じています。どんな噂を立てられたとしても揺らぎはしません。我がポートランド家も噂で揺らぐほど弱くはありません」
 淡泊な語り口だが、そこからは確固たる信頼が窺えた。
 きっと夫婦仲も上手くいっているのだろう。例の事件のせいでぎくしゃくする可能性もあると思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。いろいろと因果関係のある自分としてもいささかほっとした。
「ウィンザー卿」
 あらたまった口調で名を呼ばれて、意識が引き戻される。
「せっかく縁あってご一緒する機会に恵まれたのですから、領地経営や産業について三人で有益な話ができればと思っているのですが」
「ええ、わたしは構いませんが」
 リチャードも次期後継者として領地経営に携わっている。ポートランド侯爵領にも少なからぬ関心を持っていたので、いい機会だと思った。アーサーも異議はないらしく素直に賛意を示していた。
 話は面白く、時間も忘れるくらいに盛り上がった。
 基本的にリチャードは親しくない相手と語らうことを好まないのだが、ポートランド侯爵は実直だからか話しやすかった。双方と親しいアーサーがいたおかげでもあったのかもしれない。

「キャーーーッ!!!」
 ふいに女性の甲高い悲鳴が聞こえた。談話室の外からだ。
 リチャードはハッとして跳ねるようにソファから立つと、迷わず飛び出していく。それがシャーロットの声でないことくらいわかっていたが、だからといって彼女が巻き込まれていないとはかぎらない。じわりと嫌な汗がにじむのを感じながら廊下を抜けると――。

「女性に許可なく触れるのはマナー違反です」
 ざわつく大広間で、視線の集まる先にシャーロットが立っていた。
 足元には二十代くらいと思しき男性が倒れている。顔は見えないが、盛装しているので宮廷舞踏会の招待客だろう。後ろではロゼリアが唖然とし、グレイ伯爵夫人が困ったように苦笑を浮かべていた。
「シャーロット!」
 声をかけると、彼女はこちらに振り向いて安堵の表情を見せた。たまらず一目散に駆けていき優しく抱きしめる。彼女の体から緊張がほどけていくのがわかった。
「うっ……」
 床に倒れていた若い男性が、小さく呻きながら腰を押さえてノロノロと体を起こしていく。リチャードはそれを一瞥すると、あらためて腕の中にいるシャーロットを見つめて問いかける。
「何があったんだ?」
「そちらの方が愛人になってやるなどとおっしゃるので、丁重にお断りして通りすぎようとしたのですが、肩を掴まれまして……」
 それでとっさに投げ飛ばしてしまったということだろう。彼女は何ひとつ悪くない。ただ――その全身を上から下までひととおり確認すると息をつく。
「無事でよかった。ドレスもはだけてないようだな」
「そこまで考えていませんでした」
 彼女は驚いたように目をぱちくりとさせるが、抵抗されたはずみなどで胸が露わになる可能性も十分にあったのだ。もしそんなことになっていたら相手の男を縊り殺していたかもしれない。
「さて……」
 そう言うと、まだ立ち上がれずにいる男の前でしゃがんで無遠慮に覗き込む。彼はビクリとして逃げるように身をのけぞらせたものの、その顔は認識できた。
「ダブリン侯爵の嫡男か」
 数年前、ほんの数分だが一度だけ会ったことを覚えている。王宮を訪れたときに、たまたま別の用件で来ていたダブリン侯爵に呼び止められ、挨拶のついでに跡継ぎだという息子を紹介されたのだ。
「愛人に立候補したって?」
「……めずらしいことではないでしょう。新婚なのに夫に顧みられない彼女をかわいそうに思っただけです。王宮でも憚ることなく本命とよろしくやっていたあなたに、とやかくいう権利はないと思いますけど」
 本命ってアーサーのことか――。
 うんざりして嘆息する。噂を信じるも信じないも自由だが、何の証拠もないものを根拠に喧嘩をふっかけるなど愚かとしか言いようがない。しかも次期公爵相手に。視野の狭さゆえか無知ゆえか自分の立ち位置さえわかっていないようだ。
「おまえがどう思おうと権利はある」
 そう告げると、彼の右手首をガッと勢いよく鷲掴みにした。
「えっ……?」
「この手か?」
「えっ???」
 行動の意味も、質問の意味も、愚かな彼には理解できないらしく困惑の表情を浮かべるばかりだ。リチャードは無表情のまま掴んだ手にギリギリと力をこめていく。
「シャーロットに触れたのはこの手かと聞いているんだ」
「ちょっ……痛っ……」
 顔をしかめて振りほどこうとするが、見るからに腕力のなさそうな彼では騎士団長のリチャードに敵うはずもない。
「本当はこの不埒な手を切り落としてやりたいところだが、今回だけは大目に見てやる。ただし再び妻に触れるようなことがあれば容赦はしない。ウィンザー公爵家を敵にまわす覚悟をしておけ」
 そう宣告すると、掴んでいた右手首を乱暴に放してすっと立ち上がる。見下ろした彼は床に倒れ込んだまま青ざめた顔をしていた。この様子ならもうおかしな気は起こさないだろうと安堵したが――。
「グレイ伯爵家も黙ってはいません」
「ポートランド侯爵家も追従しますわ」
 アーサーとロゼリアが冷ややかに追い打ちをかけた。夫人には何の権限もないが、当主であるポートランド侯爵が隣で頷いているので、ポートランド侯爵家の意向と考えて相違ないだろう。
 王家に連なる血筋のウィンザー公爵家、広大な領地と海運の要衝を抱えるポートランド侯爵家、堅実な領地経営で存在感を増しているグレイ伯爵家――この三家を敵にまわせば間違いなく孤立する。
 彼はますます青ざめ、あたふたと謝罪もしないまま逃げ帰っていった。

「何か、大事になってしまって申し訳ありません」
 彼の姿が見えなくなると、シャーロットがおずおずと恐縮したように謝罪した。しかしリチャードはふっとやわらかく目を細めて言う。
「シャーロットは何も悪くないよ」
 悪いのはあの男で、シャーロットはただ自分の身を守っただけである。そうしなければもっと触られていたかもしれないし、つきまとわれていたかもしれない。やりすぎということは断じてない。
 そして結果的にだが、良からぬことを考える貴族連中への牽制にもなったと思う。この騒動はすぐ社交界に知れ渡るだろうし、軽い気持ちでシャーロットに手を出そうとする輩はいなくなるはずだ。
「帰ろうか」
「はい」
 いろいろと慣れないことばかりでさすがに疲れたのだろう。シャーロットはほっとしたようにそう返事をした。そしてアーサーたちのいるほうにくるりと向きなおると、ドレスをつまんで軽く膝を折る。
「皆さん、ありがとうございました」
 それは形式的なものではなく心からの言葉に違いない。
「元気でな」
「お幸せにね」
「はい」
 両親から声をかけられると無邪気な笑顔で応えた。
 二人は明日の午前中には帰路につくことになっているため、ここでお別れとなる。だが彼らが王都に来る機会はこれからもあるはずなので、きっとそう遠くないうちに再会できるだろう。
「またお茶会をしましょう」
「ぜひ」
 ロゼリアの誘いにはうれしそうに声をはずませた。
 どうやら思った以上に親しくなっていたらしい。シャーロットが一方的に懐いているのではなく、ロゼリアも好意を持っているようだ。さきほどわざわざ援護したことからもそれは窺える。
「行きましょう」
 挨拶を終えると、シャーロットは身を翻してにっこりと笑う。
 それだけで胸が高鳴ってしまうものの顔には出さない。腕を差し出し、彼女をエスコートしつつ堂々とした歩みで王宮をあとにする。時折、とろけるような甘いまなざしをそっと隣に向けながら――。

 この後、リチャードの本命はシャーロットなのかアーサーなのかで論争が起こり、恋愛ゴシップ好きの連中が大いに盛り上がることになるのだが、帰路についた二人は知るよしもなかった。

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