機械仕掛けのカンパネラ

第8話 緩やかな檻

「ん……??」
 七海はぼんやりと目を覚ましてすぐに違和感を覚えた。
 怪訝に思いながら眠い目をこすって上体を起こし、そこではっきりと異変に気付く。自分のものとは違うふかふかの布団、広いベッド、格調高そうな家具、見たこともない綺麗な部屋――パジャマこそいつものものだが、ここがどこなのか見当もつかない。確か、拓海におやすみなさいと挨拶をして、自分の部屋の自分の布団で寝たはずなのに。
「七海……起きたのか……?」
 すぐ隣から眠そうな声が聞こえてビクリとする。振り向くと、Tシャツ一枚の拓海が体を起こすところだった。この広いベッドで一緒に寝ていたらしい。
「ここどこ? どういうこと?」
「都内のホテルだ。事情があってしばらくここで暮らさなければならない。きのう七海が寝たあとで急に決まってな。起こすのも可哀想でそのまま連れてきてしまった。すまない」
 ところどころ濁されたようなはっきりとしない説明に、七海は眉をひそめる。
「事情って?」
「すまないが話せない」
「仕事関係ってこと?」
「……まあな」
 仕事に関する事柄はたとえ家族であっても話せない。拓海がそういう職業についていることは心得ている。どんな事情なのかわからないと落ち着かないが、いくら尋ねても無駄なのであきらめるしかないと思う。
「わかった。拓海も一緒なんだよね?」
「ああ、いつもどおり仕事には行くが」
「そっか……」
 知らない場所にひとり残される心細さに思わずしょんぼりするが、拓海は気付いているのかいないのか無表情のまま淡々と畳みかける。
「七海はこの客室から出ないでくれ」
「えっ、なんで?」
「詳しくは言えないが、七海のためだ」
 これもさきほどの事情に関係しているのだろうか。ドラマなどでは危険な仕事をしていると家族まで狙われたりするが、そういうことなのかなと当たりをつける。
「じゃあ、ごはんはどうするの?」
「あれかルームサービスだな」
 拓海が『あれ』と言って指さしたテーブルの上には、クッキーやポテトチップス、バームクーヘンなど日持ちのする菓子類が山盛りになっていた。自宅にあった買い置きの食料をそのまま持ってきたのだろう。もともとそのほとんどが七海のおやつか昼食用である。
「ルームサービスはわかるか?」
「ううん」
 拓海はサイドテーブルの電話とファイルを取り、七海に見せながら説明する。フロントに電話をしてメニューを頼むと持ってきてくれるらしい。夕食も、拓海の帰りが遅いときは自分でルームサービスを頼めと言われた。
「勉強道具はそこの紙袋に入ってるから、ちゃんと勉強しろよ」
「うん」
 拓海は抜かりなかった。勉強があまり好きではないので内心ひそかに落胆する。そういえば抜き打ちテストの前に武蔵に会いに行こうと思っていたが、ここから出られないのでは無理だ。射撃練習もできない。
 まさか、そのために――?
 橘の住所を知っていたのに隠していたり、射撃場を出入り禁止にしようとしたり、最近の拓海は復讐を阻もうとしているようにしか思えなかった。同様に、ホテルに連れてきたのも強制的に復讐から遠ざけるためではないだろうか。
 一瞬、そんな疑念が頭をかすめてドキリとしたが、いくらなんでも考えすぎだと思い直す。ホテル暮らしなどいつまでも続けるわけにはいかないのだから、一時しのぎにしかならない。そんなことくらい頭のいい拓海ならわかるはずだ。
「いつまでここで暮らさなきゃいけないの?」
「まだわからない。長引かせないつもりだが」
「うん」
 長引かせないということであれば、やはり仕事絡みの事情と考えていいだろう。
 武蔵に会いに行くのも、射撃練習も、数日のおあずけですむのなら我慢できる。もどかしいが下手に騒ぎ立てても怪しまれるだけだ。自宅に戻れる日がくるのをおとなしく待っていよう――七海はひそかにそう決めて、ひとり小さく頷いた。

 朝食は、拓海がルームサービスを頼んだ。
 コンチネンタルブレックファストという聞いたこともないメニューだが、実際に運ばれてきた品々はわりと一般的なものだった。ただ、数が多い。トーストとオレンジジュースの他に、クロワッサンなどの変わったパンも数種あり、またヨーグルトやフルーツ盛り合わせもついている。食後にはホットチョコレートまで出てきた。普段トーストとオレンジジュースだけの七海にとっては、かなり豪勢な朝食だった。

 朝食を終えると、拓海はシャワーを浴びて仕事に出かける準備をし、扉付近でスリッパから革靴に履き替える。その後ろで、七海はいつものように履き終えるのを待ち、預かっていたビジネスバッグを手渡した。
「いってらっしゃい、パパ」
 他に聞いている人はいないが、自宅ではないので念のためそう呼んだ方がいいと判断した。彼も賛同してくれたのか軽く頷き、行ってくると控えめな声で言って客室をあとにした。

「わぁ……」
 ひとりになると、七海は客室の中を見てまわった。
 寝室、リビングルーム、バスルーム、お手洗いと部屋が分かれていて、そのどれもが自宅よりはるかに広かった。家具も内装もやたらと華やかではあるが、調和がとれているためかうるさくなく上品さが感じられる。まるで豪邸に迷い込んでしまったかのようで落ち着かない。
 リビングルームには、朝食時に使ったダイニングテーブルのほかに、社長室にありそうな重厚感のある執務机もあった。残念ながら勉強するのに不便はなさそうだ。包み込まれるようなやわらかいソファもあるので、疲れたときはここでのんびりお菓子を食べるのもいいだろう。
 バスルームはお風呂とは思えないほど明るく開放的な雰囲気だった。外に面した側がガラス窓になっているためにそう感じるのだろう。洗面台には歯ブラシやヘアブラシ、カミソリ、化粧品などたくさんの小物が用意されている。備え付けのドライヤーは家のものよりずっと立派だった。
 タオルは大きなものから小さなものまで棚に山積みにされていた。どれも厚みがあってふかふかで手触りがとてもやわらかい。薄っぺらくごわごわしたものしか知らなかった七海は、そのタオルに顔をうずめてひとりではしゃいでいた。
「すごっ!」
 窓の外に目を向けると、大都会の壮観な景色がはるか遠くまで広がっていた。驚くくらい地上が遠くてかなりの高層階であることが窺える。外を見ているうちに新鮮な空気に当たりたくなったが、窓には鍵どころか取っ手もないため開け方がわからず、ひとまずはあきらめるしかなかった。
 寝室の隅にはふたつの古びた紙袋が置いてあった。大きな紙袋には七海の着替えが山盛りに詰められていたので、その中からいつものジャージに着替える。隣の小さな紙袋には教科書などの勉強用具一式が入っていたが、一目見てそっと紙袋の口を閉じた。現実から逃げるようにそそくさと寝室をあとにする。
「あ、そっか」
 射撃練習は無理でも体力作りならここでもできる。鏡に映ったジャージ姿の自分を見てそのことに気付き、七海はすぐさま広いリビングルームでランニングを始めた。下は絨毯敷きなので素足でもまったく問題はない。ランニングのあとはいつものトレーニングメニューをこなしていく。
 やっと見つけたんだ――。
 絶対に父親の敵を殺して復讐を果たす。拳銃もオルゴールもイルカのぬいぐるみも手元にないが、そのくらいで意欲が薄らぐほどこれまでの積み重ねは軽くない。むしろ敵の所在を突き止められたことで、これまでにないくらい気持ちが高揚していた。

 その日の夜。
 拓海は自宅マンションの扉をそっと開けて、拳銃を片手に中に入る。暗くひっそりとした部屋を、警戒しながらひとつひとつ確認していったが、どうやら誰もひそんではいないようだ。押し入れやクローゼットも調べたので見逃しはないだろう。リビングの蛍光灯をつけてから拳銃をホルスターにしまう。
 お世辞にもきれいとはいえない散らかった部屋。自宅を出る前とほとんど変わらないが、微妙に物の位置や向きが違っている。特に入口付近は。かなり慎重に元に戻そうとした努力が窺えるものの、完璧ではない。
 やはり侵入者がいた。
 脱ぎ散らかしたシャツ、靴下、上着、無造作に散らばった新聞、雑誌――侵入者には単にだらしないだけの部屋に見えていただろうが、すべて拓海が自宅を出る前にあえて置いた物だ。その位置も形状もきっちり記憶していた。
 引き出しや押し入れの中にも動かしたあとがあった。やはりきちんと元に戻そうとしたようだが、それでも揃え方など微妙な違いが見てとれる。ただし無くなっている物はなさそうだ。現金にも預金通帳にも手はつけられていない。
 単なる窃盗犯ならこのわかりやすい現金を見逃すはずはない。何より、動かしたものを元に戻すなど時間の掛かることをするとは思えない。する理由がない。盗むだけ盗んで早々に退散した方が捕まるリスクは低いはずだ。
 拓海の自室と射撃場には入られた形跡がなかった。鍵をかけていたからだろうか。あるいは必要がなかったからだろうか。射撃場への入り口はわかりにくいので、侵入者が見つけられなかった可能性もある。
 相手が誰なのか、目的は何なのか。それがわかるまで警戒が必要だ。
 きのう、七海のブルゾンにGPS発信機が付けられていた。コンビニに行ったと話していたが、様子がおかしかったのでそれだけではない気がする。誰かと接触してそのとき発信機を付けられたのではないだろうか。
 七海が拓海を売るような真似をしたとは考えていない。ただ、本当に隠しごとをしているとすれば何かしらの理由があるはずだ。やみくもに問いただしたところで素直に話すとは限らない。まずは慎重に調べて手がかりだけでも掴む必要がある。
 拓海を狙っているのなら、子供という弱点を利用してくるのは当然と言える。こういう懸念があったので、なるべく七海と一緒に外を歩かないようにしていたのだが、その気になれば同居人がいることくらい突き止められるだろう。
 いや、拓海ではなく七海本人が目当てということもありうる。外界との接点がほとんどないうえ存在自体が秘匿されている彼女を狙うとすれば、犯人はあの男以外に考えられないが――。
 まさか、本当に?
 その場に立ちつくしたまま深く眉根を寄せて考え込む。そして戸棚のオルゴールに目を向けると、誘われるように手を伸ばして木彫りの蓋を開けた。鈍く光る黄金色のドラムがゆっくりとまわり、せつなくも胸を高鳴らせる美しい旋律を奏で始める。
 きっと、永遠に変わりはしない。
 飽きるほど聴いたはずのその音色にじっと耳を傾ける。やがて最後の一音をはじいてオルゴールのドラムが止まり、再び静寂が訪れると、奥歯を噛みしめたままそっと震える瞼を下ろした。