機械仕掛けのカンパネラ

第19話 身寄りのない少女

 ぐす……すん……。
 七海は後部座席で武蔵にもたれながら、ずっとすすり泣いている。
 二人とも血と雨でどろどろに濡れてひどい有り様だ。座席どころか足下まで大きく染みが広がっている。そこに転がっている父親の形見ともいえるイルカのぬいぐるみも、元の色がわからないくらいに汚れている。
 武蔵の肩の傷にはタオルがあてがわれているが、まだ完全に血が止まっていないようで赤く染みてきている。顔はひどく青白く、息も苦しそうだ。それでも七海を守るように抱き寄せてくれている。
 ただ、濡れているせいか出血のせいかわからないが、触れているにもかかわらず体温が感じられない。肩にまわされた腕も次第にぐったりとしていく。かすかに伝わる鼓動と呼吸だけが望みだった。
 フロントワイパーがせわしなく往復する。
 助手席の遥はちらちらと後部座席を覗っていたが、やがて急いでと声をひそめて隣に指示を出す。執事の櫻井は緊張した面持ちで頷き、信号を守りながらも脇道に入って速度を上げた。

「ん……ぅ……」
 七海が目を覚ましたのは、あたたかくやわらかいベッドの上だった。
 隣には武蔵がいた。上半身は裸のようで、肩に巻かれた白い包帯が上掛けから覗いている。素肌に触れてみるとほんのりとあたたかく、静かに寝息を立てているのもわかる。生きてるんだとほっと息をついた。
 もぞもぞと彼に身を寄せ、寝る前のことをぼんやりと思い返す。
 橘の屋敷に帰るとすぐにシャワーを浴びるよう言われた。べっとりとついた血や泥の汚れを落とし、新しい衣服に着替えてバスルームを出ると、ソファにいた遥においでと手招きされて向かいに座った。武蔵は別室で傷の手当てを受けている、もうすぐ食事の準備ができるから食べよう――そんな話をされたことは覚えている。
 しかし、そこから先の記憶がない。
 おそらくソファに座ったまま眠ってしまったのだろう。そうであれば、誰かがベッドに運んでパジャマに着替えさせたことになる。武蔵だったらいいが、ひどい怪我をしているのだから違うような気もする。
 そもそもどうして武蔵と一緒に寝ているのかもよくわからない。けれど、おかげで目を覚ましてすぐに彼が無事だとわかったし、彼のぬくもりを感じて安心できたのだから、七海としてはありがたかった。
 ふいに拓海のことが頭をよぎる。
 死にたければ勝手に死ね――そう言い捨てた武蔵とともに一度はその場を去ったが、嫌な予感がして戻ったら本当に拳銃自殺しようとしていた。すんでのところで止めたものの、その後のことはわからない。
 父親を殺したのは拓海だと知って、ずっと自分を騙していたとわかって、言い表すことができないほどショックだった。彼なりの事情があったにしても許す気にはなれないし、一緒に暮らすのはもう無理だと思う。
 だからといって死んでほしくはない。
 四年半ほど一緒に暮らして、嬉しいことも楽しいこともたくさんあった。憎めたら楽なのかもしれないが憎みきれない。親友を手に掛けた痛みを感じながら生きてほしい、それが素直な気持ちだ。

 ぐるぎゅるるるる――。
 布団の中で盛大におなかが鳴った。
 そのせいで思い出したように空腹を感じてしまう。頭を起こしてヘッドボードの時計を見ると、午後三時近くになっていた。ずっと寝ていたとはいえ、きのうの夕方から何も食べていないのだから、おなかが空くのも無理はない。
「七海の腹の虫はいつも騒がしいな」
 かすかな笑いを含んだ声がすぐ隣から聞こえた。振り向くと、武蔵が口もとを上げてこちらに目を向けていた。恥ずかしさにカッと顔が熱くなるのを感じながら、口をとがらせる。
「いつから起きてたんだよ」
「その音で目が覚めたんだ」
「嘘だ」
 いくらなんでもそこまで大きな音ではなかったはずだ。思いきり眉をひそめて抗議の意を示すと、彼は小さく笑い、もぞりと布団から手を出して七海の頭に置いた。その手にも白い包帯が巻かれている。
「俺も腹ペコだ。何か食べるものを用意してもらおうか」
「うん!」
 腹を立てていたことも忘れて、七海は破顔した。
 武蔵はすぐに体を起こしてヘッドボードの電話を取り、二人分の食事を頼む。相手の声は聞こえなかったがどうやら使用人のようだ。この部屋まで運んでくれることになったらしい。
 そのあいだ、七海は横になったままじっと彼の上半身を見つめていた。傷は白い包帯で覆われていて血もにじんでいないが、きのうのひどい出血を思い出してしまい、自然と眉が寄る。
「心配するな。俺は相当頑丈にできてるらしい」
 視線に気付いたのか、彼は受話器を置くと冗談めかしてそう言った。
 確かに意識が朦朧としていたきのうよりは良くなったのだろうが、まだ動作は多少ぎこちなく見える。七海を不安にさせないよう無理をしているのかもしれない。そう思うと何を言えばいいのかわからなくなり、ただ小さく頷くしかなかった。
「食事が来るまえに着替えよう。七海の服はそこだ」
「うん」
 武蔵が指さしたのはベッド脇の椅子だった。きのうシャワーのあとに着ていた服が無造作に投げ置かれている。彼がベッドから降りてシャツに袖を通しているのを見て、七海も急いで着替え始めた。

「おいしい!」
 丸テーブルに用意された食事を一口食べるなり、七海は声を上げた。
 ハンバーグがびっくりするくらいやわらかくてじゅわっとしている。コーンスープも濃厚で自然な甘みがあり、サラダもみずみずしくドレッシングが絶妙で、ごはんももっちりふっくらとしている。
 コンビニのハンバーグ弁当もおいしくて気に入っているが、まるで次元が違うように感じた。武蔵のところで食べたスパゲティといい、世の中にはそういったものがまだたくさんあるのかもしれない。
 空腹だったこともあり、口のまわりにソースがつくのも厭わず頬張っていく。隣の武蔵がその様子を見ながらくすりと笑った。彼もおなかが空いていると言っていたが、がっつくことなく行儀よく食べている。
「あー、おなかいっぱい!」
 ごはんもコーンスープもおかわりして、食後にはプリンも食べて、おなかはパンパンになっている。動くのも苦しいくらいだ。こんなにたくさん食べたのはいつ以来か思い出せない。
 武蔵もおかわりこそしなかったものの完食していた。左手をナイフで切られているうえ肩も撃たれているが、食事をするのにさほど支障はなかったようだ。氷の入ったグラスの水を飲んで一息つく。
「七海は普段どんなものを食べてたんだ?」
「コンビニのお弁当とかお菓子とかだけど」
「そうか……」
 何気ない会話のあと、彼は急に表情を曇らせてうつむいた。
 七海はどうしてそんな顔をするのかわからずきょとんとしたが、すぐに話題が変わり、かすかに浮かんだ疑問は意識する間もなく霧散してしまった。

「よかった、元気そうだね」
 食事を終えてノートパソコンに向かっている武蔵の隣で、特にすることもなくソファに身を預けてうとうとしていると、遥が部屋に入ってきた。学校の制服らしきブレザーを身に着けている。
「学校、行ってるの?」
「今日は平日だからね」
「学生だったんだ」
「高校生。見えない?」
「うーん……」
 言われてみればそのくらいの年齢に見えなくもないが、とても学生とは思えなかった。まじまじと観察して首をひねるものの、彼は気にする様子もなく向かいのソファに腰を下ろす。
「七海、これからのことだけど」
 ドキリと鼓動が跳ねた。
 拓海のところにはもう戻らないと決めていたが、それ以上のことは何も考えていなかった。どうしたらいいのかと不安でそわそわしながら、感情の読めない遥の顔を見つめて続きを待つ。
「まずは戸籍回復の手続きを取ろうと思う。死んだことになっている戸籍を復活させるんだ。そうすればもう隠れて暮らさなくてもよくなるし、他の子と同じように普通に生きられるよ。手続きはこっちでするから任せてほしい」
「うん」
 そんなことができるなんて考えもしなかった。
 隠れて暮らしていたのは死んだことになっていたからだ。買い物には出ることは許されていたが、許可された時間帯だけで、近所の店も避けなければならなかった。誰かと個人的に親しくなることも許されなかった。そういうことが全部自由になるならいいなと思う。
「それから、七海にはうちで暮らしてもらおうと思う」
「えっ……なんで……?」
「君のお父さんが亡くなったことに武蔵が関わっているのなら、うちの責任でもあるからね。成人するまで面倒をみようということになったんだ。学校にもきちんと通えるようにする」
 そういえば、武蔵に遥との関係を尋ねたら親戚だと言っていた。うちの責任というのはつまりそういうことなのだろう。でも――硬い表情でうつむき、膝に置いた小さな手をゆっくりと握っていく。
「ここで暮らすなんて嫌だ」
「どうして?」
 さらりと聞き返されるが、いろんな感情が絡み合って自分でもよくわからない。嫌なことはたくさんあるのにうまく説明できない。汗ばんだこぶしを握りしめて顔をうつむける。
「知らない人がいっぱいだし」
「心配しなくても、七海ならすぐにみんなと仲良くなれると思うよ。どうしても合わない人とは無理に仲良くしなくてもいいし、もし何かあったら、僕に言ってくれればできるかぎり対処するから」
 思いのほか真摯に答えてくれたことに驚くものの、納得したわけではない。すぐに仲良くなれるなんて子供だましの気休めだ。それに――じとりと上目遣いで睨みつつ口をとがらせる。
「そもそも遥が怖いんだけど」
 ぼそりと言うと、彼はおかしそうにくすりと笑った。
「そういえば七海との出会いは最悪だったね。でも、不審者相手じゃなければあんなことはしないよ。あんまり優しくはないかもしれないけど、話は聞くつもりだし、言いたいことがあれば遠慮なく言ってほしい」
「うん……」
 まだここで暮らすことを了承したわけではないが、遥ならちゃんと話を聞いてくれるかもしれない、無理強いしないかもしれない、そんなふうに彼をすこし信頼する気になった。けれど――。
「まだ嫌なことや心配なことがある?」
「……学校には行きたくない」
「残念だけどそれは聞き入れられない。七海は義務教育を受けるべき年齢なんだ。いままでは死んだことになってたから学校へ行けなかったけど、生きていることがわかったからには行かせないわけにはいかない」
 淡い期待は打ち砕かれた。
 七海としては、この屋敷で暮らすより学校へ行くほうが怖かった。父親がいたころは小学校に入学することを楽しみにしていたし、普通に入学していたら楽しい学校生活を送っていたかもしれないが、いまさら知らない集団に放り込まれるのは恐怖しか感じない。
「じゃあいいよ、ひとりで生きてくからほっといて」
「子供の君がどうやってひとりで生きていくの?」
「働いてお金を稼げばいいんだろ」
「働くにしてもまわりは知らない人ばかりだけどね」
「…………」
 頭の中がまっしろになった。
 遥は淡々と畳みかける。
「七海は長いあいだ二人きりの閉じた世界で暮らしてきたから、集団生活を怖がるのは当然かもしれない。でも克服しないことにはまともな社会生活を送れない。いまは子供だからいいけど、大人になったらそれでどうやって生きていくつもり?」
「おまえ、子供相手にそんな厳しいこと言うなよ」
 それまで黙ってなりゆきを見守っていた武蔵が、我慢しきれなくなったのか、非難するように眉をひそめて口を挟んだ。しかし、遥はすこしも表情を変えることなく反論する。
「厳しくても七海が知るべき現実だよ」
「でも言い方ってものがあるだろう」
「婉曲に言うと伝わらないんじゃない?」
「それは、そうかもしれないが……」
 武蔵は渋い顔で言いよどみながら腕を組んだ。小首を傾げて考え込んでいたかと思うと、ふいに何か思いついたような顔をして、正面の遥に目を向ける。
「しばらく俺に七海を預からせてくれないか」
「…………」
 遥がわずかながら目を見開いたのがわかった。それでも表面上の冷静さは失っていない。挑むような鋭いまなざしで見つめ返して言う。
「それで、学校はどうするつもり?」
「すぐに行かせなくてもいいだろう」
 武蔵はそう答え、隣の七海をちらりと見やる。
「長いあいだ世間から切り離されてきたんだ。急激に環境が変わりすぎるのは良くないだろう。七海の気持ちもそんなすぐには追いつかないだろうし、徐々に慣らしていくのがいいんじゃないかと思う」
「僕もそれがいい、武蔵のとこで暮らしたい!」
 七海はローテーブルに手をついて身を乗り出し、必死に訴えた。
 こんな知らない人だらけの大きな屋敷で暮らすより、あの山小屋の方がずっといい。武蔵と二人きりなら安心できる。武蔵の作ったごはんもまた食べたい。そして何より学校に行かなくていいと言ってくれた――。
 遥はその思い詰めたまなざしから目をそらして、腕を組んだ。七海をどうするかについて真剣に考えているのだろう。迂闊に声を掛けられないくらい難しい顔をしている。やがて視線を上げ、身を乗り出したままの七海をじっと見つめて尋ねる。
「武蔵が原因でお父さんが殺されたって話だけど、いいの?」
「うん……それは武蔵が悪いわけじゃないし、恨んでないよ」
「わかった」
 そう言うと、溜息をついて静かに切り出した。
「武蔵の言うことは確かに一理ある。僕はちょっと急ぎすぎてたのかもしれない。七海の状況と年齢をもうすこし考慮すべきだった。七海が希望するなら、しばらくはリハビリってことで武蔵に預かってもらおうと思う」
「本当?!」
 七海は大きく目を見開いて顔をかがやかせた。勢いよくソファに腰を下ろして武蔵に寄りかかる。よかったな、と白い包帯を巻いた手で頭をなでられ、はじけるように満面の笑顔になって頷いた。
「武蔵、あんまり甘やかさないでよ」
「わかってる」
 遥は胡乱な目を向けるが、武蔵は気にする様子もなくさらりと受け流していた。
 七海には甘やかすということがよくわからなかったが、頭をなでたり笑いかけたりしてくれることなら、これからもずっと武蔵に甘やかされたいと思った。

 その三日後、武蔵の山小屋で二人きりの生活が始まった。