伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい

第2話 公爵家の騎士団長は一目惚れの少女と結婚したい

 俺って本当に信用ないな――。
 雲ひとつない穏やかな青空の下、ウィンザー公爵家の嫡男であり王都の騎士団長でもあるリチャードは、殊更美しい白馬に乗ったままチラリと後ろを振り返ると、その光景にあらためて嘆息した。
 二人の執事が、それぞれ栗毛の馬を駆って着いてきている。
 来なくていい、その必要はない、むしろ来るなと言い渡したにもかかわらず、二人は旦那様の命令ですからと聞く耳を持たなかった。雇い主は父であるウィンザー公爵なのだから致し方ない。
 この二人は腕が立つので、護衛としての役割を求められることも少なくないが、今回はお目付役としてついてきているのだろう。必ずリチャードを連れ帰るように厳命されたと聞いている。
 しかし、リチャードにはもとよりすっぽかす気などない。
 自身が十年ものあいだひそかに待ち望んでいたことなのだ。だからこそ待ちきれずにこうしてグレイ伯爵家へと向かっている。ここに至るまでの長い長い道のりに思いを馳せながら――。



「君はまたこんなところで寝ていたのか」
 どことなくあきれを含んだ声が上から降ってきて、リチャードは目を開けた。
 そこにいたのは同級生のアーサー・グレイだった。生真面目な性格を体現するかのように制服にはわずかな乱れもなく、木陰で仰向けに寝転んでいるリチャードを無表情で見下ろしている。
「別に構わないだろう。昼休みくらい」
 リチャードは起き上がりもせずにそう応じると、ふわぁ、とあくびをした。生徒も先生もほとんど通らないここは、ひとりになりたいときに訪れる安息の場所だ。それを知っているのはアーサーだけである。
「経済学の課題を提出するよう先生から言付かった。期限は今日だぞ」
「ああ、あれならもうとっくに出来上がってるから心配するな」
「君は……なぜいつも期限ギリギリに提出しようとするんだ」
「期限を守ってるんだからいいだろう。遅れたことは一度もないぜ」
「……忘れるなよ」
 そう言うと彼はすぐに身を翻して立ち去っていった。
 あいつ、このためだけに来たのか――。
 緊急ではないのだから次の授業のときでもいいのに。まあ、そういう融通がきかないところがあいつらしいけど。さらさらと風に揺れる枝葉を眺めながらそんなことを思い、口元を緩ませた。
 向こうはどうだか知らないが、リチャードは彼にけっこう好感を持っていた。
 貴族の子息が数多く通っているこのパブリックスクールでも、公爵家の嫡男というのは特別らしく、機嫌を損なわないよう気を遣われたりへつらわれたりする。生徒だけでなく先生にさえも。
 だが、彼だけは違う。説教めいたことも平然と言ってくるし、間違っていると思うときには真っ向から反論してくる。頭にくることもあるが、こそこそと陰で言われるよりはよほどよかった。
「さてと、せっかく来てくれたことだし提出してくるか」
 リチャードは起き上がり、まだらな白い木漏れ日を浴びながら大きく伸びをした。

 結局、卒業するまでアーサーとは友達未満のままだった。
 その後、リチャードは王都の騎士団に所属したが、彼はグレイ伯爵領に戻ったらしく顔を合わせることもなくなった。連絡も取り合っていない。彼が結婚したということも元同級生の噂で耳にしたくらいである。

「え、アーサー?!」
 卒業から七年ほど過ぎたある日。
 騎士団本部を歩いていると、前方から歩いてきた男がアーサーに似ていて思わず声を上げた。その声に反応して振り向いた彼もすこしだけ目を大きくしたが、すぐに冷静な表情に戻る。
「ウィンザー侯爵、お久しぶりです」
「いや、リチャードでいいよ」
「そういうわけにはまいりません」
「相変わらずだな」
 リチャードは苦笑する。
 ウィンザー公爵家の嫡男であるリチャードは、現在、従属爵位であるウィンザー侯爵を儀礼称号として名乗っている。もっとも畏まった場でないかぎりリチャードと呼んでも構わないのだが、堅物の彼には難しいようだ。
「おまえ領地に帰ったって聞いたけど」
「はい、ですが王宮に勤めることになりまして」
「なるほどな」
 このところ王宮の事務方が不足しているという話だったので、彼のところへ話が行ったのだろう。領地のほうは領主である彼の父親がいるので問題ないはずだ。
「奥方も王都に来ているのか?」
「妻だけでなく子供たちも一緒です」
「へぇ、おまえが父親とはな」
 詳しく聞くと、娘一人、息子二人がいるという。彼が結婚して家庭を持つというのは何か不思議な感じだった。子供たちにどう接しているのかあまり想像がつかない。
「あなたは……」
「ん? ああ、俺は先日婚約したところ」
「それは、おめでとうございます」
 いわゆる政略結婚なので個人的にはあまりめでたくないし、むしろ気が重いのだが、両家にとっては確かにめでたいことだといえるだろう。否定はせずに曖昧な笑みを浮かべて受け流した。
「すみません、失礼ですがグレイ卿でしょうか?」
 そのとき、騎士団本部の事務方が頃合いを見計らったように近づいてきて、なぜか部外者であるアーサーのほうに声をかけた。
「そうですが……」
「さきほど近所の子供がこれを持ってきまして。どうやら見知らぬ男から騎士団本部に届けるよう頼まれたらしいのですが」
 差し出された封筒には『グレイ卿』と宛名が記してあった。
 二人して怪訝な顔になる。
 アーサーはたまたま用事で騎士団本部に来ただけだという。封筒を裏返しても差出人の名前は見当たらない。ただ封蝋には紋章のようなものが刻印されていて――それを認識した瞬間、リチャードは冷たい手で心臓を掴まれたようにゾクッとする。
「アーサー! いますぐ開けろ!」
「えっ、どういうことでしょうか?」
「いいから開けろ!!!」
 血相を変えたリチャードに気押されて、アーサーは戸惑いながらも封蝋を破り、二つ折りになっていた紙を取り出して開く。その瞬間、彼の顔からサーッと血の気が引いた。
「貸せ!」
 リチャードはそう言ってひったくるように奪い、目を通す。
 やはりか――。
 それはいわゆる脅迫状と呼ばれるもので、娘のシャーロットを誘拐したこと、その身代金を要求する旨が端的に記されていた。期限は三日。要求に従わなければ娘の命はないとのことだ。
 この一年、同じような事件が王都で三件起こっている。
 一件目、二件目は身代金を払って子供は無事に戻ってきた。しかし三件目では子供が殺された。身代金の受け渡しに来た男を捕らえたが、彼が自害し、子供の監禁場所を突き止められなかったのだ。
 いずれの事件も封蝋の紋章などから同じ組織の犯行と思われた。そして今回も――封蝋に刻印されていたのは、過去三件と同じく月と刀をモチーフにした紋章である。手口からしても間違いないだろう。
 そうした詳しいことをリチャードが知っていたのは、その組織が身代金をもとに国家転覆を企てているかもしれないということで、王都の騎士団のひとりとして捜査に当たっていたからである。
「アーサー、おまえ身代金は用意できそうか?」
「領地に帰れば……ですが、三日で用意できるかは……」
「だったら俺が個人的に貸してやる」
「えっ」
 アーサーが驚きの声を上げて目を見開いた。その瞳が揺れる。
「いえ……それ、は、さすがに……」
「他に当てはあるのか?」
 平時の彼であれば絶対にこんな申し出は受けないだろう。けれどいまは娘の命がかかっている。グッと静かに奥歯を食いしめて逡巡していたかと思うと、深く頭を下げた。
「お言葉に甘えさせていただきます」
「おまえは家に帰って状況を確かめてこい」
「わかりました」
 アーサーが踵を返すと、リチャードもすぐさま隊長のところに赴いて報告する。ほどなくして自分たち一番隊が任務に就くことに決まった。二番隊、三番隊も必要に応じて支援につくという。
 ただ、騎士団はあくまで国家転覆を謀る組織を一網打尽にするために動く。一応、人質の命が最優先ということになっているが、それが建前であることは騎士団員なら誰しも理解しているだろう。
 それでも、絶対に娘は助ける――。
 見たこともないほど顔面蒼白になったアーサーの姿を思い浮かべながら、リチャードはグッとこぶしを握りしめた。

 戻ってきたアーサーによると、シャーロットはいつものように侍女の買い出しについていったが、侍女だけが路地裏でうつぶせに倒れているところを発見され、近くの病院に運ばれていたそうだ。
 意識を回復したばかりの侍女に話を聞いたところ、いきなり後ろから殴られたので顔は見ていないが、船乗りのような靴を履いていたとのことである。そしてかすかながら潮の匂いもしたという。
「やはり港だ」
 以前の事件で、無事に戻った子供たちは『ゆれた』と証言し、遺体で戻った子供からは潮の匂いがした。それらの情報から船が監禁場所ではないかと推測したが、手がかりはつかめなかった。
 しかし現在進行形で監禁が行われているのだとしたら、必ず何かしらの手がかりがつかめるはずだ。隊長の許可を得たうえで、リチャードは三人の後輩をつれて王都の外れにある港へと向かった。

「怪しいな」
「ええ」
 リチャードは隣の後輩とひっそり言葉をかわす。
 二手に分かれて港の様子を見ていると、小型船のひとつに複数の男が出入りしていることに気付いた。ずっと停泊したままで出港準備をする様子もないのに。ひとまず本部へ報告しておこうかと考えた、そのとき。
「たすけてぇええっ! おとうさまぁあああっ!!!」
 その小型船から、助けを求める子供の声がはっきりと聞こえた。
 おそらく誘拐された娘だろう。
 口をふさがれたのかすぐに聞こえなくなってしまったが、これまでの手口からして期限までは生かしておくはずだ。焦る気持ちを抑えつつ、このことを本部へ報告してくるよう隣の後輩に指示を出した。

 救出作戦は夜明け前に決行することになった。
 小型船の子供は、誘拐された娘のシャーロットでほぼ間違いないという結論に達している。念のためアーサーにはリチャードが用立てた金を身代金として貸してあるが、使うことはないだろう。
 救出作戦が完了すると、すぐさま別動隊が組織の拠点に突入する手筈になっている。小型船から出てきた男が街で連絡係らしき人物と接触しており、そこから組織の拠点が判明したのだ。
 本当は、素直に身代金を払ったほうが娘が助かる確率は高い。
 それでも騎士団としてはこの機を逃すわけにはいかなかった。これからの被害者をなくすためにも。もちろん人質の命を蔑ろにした作戦であれば全力で反対したが、そうではない。だから――。
 何がなんでもこの作戦を成功させる。
 いまのリチャードにできるのはそれだけだ。強く意気込みながらも決して冷静さを失うことのないよう心がけつつ、救出作戦実行部隊のリーダーとしてあらためて気を引きしめて、決行の時を待った。

 船には三人の男が乗っている。
 外で見張っているのが一人、中にいるのが二人だ。娘も中にいるのだろう。もしかすると他にも潜んでいる人物がいるかもしれないが、船の大きさからして可能性は低いという判断である。
 まずは騎士一人が泳いで沖のほうから船に侵入し、そっと見張りの背後に近づくと、口をふさいで首を絞めて一気に落とした。そして彼の合図で、リチャードを含めた騎士三人がひそやかに乗り込んだ。
 カーテンの隙間から中を覗くと、一人は長椅子で横になり、もう一人は椅子に座ってうつらうつらしていた。そして娘は奥のほうに転がされている。手足を縛られ、目隠しをされ、口をふさがれたままで。
 四人の騎士は打ち合わせどおり所定の位置につく。両側の窓にそれぞれ一人、入口の扉に二人。リチャードは扉のほうだ。合図を出すと全員無言でカウントを取り始める。五、四、三、二、一……。
 ドゴン! ガシャガシャン!!
 三方から同時に窓や扉をぶち破って四人の騎士が突入し、男たちを取り押さえた。二人とも夢うつつだったせいか抵抗らしき抵抗もなく、終わってみれば実にあっけない幕切れだった。
「…………っ!」
 息を飲む音に振り向くと、娘が床に転がったまま驚愕したように目を見開いていた。いつのまにか目隠しがすこしずれている。もしかすると一連の逮捕劇を見てしまったのかもしれない。
 リチャードは男たちを連行するよう部下に命じてから、しゃがんで娘を覗き込む。
「シャーロットだね?」
 そう尋ねると、彼女は怯えたように顔をこわばらせながら曖昧に頷いた。リチャードは意識的に表情をやわらかくして続ける。
「俺は騎士のリチャード。お父さんに頼まれて君を助けに来たんだ。いまから口のそれを外してロープをほどくけど、いいかな?」
 『お父さん』と聞くなり彼女はハッとして目を見開き、今度はしっかりと頷いた。
 下方にずれていた目隠しの布を外し、猿ぐつわを外し、手足を縛っているロープをほどくと、あたたかくてやわらかい小さな体をそっと起こす。そのとき、壊れた窓から差し込んでいた朝日が彼女を照らし出した。
 ――……っ!
 リチャードは言葉もなく息を飲む。
 潤んできらめく緑の瞳がまっすぐにリチャードを捉えていた。濡れたまつげはかすかに震え、小さな口はきゅっと結ばれ、目に涙をためながらも必死に泣くのを堪えていることが窺える。
「泣いてもいいんだぞ」
 そう告げても、彼女はふるふると首を横に振るだけだった。
 しかしそっと頭を抱き寄せると、おずおずと縋るようにリチャードの上着を掴んで顔を埋めてきた。簡単に壊れてしまいそうな幼気な体をわずかに震わせながら。

 早朝の朝靄の中を、リチャードは白馬に乗ってゆっくりと進む。
 自分のまえにはシャーロットを乗せていた。怯えることもなく思いのほかしっかりと危なげなく座っている。緩いウェーブを描くストロベリーブロンドはふわふわと揺れ、朝日を浴びて輝いていた。
「騎士さま」
 ふいに彼女が振り返り、リチャードはやわらかく微笑んで緑の瞳を見つめ返した。
「なんだい?」
「わたしも騎士さまみたいに強くなりたいです」
「そうだな、頑張ってたくさん訓練したらなれるかもな」
「……がんばります」
 幼子とは思えないほど真剣に答える彼女を見つめたまま、そっと頭に手を置く。
 それだけで胸がキュッと熱くなる。できることならもっと触れたいし、抱きしめたいし、手放したくない――そのときにはもう自分の感情を理解していたものの、目をそらすつもりはなかった。

「シャーロット!!!」
 騎士団本部のまえでアーサーが待ち構えていた。無事に救出した旨の連絡は受けていたと思うが、それでも居ても立ってもいられなかったのだろう。シャーロットの姿に気付くなり全力で駆け寄ってきた。
 リチャードは馬を止め、道中で眠りに落ちたシャーロットを片手で抱いて下りると、待ちきれずに両手を差し出しているアーサーに渡す。彼は泣きながら娘を抱きしめてその場に崩れ落ちた。
「ありがとうございます。本当になんとお礼を言ったらいいか……ああ……」
「俺は騎士として仕事をしただけだ」
 そう受け流し、じゃあなと軽く手を上げて仲間とともに騎士団本部に入っていく。まだ後処理などやらなければならないことが山積みなのだ。チラリと振り返ると、アーサーは娘を抱いたまま深く頭を下げて見送っていた。

「ロゼリア・クレランス嬢との婚約を解消したい」
 リチャードは父であるウィンザー公爵にそう告げて、書類を差し出した。
 それはクレランス侯爵家の調査報告書である。例の組織による誘拐事件が一段落したあと、リチャードが自ら調査してまとめたものだ。ウィンザー公爵はそれを怪訝な面持ちで手にとり、目を通す。
「……なるほど、限りなく黒に近いグレーだな。だが黒と証明するのは難しい」
 クレランス侯爵家には不透明な金の流れがあった。もはや黒としか考えられないような状況ではあるものの、決定的な証拠までは掴めていない。しかしながらそれも織り込み済みである。
「我々が証明する必要はありません。この件を告発すれば本格的な調査が入りますし、証拠も見つかるでしょう。そうなれば相手の瑕疵として婚約を破棄できます」
「そこまで追いつめては恨みを買うぞ」
「ええ、ですから告発するまえにクレランス侯爵に持ちかけるつもりです。この不正をすぐに是正して婚約解消に合意するのであれば、告発も公表もしないと」
「なるほど、おまえの計画はわかった」
 ウィンザー公爵は疲れたように重々しく溜息をついた。そして視線を上げると、奥底まで見透かすようなまなざしを向けて問いかける。
「どうしてそこまでロゼリア嬢との結婚を回避したい?」
 彼は気付いていた。クレランス侯爵家が不正を行っているから婚約を解消したいのではなく、婚約を解消するためにクレランス侯爵家の不正を突き止めたということに――それでもリチャードは動じることなく答える。
「他の女性と結婚したいからです」
 女性といっても、まだ当分は結婚できない少女だけれど。
 さすがに自分でもどうかと思わないでもなかったが、抗えないくらい惹かれてしまったのだから仕方がない。幼女趣味ではなく、運命の相手がたまたま自分より年若かっただけなのだ……多分。
「どこのご令嬢だ」
「わたしが一方的に考えているだけなのでまだ言えませんが、家柄にも本人にも問題のない未婚女性です。ただ、結婚の約束を取り付けるまでには少々時間がかかると思います」
 少々どころか十年くらいかかってしまいそうだが――まずはこの婚約を解消しないことには始まらないので、そこは曖昧に伏せておく。とりあえず嘘は言っていないのだから構わないだろう。
 ウィンザー公爵は難しい顔をして溜息をついた。
「おまえが何を考えているのか今ひとつ測りかねるが、クレランス侯爵家の不正を知ってしまった以上、どのみちこのまま婚姻を結ぶわけにはいかない。ロゼリア嬢との婚約は解消しよう」
「ありがとうございます」
 ほどなくしてロゼリア嬢との婚約は穏便に解消された。一方的な婚約破棄ではなく、双方の合意による婚約解消という形である。告発されるよりはとクレランス侯爵が素直に応じたのだ。
 そういう事情なので、当然ながら婚約解消の理由は公表していない。
 もともと政略結婚であることは知られていたので、ウィンザー公爵家側の都合によるものではないかというのが一般的な見方だが、一部ではリチャードが男色に目覚めたからだとまことしやかに囁かれていた。
 なんでだよ――!
 一体全体どうしてそうなるのかわけがわからず、頭を抱えたくなる。
 それでもあえて否定はしなかった。シャーロットが成人するまで結婚を回避しなければならない身としては、縁談を持ちかけらることも令嬢に言い寄られることも格段に減るので、都合がよかったのだ。

「よう、元気にしてるか?」
 あの日から、王宮で仕事をするアーサーのもとをたびたび訪れるようになった。
 シャーロットも含めて妻子は領地へ戻ったと聞いている。あんなことがあったのだから無理もない。落ち着いたら会いたいと思っていたので残念ではあるが、あきらめてはいなかった。
「おまえ十日ほど領地に帰るんだって?」
「そんなことまでよくご存知ですね」
「それさ、俺もついていっていいか?」
「……何か御用がおありなのでしょうか」
「シャーロットに会いたくなってな」
 冗談めかして軽く答えたが、それを聞いたアーサーはなぜか苦しげに目を伏せ、机の上で組み合わせていた両手にグッと静かに力をこめた。
「あなたがシャーロットを救ってくれたことには、本当に心から感謝をしています。ですが……こちら側の事情で非常に申し訳ないのですが、シャーロットには会わないでいただきたいのです」
「事情?」
「シャーロットはあの事件のことをあまり覚えていないようなのです。それだけショックが大きかったのでしょう。ですから、それを思い出させるようなことは避けたいと考えていまして」
「そうか……それなら仕方ないな……」
 事情は理解した。
 それなりの時間が経過しているならともかく、あれから一年も経っておらず、彼女もまだ幼いのだから、残念ではあるが気をつけてしかるべきである。
「じゃあ、せめて写真を撮ってきてくれないか」
「……わかりました」
 本来、写真は貴族でも特別なときにしか撮らないので、こんなに気軽に頼むようなものではないのだが、彼は拍子抜けするくらいあっさりと了承してくれた。きっとせめてもの誠意なのだろう。

「シャーロットの写真です」
 アーサーは領地から戻ってくると、騎士団本部のリチャードを訪ねてきて五枚の写真を机に並べた。肖像画のようだったり、立ち姿だったり、座り姿だったり、顔のアップだったりと様々な姿を捉えている。
「あのときよりもすこし大きくなってるよな」
「はい、元気にすくすくと育っております」
 写真からも成長が見てとれて微笑ましい気持ちになる。そして芯の強そうな凜としたまなざしには胸が熱くなり、聡明さを感じさせる表情には心を掴まれ、かわいい顔には愛おしさがあふれた。
「ありがとな。五枚ももらえるとは思ってなかったよ」
「……あの……差し上げるつもりはなかったのですが」
「えっ?」
 思わずきょとんとする。どういうことかわからず怪訝な顔になるが、彼のほうもまた困惑しているようだった。
「元気にしている姿をお目にかければいいだけかと」
「いや、せっかく撮ってきたんだからくれよ」
「ですが……よその子供の写真なんて要りますか?」
「俺とおまえの仲だろう!」
 写真が欲しいあまり不自然なくらい必死に言い募ってしまった。
 彼は困惑の色を深めていたが、それでもリチャードに恩義を感じているからか、気を取り直したようにわかりましたと首肯する。
「それでは一枚だけ差し上げますのでお選びください」
「ん、一枚だけ?」
「もともとわたしが眺めるために持参したものですから」
「なるほど、それで五枚も撮ってきたというわけか」
 なかなかの親馬鹿だ。王都と領地で離ればなれに暮らしているのだから、せめて写真だけでもという考えは納得できるのだが、あの堅物のアーサーがなぁと何か不思議な気持ちになる。
「んー……じゃあ、これをもらうよ」
 五枚の中から顔がアップになっているものを選んだ。まるでこちらを見つめているかのような緑の双眸が、印象的に捉えられている。リチャードが最初に惹かれたのはこの瞳だったのだ。
 アーサーは残りを回収し、脇に抱えていた仕事用のファイルに大事そうに挟んだ。
「あなたも早く結婚すればいい。我が子はかわいいですよ」
「そうはいっても当分のあいだは結婚できないんだよなぁ」
「それは、どうして……」
 聞いていいのか迷ったらしく遠慮がちに尋ねてきた。リチャードはふっと思わせぶりに口元を上げながら、彼に視線を流す。
「おまえのせいだ。責任は取ってもらうからな」
「えっ……わたしの……?」
 嘘は言っていない。彼の娘と出会ったせいでこうなってしまったのだから。いずれ結婚させてもらうから覚悟しておけ――動揺する彼を見て、胸の内でそんなことを思いながら悪戯っぽく笑った。

 以来、アーサーは帰郷のたびにシャーロットの写真を撮ってくるようになった。
 リチャードもそのたびに一枚もらっていた。そして、そのついでに彼からシャーロットの様子を聞くことを楽しみにしていた。義理堅いので何だかんだ言いつつもつきあってくれるのだ。
 本当は写真だけでなく実際に会いにいきたいと思っているのだが、アーサーには断られつづけている。いまでもまだ娘の記憶がよみがえることを恐れているらしい。気持ちはわからないでもないけれど。
「弱ったな……」
 これではシャーロットが成人するまでに親しくなるという正攻法がとれない。
 最終的には公爵家として正式に申し入れをするつもりだが、下位の伯爵家でも断れないわけではない。アーサーなら相手が公爵家でも命の恩人でも断るだろう。娘のためにならない縁談であれば。
 とりあえず縁談などまだまだ考えるつもりもないと言っていたので、いましばらくは安心だが、だからといっていつまでも手をこまねいているわけにはいかない。彼女が成人になるまでもう六年もないのだから。

 休日の昼下がり、リチャードは久しぶりに従兄弟のエドワードのもとを訪れた。
 子供のころは親戚としてときどき一緒に遊んだ仲だが、いまの彼は国王である。いかに従兄弟といえどふらりと訪れることはできず、たまには会いたいと時間を取ってもらった次第だ。
 彼の私室に通されて、用意されたお茶を飲みながら互いに近況を話し合う。私的な場ということで口調も砕けたものになっていた。そのうちに幼いころのいろいろな出来事にまで話が至り、盛り上がっていたのだが――。
「それで、本題は何だ?」
 一段落したところで、彼は不意打ちのようにそう切り込んできた。涼しい顔のまま見透かしたようなまなざしをこちらによこして。リチャードは思わず苦笑する。
「あいかわらず嫌になるくらい察しがいいですね」
「おまえがわかりやすいだけだ」
「そんなことを言うのはあなただけです」
 この九歳上の従兄弟には幼少のころからずっと敵わなかった。リチャードはあらためてすっと姿勢を正して彼を見つめると、用件を告げる。
「縁談の申し入れをする際、あなたに国王陛下として口添えをお願いしたいのです」
「口添えね……わかっているとは思うが、従兄弟だからといって特別扱いすることはできんよ。わたしを、そして皆を納得させられるだけの道理はあるのかい?」
「騎士団長に就任した際にいただける支度金の代わりであれば、前例があります」
「ほう」
 エドワードの目が興味深そうに輝いた。
 一般的には国益となる功績を挙げたときに褒美として口添えしてもらうのだが、いまは周辺国と和平を結んでおり、一介の騎士が国益となる功績を挙げることは現実的に不可能と言っていい。
 他に何か方法はないだろうかと必死に調べたところ、騎士団長就任の折に、支度金を辞退して口添えを求めた人物が過去にいた。異例ではあるが、前例があるのだから不可能ではないはずだ。
「おまえは騎士団長になるつもりなのかい?」
「はい、そのつもりです」
 昇進についてはこれまであまり積極的に考えてこなかった。だがシャーロットと結婚するためなら本気で騎士団長を目指す。動機は不純だが、職務はもちろん真面目にしっかりと果たすつもりだ。
「いいだろう……と言いたいところだが、女性側の意思を蔑ろにする口添えはいささか時代遅れでね。わたしもあまり気が進まない。相手の女性とすでに恋仲になっているというなら話は別だが」
「……俺は、必ず彼女を幸せにします」
 もちろん一点の曇りもない本心ではあるのだが、論点はそこではない。わかっていてもそう宣言することしかできなかった。いたたまれなさを感じて曖昧に目を伏せると、エドワードが軽く肩をすくめた。
「まあ、当主のウィンザー公爵に無断で進めるわけにもいかないからな。彼と相談して結論を出すことにしよう。騎士団長になるにはまだしばらく時間がかかるだろうし、それで構わないな?」
「はい」
 どのみち父であるウィンザー公爵に賛成してもらわなければ始まらない。リチャードは祈るような気持ちで深々と頭を下げた。

「おまえ、結婚したい女性なんて本当にいるのか?」
 後日、父であるウィンザー公爵に領地まで呼びつけられた。
 エドワードが縁談の口添えについて彼に相談すると言っていたので、その話だろうと予想はしていたが、まず大前提である結婚したい女性の存在を疑われるとは思わなかった。
「ロゼリアとの婚約解消を求めたときにそう言ったはずですが」
「あれから五年だぞ。男色を隠すための方便かと思っていたよ」
「あなたまでそんな噂を信じてたんですか……」
 新たに婚約する気配もなく、浮いた話もないことから、一部ではいまだに男色だの何だのと囁かれているようだが、まさか家族にまでそう思われていたなんて――さすがにげんなりしてしまう。
「では、相手がどこの令嬢なのか今度こそ教えてもらおう。陛下に口添えを頼む以上、素性を伏せたままというわけにはいかんからな。公爵家にふさわしい相手かどうかをまずこちらで見極める必要もある」
 できれば彼女がもうすこし大きくなるまで伏せておきたかったが、その言い分はもっともである。彼の意向に反してまで隠しつづけるのは得策でないと判断し、正直に答えることにした。
「グレイ伯爵家のシャーロット嬢です」
 それを聞いて、彼は考えをめぐらせるように首をひねる。
「グレイ伯爵家には確か息子しかいなかったと記憶しているが……おまえが親しくしている元同級生のアーサーが長男で、あとは次男、三男、四男だけではなかったか?」
「そのアーサーの娘です」
「ああ、そういうことか……ん?」
 納得しかけたところで混乱したように再び首をひねった。その顔は、だんだんと困惑をにじませた不安そうなものに変わっていく。
「その娘は何歳なのだ?」
「いま十歳ですね」
 予想はしていただろうが、予想以上の若さだったのかもしれない。
 彼は愕然として組んでいた両手のうえにうなだれかかった。そのまましばらく身じろぎもせず固まっていたかと思うと、やがて疲れたように深く溜息をついて顔を上げる。
「このことを他に誰が知っている?」
「父上にしか話していません」
「もう誰にも口外するんじゃないぞ」
「わかっています」
 彼に請われて、シャーロットとの出会いについてなど詳細を話していく。
 誘拐事件のときに出会ってどうしようもなく惹かれたこと、顔を合わせたのはそのときだけということ、アーサーにも気持ちを伝えていないこと、アーサーからたびたび写真をもらっていること――。
 ウィンザー公爵は何とも言えない複雑な顔をして聞いていたが、話が終わると椅子の背もたれにゆっくりと身を預け、しばらく思案をめぐらせるような素振りを見せたあと、静かに口を開く。
「このことは陛下にも話すが構わないな?」
「それは……ええ……」
「口添えについては陛下と相談のうえでどうするか決める。おまえは騎士団長になれるよう励め。騎士団長を拝命しないかぎり話は始まらないのだからな」
 リチャードはひとまず断られなかったことにほっとして、深く頭を下げた。
 可能性があるのなら口添えを得るための努力は惜しまない。だが、たとえ口添えを得られなかったとしても結婚をあきらめるつもりはない。そのときのために別の方法もすでに模索していた。

 三年後、アーサーが慌ただしく王宮の職を辞して領地に戻った。父親であるグレイ伯爵が急死したため爵位を継ぎ、当面は領地経営に専念するのだという。再び王宮勤めをするかは未定とのことだ。
 しばらくして、彼から挨拶と近況をしたためた手紙が届いた。律儀にもシャーロットの写真を添えて。愛らしく凜々しく聡明に成長しつつある彼女の姿を見て、ふっと頬が緩んでしまったが。
 俺が何を望んでいるかを知ったら、おまえは――。
 彼と親しくなるにつれて、騙して利用していることへの罪悪感が大きくなっていく。いつだって誠実に接してくれるからなおのこと。それでもこの望みだけはどうしても譲るつもりはなかった。

 さらに一年が過ぎ、リチャードはようやく騎士団長を拝命した。
 すぐさまグレイ伯爵家にシャーロットとの縁談を申し入れる。国王陛下の口添えとともに。こうなると余程の事情がないかぎり断ることはできないのだ。それでも承諾の返事が届くと大きく安堵した。
 あいつ、俺を軽蔑してるかもな――。
 形式的な文面からは彼がどう思っているかなどわかりようがない。それでもどんな気持ちで返事をしたかは想像がつく。もとより覚悟を決めたうえでこういう選択をしたはずなのに、胸が苦しかった。
「え、アーサーが?」
 そんな折、彼が騎士団本部を訪れてリチャードに面会を求めてきた。部下に通すよう命じると、ややあって彼が一礼して騎士団長の執務室に入ってくる。その表情はいつもより硬い。
「……久しぶりだな」
「はい」
 部下を下がらせると、二人きりで応接ソファに向かい合って座る。
「約束もなくお伺いして申し訳ありません。所用で王都まで来たので、失礼ながらついでに寄らせていただきました」
「来てくれてうれしいよ」
 リチャードが淡い微笑を浮かべてそう応じると、アーサーも頬を緩めた。縁談には触れないまま互いに近況などを話すものの、長くは続かず、やがて息の詰まるような気まずい沈黙が落ちる。
「……シャーロットは」
 そう切り出したのはアーサーだ。しかしながら目は曖昧に伏せられたままである。
「あの子は、わたしたち夫婦にとってかけがえのない大切な娘です。これまで愛情をもって大事に育ててきました。なので……こんなことを言える立場でないのは重々承知しておりますが……」
 彼はそこで意を決したように顔を上げるとリチャードを見据えて訴える。
「どうか、シャーロットを幸せにすると約束してください」
 その声にはどこか悲痛な響きがあった。
 本当は卑怯だと非難したかったのかもしれないし、最低だと侮蔑したかったのかもしれないし、裏切られたと怒鳴りたかったのかもしれない。けれど彼に言えるのはそれが精一杯だったのだろう。
「ああ……必ず幸せにすると約束する」
 リチャードはまっすぐ目をそらすことなく受け止めて、真摯に応じた。

 それから数か月、挨拶にも行けないまま婚儀の日が迫っていた。
 騎士団長に就任したばかりで思った以上に忙しかったのだ。王都で重要な行事がつづいたというのもある。何より婚儀のときに十日も休暇を取ることを考えると、それ以前にもというのは躊躇われた。
 アーサーは無理して来なくてもいいと言ってくれた。
 しかし直前になり結婚休暇を一日前倒しにできたので、急遽、連絡も入れないままグレイ伯爵家へ行くことにした。挨拶をして、その翌日に一緒にウィンザー公爵家へ向かえばいいと考えて。
 本音を言えば、挨拶より何より一刻も早くシャーロットに会いたい、顔を見たい、姿を見たい、声を聞きたい、できればほんのすこしでいいから触れたい。ただそれだけなのだけれど――。



 カーディフの街に到着したのは予定どおり夜だった。
 ここからほど近いグレイ伯爵家にはあした向かうつもりである。今日のところは馬を預けて大通りの宿に泊まった。執事二人は隣の部屋だが、寝るとき以外はリチャードの部屋に居座った。
「本当にグレイ伯爵家に行くんですか?」
「あたりまえだろう」
 翌朝、宿の近くにあるカフェで執事二人と朝食をとった。
 彼らはいまだにグレイ伯爵家に行くことに難色を示している。失礼になるとか迷惑になるとかで。ここに来るまでの道中でもさんざん引き留められたのだが、気持ちは変わらなかった。
「さあ、そろそろ準備をして行くぞ……ん?」
 カフェを出て、着替えるためにいったん宿に戻ろうとしたそのとき――向かいを軽やかに歩く少女が目に留まった。すこし距離があり顔もはっきりとは見えなかったが、それでも見紛うはずがない。
「あの子はシャーロットだ」
「えっ……?!」
 特徴的なストロベリーブロンドからしても間違いない。
 だが、彼女はグレイ伯爵家の敷地外に出ることが許されていないはずだ。もしかしたら今現在は変わっているのかもしれないが、さすがにひとりで街をうろつくことが許されているとは思えない。
 執事二人とこっそりあとをつける。
 彼女は大通りにある最も店構えのいい宝飾店に入った。窓から覗くと、どうやら手持ちのネックレスを売ろうとして断られたようだ。未成年で身分証も持っていないのだから当然の結果である。
 沈んだ顔をして彼女が出てきた。声をかけようかどうしようか迷っていると、そそくさと近づいてきた怪しい男にあっさりと騙されている。こうなってはもう静観などしていられない。
「おまえらは出てくるんじゃないぞ。いいな?」
「あ、ちょっと……!」
 執事二人に言い含めると、そろりと背後から男に近づいて汚い手をひねり上げる。
「イテテテテテテ!」
 男は苦痛に顔を歪ませながら悲鳴を上げた。逃れようともがいているが力はすこぶる弱い。雑魚だ。リチャードは無表情のまま冷たく吐き捨てるように言う。
「いますぐ失せろ」
「わかったわかった!」
 手を離すと、男はその反動でよろけて蹴躓いてひとり地面に転がった。よろよろと起き上がり、リチャードから距離を取ったまま恨めしげに睨みつける。
「チッ、護衛がいたのかよ」
 失敗したとばかりにそんな捨て台詞を吐いて、路地裏へと走り去った。

 シャーロットは唖然としていた。
 そんな表情もかわいい。現実の彼女は写真とは比べものにならないほど色鮮やかで、みずみずしくて、やわらかそうで、あたたかそうで、いい匂いもして、こうやってただ見ているだけでドキドキする。
 しかし彼女の後方で呆れたような顔をしている執事が目に入り、我にかえった。さほど表情には出ていなかったのではないかと思うが、あらためて真面目な顔を装ってから彼女に声をかける。
「ここで客引きをするのは大抵ロクなやつじゃない。君のような世間知らずな子はいいカモだ。二束三文で買いたたかれるくらいならまだマシで、取り返しのつかない悲惨な目に遭うこともある」
「……助けてくださってありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
 ようやく彼女も我にかえり、美しく可憐な声でそう応じて深々と一礼した。しかし急に不安そうに顔を曇らせたかと思うと――。
「お金……どうしましょう……」
「…………」
 意に沿わない結婚を目前に控えているときにひとりで街に来て、手持ちのネックレスを売ってまで金を得ようとするなんて、嫌な予感しかしない。
「どうしてそこまで現金がほしいんだ?」
「わたし、結婚のために明日この地を離れる予定で」
「まさか結婚が嫌で逃亡とかじゃ……ない、よな?」
「最後に街で遊びたかっただけです」
 彼女がそう無邪気に笑いながら答えるのを聞いて、安堵の息をついた。
 とりあえず結婚から逃げ出すつもりはないようだ。しかし一日だけとはいえこうやって前日に逃亡しているのだから、嫌ではあるのかもしれない。たとえそうでも結婚をあきらめてやることはできない。だから――。
「それなら俺が協力するよ」
 せめて、このささやかな願いくらいは叶えてやりたいと思ったのだ。

 さきほどの宝飾店で、リチャードが騎士団長の身分を明かして頼んだところ、すぐに態度を翻してネックレスを買い取ってくれた。断られたら公爵家の身分証を見せるつもりでいたが、その必要はなかった。
「ありがとうございました」
 店を出るとシャーロットは深々と頭を下げる。
 あのネックレスは未成年が持つにしてはなかなかの品だったらしく、かなり高値で売れたが、本当に売ってしまってよかったのかはいささか心配になる。まあ、いざとなれば買い戻せばいいだろう。
「俺のことはリックと呼んでくれ。君は?」
「……ロッテと」
 ありのままの彼女をもうすこし見てみたいという出来心で、ひとまず素性を隠すことにした。リチャードという名前だけで気付かれるとは思えないが、念のため短縮形を告げる。彼女も素性を隠そうとしているのか短縮形を名乗った。
「ロッテ、君はこれからどうするんだ?」
「まずカフェに行って、それからお芝居を観に行くつもりです。そのあとのことはまだ決めていませんが、いろいろとお店をまわってみようかなって」
 わくわくと心躍らせながら話す彼女はとてもかわいらしかった。ただただ楽しみで仕方がないという気持ちが伝わってくる。だからこそ危なっかしくてとてもひとりにはしておけない。
「それさ、もしよかったら俺も同行させてもらえないか?」
「えっ、でもこれ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
「いや、ちょうどひとりで寂しいと思ってたところなんだ」
「それでしたら、ぜひ」
 彼女は愛らしい笑顔でそう答えた。
 もちろんリチャードとしてはありがたいのだが、あまりにもあっさりと承諾されたことについては何とも言えない気持ちになる。ますますひとりにはしておけないと思ってしまった。

 これは、いわゆるデートなのでは――?
 カフェの窓際の席でシャーロットと向かい合わせに座っていたところ、ふとそんなことを考えてしまい、だらしなく顔が緩みそうになるのをこらえて努めて何気ない表情を装った。
 窓の外では執事二人がじとりとした視線をこちらに送っている。いいかげんにしてくださいという声が聞こえてくるかのようだ。それでも出てくるなという命令には従ってくれるらしい。
 幸いにも彼女はそんな二人に気付いていない。初めて見るカフェにきらきらと目を輝かせたり、まわりの視線に落ち着かなさそうにそわそわしたり、いちいち初々しい反応をしている。けれど――。
「騎士?!」
 王都の騎士団に所属していると話したらすごい勢いで食いついてきた。驚いて思わずのけぞりがちに目を瞬かせると、彼女は我にかえり、恥ずかしそうに頬を染めながら居住まいを正す。
「わたし、王都で誘拐されたことがあるんですけど、そのとき騎士の方に助けていただいて。まだ五歳だったので、当時のことはうっすらとしか記憶にありませんが、それでもわたしにとって騎士は憧れの存在になったんです」
「そう、か……」
 誘拐のことは記憶から消え失せているという認識だったが、そうではなかった。しかもそのときの自分たちを見て騎士に憧れてくれたなんて――くすぐったくて、うれしくて、思わず口元が緩みそうになってしまった。

「なあ、君の婚約者ってどういうひとなんだ?」
 結婚の話が出たついでに、緊張しつつもさりげなくそんな質問を振ってみる。どう思っているのか彼女の本音を聞いてみたかったのだ。
「まだ会ったことがないのでわからないんです」
 シャーロットは肩をすくめる。
「急に決められた結婚なので。相手は父と同じ年齢の侯爵様だと聞いています。悪い奴ではないと父は言っていましたが……その……ここだけの話にしてもらえます?」
「ああ」
 流れからしてどうやらあまりいい話ではなさそうだ。不安を感じながらも素知らぬ顔をしたまま頷くと、彼女は小さな口の横に小さな手を添えて身を乗り出し、こそっと小声で言う。
「その方、どうやら男色家らしくて」
「えっ……」
「十年前、それに目覚めて一度婚約を破棄しているんだそうです。でも嫡男なので、家存続のために仕方なく結婚することにしたんだろうって。両親がこっそり書斎でそう話しているのを聞いてしまって」
 まさかアーサーにそう認識されていたなんて――。
 確かに男色の噂はあったが、彼はずっと変わりなく普通に接してくれていたので、てっきり知らないものとばかり思っていた。たとえ知っていても、そもそも軽率に噂を鵜呑みにする人間ではないはずだ。怪訝に思いながら、渇いた喉を潤そうとティーカップを手にとる。
「それってただの噂だったりはしないのか?」
「いえ、父は実際その方に懸想されているらしいです」
「ブフッ」
 思わず飲みかけていた紅茶を吹いた。どうやら彼女にはかからなかったようだが、それでもハンカチで口元を拭いながらすまないと謝罪する。彼女はあまり気にしてなさそうでほっとした。
 それにしても……懸想って、俺が、あいつに?!
 一体全体どうしてアーサーはそんな突拍子もない勘違いをしたのだろう。あまりにもわけがわからなくてクラクラする。それならわざわざ娘のシャーロットを結婚相手に選んだりはしないはず――いや。
「まさか、父上の身代わりとして君が望まれたとかいうんじゃ……」
「父はおそらくそうではないかと推測していました。先方がこの結婚を強く希望したらしくて。父としては断りたかったけれど、事情があって受け入れるしかなかったそうです」
 おまえなぁ!!!
 頭を抱えながらうなだれる。これではまるで歪んだ執着心をもった危ない奴だ。いますぐ釈明したい衝動に駆られたものの、グッと堪える。ここで感情的に行動するのは得策ではないだろう。
「君は、嫌じゃないのか?」
「心配ではありますけど、わたしと向き合ってくださるのならそれで十分です。せっかく家族になるのですから仲良くしたいですし、そのためにはこちらが心を閉ざしていてはいけませんよね」
 気負いのない様子からしても本心だろう。
 前向きに受け入れる心づもりがあることにはとりあえず安心した。だがそれは相手がリチャードだからというわけではない。顔合わせもしていないのに望みようのないことだとはわかっていても、それでも――。
「よし、今日は思いっきり楽しもう!」
「え……あ、はい」
 リチャードは気持ちを切り替えた。
 誤解はあれど、彼女に結婚から逃げる意思がないのなら焦る必要はない。ここでどうにもならないことをモヤモヤと考えているより、いまは彼女の希望を叶えることだけに注力しよう、そう心に決めた。

 ますは観劇だ。
 現在公演中の演目は大人気らしくほぼ満席だったが、運良く二つ並びの席が取れた。ただし角度がついていて見づらいバルコニー席だ。それでも彼女は食い入るように舞台だけを見つめていた。
 一方でリチャードはそんな彼女の横顔ばかり見つめていた。それだけで幸せな気持ちになる。もちろん大事な場面では舞台にもチラチラと目を向けたし、歌やセリフはそれなりに聞いていたけれど。
 よりによってこんな話とは――。
 ヒロインが政略結婚の前夜に身分違いの恋人と駆け落ちするが、最終的にはまわりにも認めてもらい、正式に結婚を許されてめでたしめでたしという話だった。よくある王道のラブロマンスである。
 けれども何となく彼女には見せたくないと思ってしまった。これに感化されて駆け落ちすることはさすがにないだろうが、ヒロインに自己を投影して見るかもしれない。そう考えるだけでモヤモヤする。
「君は……その……好きなひとがいたりしないのか?」
「いませんよ」
 どうしても気になり、劇場を出てからおそるおそる尋ねてみたところ、彼女は動じる素振りもなくさらりとそう答えた。そして劇場前の広い階段を軽やかに駆け下りると、ふわりと身を翻して笑った。
 リチャードはつられたように軽い笑顔を見せながら、内心ほっとしていた。

 観劇のあと、昼食にしようと中央広場で移動販売のサンドイッチを買った。
 レストランに行くという手もあったが、せっかくなので彼女には縁遠いものを経験させてやりたいと思ったのだ。移動販売も、立ち食いも、バゲットにかぶりつくのも初めてに違いない。
 もちろん嫌がれば無理をさせないつもりだったが、彼女は慣れないながらもそれを楽しんでいるようだった。その一生懸命な姿がかわいくて、ニコニコと満面の笑みを浮かべたまま見つめてしまう。
 その後ろで執事二人がそろって呆れた顔をしているのが見えたが、素知らぬふりをして、彼女に見つからないようこっそりと追い払うような仕草をする。それでも彼らは動かなかった。
「これ、とてもおいしかったです」
 ひそかな攻防には気付かないまま、彼女はきれいに完食するとそう声をはずませる。どうやら他の移動販売にも興味を持ったようだが、もうおなかいっぱいだからと残念そうにしていた。
「またいつか来ればいいさ」
 結婚したら、たびたびこんなふうに二人で街に繰り出そう。王都ならもっといろいろなものを見せてやれる。リチャードは青く晴れわたった空を見上げながら、遠くはない未来に思いを馳せた。

 そのあと大通りの店をいろいろと見て歩き、おみやげを買った。
 紅茶店では紅茶選びに困っていたようなので助言をした。アーサーの好みはだいたい把握しているので、勧めたものはどれも彼に気に入ってもらえるはずだ。そのことはまだ言えないけれど。
「自分のものは買わなくていいのか?」
 そう水を向けると、彼女はすこし迷いつつも雑貨店に入った。
 特に目当てはないのか店内をのんびりと見て歩いていたが、ふいに動きが止まった。その視線の先にあったのは銀の指輪だ。細い流線型のリングに紫色の小さな宝石が埋め込まれている。
 ただ、アクセサリというよりほとんどおもちゃのようなものだ。見たところ貴金属としての価値は低そうだし、埋め込まれた紫色の小さな宝石もたいしたものではないだろう。それでも――。
「それ、気に入ったのか?」
「ええ……買いませんけどね」
「だったら俺に贈らせてくれ」
「えっ?」
 緑色の瞳をきらきらと輝かせながら見ていたのだから、気に入ったことは明白だ。さっと手にとり店員のところへ持っていこうとしたが、腕をつかんで引き留められた。
「いけません!」
「高いものじゃない」
「そうではなくて」
 そこであらためて強く真剣なまなざしを向けられて、リチャードは息を飲んだ。
「わたし、あしたには嫁ぎ先に向かうんです。そこに他の男性からの贈り物なんて持っていけません。それも指輪だなんて……自分で買わないのも変に誤解されたくなかったからです」
 当然だが、彼女はここにいるリックが結婚相手だとは知らない。
 だからといってそこまで深く考えているとは思わなかった。黙っていればわからないのに。父親譲りのそういう誠実なところを好ましく思うと同時に、軽率な自分に落ち込みもした。
「悪い、今日の記念にと思ったんだ」
「わかっていただければ……」
 彼女はどこか申し訳なさげにそう応じたが、次の瞬間、急にパッと表情を明るくして両手を合わせる。
「そうだわ! わたしのほうからリック様に何か贈らせてください。今日の記念とお礼をかねて。リック様のおかげで街を楽しむことができましたし、お父さまへのおみやげも買えました」
 彼女が、俺に――?
 予想もしなかった申し出に驚いたが、落ち着くにつれてじわじわと喜びが湧き上がってくる。そしてその気持ちのまま素直に表情を緩ませてしまう。
「じゃあ、遠慮なくいただこうかな」
「はい!」
 シャーロットは溌剌とした笑顔でそう返事をした。

「贈り物、カフリンクスはいかがですか?」
 ひとまず店をあとにして大通りを歩いていたところ、彼女にそう提案された。
 これか――と自分のカフリンクスを見る。いまつけているものは細かな傷があちこちにあってだいぶ古びていた。実はきれいなものもいくつか持っていたりするのだが、それは言わないことにする。
「そろそろ買い換えたいと思ってたところだし、ロッテが贈ってくれるならうれしいよ」
 シャーロットからもらえるのならきっと何でもうれしいが、カフリンクスは長く使えそうだし、何より仕事中でもさりげなく身につけていられるのがいい。想像するだけで胸が躍った。
 さっそくカフリンクスを取り扱っていそうな店を探して入ると、彼女はすぐさま目当ての品を吟味し始めた。時折リチャードを見つめて似合うものを考えているようで、何かくすぐったくなる。
「リック様、これはいかがですか?」
「いいね」
 興奮ぎみに尋ねられて、リチャードも同調するようにそう声をはずませた。
 彼女が選んだからではなく本当に気に入ったのだ。シンプルで洗練されたデザイン、邪魔にならないサイズ、気品が感じられる上質な輝き――どれも自分の好みに合っていて文句のつけようがない。
 即座に彼女は購入を決めた。思いのほか高かったらしく値段を聞いて焦っていたが、どうにか足りたようだ。申し訳なく思いつつも、謝罪は求めていないだろうとあえて気付かないふりをした。

「これ、わたしの気持ちです」
 中央広場に誘われ、そこであらためてカフリンクスの入った手提げ袋を渡される。
 思いがけずシャーロットと出会って街を楽しんだうえ、一生の宝物になるであろう贈り物までもらえるなんて、僥倖としか言いようがない。けれど、いまはまだ知り合いとも呼べないような間柄でしかなく。
「ロッテ……今日、ここで君に出会えてよかった」
「はい……」
 “リック”に言えるのはここまでだ。
 彼女も何か言いたいことがありそうな様子に見えたが、そっと口をつぐむと、気を取り直したように顔を上げてにっこりと微笑んだ。

「あっ!」
 直後、見知らぬ若い男がリチャードにぶつかった。
 その拍子に、彼が持っていたカップからジュースらしきものがこぼれて、リチャードの衣服にかかった。白いシャツの袖からはオレンジ色の液体が滴り落ちている。
「ああっ、すみません!!」
「いいよ、仕方ない」
 勢いよく謝罪する若い男に、リチャードは苦笑しながら軽く手を上げてそう応じた。故意でないならこれしきのことで責めるつもりはない。しかしながら若い男はなぜか必死に食らいついてくる。
「そのシャツ僕に洗わせてください!」
「え、洗う……?」
「泊まってる宿がすぐそこなので」
「いや、そこまでしてくれなくていい」
「それじゃあ僕の気がすみません!」
「だが、連れもいるし……」
「できるだけ急いでやりますので!」
 こちらが困惑するのも構わず、上目遣いで見つめたままグイグイと距離を詰めてくる。
 何か、意図があるのかもしれないな――。
 リチャードは王都では騎士団長としてそこそこ顔が知られているし、公爵家嫡男であることも隠していない。その正体に気付き、何らかの目的で事を起こそうとしている可能性は十分に考えられる。
 それなら、ここで誘いに乗ったふりをして探ってみるべきだろう。
 ただシャーロットが問題だ。あまりこちらの都合に巻き込みたくないが、万一のときは近くにいてもらったほうが守りやすい。迷ったものの、やはりこのまま一緒に連れて行くことにした。
「……わかった」
 あえて仕方ないとばかりに大きく溜息をついて、承諾する。
 さっそく若い男の案内でシャーロットととも宿に向かう。その途中、遠巻きに窺っていた執事二人にこっそりと目配せすると、彼らは委細承知しているような面持ちでうっすらと頷いた。

 連れてこられたのは、リチャードが昨晩から執事二人と泊まっている宿だった。
 大通りの宿は二つしかないので同じでも不思議ではない。執事二人がひそかについてきていることを確認してから、若い男――ジョンという――に促されてシャーロットと中に入った。
「お嬢さんはこちらでお待ちくださいね」
 ジョンは振り返ってそう告げた。
 客室に行くなら、未婚女性のシャーロットは置いていかざるを得ない。いささか不安だが、そもそも彼女が狙われているわけではないし、宿の主人も執事二人も近くにいるのだから大丈夫だろう。
「なるべく早く戻るよ」
 どこか心細そうな彼女にやわらかく微笑んでそう告げると、念のため宿の主人に彼女のことを気にかけてくれるよう頼んでから、ジョンにつづいて階段を上っていく。
「ここです、どうぞ」
 案内されたのは二階に上がってすぐの部屋だった。
 警戒しつつ足を踏み入れるが、取り立てて変わったところのない簡素な客室で、他の人物がひそんでいるような気配もなかった。それでも何があるかわからないので警戒は怠らない。
「シャツ、洗いますので脱いでくださいね」
「ああ……」
 シャツを脱ごうとするが、ジョンはじっとこちらを見たまま目をそらそうとしない。どことなく緊張しているようにも見える。やはり脱ぐところを狙って何か仕掛けてくるつもりだろうか――。
「なあ、悪いんだけど向こうを向いててくれるか? 同じ男とはいえ、そんなに熱心に見つめられると落ち着かない」
「あっ、すみません」
 彼は素直に背を向けた。
 気のせいだったか――その動きからも体格からも訓練を受けた人間とは思えない。だから彼自身が仕掛けるとすれば隙を狙うはずである。シャツを脱ぐというのはその絶好の機会だと思ったのに。
 部屋の中で唯一隠れられそうなベッドの下を確認してみるが、やはり誰もいない。部屋の外にもこちらを窺うような人影や気配はない。神経を張り詰めたまま素早くシャツを脱いで上半身裸になる。
「脱いだぞ」
 そう言うと、振り返った彼にシャツを投げるようにして渡した。すぐそばにまで来る必要がないように。彼は落としそうになりながらもどうにか受け取り、人懐こい笑みを浮かべる。
「では、洗ってきますね」
 そう言い置き、そそくさと扉のほうへ向かっていった。
 入れ違いに刺客がやってくる手筈になっているのか、シャツに何らかの細工をするつもりなのか、あるいは本当にシャツを洗うだけのつもりなのか。リチャードは彼を目で追いながら思案をめぐらせていたが――。
「やめてください!! 許してくださいっ!! ああーーーッ!!!」
 彼は扉のまえで動きを止めたかと思うと、悲鳴を上げながら自分の着ているシャツを力任せに破り、何度も扉に体当たりした。そして叩きつけるように勢いよく扉を開けて飛び出し、階段を下りていく。
「えっ……」
 何が起こったのか即座には理解できなかった。
 これは罠だ――一呼吸遅れてようやくそのことに思い至ると、上半身裸のまま全速力でジョンを追って階段を駆け下りていく。一階に着くと、彼はもうすでに宿の主人の背中に縋り付いていた。
「助けてください! あのひとの服を洗ってあげようと脱いでもらったら、いきなりベッドに押し倒されてシャツを破かれて、もうすこしで襲われるところだったんです!」
「俺は何もしていない。こいつが急に一人芝居を始めたんだ」
「嘘です! 嫌だって言ったのに、押さえつけてキスして体をまさぐってきたじゃないですか! 僕が隙をついて逃げ出さなかったら強姦されてました!」
 二人のほかに誰もいない密室内でのことであり、どちらも証明はできない。
 ただ状況的にはこちらが不利である。シャツを破かれたまま逃げる彼を半裸で追っていたのだ。おまけに彼の露わになった肌は白く、体は細く、顔はかわいく、男に襲われるというのにも妙な説得力がある。
 もっともこちらには公爵家の地位があるので、彼の証言しかないのなら最終的にはどうとでもできるだろう。それでも多くのひとにこの状況を見られるとやっかいだ。できるだけ早急に手を打たなければ――。
「それはおかしいですね」
 ふと涼やかな声が上がった。
 シャーロットだ。彼女はジョンのいるところからそう遠くない席に座っていた。怪訝に振り返った彼を、意志の強そうなまなざしで見据えたまますっと立ち上がる。
「わたしがここで待っていることも、宿の方がここにいらっしゃることも、リック様はご存知でした。それなのに軽率に襲ったりするでしょうか。悲鳴も物音も丸聞こえなくらい近い部屋なのに」
「それはっ……あのひとが男色のケダモノだからです! 我慢できなかったんです!」
 ジョンは後ろのリチャードを指差しながら必死に言い募る。それでどうにか反論したつもりだろうが――。
「リック様が男色かどうかは存じ上げません。ですが、いずれにしてもそのような無体を働く方ではないと、わたしは信じています」
「ぐっ……」
 シャーロットは動じることなく粛々と追い込んだ。
 その凜とした緑色の瞳にリチャードはゾクッと身を震わせる。そう、幼かったあのころから確かにその片鱗があった。聡明で、まっすぐで、凜として、勇気があって――彼女に惹かれたのは間違いではなかったのだ。そう胸を熱くしていると。
「ジョン! プランBよ!!!」
 突如、静寂を切り裂くような甲高い声がどこからか響いた。
 リチャードは思考の海から引き戻されて、反射的に声の聞こえた入口のほうに振り返ろうとしたが、そのときジョンが全力でシャーロットに突進し始めたのを目にして、ハッと息を飲む。
「ロッテ!!!」
 床を蹴るが、いまからではもう間に合わない。
 大きく伸ばされたジョンの右手がシャーロットにかかり――。
 ドタドタガシャン!!!
 リチャードは動きを止めて呆然とした。なぜか襲いかかったジョンのほうが吹っ飛んでいたのだ。テーブルや椅子を派手になぎ倒し、その上に仰向けに横たわったまま苦痛に顔をゆがめている。
「えっ、と……」
 何が起こったのか理解しきれきない。
 その様子に気付いたのか、シャーロットは乱れたドレスの裾を直して姿勢を正すと、リチャードのほうに目を向けてにっこりと微笑む。
「わたし、武術を少々たしなんでおります。主に身を守るためのものですけど」
 彼女がジョンを軽く投げ飛ばしたように見えたのは、現実だったのだ。
 そういえば誘拐事件のときに「騎士さまみたいに強くなりたい」と言っていたが、まさか本当に強くなるとは思わなかった。ようやくふっと息をついて気を緩めると、彼女に微笑み返す。
「痛っ! 乱暴にしないで!!」
 そのあいだに執事二人がジョンと女性を拘束していた。
 ジョンはもうあきらめたように憔悴した顔でおとなしくしている。しかし、女性のほうは髪を振り乱してヒステリックに喚き散らしていた。声からして「プランB」の指示を出した人物のようだ。
 ん、彼女は――。
 リチャードは遠目ながらその顔に既視感を覚えた。怪訝に眉をひそめ、そのまま近づいていくと身をかがめて覗き込む。
「おまえには見覚えがある。ロゼリアの侍女だな。俺を陥れるよう命じられたか」
「…………」
 彼女は顔をそむけた。表情からも、顔色からも、図星を指されて焦っていることが見てとれる。リチャードはさらに追及しようと口を開きかけたが、その寸前に衛兵らしき二人組が踏み込んできた。
「何があった?」
 騒ぎを聞きつけたのか、混沌とした光景を見まわして誰にともなく高圧的に尋ねる。だがリチャードが騎士団長の身分を示す白銀の懐中時計を見せると、はじかれたように敬礼した。
「この件はこちらで預かりたい。拘束する場所だけ貸してもらえないか?」
「承知しました」
 彼らがそこまで先導してくれることになり、執事たちはさっそく連行しようとそれぞれ二人を引っ立てた。リチャードはジョンを拘束しているほうの執事に近づくと、そっと小声で話す。
「こいつらは別々に拘束しておいてくれ」
「承知しております……あなたは?」
「シャーロットを家まで送ったら行く」
「まさか挨拶なさるんですか?」
「いや、そんな時間はないだろうしな」
 できればアーサーに挨拶したかったが、ここにきてすべきことが増えてしまったので仕方がない。急がなければ結婚式に間に合わなくなってしまう。リチャードは一行を見送りながらひっそりと溜息をついた。

「ロッテ、すまないが少しここで待っていてくれ。服を着てくる」
 いつまでも上半身裸のままというわけにはいかないので、そう言って階段に向かおうとしたところ、シャーロットがふと心配そうな顔になり声をかけてきた。
「そういえばまだシャツを洗っていないのではありませんか?」
「大丈夫だ。俺もここに泊まっているから部屋に着替えがある」
「そうだったんですね」
 リチャードは彼女に見送られながら階段を上がる。二階でジョンの部屋に寄り、置き去りになっていた手提げ袋とシャツを回収すると、自分が宿泊している最上階の部屋で新しいシャツを着た。
 そうだ、どうせならこれも――。
 手提げ袋を開け、彼女からの贈り物であるカフリンクスをつけてみる。グレイ伯爵家へ挨拶に行くときに着るつもりだった新しい上質なシャツに、その新しい上質なカフリンクスはよく合っていた。
 いろいろな角度から姿見に映しては見え方を確認する。袖口の小さな白銀が視界に入るだけで口元が緩んでしまうが、いまは浮かれている場合ではないと引き締め直し、彼女の待つ一階へ下りていった。
「すまない、君を巻き込んでしまって」
 カウンターからほど近い席で向かい合わせに座ると、彼女にそう謝罪する。
「おそらく俺の元婚約者ロゼリアの仕業だ。彼女とはいわゆる政略結婚をすることになっていたが、彼女の家が不正を働いていたことが発覚して婚約を解消した。それを恨んでのことだろう」
「そうでしたか……彼女もおつらかったのでしょうね」
「しかし、まさか十年も経ってこんなことを仕掛けてくるとはな。不正は内々に処理したから公にはならなかったし、それもあって彼女は他家に嫁ぐことができたと聞いていたんだが」
 詳しくは知らないが、ポートランド侯爵家から望まれての婚姻だと聞いている。年齢も家格もつりあいがとれていて相手も実直な人らしいので、嫁ぎ先としては悪くなかったはずだ。だからといって上手くいっているとは限らないのだけれど。
「連行していった方たちとはお知り合いなのですか?」
「あー……なんていうか……まあ、お目付役みたいなもんだな。来るなと言ったが勝手についてきた。いつもついてくるわけじゃないんだが、今回は特別で……」
 いい年をした大人なのに過保護すぎると思われたくなくて、嘘をついているわけではないのにしどろもどろになってしまった。そんなリチャードをどう思ったのか彼女はくすっと笑う。
「来てくださって助かりましたね」
「まあ、結果的にはな」
 二人を素早く拘束してもらえて助かったのは確かだ。
 本当は彼女に矛先が向く前にどうにかしてほしかったが、自分にそれを言う資格はないだろう。そもそも彼らの本職は執事であって護衛ではないのだから。
「さて……君はもう帰ったほうがいい。送るよ」
「はい」
 リチャードが立ち上がって手を差し出すと、彼女はどことなく寂しそうにしながらも素直にその手をとった。

「わぁ、白馬なんですね!」
 そのほうが早いと思い、グレイ伯爵邸までリチャードの愛馬で送ることにした。街外れの厩舎に預けていた馬をとってくると、目を輝かせているシャーロットを前に乗せて、後ろで手綱を握る。
 これは、思った以上に――。
 図らずも密着した彼女のやわらかさとぬくもりに鼓動が速くなり、ほのかな甘い匂いに正気をなくしそうになる。しかしその華奢な体がふとこわばったことに気付くと、すこし冷静になった。
「ロッテ、怖いなら無理しなくていいからな」
「大丈夫です」
 本当に大丈夫なのだろうかと顔色を窺おうとしたところ、急に彼女が振り返った。ぶつかりそうなほどの至近距離に二人とも大きく目を見開き、そのまま時が止まったかのように見つめ合う。
「……わたし、いま思い出しました」
 やがて彼女はぎこちなく前に向きなおってそう告げた。そのかすかに震えた声からは少なくない緊張が見てとれる。それでも冷静さを失うことなく慎重に話をつづけていく。
「誘拐されたとき、とある騎士様に助けていただきましたが、あのときもこうやって白馬に乗せていただいて……わたしを見つめる騎士様の瞳は、アメジストのようにきれいな紫色でした」
 そこで再び振り返り、まっすぐにリチャードの双眸を見つめて言う。
「リック様も同じですね」
 すでにほぼ確信しているのだろう。まさか乗馬がきっかけで記憶を取り戻すとは思わなかったが、こちらとしては別に隠したいわけではない。シャーロットと初めて出会った日の大切な思い出なのだから。
「騎士様みたいに強くなりたいと言っていたが、本当に強くなったんだな」
「……がんばりました」
 彼女の目にはうっすらと涙がにじんだ。
 しかしすぐに前を向いてしまって表情が見えなくなる。話をつづけようにも何を言ったらいいかわからなくなり、揺れるストロベリーブロンドの後頭部を間近で眺めながら、ただ静かに馬を走らせた。

「お嬢さまーーー! どこですかぁーーー!!!」
 敷地の近くまで来ると、使用人と思われる若い女性の大きな声が聞こえてきた。シャーロットがいないことに気付かれてしまったのだろう。それでも彼女はあまり動じていないようだった。
「ここからはひとりで帰ります」
「わかった」
 騒ぎになっているようなのでいささか心配ではあったが、アーサーなら叱ることはあっても悪いようにはしないはずだ。一本道の端のほうに馬を止めて彼女を下ろすと、預かっていた荷物を手渡す。
「わたし、今日のことは一生忘れません」
 彼女はまっすぐリチャードを見つめてそう言い、淑女の礼をとった。
 これきりもう二度と会えないと思っているに違いない。どう応じればいいかわからず口をつぐんでいるうちに、彼女はパッと身を翻し、ただの一度も振り返ることなく走り去っていった。

 カーディフの街に戻ると、衛兵の詰所に拘束しておいた例の二人組を取り調べた。
 男性のほうはポートランド侯爵家の従僕でジョンといい、女性のほうはポートランド侯爵家のロゼリア付き侍女でアンナという。アンナのほうがジョンより年上で、先輩で、使用人としての立場も上のようだ。
 アンナはすべて自分が企てたことでロゼリアは一切関与していないという。しかしジョンはロゼリアがリチャードの結婚を潰すよう命じたのだと証言した。どちらにしてもロゼリアに原因があるのは間違いない。
「俺はこれからポートランド侯爵家へ行く」
「ちょっ……結婚式はどうするんですか?!」
「大丈夫だ。式までには間に合わせる」
 執事は渋い顔をしたが、こちらが折れなければ従うしかないわけで。
 リチャードは執事のひとりをウィンザー家へ向かわせて、帰郷が遅れる旨の伝言を頼むと、もうひとりの執事を連れてポートランド家へ向かった。

 ポートランド侯爵夫妻は使用人の起こしたことを知ると驚愕し、真摯に謝罪した。
 特に夫人のロゼリアは真っ青だった。リチャードの婚約を知って感情的になったのは事実だが、命令のつもりはなく、本当に行動に移すとは思いもしなかったという。その動揺した様子はとても演技とは思えなかった。
「それでは、後ほど二人を送りますのでよろしくお願いします」
 侯爵が責任を持って身柄を引き受けると約束してくれたので、あとは彼に任せることにした。主人から命令を受けたと思い込んでのことであり、結果的にたいした被害もなかったので、処罰までする必要はないだろうという判断である。

「明日、早朝に出発すれば間に合いますね」
 カーディフの街に戻り、例の二人をポートランド家へ送る手配をすませると、執事がようやく安堵したように息をついてそう言った。しかし――。
「悪いが、ちょっと用事があって早朝には出られない。昼過ぎに出よう」
「え、それでは日没までに着けませんよ? 夜に走らせるんですか?」
「そこまでしなくていい。途中で宿をとって早朝に出れば間に合うだろう」
「間に合うって……本当にギリギリじゃないですか……」
 執事はあからさまにげんなりしていた。
 けれどリチャードにはどうしても譲れない用事があった。ここであきらめたら後悔してしまう。執事に気苦労をかけていることについては申し訳なく思うが、取り下げる気はさらさらなかった。

「まさか用事ってそれですか?」
 翌日、大通りの雑貨屋が開くのを待って指輪をひとつ買うと、執事が信じられないとばかりに声を上げた。おもちゃのような指輪だからなおのこと驚いたのだろう。
「俺にとっては大事なんだよ」
「はぁ……」
 あのとき贈らせてもらえなかったこの可愛らしい指輪を、ぜひとも夫として贈りたい。どうせなら結婚式のときに。にやけるリチャードを見て、執事は半眼になりながら疲れたように溜息をついた。

 ウィンザー家には予定どおり結婚式当日の午前中に着いた。
 両親はリチャードの姿を視界に映すなり安堵して崩れ落ちた。その顔色は悪く、ずいぶんと気を揉んでいたであろうことが窺えた。さすがにこんな姿を目の当たりにすると心苦しくなる。
 しかし、謝罪する間もなく教会に追いやられて大急ぎで支度が始められる。シャーロットもとっくに教会に来ているらしいが、互いに準備があるので会いに行く暇はないと言われてしまった。
 おおよその支度が終わったところでコンコンと扉が叩かれた。おそらく両親だろうと何の気なしに「どうぞ」と応じると、静かに扉が開いた。しかし、そこにいたのは両親でも従者でもなく――。
「アーサー!」
 思わず椅子から立ち上がる。リチャードの髪を整えていた従者が驚いていたが、構ってなどいられない。アーサーは当然のようにすっかり支度を終えていて、こちらの姿を見るとほっと息をつく。
「どうやら間に合いそうですね」
「ああ……おまえにも心配かけたな」
「あなたは昔からいつもギリギリだ」
「それでも遅れたことはないよ」
 パブリックスクール時代のようなやりとりをすこし懐かしく思いながら、リチャードは肩をすくめる。もっともあのころのアーサーはいまよりずっと厳しい口調だったけれど。
「ところで何の用だ?」
「いえ、あなたが結婚式に間に合うのか確認に来ただけです。気が気でなくて……シャーロットに惨めな思いはさせたくありませんから」
 そうだ――!
 アーサーが切なそうに微笑んだ瞬間、言うべきことを思い出して頭に血がのぼった。彼とのあいだを一気に詰めると、背後の扉にドンと手をついて覗き込む。息がふれあうくらいの至近距離で。
「じょっ、冗談にしても……あまりこのようなことをなさるのは……」
「おまえさ、俺がおまえに懸想してるだなんて本気で思ってるのか?」
「えっ……ぁ……えっ……?」
 アーサーはしどろもどろになりながら目を瞬かせる。驚くというより、思いもしなかったことを言われて混乱しているようだ。
「どうしてそれを……いえ、あの…………違うのですか?」
「おまえのことは友人としか思ったことがないし、そもそも俺は男色じゃない」
「……本当に?」
 はぁ、とリチャードは盛大な溜息をついて体を起こした。シャーロットに話を聞いたときからわかっていたことだが、あらためてこうして本人の反応を目の当たりにすると、何とも言えない気持ちになる。
「なあ、俺がおまえに懸想してるだなんてどうして思ったんだ?」
「同僚がそうではないかと……いえ、すぐにそれを信じたわけではなかったのですが、あなたが……結婚しないのはおまえのせいだ責任を取れなどと言うので、やはりそういうことなのかと……」
 アーサーは困惑したような顔をしながらそう話すが、リチャードも困惑した。
「そんなこと言ったか?」
「言いました」
 もちろん彼が嘘をつくような人間でないことはわかっている。
 言ったのなら、おまえの娘と出会ったせいだから結婚を認めろという意味だろうか。あのときはまだそう明言するわけにはいかなかったので、思わせぶりな言いまわしをしたのかもしれない。
「まあ、何にせよおまえに懸想してるってのは完全な誤解だ」
「でしたらシャーロットとの結婚を望んだのはなぜですか?」
「ああ……」
 もっともな疑問である。ウィンザー公爵家がグレイ伯爵家と姻戚関係を結んでも特に利はないのだ。リチャードはかすかな緊張を覚えながらすっと姿勢を正すと、真摯に彼を見つめて告げる。
「シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだからで、他意は一切ない。おまえが心配しなくても彼女のことは大事にするし、二人で幸せになるつもりだ。何せ十年も待ったんだからな」
「えっ?」
 彼が目を見開くと、リチャードはうっすらと口元を上げて肩を押した。
「ほら、時間だぞ」
「ですが……」
「またあとでな」
 やや強引に追い出し、素早く扉を閉めてそこに背中からもたれかかる。そのまま身じろぎもせずに耳を澄ませていると、やがて靴音が響き、どことなく躊躇いがちに遠ざかっていくのが聞こえた。
「…………」
 気のせいか従者たちから生温い視線を向けられているのを感じて、きまりが悪い。しかしそんな素振りを見せることなく何食わぬ顔で椅子に座ると、すこし乱れてしまった髪を整えてもらう。
「リチャード様、そろそろ礼拝堂に向かうお時間です」
「ああ」
 執事は懐中時計を確認して事務的に告げると、控え室の扉を開いた。
 その先はまばゆいくらいの白い光に包まれている。リチャードはそこから目をそらすことなく静かに呼吸をすると、ポケットに忍ばせた指輪の存在をあらためて確認し、挑むような笑みを浮かべて足を踏み出した。