機械仕掛けのカンパネラ

ひとつ屋根の下 - 第5話 井の中の蛙

「いじめ?」
 それは、梅雨入りしてまもないある日のことだった。
 遥が大学から帰ると、玄関で待ち構えていた執事の櫻井から、内密で話したいことがあると切り出された。彼はこの家に長年仕えている信頼のおける人物だ。すぐ空き部屋に連れて行き、ガラスの応接テーブルを挟んで向かい合った。
 そこで聞いたのが、七海がいじめを受けているらしいという話だ。毎日元気でそんな様子はまったくなかったので、にわかに信じられず聞き返すと、彼は遥を見つめたまま顔を曇らせて首肯した。
「体操服が何度か泥水で汚れていまして」
「七海に話は聞いたのか?」
「学校にいじわるな人がいるのだと」
 我知らず眉が寄る。一度ならず何度もとなると、彼の言うようにいじめである可能性が高いが、それだけで安易に決めつけるわけにもいかない。
「わかった。僕から七海に聞いてみるよ」
「よろしくお願いします」
 櫻井が頭を下げる。
 しかし保護者であれば対処するのは当然のことだ。彼に頼まれるまでもないし頼まれるいわれもない。遥は表情を動かさず、口を結んだまま小さく頷いて立ち上がった。

「七海、ちょっと話があるんだけどいい?」
「いいけど、何?」
 櫻井と別れてすぐに七海の部屋を訪ねた。
 彼女は真面目に勉強していたようで、学習机の上には開いた教科書やノート、辞書などが乱雑に置かれている。中断させてしまうことを申し訳なく思うが、こちらも大事な話だ。部屋に入らせてもらいベッドに腰掛けた。
「櫻井さんから体操服のことを聞いた」
「ああ」
 七海は軽く頷いて椅子に腰を下ろし、口をとがらせる。
「なんかさ、教室を離れたときに校庭に捨てられたりしてさ。授業前なのにドロドロになって困るんだよな。さすがにあんな状態じゃ着られないし」
 着ているときに暴行を受けたのではないかと心配したが、そうではなかったようでほっとした。しかしながら安心はできない。いじめらしき事実があったことには違いないのだから。
「じゃあ、体育の授業はどうしたの?」
「予備のを持ってる人が貸してくれた」
「そう」
 どうやら少なくともひとりは七海の味方がいるようだ。この様子からしても孤立はしていないのだろう。
「体操服を汚した人は誰かわかってる?」
「それがさぁ」
 七海は思いきり眉をひそめる。
「たぶんそうだろうなって思う人はいるんだけど、証拠がないんだ。こんな卑怯なマネやめろよって言っても、証拠もないのに犯人扱いするなって言い返されて。でも薄笑いしてるし間違いないと思うんだよなぁ」
「誰?」
「綾辻瑠璃子、あと手下の三船百合奈と三枝琴音。こいつら何か知らないけど僕を目の敵にしててさ、くっだらない嫌味や悪口を言ってくるんだ。あんまり相手にしないでほっといたけど」
 その対処は間違っていないと思うが、七海を泣かせたいのにまったく相手にされず、ムキになってエスカレートしたとも考えられる。このまま放置していたらどうなるかわからない。
「よし、まずは証拠を集めよう」
「え、だから証拠はないって……」
「今度そういうことをされたら、なるべくそのままの状態でとっておいて。指紋とか、分泌物とか、犯人の痕跡が残っている可能性があるから。目には見えなくても警察で調べればいろいろとわかるんだよ」
 そう告げると、彼女は微妙に顔を曇らせながら、言いづらそうに切り出す。
「あの、僕、警察とかあんまりオオゴトにしたくないんだけど」
「警察はあくまで最後の手段。証拠となるものを握っているという事実が大切なんだ。彼女たちも言い逃れがしづらくなるからね。戦うための武器ってこと」
「そっか……うん、わかった」
 彼女は真面目に頷くと、ほっとしたように表情を緩めて笑顔になる。こういうのなんかちょっとワクワクするね、などと無邪気にはしゃぐのを見て、遥もつられてくすりと笑った。

「いろいろ集まったね」
 切り裂かれた体操服、らくがきされたノート、破かれた教科書――あれからたった数日で証拠となりそうなものがこれだけ集まった。ビニール袋に入れて床に並べたそれらのものを眺め、遥はわずかに眉を寄せる。
 正直、ここまで一気にエスカレートするとは思っていなかった。体操服を何度も踏みつけてずたずたに切り裂くなど、かなりまずい状況だ。教科書の破り方にもただならぬものを感じる。
 しかしながら七海はケロッとしていた。発見したときにどう感じたかまではわからないが、すくなくとも今現在ショックを受けている様子はない。それどころか期待に満ちた目で遥を見つめている。
「どうかな、証拠になりそう?」
「十分だよ」
 体操服だけでは突きつける証拠として微妙なところだが、ノートは思わぬ収穫だった。これだけわかりやすいものがあれば中学生相手に戦いやすい。それを聞いた七海はすっかりやる気になっているが――。
「七海、ここから先は僕に任せてくれないかな」
「そんな、僕のことなんだから僕がやるよ!」
 こればかりはいくら懇願されても聞き入れられない。真剣に彼女を見つめ返して言い聞かせる。
「七海が大丈夫だと言うなら出張る気はなかったけど、さすがに度が過ぎてる。悪いようにはしないから僕を信じて任せてほしい」
「……わかった」
 不満はあるのだろうが、それを飲み込んで遥の願いを聞き入れてくれた。そんな彼女の信頼を裏切るわけにはいかない。遥は神妙に頷き、必ず結果を出そうとひそかに気合いを入れた。

「綾辻瑠璃子さん」
 放課後、校門からすこし離れたところで例の三人組に声をかけた。
 瑠璃子は怪訝に振り返ったが、すぐに誰だかわかったようでハッと息を飲んだ。入学式のときに見て知っていたのだろう。なのに、逃げるどころか嫣然と微笑みながら近寄ってきた。
「坂崎さんの保護者の方ですね」
 艶のある声で、中学一年生とは思えない大人びた受け答えをする。
 彼女は大手製薬会社の創業家一族の娘だ。四人きょうだいの末娘ということもあり、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。それゆえわがままで、小学生のときから女王様気取りだったという。
 実際、腰近くまである艶やかな黒髪や、美人になるであろう整った顔、物怖じしない堂々とした態度からも、そういう雰囲気がにじみ出ている。もちろんそれ自体は決して悪いことではないのだが。
「すこし話をさせてもらえませんか。三船さんと三枝さんも一緒に」
「ええ、構いません。それでは……あちらの喫茶店でいかがです?」
「綾辻さんさえ良ければ」
 話をするなら人目のあるところでなければと考えていたので、喫茶店なら問題はない。後ろの二人は勝手に話が進んでとまどっているようだが、瑠璃子は気にもせず、当然のように遥と並んで喫茶店に向かい始めた。

「綾辻さん、あなたは七海の何が気に入らないんですか?」
 広くはない喫茶店で、遥は二人掛けソファに並んで座る瑠璃子にそう切り出した。彼女は予想していたのだろう。焦る様子もなく、うっすらと思わせぶりな笑みをたたえて聞き返す。
「坂崎さんの言うことを信じてらっしゃるの?」
「心当たりはないと?」
「言いがかりをつけられて困っているわ。ね?」
 向かいの二人は請われるまま頷き、ひどく落ち着かない様子でオレンジジュースに手を伸ばした。一方、瑠璃子はストローをつまんで悠然とアイスレモンティを飲み、話を続ける。
「坂崎さんってもらわれっ子でしょう? 育ちがよくないせいか平気で嘘をつくの。本当に困った人だわ。本来なら東陵に来られる身分じゃないのに、そのことをわかってらっしゃらないみたいだし」
 その発言から、七海をいじめる理由が透けて見えた。
 くだらない選民思想だが、彼女がそういう思想を持つことを咎めるつもりはない。それに基づく七海への不当な行動を止めたいだけだ。遥はビニール袋に入った証拠品を鞄から取り出した。
「これ、覚えはありますよね」
「さあ、証拠はあるのかしら」
 瑠璃子はとぼけるが、向かいの二人が表情をこわばらせている。大変なことになったという心の声がダダ漏れだ。七海の読みどおり彼女たちの仕業で間違いない。遥は冷静に観察したのち溜息をついてみせた。
「こちらとしては二度としないでほしいだけなんですが……そちらが認めないのであれば警察に被害届を出します。器物破損はれっきとした犯罪ですから。指紋照合や筆跡鑑定をすれば、犯人が誰かは容易に突き止められるでしょう」
 そう告げると、瑠璃子の顔色が変わった。
「警察なんて……そんなことパパがさせないわ」
 気付いているのかいないのか認めたも同然の物言いだ。さきほどまでのお嬢様然とした表情はどこへやら、眉を吊り上げながら苛立ったように睨みつける。それでも遥はすこしも動じない。
「へぇ、君のパパに何ができるっていうの?」
「パパは綾辻製薬の社長よ。何だってできるわ!」
 彼女は安い挑発に乗って声を荒げた。何だってできる――製薬会社の社長にできることなどたかが知れているが、彼女は本気で信じているのだろう。大人ぶっていてもまだ子供である。
 遥は名刺を一枚取り出してすっと彼女の前に置いた。大学生ではあるが、祖父の仕事を手伝うために会社の名刺を作ってあるのだ。普段は当然ながら仕事相手にしか出さないけれど。
「パパに伝えてくれる? 売られた喧嘩は買うって」
 うっすらと唇に笑みをのせ、名刺に手をそえたまま身を乗り出して覗き込む。彼女が耳まで真っ赤にしてのけぞったのを見ると、すぐに表情を消し、テーブルに置いた証拠品を手早くしまって立ち上がった。
「今週中には警察に届けを出そうと思ってるから、そのつもりで」
「イケメンだからっていい気になってると痛い目見るわよ」
 彼女は顔を火照らせたまま恨めしげに睨み、捨て台詞を吐いた。
 遥は目を細めてふっと思わせぶりな笑みを浮かべると、伝票を取ってレジに向かう。背後から、こんな会社パパにつぶしてもらうわ、あとで泣きついても知らないんだから、覚えてらっしゃい、などと喚く瑠璃子の声が聞こえてきた。

 青ざめて冷や汗をだらだら流した瑠璃子の父親が、地面に頭をこすりつけんばかりの勢いで謝罪に来たのは、その日の夜のことだった。