機械仕掛けのカンパネラ

第22話 最後の一日

「起きたか?」
 七海が身じろぎしてぼんやりと目を開けると、真上から青い瞳に覗き込まれていた。起き抜けの頭でもすぐに武蔵だとわかる。見慣れたスウェットを着て、同じ布団の隣で肘をついて上半身を起こしていたようだ。
 いつもの布団、いつもの天井――どうやらここは武蔵の山小屋らしい。
 確か、故郷に帰るからお別れだと彼に告げられて、泣きじゃくっていたような気がするが、それからどうしたのかまったく記憶にない。泣き疲れて寝てしまったのだろうか。それとも――。
「あ……えっと、故郷に帰るとかって話は……」
「ああ、今日の夕方まで時間をもらったんだ」
 もしかしたら夢だったのかもしれないという期待は、あっさりと打ち砕かれた。
 寝ているあいだにいなくならなかっただけ良かったが、夕方になれば彼方の海底にあるという故郷に帰ってしまい、二度と会えなくなるのだ。そのことを考えるだけで胸が締めつけられる。
「いま何時?」
「十一時すぎ」
「えっ?」
 バッと布団から飛び起きて枕元の時計に目をやると、本当にその時間を指していた。外が明るいのでもちろん昼だ。そういえばやたらと体が重い気がする。きのうの宵からずっと寝こけていたのなら、寝過ぎもいいところだ。
 ぐうぅぅぅ――。
 時間を意識するなり空腹を感じ、おなかが鳴った。
 丸一日、何も食べていないのだから当然かもしれないが、だからってこんな急に鳴らなくてもいいのに。あまりの恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じてうつむく。隣でくすりと笑う気配がした。
「起きるか?」
「うん」
「顔洗ってこい」
「うん」
 洗面所で鏡に向かうと、思ったよりもひどい顔をした自分がそこにいた。さんざん泣いたせいか瞼が腫れぼったく、目もすこし充血し、かなり憔悴しているように見える。あわてて冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗った。
 ――よし!
 タオルで拭いたあと、パンと軽く両頬を叩いて気合いを入れる。瞼の腫れはそう簡単に引かないが、気持ちはスッキリしたし、すこしは良くなったように思う。鏡に向かったままにっこりと口角を上げてみた。
 どうやっても故郷に帰ることを止められないのなら、せめて笑顔でお別れしよう。せっかく最後にすこし時間をもらえたのだから、それを無駄にしないで、武蔵にとっていい思い出になれるように頑張ろう。
 七海はそう決めて、しっかりとした足取りで部屋に戻っていった。

「こんな時間だから朝昼兼用な」
 扉を開けると、武蔵が包丁を握ったまま台所から軽い調子で声を掛けてきた。まな板の上には、刻み終わったにんじんと刻みかけの玉ねぎが見える。
「僕も手伝うよ」
 小走りで駆けていき、武蔵に聞きながら食材やフライパンなどを準備する。
 湿っぽい雰囲気にならず、いつものように楽しく手伝うことができたのは、いつものように彼が接してくれたおかげだろう。意識的かどうかはわからないが、どちらにしてもありがたかったし嬉しかった。

 出来上がったのは、ミートソーススパゲティ、ポタージュ、生野菜のサラダだ。
 奇しくも武蔵が最初に作ってくれた手料理と同じメニューである。もしかしたらそれを意識してくれたのかなとちらりと思ったが、彼本人に尋ねる勇気はなかった。それでもひそかに想像するだけで胸がはずむ。
「いただきます!」
 七海は両手を合わせて元気よくそう言い、頬張っていく。
 武蔵の料理はとてもおいしい。洋食でも和食でもいつだって七海を幸せな気持ちにしてくれる。でも、もう食べられないんだと思うとしんみりしてしまった。もちろんそんな暗い気持ちを見せるつもりはないけれど。
「七海……、どこか行きたいところはあるか?」
 すべてきれいに平らげたあと、水を飲んで一息ついていると、武蔵が遠慮がちに尋ねてきた。これで最後だから――言葉はなかったものの、彼のどこか寂しげな表情がそう語っている。
「時間的に遠くは無理だけどな」
「どこにも行かなくていいよ」
「……それでいいのか?」
「うん、武蔵とここにいたい」
 それは、遠慮ではなく嘘偽りのない素直な気持ちである。最後だからこそ二人で暮らしたこの場所にいたい。その思いをこめて見つめると、わかってくれたのか彼はふっと表情を緩めた。
「じゃ、ここで何したい?」
「いつもどおりがいい」
「ジョギングでもするか?」
「うん!」
 そうと決まればのんびりしてはいられない。すぐに食器を集めて洗い始める。武蔵は今日くらい自分がやると言ってくれたが、これは七海の仕事なのだ。いつものようにきちんと自分でこなしたかった。

 後片付けが終わると、ジャージに着替えて武蔵と外に出た。
 目をつむって胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。木々の合間から見上げた水色の空は穏やかに晴れわたり、気温は低いものの、降りそそぐ陽射しでほんのりとあたたかく感じられた。
 準備運動をしてから、木々のあいだの細道を軽い足取りで駆けていく。ふもとに近いとはいえ山なので傾斜がついているし、足下も悪いが、家の中で走っているよりよっぽど楽しい。
 草や小枝を踏みしめる感触、足を取られそうなでこぼこ道、進むにつれて変わりゆく景色、頬を撫でる心地のいい風――どれも好きだが、何より先に走る武蔵の背中を追いかけるのが好きだった。
 視界の開けた小高いところで武蔵が足を止めると、七海も隣に並んだ。荒い息を整えながら眼下に広がる田舎町を眺める。いつもと変わらない景色だが、これが最後なんだと思うと胸がきゅうっとなる。
 ちらりと横目を流すと、武蔵もやはり物思いに耽っているように見えた。せつなげに目を細めてどこか遠くを眺めている。しかし七海の視線に気付くと、ごまかすようにパッと笑顔になって振り向いた。
「走ったあとはどうする?」
「ん……どうしようかな」
「いつもなら勉強だけどな」
「え、勉強は嫌だ」
 いつもどおりがいいとはいえ、さすがにひとりで黙々と勉強をしてお別れというのはあんまりだ。思わず苦虫をかみつぶしたような渋い顔をすると、武蔵はおかしそうにくすりと笑った。
「じゃ、格闘術でもやるか」
「うん!」
 その提案に安堵して大きく頷く。
 格闘術もそんなに好きなわけではないが、残りわずかな時間を有意義に過ごすには、勉強よりずっといいはずだ。武蔵につきっきりでいてもらえるのだから。

 ジョギングをしながら山小屋に戻ったあと、武蔵に格闘術を教えてもらう。
 いつもながら、教えられたとおりに体を動かすのは難しい。自分ではできたつもりでも、構えがおかしかったり、受け身がとれていなかったり、反応が遅かったりするようだ。
 普通の子供ならこんなものだろうとは言われているが、やはり面白くない。だが、頑張ったところで急にできるようにはならない。今日もあまり進歩のないまま終わるしかなかった。
「これからも続ける気があるなら、遥に教えてもらえ」
 汗だくで足を投げ出して座る七海に、武蔵はスポーツドリンクのペットボトルを手渡すと、隣にゆったりと腰を下ろしながらそう言った。
「遥に?」
「あれで意外とやるんだぜ」
「格闘術を?」
「ああ、俺といい勝負だ」
「へぇ」
 鍛えてるようには見えなかったので驚いたが、そういえばやけに力は強かったなと思い出す。細身でも意外と筋肉はついているのかもしれない。
「でも、僕は向いてないみたいだし、あんまり気が進まないかな」
「本格的にはやらなくても、護身術程度はやっといて損はないぞ」
「うん……じゃあ、考えとく」
 曖昧に答えを濁すと、ペットボトルの蓋を開けて喉に流し込む。
 格闘術がそんなに好きではないというのもあるが、正直、あまり遥に教わりたいと思えない。悪い人ではないだろうし、嫌いなわけでもないけれど、先生としては容赦がなさそうですこし怖い。
 遥のほうにしても暇ではないだろうし、面倒だろうし、そもそもそこまでする義理はない。七海の境遇に責任があるといっても間接的なものでしかなく、住まわせるだけでも十分なはずである。
 お互いあまり関わらないほうがいいのかなと思いつつ、そのことをすこし寂しく感じ、ペットボトルの蓋を無意識にきつく締めてうつむいた。

 ピンポーン――。
 お風呂のあと、武蔵に髪を乾かしてもらったところでチャイムが鳴った。
 開いてる、と武蔵がドライヤーのコンセントを抜きながら声を張ると、玄関が開き、濃紺のスーツを着た男性二人を従えて遥が入ってきた。床にあぐらをかいている武蔵を見下ろして尋ねる。
「準備はできた?」
「……ああ」
 武蔵は目を伏せたまま硬い声で答えた。
 その様子から、これで本当にお別れなのだということを思い知らされ、わかっていたはずなのに胸が押しつぶされそうになる。しかし、もう泣きわめくようなみっともない真似はしない。
「七海もいい?」
 遥は腰を屈めて、武蔵の隣でぺたりと座っている七海を覗き込んだ。
「うん……あのさ、これ持ってっていい?」
「もちろん、何でも持っていけばいいよ」
 七海が掴んで見せたのは、父親の形見ともいえるイルカのぬいぐるみだ。
 父親が殺されたときの血がこびりついていたうえ、武蔵が撃たれたときにもべっとりと血で汚れてしまったが、遥がクリーニングを頼んでくれたおかげで、完全ではないもののいまはかなり汚れが落ちている。
 ただ、いいかげんぼろぼろでみすぼらしく見えるので、あの立派な屋敷に持ち込むのは反対されるかもしれないと心配していた。しかし、彼が不快に感じている素振りはなかったのでほっとする。
「じゃあ、行こうか」
 まるで散歩にでも誘うかのような軽い調子で、遥が言う。
 すこし戸惑ったものの、やたらと深刻そうにされるよりはいいかもしれない。イルカのぬいぐるみを抱いて立ち上がると、先に出ていく遥たちを追い、武蔵とともに住み慣れた山小屋をあとにした。

「武蔵はその公安の車に乗って。七海はうちの車で連れて行く」
 山小屋から夕暮れの細道をたどって車道まで出ると、二台の車が停まっていた。両方とも黒いセダンである。遥の話していた内容から察するに、前方が公安の車で、後方が橘の車なのだろう。
「武蔵とはここでお別れになるね」
「ああ、いろいろ世話になった」
 武蔵は気持ちのこもった声でそう告げて、山小屋の鍵を遥に手渡した。そして真剣な顔になり七海と向かい合う。
「……七海」
「うん」
 別れのときが迫りくるのを感じて緊張が高まる。すこしも目をそらしたくなくて、その姿を脳裏に焼き付けておきたくて、何を言えばいいのかわからないまま、ただじっと武蔵を見つめた。
 彼もまた無言で七海を見つめ返した。しばらく時が止まったかのようにそうしていたが、やがて体の横でゆっくりとこぶしを握りしめると、固く引きむすんでいた薄い唇を開く。
「俺は、故郷に帰らなきゃいけない。だが向こうで望まれた役目を果たして、いつかここに来ることを許されたなら、そのときはまた――」
「言うな!」
 そんなことを聞いてしまえば、何の確証もないのにきっといつまでも待ち続けてしまう。不安に駆られて思わず大声で叫んだが、武蔵が唖然としていることに気付くと、あわてて笑顔を作った。
「武蔵がいなくたって僕は平気だから」
「……そうか、だったら安心だ」
 武蔵はすこしのあいだ探るように怪訝な目を向けていたが、やがて静かにそう言い、イルカのぬいぐるみごと七海を包み込むように抱きしめた。
「じゃあ、元気でな」
「うん、武蔵も元気で」
 手がふさがっているため抱きつけないことがもどかしい。そのかわりに甘えるように頭を寄せて、彼の体温と匂いを感じ取った。

 武蔵はスーツの男性二人に挟まれて後部座席に乗り、どこかに連れられて行った。
 その車を見送ったあと、七海と遥はもうひとつの車の後部座席に乗った。運転席には白い手袋をした年配の男性が座っていた。家までよろしくと遥に声を掛けられると、ゆっくりとなめらかに車を走らせ始める。
 静かな走行音しか聞こえない車内で、七海はイルカのぬいぐるみを抱きかかえたまま、シートに寄りかからず背筋を伸ばして前を向き、口を引きむすんでいた。しかし――。
「もう我慢しなくてもいいんじゃない?」
 そう言われ、ハッと隣に振り向いた。
 遥はこちらに横目を流してうっすらと微笑んでいた。それを目にした瞬間、堰を切ったようにぶわりと大量の涙があふれ出す。あわてて止めようとするがどうにもならない。
「うっ……せっかく我慢してたのに……ばかぁ……」
 涙は止めどなく流れ落ち、イルカのぬいぐるみに染み込んでいく。
 遥は何も言わなかった。ただそっと七海の頭を抱いて自分に寄りかからせる。七海はイルカのぬいぐるみを抱きしめたまま彼に身を預けて、泣き疲れるまでずっとすすり泣いていた。